「ハウルの動く城(アニメ映画)」

総合得点
76.7
感想・評価
1053
棚に入れた
6626
ランキング
686
★★★★☆ 3.8 (1053)
物語
3.7
作画
4.1
声優
3.5
音楽
3.8
キャラ
3.7

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ネタバレ

renton000 さんの感想・評価

★★★★★ 4.5
物語 : 4.5 作画 : 5.0 声優 : 4.0 音楽 : 5.0 キャラ : 4.0 状態:観終わった

すべての元凶?

あらすじは他の方のレビュー等をご参照ください。

 二回目の視聴だと思うんですけど、ほとんど覚えていなかったので新鮮な気持ちで見れました。批判も多い作品ですが、個人的には結構満足できました。
 で、「ハウル」の内容どうこうよりも、「ポニョ」のレビューで書いた内容を修正しておかなければならないっぽいので、まずはそこを目標に話を進めていきます。ここを足掛かりに「ハウル」の内容について言及し、批判の集中しがちな宮崎駿監督の後期三部作(ハウル・ポニョ・風立ちぬ)の特徴についても触れていきます。
 「ポニョ」のレビューを未読の方にも分かるように書いていくつもりなので、特に読み返しは必要ありません。詳細が気になる方だけ適宜過去のレビューを参照していただければと思います。


「ポニョ」レビューのまとめと修正:{netabare}
 まずは、「ポニョ」のレビューで書いたことをまとめます。

①「ポニョ」は、「ナウシカ」や「もののけ姫」と同じカテゴリーである。
 各作品のプロットはこんな感じです。
 「ナウシカ」は、人間の領域である村、自然の領域である腐海、両者がせめぎ合う平地があって、自然側の氾濫としての大海嘯が起こることで、人間領域が破壊され自然に飲み込まれる、という話。
 「もののけ姫」は、人間の領域であるタタラ場、自然の領域である森、両者がせめぎ合う戦場があって、自然側の氾濫としてのシシ神さまの死の効果で人間領域が破壊され、生の効果で自然に飲み込まれる、という話。
 「ポニョ」は、人間の領域である陸地、自然の領域である深海、両者がせめぎ合う浅瀬があって、自然側の氾濫としての津波が起こることで、人間領域が破壊され自然に飲み込まれる、という話。

 これらの三作品は、人間と自然がそれぞれ陣地を持っている状態から始まります。そして、その状態から綱引きが始まるんですけど、最終的には自然側が一気に有利になる、というように物語が進行しますよね。つまり、基本的なプロットは変わらないってことです。ただし、エンディングの内容だけはちょっとずつ変化しています(エンディングの違いについてはポニョレビュー参照)。


②「ポニョ」が分かりづらいのは、主人公の振る舞いと世界の変革の連動性が断ち切られたから。
 「ナウシカ」も「もののけ姫」も「ポニョ」も、人間領域の破壊と自然領域の再生という世界の変革を描いた同じプロットの作品なんですけど、「ポニョ」だけが批判にさらされてしまいました。これらが同じ作品だ、ってことに気付かない人が続出してしまったんです。この原因に挙げられるのが、主人公の振る舞いと世界の変革の連動性です。

 「ナウシカ」や「もののけ姫」では、主人公たちが世界の変革に対して自身の立ち位置を明確にしていますよね。ナウシカは命を賛美し、アシタカは曇りなき眼を標榜します。これに呼応するように物語が展開していくため、世界の変革が起こった際にもその方向性が読みやすいんです。主人公を見ていれば、物語の結末を読めるってことですね。
 一方で、「ポニョ」では、世界の変革に対する主人公たちの立ち位置が明確ではありません。ポニョやソウスケは、「会いたい」「守りたい」という主張しかしないんです。そのため、主人公たちの振る舞いと世界の変革の連動性が断ち切られてしまっていて、主人公だけを追っても物語の進行方向を察することが出来なくなってしまっています。主人公たちの振る舞いと世界の変革を、分けて見ていかなければならないのです。

③主人公の振る舞いと世界の変革の連動性が断ち切られている宮崎駿作品は、「ポニョ」と「風立ちぬ」
 「風立ちぬ」も、この連動性が断ち切られた作品として挙げることができます。主人公の二郎は、ただ飛行機を愛でていたいという主張をするのみで、戦争という変革に対して一切の主体性を見せません。主人公の振る舞いは、世界の変革に何らの影響も与えないのです。


