ラ ム ネ さんの感想・評価
4.7
物語 : 4.5
作画 : 4.5
声優 : 5.0
音楽 : 5.0
キャラ : 4.5
状態:観終わった
普通の世界と、その外側。・・・岩井俊二監督作。
「普通の世界と、その外側」をテーマにしていると岩井俊二監督は古本屋にあったなにかのパンフレットで書いていた。あやかって照らそうと思う。本作は登場人物の花とアリスが、「その外側」に当たる、として置く。彼女たちは奔放だ。少年期の憧憬というのは、しとやかで聡明な姉的女性のイメージがあるが、中年期の憧憬というのは、純粋で奔放な妹的少女のイメージがある。花とアリスは後者、現代的で、将来のことなど気にもせず今を感情自由に生きている。彼女たちの姿勢が、「その外側」の役割となって、「普通の世界」を感化させていきつつ、「殺人事件」という幻想を一緒に追い、二人の間に友情ができていく物語になっている。恋ではなく、同性の友情というのがいい。そうだ、世の中、恋よりも友情の方が実に問題だ。ご存知、2004実写「花とアリス」に後続していく。
「普通の世界と、その外側」は、言い換えて二元的な意味を与えることができる。「日常と幻想」「慣習と異常」「依存と自由」「社会と世界」。彼女たちは「消えたユダの謎」を追って、日常の外にいた人々と一期一会に邂逅をしながら、終電を絶たれ、帰路に戻れなくなってしまう。日常の慣習を離れ、慣習の社会を離れ、見知らぬ世界に迷い込み、全力疾走する。そして日常の慣習に励む「普通の世界」を、一瞬、その世界に連れ去ってしまう。
たとえばだ。岩井俊二監督はよく有名童話を作品に取り入れているが、本作では黒澤明監督の「生きる」が、オマージュだろうか、引用されていることに気が付いた。アリスが「ユダ(湯田)の父」を間違えて、見知らぬ爺さんを追跡してしまい、カフェで爺さんに食事をご馳走になる(あたりからの)場面で、お爺さんは14歳のアリスと会話をすることで瑞々しい懐旧の情に浸るところだ。古い西洋式の大階段のある二階建ての綺麗なカフェで、向こう側でドレスコードの若者たちが賑わっている。映画「生きる」でも、退屈に仕事をしてきた役所の老人(志村 喬)が、癌で余命宣告された後、仕事場の若く奔放な女性社員とふれ、その人間の純粋さに見惚れる場面がある。本作のお爺さんも「どうせ暇だし」と慣習的な日常の愚痴をしているし、病院で検査をしていたし、会社でブランコに乗るシーンもあり、顔も志村に似ている。お爺さんは、少女に日常を振り回されたのだが、別れ際に「ありがとう」と口にする。もしやすると、映画「生きる」のように、少女の純粋に学び、なにかを世の役に立つものを残そうと、奮闘するのかもしれない。
アリスという人物像、奔放で自由、なにも背負っていない足取りの軽さ、踏み込みの強さ、A型でしっかりしている。「生きる」に登場する女性社員にアリスの姿を見て、引用されたのだと思う。他にも、彼女の人物像に見合ったシーンや要素が振り分けられ、それらがばらばらにではなく、ある日常という統一性をもって続いていく。それは2004「花とアリス」にも同様に見られる。
また、花という人物像。妄想的で、いけず。ストーカー。でも、オタク適例のように閉鎖的でなく、開放的。O型。引きこもりも、外部的な理由でなく(イジメとか)、とことん内的な、妄想的な自業自得という、オカシイ設定だ。アリスは、花に始まる妄想的な逸話に付き合うことになる。そこは映画の方で見て頂きたい。
岩井俊二監督は、作品の映画環境、撮影手段を開拓して来た。海外進出(日本継続への不安もあってか)、そしてアニメーション。(表現法も新しい)。「花とアリス殺人事件」は、3.11の震災以前最後に撮られた映画だ。震災後の映画企画「リップヴァンウィンクルの花嫁」は、「慣習社会から世界へ(普通の世界からその外側へ)、そして世界を前提にした社会に回帰する」というテーマをより影響的に思考された傑作だった。今や1980年代から上の世代が映画や小説よりもアニメに通例化しているなかで、時代を取り入れる先駆でもある岩井俊二監督が、若い世代に普及しやすいアニメーションという新たな文脈で、次にどのような作品を構成するのか(SFだろうか?) 、もしあるのなら楽しみでならない。2016/4/29