「乱歩奇譚 Game of Laplace(TVアニメ動画)」

総合得点
61.7
感想・評価
664
棚に入れた
3150
ランキング
5278
★★★★☆ 3.3 (664)
物語
3.1
作画
3.4
声優
3.4
音楽
3.4
キャラ
3.2

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ネタバレ

migratory さんの感想・評価

★★☆☆☆ 1.8
物語 : 2.5 作画 : 2.0 声優 : 1.5 音楽 : 1.5 キャラ : 1.5 状態:今観てる

脱出系イベントとコラボ必至が予想されるアニメ

最終回を迎えるということもあって、鏡というのをひとつテーマに、総括的に書いてみました。

内容だけで言うとグロテスク極まりない作品なのですが、10代が見る作りのアニメだと感じました。
推理パートが分かりやすく事件のあらましを説明してくれるので、スクラップの脱出ゲームと企画が並行されていてもおかしくない物語だと感じます。

第1回「人間椅子」編は、自分に罪をなすり付けた、犯人からの挑戦状…みたいな内容でした(少しネタバレですかね)。

借用した内容は大人向けであり、入り口となりうるキャラクターの作りは10代向けと感じたので、久しぶりにアニメでミステリーが楽しめると期待していた分落差は大きかったのですが、コバヤシ少年がコバヤシのこれまで退屈だったことの安寧さが、仮に視聴者の代弁だとすると、なんという罪を負った作品であるのだということを思ってしまったために、単に10代向けであるなら成功的な話だと思うのですが、単純には見過ごせない思いでいます。


尚、否定的な意見もあるので隠しました↓{netabare}
たとえばそれが、怠惰でつまらない毎日への回答を狙った作品??

または、カガミなどを代表とする「二十面相」に関わったキャラクターを通して描かれた自己批評的作品??

更には、この作品自体が江戸川乱歩作品へのアンチテーゼにも受け取れてしまう点や偏見的な価値観も覗かせる点において、「江戸川乱歩没後50年作品」の文字は、できれば返上して欲しいと思っていました。

日本独特の怪奇は、ある種哲学的なものだと感じるためか、時代背景を現代に置き換えている本作の捻じ曲げた設定は、怪奇を読み解く上で、犯行に至った動機など感情の節々を打ち消す、ある種指針となりうる異質なはずの怪奇に宿る、名状しがたいものをそぎ落としている気がするので、しかもそれが、異常気質ではあるものの中学生のコバヤシ少年という視点や目線でもって歪曲している気がするためにすごくいやな気分になりました(10代の目線でないといけない理由が分からない等理解できない点を多分に感じるため、また、これが怪奇ジャンルに当て嵌めて考えて良いものかは分かりませんが)。
どちらかというと制作側への嫌悪を抱きました。
異端なテーマを軽く扱える事を没後50年の文字が証明してしまったように思うので、著作権の問題としても、没後の文字はリスペクトすら感じられないものになっていると個人的には思います。
たとえば、乱歩のオマージュであるというところに落ち着いてほしいですが、虎の威を借る狐であって、ミステリーとしては不十分であったと感じます。
夏の虫、氷を笑うを狙っての事でしょうか。

主人公の小林が限定された価値観の持ち主なので、葛藤して成長していく主人公に親しみを覚える自分にとっては、とても見難いものになってしまっていました。
ミステリーである部分の、分かったときのカタルシス=開放を与えられるものが奪われてしまったような感覚を覚えました。
変に思うのは、どうしてか猟奇的部分が強く反映されていると思うところです(乱歩を題材にしているので仕方ない点なのかもしれませんが)。
厨二病気質と感じる主人公の性格は、どこか独立させた性質を持たせないと好奇心の純粋さである部分を埋没させてしまう結果になってしまうことについて、狂気的な印象を際立たせるばかりで勿体無い作りとなっていると感じます。
乱歩奇譚の「奇」は好奇心の「奇」でもあると思うので。

この作品には、厨二病的だと感じる登場人物たちが乱歩奇譚の「奇」の邪魔をしているようだと感じるので、キャラクターと事件等を切り離して考えたほうが良いと思う場面がいくつかあります。
(一度見たことは忘れないというハシバ財団の御曹司で生徒会長のハシバの設定や黒蜥蜴など、挙げればキリがないかもしれない)
また、この作品の軸には「二十面相」の存在があると言えるかと思います。

たとえば、自身の才能を提供することで特別待遇されているというアケチの設定についても。
彼が会って間もないカガミ警視(当時警視ではないが)のことを「お前が一番信用できそうだ。だが、お前のような人間こそ落ちやすい。飲まれるな」と言ったカガミが犯罪を犯すと決め付けているような場面についても、その台詞を言わせたいがための、厨二病的側面でキャラクターを確立させようとする試案が伺えるのも、いわゆるフラグになっている点でもそう言えるかと。
総じて、決め付け、つまり偏見で出来てはいないかという思いに至ったので、純粋に作品として楽しむにしても難しいものになりました。

加えて、江戸川乱歩の猟奇的と言える死体についての取り扱い、つまり残虐性をもたらしたものは精神破綻者(統合失調などに当たるもの)に該当するものではないかという決め付けられたカテゴライズがそこにあるように感じました。これに関して言うと、つまり精神病患者=犯罪異常者というレッテルを貼ってはいないかという点も併せて疑問に感じるところです。