 で、修正したいことっていうのは、この連動性の欠如した作品として「ポニョ」と「風立ちぬ」しか挙げなかったことです。もう一作品挙げておかなければなりませんでした。それが「ハウル」ですね。
 次項からは、「ハウル」における主人公側(表)のストーリーと世界側(裏)のストーリーを別個に見ていきます。
{/netabare}

「ハウル」における表のストーリーと裏のストーリー①:{netabare}
 「ハウル」のストーリーっていうのは、主人公のソフィーを軸にして考えると、単なるラブロマンスですよね。簡単に言ってしまうと、うだつの上がらない生活をしていたソフィーの前に、白馬の王子様であるハウルが登場するっていうだけのありきたりなラブストーリーです。これに関連して、ハウルに出会ったことでババ臭い発想をしていたソフィーが自己肯定を出来るようになる、という成長譚も主軸の一つに挙げられます。このソフィーの心の変化が、老婆や若い女性などの姿かたちとして表出していました。

 で、ソフィーの相手役であるハウルの成長も描かれているんですけど、それが心臓のくだりですよね。
 荒地の魔女やサリマン先生は、ハウルを「心なき者」と称していて、ソフィーは「ハウルの心を取り戻す」と言っていました。この「心を取り戻す」っていうのは「心臓を取り戻す」ことと同義に使われていましたから、「heart」を使った掛詞になっていたんだと思います。心も心臓もどっちもハートですからね。「ハウルが心臓を食べる」という逸話も、「ハウルが女性の心を奪う」、平たく言うと、「女性を惑わすイケメンである」程度のものでしょう。
 また、ハウルの心を取り戻すのに一役買ったのが疑似家族の成立です。マルクルと二人暮らしだったハウルが、ソフィーを迎えることで父・母・子という疑似家族が成立します。また、その後に荒地の魔女が親世代として、サリマン先生の飼い犬のヒンがペットとして登場します。疑似家族がどんどん強固になっていく様が描かれているわけですね。そして、ハウルは「ソフィーと疑似家族を守る」という目的を得て主体性を取り戻すことになり、心臓(心)を得ることでハッピーエンドとなりました。

 このソフィーの恋愛軸とハウルのハート軸という二つの軸が、「ハウル」における表のストーリーですね。
{/netabare}

「ハウル」における表のストーリーと裏のストーリー②:{netabare}
 この表のストーリーに対して、裏のストーリーとして戦争にまつわる話があります。詳細はずいぶん省かれていますが、私が見たところではこんなストーリーになっていたんだと思います。

①サリマン先生はハウルにご執心
 サリマン先生はハウルを「後継者」と言っていましたが、それ以上にハウルにご執心だったようです。周囲の侍従たちは子供時代のハウルを金髪にしたような姿をしていましたからね。
 ハウルを手元に呼び寄せたいものの、サリマン先生が呼び出したのでは、サリマン先生を恐れているハウルが来ないのは確実です。そのため、サリマン先生は逃げ道のない国王からの招集という手段を使おうと画策します。
②ハウルを呼び出すために戦争を起こしてしまえ!
 ハウルを国王名義で招集するにしても、その名目は必要になります。この名目として選んだのが戦争でした。
③隣国の王子が邪魔
 戦争するには当然相手国が必要です。その相手国として隣国を選んだわけですが、隣国の王子は戦争に反対している穏健派でした。この王子が邪魔なのでカブ頭に変えてしまいます。
④サリマン先生、大失敗
 ハウルはソフィーと出会い恋に落ち、また、守るべき疑似家族を得たことで主体性と心を取り戻します。さらに、その過程でカブ頭にかけた呪いも解けてしましました。ハウルが従順な後継者にならないことが確定し、穏健派の王子も復活してしまったので、サリマン先生の計画は失敗となりました。これにより、戦争終結を宣言します。

 カブ頭に呪いをかけたのがサリマン先生自身だったのかどうかも含め、詳細の不明なところは多いですが、裏のストーリーは概ねこんな感じに整理できると思います。大事なのは裏のストーリーの真相を探ることではなくて、主人公を軸とした表のストーリーと、それとは別のストーリーが進行していたということです。表のストーリー(主人公の振る舞い)と裏のストーリー(世界の変革)が直接的に紐付いておらず、連動性が欠如されているってことが分かればいいのです。

 「ハウル」のストーリーは、とりあえずはラブロマンスと成長譚だけを追えばいいんですけど、戦争にまつわるストーリーにもかなりの時間を使われています。そのため、この二つのストーリーの整合性を取ろうと頑張ってしまうんですね。ですが、これらに直接的な連動性は見られませんから、なんだかよく分からない、という批判が生じているんだと思います。
{/netabare}

