ossan_2014 さんの感想・評価
4.0
物語 : 4.5
作画 : 3.0
声優 : 4.5
音楽 : 4.0
キャラ : 4.0
状態:観終わった
等価交換のセカイ
衝撃的なラストで広く知られている本作だが、ラストについて語るのは今でもネタバレ扱いなのだろうか?
{netabare}錯綜する恋愛関係のもつれが遂には主人公の惨殺へ至る展開は、改めて観返すと、当時やや廃れかけていたセカイ系と同じ構造だ。
キミとボクの恋愛で構成されたセカイが、社会という領域を欠いて、世界の存亡を賭けたハルマゲドンという大状況に直結するセカイ系は一時期隆盛を極めたが、いっけん日常的な恋愛模様を描く本作は、ハルマゲドンを欠いたセカイ系とみなすことができる。
殺人に至るまで事態が悪化するのは、本来なら「非行」である少年少女たちの行動のエスカレートを監視/抑制するはずの社会領域が意図的に排除されているからであり、ハルマゲドンを欠いている結果、キミとボクの恋愛の破綻がそのまま「(日常)世界」そのものの崩壊に直結して現れてくる作品構造は、セカイ系と同型だと言えるだろう。
主人公の死は、因果応報の報いとして用意されたものではなく、セカイ系構造の必然と看做すべきものだ。
因果応報という見方は、主人公への激しい嫌悪と裏表であり、当時、殆ど全面的な憎悪とバッシングが主人公に向けられていたことが思い出される。
嫌悪や憎悪は、一夫一婦制を背景にした、相思相愛の一対一の恋愛という規範意識を主人公のハーレム状態が逆なでしたせいだと思われているが、かなり奇妙に感じられた。
確かに男の目から見ても好感が持てるとはとても言えない主人公だが、殺されて「ざまあみろ」と言われるほど「邪悪」とは思えない。
ハーレム状態というが、終盤の乱脈な男女関係は、成人男性の視点からは、主人公が不特定の女子と関係して弄んでいるというよりも、少女たちが手軽に欲求を満たすのに都合がよい道具として主人公を利用しているようにしか見えなかった。
終幕でみじめに夜の街を彷徨する主人公の姿も、悪行の報いではなく、少女たちの玩具として使い捨てられたことに無自覚な愚かさの現れに見える。
ハーレム状態ではなく、特定の少女たちへの恋愛に向き合う姿勢が気にくわなかったのだとしても、アニメというどこから見ても空想である架空世界の、本質的に規範とは相いれない筈の恋愛という「情念」を描く物語で、なぜあれほどまでに現実の規範意識を振りかざしてバッシングしたいという衝動が生じたのか。
教育者で思想家でもある内田樹の観察によると、現代の子供は(必然的に大人も)市場原理、とりわけ等価交換の原則を過剰に内面化しているという。
なにかを得るには何かを差し出す必要がある、というのは一見もっともらしい考え方に見える。
が、それが「内面化する」という事は、意識的な「計算」によって交換の価値と適否を「検討」するのではなく、「等価で」交換「しなければならない」と、ある種の倫理のように、自身の自発的な行動基盤に据えて疑うことができない、という事だ。
内田樹の観察が正確であるとすれば、現代人は、なにかを得るときに対価を差し出さずには「いられない」、なにかを差し出したときに対価が与えられないことは「ありえない」と感じている。いや、感じているのではなく、そのような嵌められた枠が自分には見えない。
「内面化」とはそういう事だ。
本作の主人公へのバッシングも、恋愛規範による非難ではなく、特定の少女たちとの恋愛関係において「等価交換」が成り立っていないことへの反射的な嫌悪なのではないだろうか。
少女が主人公「だけ」に寄せる恋愛感情に対し、主人公は「等価」の恋愛を返していない、と。
冷静に考えれば、親子や友誼や恋愛といった人間関係に、等価交換を持ち込むのが相応しいのか疑問を「覚える」のが普通だ。
「考え」て「判断」するのであれば疑問を覚えることもあるだろうが、考えるまでもない自明の結論だと疑えないのが「内面化」という事態であり、架空の恋愛へのあれほどのヒステリックなバッシングは、思考する前に、内面化された価値観が脅かされることへの脊髄反射的な防衛であって、規範や倫理とは無関係だったのだろうと今では思える。
いや、自分では倫理的だと感じる錯覚を自覚できないのが、内面化という事態であるのか。
「経済」は「社会」の重要な一部ではあるが、その社会は「世界」に内包されている。
果たして経済の一部分にすぎない「法則」を内面化して社会や世界に相対した時、それはより広い領域で通用するのだろうか。
セカイ系の構造に沿ってセカイ/世界の崩壊に至った本作は、その受容のされ方を含め、結果的にドラマチックな形で回答を示しているように思える{/netabare}