renton000 さんの感想・評価
4.8
物語 : 4.5
作画 : 5.0
声優 : 5.0
音楽 : 5.0
キャラ : 4.5
状態:観終わった
ふわふわタイムなだけの作品じゃないよ!
第1期12話+おまけ2話。第2期24話+おまけ3話。あと映画も。
結構話数があるので、完走できるか不安もあったんですが、何の問題もありませんでしたね。見続けていたら自然と完走していました! お別れが寂しくなるくらい楽しんでしまいました。
こういう「まったり日常系」の作品にお堅いレビューはそぐわないと思うのですが、第2期の最終話に至る構成がすごく良かったと感じましたので、その辺について簡単に述べておきます。
第2期は第24話が最終回?:{netabare}
最終話である第24話を見ているときに、あれ?っと思いました。
けいおんの各話は、5人全員に焦点を合わせた「5人が主役回」と、登場キャラクターの一人により焦点を合わせた「誰かが主役回」、大きく分けるとこの二つがあります。
私は、最終話である第24話は「5人が主役回」になるのだと当然のように思っていました。ですが、実際にふたを開けてみると、どうやら違ったように思えます。
第24話は、「卒業するのだから」と先輩にも自分にも言い続けていたあずにゃんが最も卒業への耐性が無かった、というところを中心として、先輩たちがあずにゃんにエールを送る、という話です。つまり、この回の主役はあずにゃん。
第24話があずにゃんを主体として作られていたことは、カメラワークからも分かります。
カメラワークには、全体を俯瞰する客観視点と、誰かが見た風景である主観視点がありますが、第24話における主観視点というは「あずにゃんの視点」でした。卒業生に送る花を手に乗せた絵や先輩たち4人を見つめる絵、これらはいずれもあずにゃんの目から見た風景として描かれていました。第24話はどう考えてもあずにゃんが主役の回。
では、なぜ最終話である第24話が「5人が主役回」ではなく「あずにゃんが主役回」だったのか?
それはおそらく、けいおん第2期の最終回が二分割されていたからだと思います。
{/netabare}
第20話+(第22話+)第24話:{netabare}
一つ目の最終回は、第20話だと思います。学園祭での最後のライブが行われる回です。
この回が最終回だという根拠を、内容以外で二つ挙げます。一つ目は、第1期の最終回も学園祭であったこと。そして、二つ目が、号泣後のカットが飛び立つ5羽の鳥であったことです。
「第1期の最終回」に「飛び立つ5人」の演出が加えられていたわけですから、この回も外観としては最終回として位置付けられていた、と考えるのが妥当だと思います。
では、なぜこの回が真の最終話にならなかったのかというと、この回では、あずにゃんだけがこの作品からの「卒業」を達成できなかったからです。
最後のライブの終了後、「もう来年はないんだ」という会話から先輩たち4人が涙を流します。ですが、あずにゃんは「来年の心配はいりませんから」と、いつも通りの主張を繰り返すのみで、最後まで涙を流しませんでした。
この両者の涙の有無により、卒業への覚悟が名実ともに備わった先輩4人と、卒業への覚悟が名のみで実の無いあずにゃんという対比が明らかになります。この差がそのまま「第20話で卒業できた先輩4人」と「第20話で卒業できなかったあずにゃん」の図式になってしまいました。
そして、この先の展開というのは、如何にあずにゃんを先輩たちから「卒業」させるのか、というところに話が移っていきます。
ここで挿入されているのが、第22話のバレンタイン回です。この回もあずにゃんが主役の回です。この回から「5人の話」が「あずにゃんの話」へとシフトを始めていたということです。最終話へのフラグ立てです。
この回であずにゃんは「先輩たちの卒業」を実感することになります。
これを受けて、同じくあずにゃんが主役の回として作られたのが最終話の第24話。ここに至り、初めてあずにゃんが先輩たちの卒業に涙を流すことになります。一方で、既に覚悟の定まっていた先輩たち4人は、涙を流しません。
そして、「卒業しないでください!」と涙を流すあずにゃんに、先輩たちがエールの歌を送ることで、あずにゃんは先輩たちからの「卒業」を達成します。
「卒業への涙を流すこと」が「心理的な卒業」であり、先輩たち4人が涙を流す第20話とあずにゃんが涙を流す第24話、この二つが合わさって「最終回」になっているんだと思います。最終回が二分割されていたからこそ、第24話が「5人が主役回」ではなかったということです。
また、最終話でのあずにゃんは、その役割自体も大きく変わっていたと考えられます。
主観視点というのは、キャラクターの視点と私たち視聴者の視点を強くリンクさせる効果があります。第24話で、あずにゃんの視点を主観視点として置いたのは、私たちの代弁をあずにゃんにさせるためだったからでしょう。
あずにゃんと視聴者の視点をリンクさせることで、「卒業しないでください!」というあずにゃんの叫びは、視聴者側の「まだ終わらないで!」という願いに転換されます。また同様に、先輩たちがあずにゃんに送るエールというのは、視聴者に送るエールへと転換されます。あずにゃんに卒業への覚悟を持たせることは、視聴者にこの作品が終わることを覚悟させることに同じである、ということです。
あずにゃんを主役に置き、さらに、あずにゃんの主観視点を描くことで、このようなメタフィクションを演出していたのでしょう。
軽音部5人の物語から、第20話で先に先輩たち4人を卒業させ、取り残されたあずにゃんと視聴者を第24話で同時に卒業させる。これが最終回を第20話と第24話に分割した意義なんだと思います。そして、第22話がこれらのくさびとなって、この構成に強い説得力を与えていました。
テレビシリーズの作品は、最終話以外にも中盤や終盤に山場を作る必要があると思いますが、あまり山場を必要としない「まったり日常系」でありながらも、かなり構成に力を入れた作品だったんだと実感します。最終回を第20話と第24話で分割する試みも、第22話を挟んだつなぎ方も、非常に良かったと思います。
ふわふわタイムな作品であっても、ふわふわにつくられていた作品ではありません!ということですね。
{/netabare}