後期三部作(ハウル・ポニョ・風立ちぬ)の特徴:{netabare}
 「ハウル」を「ナウシカ」や「もののけ姫」のように主人公の振る舞いと世界の変革の連動性を担保しようと作ったのならば、おそらくソフィーではなくハウルを主人公に置いていたはずです。ハウルだけが戦争に対して主体性を見せることができますからね。ハウルを戦争に参加させ、サリマン先生と隣国の王子との間で揺れ動く様を描きながら、ハウルの主張の中から戦争終結への道筋を探る、というストーリーになっていたでしょう。

 でも、この作品ではこの従来的な手法を取りませんでした。世界の変革に直接介入できるハウルではなく、世界の変革の外側にいるソフィーを主人公に置いたのです。そのため、主人公が戦争への主体性を見せることが無くなり、傍観的な立場から世界を見ていくことになりました。
 前述の通り、「ハウル」以降の作品である「ポニョ」や「風立ちぬ」も傍観的な主人公ですから、「ハウル」を起点として、主体的な主人公から傍観的な主人公へと宮崎駿監督のスタンスが変化をしたのです。

 これこそが、後期三部作の特徴だと思います。
 ポニョのレビューで、「一歩引いた主人公が二作連続で作られていますので、宮崎駿監督のスタンス自体が変わっていったと考えるのが良さそうですね」と書きました。実際は三作品連続だったわけですが、このコメントの真意は、言葉を濁さずに言ってしまえば、「宮崎駿監督が年を取った」ということです。
 宮崎駿監督は、自分(主人公)が世界に対して主体的にどうこうしようという作品を作るのをやめ、世界の成り行きを見守る傍観者としての作品を作るようになってしまったのです。これは、若者の考え方というよりは、老人のそれです。この考え方の変化が、作品に如実に表れてしまったのだと思います。
{/netabare}

おわりにかえて:{netabare}
 このような主人公と世界の連動性が欠落した作品は、少しですがあります。私が書いたレビューの中では、「純潔のマリア」なんかがそうですね。
 「純潔のマリア」でも戦争や宗教の話などが出てくるんですけど、こちらの話が主軸ではありませんでした。主軸はあくまでも主人公マリアの成長です。そのため、戦争や宗教は単なる舞台装置程度のものに過ぎず、マリアの成長が確定した段階でエンディングを迎えることになりました。最終的には、戦争や宗教の話が捨て置かれてしまったのです。
 「ハウル」もこれと同じで、主軸はあくまでもソフィーのラブロマンスと成長です。そこの解釈を進めるのが優先であって、戦争は舞台装置程度に考えても問題ないと思います。「純潔のマリア」と比較してみれば、「ハウル」は比較的親切な作品だったと思います。詳細は分からないものの、戦争の終結自体はきちんと描かれていますからね。

 「ハウル」以後の作品では、「宮崎駿監督の才能が枯れた!」みたいな言われ方もされているようですけど、この意見については個人的には結構懐疑的です。どちらかというと、連動性の欠落した作品(二つの軸で進行する作品)に視聴者側が慣れていないために、理解が追いついていないだけじゃないかな、と思っています。こういう連動性が欠如された作品自体少ないですし、細部まで読み取ろうとすればするほど意味が分からなくなってしまう、というパラドックスが生じてしまいますからね。監督の才能が枯れたというよりも、作品の性質自体が変わってしまい、読み取り難易度が上昇したと言った方が良いかもしれません。
 視聴量の絶対数が少ない中高生くらいだと、一度の視聴で「ハウル」を理解するのは難しいかもしれません。漫然と二回見ても理解の助けにはならないでしょうから、一回目ではソフィーの変化だけをつぶさに見て、二回目でその他要素を回収するって見方の方をした方が良いように思われます。

 余談も余談ですが、宮崎駿監督って、世界を変革する場合には主人公は成長させないんですよね。ナウシカもアシタカもソウスケも一切の成長を見せません。変わるのは世界の方です。逆に、主人公を成長させる場合には、世界を変革しないんです。魔女宅や千と千尋みたいに、まず世界を固定して、その上で主人公を成長させるんです。
 この点に鑑みれば、「ハウル」は珍しい作品でもありますよね。世界の動きも描かれて、主人公自体も成長する。スタンスが変わったと言えども、チャレンジ精神は健在だったのかもしれませんね。{/netabare}

投稿 : 2016/01/16
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サンキュー:

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