因果 さんの感想・評価
4.9
物語 : 5.0
作画 : 5.0
声優 : 5.0
音楽 : 4.5
キャラ : 5.0
状態:観終わった
クレしん映画として敷衍された「哲学」映画
クレしん映画は大抵面白い。
というのも、クレヨンしんちゃんという素材がめちゃんこフレキシブルだからである。家族愛、友情、ファンタジー、冒険活劇、果てはサイエンスフィクションまで…どうにでも調理できるから毎年クオリティを落とさずに劇場版を作り続けられる。
そして今作では見事に「哲学」をやってのけてしまったのだ。しかも家族愛とナンセンスギャグのおまけ付きである。
怪しいサロンに入ってしまい、身体を改造され、卓越した身体的アビリティを得た代償としてロボットになってしまった野原ひろし。しんのすけは「ロボとーちゃんかっこいい!」と大興奮するも、他の野原家メンバーはいきなりロボットになったひろしに戸惑いを隠せない。
それでも、ロボひろしの懸命な努力で何とか疑念も解け、元通りの野原一家の日常が戻ってきた。
が、しかし!
{netabare}(詳しいことは省くが)物語中盤でロボひろしとは別に、オリジナルのひろしがまだ生きていたことが判明してしまった。つまり、ロボひろしは単に「野原ひろし」としての記憶を埋め込まれたクローンに過ぎなかったのだ。
哲学とかに興味がある方なら、ここで思考実験の「スワンプマン」を思い出す方もいるだろう。
(※スワンプマン:思考実験のひとつ。ある男が雷に撃たれて死ぬ。しかし近くの沼にも同時刻に雷が落ち、雷と汚泥との化学反応によって、偶然にも死んだ男と同じ形質、記憶を持つ「何か」が生まれてしまった。そいつは立ち上がると自分の家に帰り、またいつものように生活を続ける…。果たしてこの「何か」は、雷に撃たれて死んだ「ある男」とイコールであると言えるのか?というもの。)
ロボひろしもオリジナルひろしも、同じ記憶を持っているという点ではスワンプマンと同じである。しかし唯一違うとすれば、それは「形質が違う」ということである。ロボひろしは体が鉄で、オリジナルひろしは体が人間であるのだ。
さぁ困った。ひろしが2人存在している。
ここで、みさえが出した答えは「ロボひろしの拒絶」だった。中身が同じなら見た目で判別しようと考えたのだ。だから見た目が人間であるオリジナルひろしを選び、見た目がロボであるロボひろしを「ひろしではないモノ」として処理しようとした。
しかししんのすけは違った。しんのすけはどちらの存在も「ひろし」として尊重した。しんのすけは見た目がどうあれ、結局は"それ"を定義するのは中身であると判断したのだ(もっとも、しんのすけがそこまで深く考えてたわけではないと思うが)。
なるほど、確かに、「同じ人物が同じ空間に複数人いるのはおかしい」というパラダイムから脱却し、これからは仲良くみんなで暮らすというのもいい。それも一つの答えじゃないか。
でもそうはいかないんだなぁこれが…。
身も蓋もない言い方だが、メタ的視点から言えば、この映画はあくまで"普段のクレヨンしんちゃん"から少しだけ非日常に肉薄しただけの"同じ作品"であるので、どんなに話の風呂敷を広げたとしても、最後には日常へと、つまり"普段のクレヨンしんちゃん"へと収斂させなければいけないのだ。
だからひろしが2人存在することを認める結末にはどうしたってできない。うーん切ない。
しかしそういう事情を映画内でモロに挟むのはまことに興醒めで品がない。
"1本の映画としての論理性を保ちつつも、日常へと収斂させられる展開"にするには「ロボひろしが消える」しかなかったのだ。
冷たい言い方をするが、私も視聴中は、確かにこのままロボひろしだけが上手くフェードアウトしてくれさえすれば話も上手くまとまってくれるだろうと思った。仕方ない、仕方ないけれども…。
だが、本作はその「フェードアウトのさせ方」があと腐れなく秀逸であり、やはりここが一番の見所であった。
ロボひろしは、はじめこそ自分がクローンであることを頑なに否定していたが、みさえの反応や、自分の身体が普通ではないことなどから、だんだんと自己の存在に疑念を抱くようになる。
(ひろしのことばかりで言い忘れていたが、ちょうどこの辺で、ロボひろしを造って悪さをしようとしていた悪の組織との戦いが始まる。)
疑念を抱きながらもオリジナルひろしと協力し、自分の身を投げ打ってでも、家族を守ろうと奮闘するロボひろし。激闘の末になんとか組織のボスを倒す。
ロボひろしの身体はボロボロに壊れ、もはや手遅れの状態であった。あぁ、このまま、ロボひろしはただのイミテーションとして消えていくのか…そんな残酷な切なさに涙が溢れる。
しかし、やはりしんのすけだけは最後までロボひろしの存在を否定しようとしなかった。
きっとしんのすけも、自分たちが二者択一を迫られていたことは理解していただろう。だけども、そうだけれども、どちらかを父親と見做し、どちらかを偽物と決めつけることは決してしなかった。
なぜか?
それは、しんのすけにとってはどちらも「父親」だからである。
だからこそ、どちらかに優劣をつけることを放棄し、ひろし同士でカタをつけさせる(つまり「腕相撲させる」ことによって決着をつけさせる)という道を選択したのだ。
そうしてギャグとしか思えないけれど、2人のひろしにとったら一生で一番の大決戦である、父親の座をかけた地球一熱い腕相撲が始まった。
結果は敢えて言わないが、回路が途切れ、やがて意識を失っていくロボひろしの目には、それでも決して後悔や怨嗟などは感じなかった。
ロボひろしは言う。自分は偽物だから消える。これからは本物のとーちゃんをよろしくな、と。しかし、それでも最後まで、しんのすけはロボひろしを「父親」だと言い切った。そうして、ロボひろしは笑みを湛えると、やがてそのまま静止した。
ほんの少しではあったが、確かに「父親」であった男の最期に相応しい、言うことなしのラストシーンであった。
こうして物語としてのカタをつけつつも、作品の中で絶えず問われ続けていた「存在は何によって定義されるか?」という無機質な問いに、親子愛という揺るぎない関係で完璧に答えた(というか問いそのもののナンセンスさをぶち壊した)のだ。
まさに稀代の名作。昨今のクレしん映画の中では群を抜いて心に残った。
話の内容ばかりに触れてしまったが、パロディネタはもちろん、作画面もやはり優れており、今作でも湯浅政明が暴れ狂っているので、終盤のロボット操縦シーンあたりはコマ送りで見るべし!見るべし!{/netabare}
ダラダラ長く語ってしまったが、とりあえず、クレしん映画そのものに拒絶反応を示してしまう人以外には何としても見て欲しい傑作である。物語の根底に流れるのは堅苦しいテーマではあるが、そうは言ってもクレしんなので見やすいので是非一度見て欲しい。