「がっこうぐらし!(TVアニメ動画)」

総合得点
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★★★★☆ 3.7 (1938)
物語
3.7
作画
3.7
声優
3.7
音楽
3.7
キャラ
3.7

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ネタバレ

ossan_2014 さんの感想・評価

★★★★☆ 3.7
物語 : 4.5 作画 : 3.0 声優 : 3.5 音楽 : 3.0 キャラ : 4.5 状態:観終わった

安全という狂気

【2015/9/25視聴終了 最終話まで含め書き直し】*誤記修正

確かスティーヴン・キングだったと思うが、「自分がTVドラマシリーズを手掛けるとしたら、最終回の直前まで普通のホームドラマとして製作し、最終回の後半で一気に惨劇が起きるホラー展開にするだろう」といった発言をしていたように記憶している。

{netabare}本作の第一話はまるでキング発言を参照しているかのような展開だ。

キングであればホームドラマ部分にホラーの伏線を抜け目なく挿入することは確実だが、本作もまた周到に伏線を配置し、あの違和感はこの伏線であったのかとラストで驚愕する仕掛けになっている。


徘徊するゾンビをバリケードで排除した安全圏の校内に立てこもる舞台設定は、類似設定の作品が幾つも思い出される。

人間には対抗できない圧倒的な脅威を壁の外にかろうじて押し出し、外圧に軋む壁の内部の日常を死守する絶望的な世界、という物語を最近よく目にするように思えるのは、このイメージが時代的な気分を反映しているからだろう。

が、これが時代的な気分の反映であるにしては、歩きスマホに象徴される、見知らぬ周囲の他人すべてが私の安全に配慮すると決めてかかり、世界が私を害することなどないと確信しきっているかのような感性が広まっている事と矛盾しているのではないかと、不思議な割り切れなさがずっと引っかかっていた。

本作の第1話を視聴して、こういう事だったのか、と違和感が解消されたように思う。

バリケードに閉ざされ窓ガラスも割れはてた荒廃した校舎を、クラスメートの行きかう平和な日常の風景として認識する狂気におかされた視線であれば、ゾンビの群れのただなかでも平和な散歩として危険など見えはしないだろう。

恐怖に破壊された精神から、あるいは精神を守るために分泌された妄想が、破滅的な世界を、安全で平和なものであると、狂気による主観的な確信へと変貌させる。
妄想だけを見ているのならば、ゾンビの中で笑いながら歩きスマホだってできるに違いない。

現状を見つめているはずの学園生活部の部員たちも、「学園生活部」自体が主人公の妄想に寄り添って造り上げた「設定」であり、妄想に合わせてこれを演じている以上、程度の差はあれ、主人公の妄想的な日常意識に加担し、共有しているのだと言える。
現実を認識しているつもりでも、彼女たちにも妄想は浸透しているのだ。


破綻は不可避であると予感させた「狂気」と「脅威」の危うい均衡は、終幕でついに崩壊をきたす。
バリケードの崩壊とともに押し寄せる脅威の前に、「部活」を維持してきた「狂気」は無力を露呈したように見える。
逃れようもなく直面した「現実」の前に、必然的に狂気という安全装置は敗れ去るのだと。

が、本当にそうだろうか。

ゾンビが氾濫する前から、パンデミックの原因である病原体が存在していた時点で、「世界」に脅威は存在していたのではないか。
そもそも最初から、この「世界」に脅威のない「安全」な「現実」はなかったのだ。

パンデミック以前の人々の安全な「現実」は、病原体の管理を研究所なりに疎外して、意識から消してしまうことで担保されていたものであり、ゾンビの現前を意識から消す「狂気」によって安全な「現実」を継続させる「学園生活部員」は、ある意味で同じことをしているだけだとも言えるだろう。
ゾンビによる破滅の前の「現実」でも、さまざまに困難はあり、それでもそれなりに日常を送っていたはずだ。「学園生活部」として楽しい日常を送る「現実」と比べ、困難の度合い以外に、質的な差を挙げることが、部員には難しいかもしれない。

一見、現実の状況を受け入れ、ゾンビを撃退するために立ち上がったように見える主人公だが、クライマックスで最悪の破局を回避した「校内放送」は、ゾンビたちもまた、破滅前の「現実」を「生きている」と暗示するものではないだろうか。パンデミック前の人々が共有していた安全な「現実」を。
校内放送は、ゾンビという「現実」を打ち破ったのではなく、ゾンビたちの「現実」に主人公の「狂気」による平和な学園生活という「現実」が浸透して、脅威を無力化させたように見える。
ひとまずゾンビを退けた後、部員たちは「狂気」から覚め、事実的状況に立ち向かう一歩を踏み出したのか、はっきりと断定しきれないエピローグが、それを示しているようだ。

生存の為、拠点を捨て、新たな適合地を求めて出立する部員たちは、あくまで学校行事として行動する。
微妙なバランスで維持されていた避難生活と学校というモラトリアムを二重化し、生存の可能性が不明の環境へ飛び込む不安と卒業を二重化して語る「学園生活部」部員たち。
そこでは、脅威の存在を認識して、それでも「敢えて」学校行事に見立てて行動しているのか、それとも新たな段階へ微妙に変化した「狂気」の中にいるのか、自覚的に曖昧化した描写が貫かれている。

「狂気」の兆候があるとも無いともはっきりしない曖昧化された描写は、視聴者を宙づりにして奇妙な不安感を掻き立てる。
部員たちは狂気を捨て去って視聴者と同じ平明な視線を共有するようになったのか、それとも視聴者にも「狂気」は拡散して共有してしまったから狂気と見えなくなっているのか。

製作者によって決定不能に誘い込まれた視聴者は、生と死の間に宙づりされたゾンビと二重化されているのかもしれない。


このサイトのレビューでも、同じアニメに対して正反対の意見が寄せられることは珍しくない。
どのように解釈するか=(作品)「世界」をどのように認識するのかは人それぞれの問題だ、というのは、確かに重要な考え方ではある。

が、破滅的な世界を「部活」とみなして「希望」をもって生きるという物語が容赦なく突きつけてくるのは、ゾンビの徘徊する校内を平和な学園と妄想する「狂気」も「一つの解釈」であると認めてしまう事の是非であり、世界の「全てを」解釈の違いで済ませてしまうことの限界性だ。

狂気を受け入れた結果、めぐ姉の死という「事実」を公言する事ができなくなった部活内空間は、丁寧に説明すると称して論理の破綻した妄言を壊れたレコーダーのように無限リピートする政治家に対して、「お前は頭がおかしい」と指摘できない現実空間とパラレルに見える。

政治批判のために本作が製作されたと言いたいわけではない。
現実世界でそのような現象を生じさせる「もの」が、創作的想像力というプリズムを通過すると本作のような物語の形に像を結んだ、ということだ。

時代的な気分の取り込みとして、本作は類似設定の物語より大きく一歩ぬきんでたといえるだろう。


「卒業」して旅立つ先にあるのは、別の避難所という仮の安息地に過ぎない。
元気に楽しく生きようとする部員たちの姿は、救いの見えない絶望的な状況を鳥瞰する視聴者の胸を激しく痛ませる。

いや、この絶望的な状況はパンデミックというただ一つの原因で引き起こされたという設定自体が、或いはこの世界の「救い」であるのかもしれない。
画面のこちら側の我々には、これさえ取り除けば安全な世界が回復するという、唯一の原因は用意されていないのだから。{/netabare}

投稿 : 2015/09/27
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サンキュー:

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