とどのつまり、江戸川乱歩作品にあるいわゆるエログロと呼ばれる猟奇さ、残虐性について、まず理由付けがなされているという点が乱歩作品群を取り扱う上で安直にあるというところではないかというところ(原作は恐らくはですが、その過程に魅力があると思っているので。「芋虫」という作品は特にそのように感じるので、第5話「芋虫」では原作との関連付けがどこにあったのか分からないほどにサブタイトルにするモチーフにするとしても乱歩作品と関連するにしても不十分だったと感じる)と、現代の理解し難い部分と50年以上前の怪奇さを安易に結びつけてしまったことが少し残念に思うところです。

現代に当て嵌めて考える必要はないのに現代と絡めてそれらテーマを考えると、乱歩の取り扱ったものがとたんチープに感じられてしまうので、結果精神不安から起こるものだと結び付けて考えるしか出来ない奇抜なテーマ、現代設定などは、再三同じことを言っている気がしますが、浅はかであると感じます。 

ただ、カガミの抱いた正義性的なものについて、精神疾患が現代病と言われる現代の問題が現代に混在する一方で、警察という組織が統率されるべく一貫した信念を貫くために、その体制を貫くためには(社会的にも)受け入れがたい精神病患者を最も排他的に扱っている存在ではないかという疑問を浮かばせる発見はありました(本編にそのように警察組織を深く掘り下げた描写はありません、一応)。


結果的に悪を断罪する正義と、異端者を排他する小さき価値観の元で作られていると感じられるものは異端を描く乱歩作品を否定しているのではないかとすら疑うところでもあります。

でも、伝えたいことは少し分かるような気がしました。
「うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと」という言葉がそこに根付いていると感じます。

8話後半に知能が高すぎて友人がいなかったという若き日のアケチと彼が対等な存在として認めたナミコシ(のちに初代怪人二十面相となってしまう男)のエピソードがあるのですが、数式をきっかけに出会い、数式の生成に夢中になり、やがて二人の計算式によって一つの概念(二十面相)が生み出されることになって、ナミコシはその計算式の実行(計算の証明として?)のために「二十面相」になってしまったこと(アケチの口から語られている点もあって、若干理由は違うのかもしれない)や、アケチとナミコシの道が違ってしまったこと、その後ナミコシは焼身自殺をしたが続々と二十面相を語るものが現れたこと、その敵討ちとも言える理由でアケチは二十面相を追っていると語られている場面で、もしもその計算式の証明が他の文化的なものによる昇華で証明しようとしたなら、ナミコシは怪人にはならなかったのではないかと思わせる点で、いくつもの文化が混在する現代であったなら、その奇抜な万人には理解しがたい概念という怪人も殺人という方法で証明することはなかったと、第一話冒頭で挙げられたその言葉は、まさしくそれを示していることだと解釈しました。
たとえば漫画にするような方法で、動画をUPするような方法で、「よるの夢」であった計算式が「まこと」になったならば、アケチの友人として融和の関係にナミコシがいられたのではないかということを少年少女たち(本編中で言えば、コバヤシやハシバ)にメッセージとして伝えたいんだと勝手に思いました。
ナミコシが目指した未来の確定=希望が悪に変わってしまうということも併せて考えられる作りになっているとも感じます。


だからこそ「二十面相」の存在が軸にあると思いました。
それは、この作品が江戸川乱歩作品を題材にしているということも併せて、悪の断罪のために正義としての「二十面相」が模倣で生み出されている点が何より厄介なところであると思います。
そもそもが乱歩作品を模しているという点で、作中悪を断罪し続ける「二十面相」という存在はナミコシが生み出した「二十面相」という名を借りて自己批評を続けているということになるので、その点において、悪と正義の描写には何かしら答えがあるのではないかと考えます。
鏡の中のカガミの先にはいったい何が映し出されるのかということが一番興味深いところです(だからカガミ?笑)。{/netabare}


犯人の持つ内面の特徴で言われた承認欲求や精神疾患で起こされる犯罪の有無についてなど、現在の状況と絡めている点においては、考えるべき点を多く残していると思えた今作ですが、子供たちにも考えてもらいたいと思うところが本意であるなら現代である設定は少し理解できるものです。
怪奇的なものについては、乱歩没後50年作品を掲げるならば無にして欲しくないのと、できれば、時代背景とかも合わせて考えてほしいところなので、設定にだけ(主にキャラクターに関して)触れただけなのならば考えていないのも同じ、というのが本意するところですが、怪人二十面相を例にすると、数学的側面から模倣的な存在として様々にアプローチしたのは良かったと思うのですが、怪奇さを際立たせるものとしては、自身の心を圧倒的に占める怖さであったほうが良かったという思いが残りました。
結果的には現代との摩擦、すり合わせに無理が生じたのではないかという思いです。

事件が解決した後の後半には、軽妙さ(事件の重々しさを逸するため?)を放っていたので主題歌には「青春サツバツ論」が良く似合うと思ったものですが、この作品の軽薄さを開放させていいポイントみたいなものがどこかにあったのなら多少印象は変わったのかもしれません。

投稿 : 2015/09/15
閲覧 : 251
サンキュー:

8

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