ossan_2014 さんの感想・評価
4.3
物語 : 4.5
作画 : 4.5
声優 : 4.5
音楽 : 4.0
キャラ : 4.0
状態:観終わった
曲解の魔法少女
新時代の魔法少女もの、という事になっているようだが、あまりにも多くの人がストレートに本作を「魔法少女もの」として捉えていることに強い違和感がある。
例えば、殺人を描いているだけではミステリとは呼ばれないように、「魔法」を使う「少女」が描かれているからと言って「魔法少女もの」とは限らないのではないだろうか。
魔法によって「世界」の改革と自己実現をはかる「魔法少女もの」の枠組みを使用して全く別の物語を描く語り方が、まともに「魔法少女もの」として称賛される事態に、反語の皮肉としてのお世辞が文字通りの褒め言葉として受け取られてしまったような居心地の悪さを、製作者は感じているような気がしてならない。
{netabare}時代によって様々に表現方法は変化してきたが、「魔法少女もの」の核心は、魔法による「世界」への関わりと、なにより「自己実現」が不可欠であるように思う。誰かのお嫁さんやアイドル、職業婦人といった、時代による支配的な「自己実現」像の変化が、表現方法の変化を促してきた。
本作の独創は、この枠組みに準拠した設定を使用しながら、「自己実現」が「魔法」によってすら不可能であることへの絶望を描き出しているところにある。
破滅へ向かう選択を強制するようなキュウベエの「契約」は、「自己責任」という名目で、強制された破滅を「自業自得」と切り捨てる我々の世界の非情さを象徴したもので、救いのない絶望へ墜ちる魔法少女たちは、同じ監督が『さよなら絶望先生』で描いた「絶望少女」たちに(偶然だが)不思議と似た印象を与える。
いや、「絶望少女」が社会性を反映したギャグから生まれたことを思えば、現代社会の非情を刻印された魔法少女が似た印象であるのも当然かもしれない。
ラストで、「魔法少女」たちを救うための、「契約」の瑕疵を突くまどかのギリギリの妙手は、だがしかし彼女の「自己実現」とは言えない。
確かに彼女の願望を叶えるものではあるのだが、それは「自己実現」の放棄と引き換えに「世界」と刺し違える、自滅的な自己犠牲といった方が相応しいものだ。
ここで描かれているものは、「世界」に受け入れられる「自己実現」の不可能性と、可能であるのは「自分」の破壊と引き換えに「世界」それ自体を打ち壊すことでしかないという絶望だ。
ラストで、生まれ変わった「世界」から「まどか」は消滅する。
「世界」から受け入れられるどころか、「忘却」ですらなく、最初から存在しない、存在自体の消滅と引き換えにしか、魔法少女のいない「世界」は実現しない。
「まどか」の存在しなくなった「世界」を、それでも物語として成立させるものは、唯一、ほむらの存在だけだ。
いや、正確には、ほむらの中のまどかの「記憶」が、いくつもの時間軸(シュタインズゲート風に言えば、世界線)を越えて保持されている「まどかは存在していた」という彼女の特権的な「記憶」だけが、かろうじてただ一点で物語を支えている。
誰にも存在を証明できない親友の「記憶」は、言ってみれば「脳内彼女」にも同型的だろう。
他者に語れば根拠のない妄言としか受け取られない「記憶」を、それでも確かに居たのだと「確信」し続けることでしか親友の存在を繋ぎ止められない結末は、救いというにはあまりにも苦すぎる。
ほむらの「記憶」を共有することで感動が可能となる視聴者もまた、この絶望の圏外という特権的な立場には立てない。
「記憶」が薄れるとき、映像作品としての『まどかマギカ』もまた、ある意味で視聴者の中から存在しなくなると言えるのだから。
この物語が最初から「絶望」に焦点を当てて構築されていることは、まどかの存在を救済する「記憶」が、自明の結びつきを期待されるはずの母親ではなく、「親友」であるほむらによって担われるという展開に明瞭だろう。
全てを「自己責任」で選択するという現代社会の非情が、自明に与えられる「肉親」という保護者ではなく、自分で構築しなくてはならない「友人」関係に存在証明を委ねるこの「世界」の構造を要請している。
ラストで、まどかの存在を記憶していない母親の描写が意外性を与えないのは、それに先立つ、ワルプルギスの夜に嵐の中に飛び出してゆくまどかを止めようとしない描写によって、あらかじめ計算ずくの物語構造によるものだと了解されるせいだ。
まどかの「決断」を肯定する母親の「許可」は、若年層が多いアニメ視聴者の肯定的な評価とは裏腹に、「親」世代に近い大人からは異様なものに見える。
仮に、我が子の生命を犠牲にすることによって世界が救われることが疑いのない事実として知らされたとしても、世界を破滅させてでも我が子の生命を救いたいと盲目的に願うのが母親というものではないだろうか。
我が子に危険があるのを承知しながら、子の決断を承認してしまうまどかの母親は、「危険」を「効果」に対する「リスク」として計量可能なものとして評価する赤の他人の態度のように、盲目的に子の安全を願うはずの「親」としての情念を投げ捨てた異様な非情性を感じさせる。
まどかの母親が娘に与える「承認」は、第三者による費用対効果の「査定」のようだ。
この「査定」は、おそらく「正しい」
が、この場で母親が正しい「査定」を行うこと自体が、異様な無常性を象徴している。
この、「親」が「子」に対して他人のように評価を下す「母親」の造形は、無条件に肯定してくれる特権的な庇護者を認めない、「正しい」選択を強制する「自己責任」の現実を象徴するものであり、「親」世代である製作者が、「絶望」の舞台の構築のために「敢えて」要請したことは明らかであるように思う。
このように絶望を構造化した物語を、「魔法少女もの」として希望を表現しているかのように把握する視聴は、やはり違和感を生む誤解としか思えない。{/netabare}