ostrich さんの感想・評価
3.3
物語 : 2.5
作画 : 4.0
声優 : 4.0
音楽 : 3.5
キャラ : 2.5
状態:観終わった
私が見たかった「残響のテロル」
■ネタに比べて穏当な着地
冒頭、{netabare}主人公たちが青森の核施設から何かを盗み出す{/netabare}シーンで「あ、これは、映画『太陽を盗んだ男』だな」と思ってたら、2話くらいで主人公の一人が「{netabare}(自分たちのことを)沢田研二(「太陽を盗んだ男」の主演)と言ってほしいね{/netabare}」と発言。
さらに、話数が進み、どうやら(孤児である)男二人と女一人がメインキャラクターだとわかったところで村上龍の小説「コインロッカーベイビーズ」を連想した。結果、私は3話目あたりで
「渡辺信一郎が『太陽を盗んだ男』と『コインロッカーベイビーズ』をやるのか!」
と勝手な期待をすることになった。
どちらも、いわゆる「危ない作品」だし、「コインロッカーベイビーズ」については長年映像化の話が浮かんでは消えている。作品に敬意を持った作り手が勝手に「おれの『コインロッカーベイビーズ』」を作ってくれるなら、それは私としては大変、歓迎すべきことだ。
…が、結局、そのどちらでもない、{netabare}「若者の承認問題」{/netabare}という、ある種、穏当なところに着地した作品だった。
※「コインロッカーベイビーズ」は自分探しの物語でもあるので{netabare}「承認問題」{/netabare}とも結びついているといえなくもないが、穏当な作品ではまったくない
「コインロッカーベイビーズ」は私の勝手な期待に過ぎないとしても、「太陽を盗んだ男」は明らかに元ネタだろうに、この穏当さ。
完全に私見だけれど、「サムライチャンプルー」でドラッグ描写をやってのけた渡辺監督が、本作をこのような着地にしたかったとはあまり思えない。
扱うネタがネタだけに、各方面から横やりが入って変更を余儀なくされたのか、などと邪推してしまった。
まあ、このネタをテレビアニメで扱ったこと自体がすごいと言えばすごいけれど、扱うなら、とことんやってほしかった、というのが正直なところだ。
■政治的なネタについて
どこかのレビューで、本作の政治的なネタに関して「陰謀論」と書かれていたのだが、それには多少の異を唱えたい。
{netabare}完全なフィクション部分は「アテネ計画(人工的にサヴァン症候群を作り出す)」だけで、それ以外の部分──日本の完全な独立のための核武装だとか、憲法改正だとか──は自民党(の一部)の悲願であり、まさに現政権が推し進めようとしていることだ。また、モデルであろう六ヶ所村の核施設について、アメリカは実際にずっと関心を持っている。もちろん、「日本が核兵器を作っているのではないか。いつか、作るのではないか」という疑念があってのことだ。
だから、本作の大ネタのひとつである、青森に密かに開発された核兵器が存在する、というアイデアは突飛な発想ではまったくない。現実のアメリカの疑念が本当だった、というオチなのだ。そういえば、あにこれで本作について「なぜアメリカが介入するのかわからない」というレビューを見かけたが、現実に上記のような背景があることを考えれば合点がいくのではないだろうか。{/netabare}
以上のように、本作は現実の問題をそれなりに踏襲してはいる。
が、{netabare}ほぼ唯一の完全フィクション部分である「アテネ計画」が、本作にとって欠陥のようなものになっている、と思う。
まず「アテネ計画」は計画の大目的であるはずの「日本の完全な独立のための核武装」とうまく結びついていない。
1990年代の時点で、ロケットも原発も所有していた日本には、「核兵器を開発するための人工的に作られた天才」なんて不要だったはずだ。これについては、実際の時代背景を持ち出すまでもなく、先述した「青森に核兵器があったこと」で作品内でも証明されてしまっている(作品世界においても、現行の科学者たちで実行可能だった、ということになる)。
そもそも、主人公たちの天才性の説明と、彼らの行為の動機づけにこんな大がかりな設定が必要だったのか。たとえば、どこぞの孤児院で偶然サヴァン二人が出会っても成立したような気がする。地下鉄サリン事件の犯人であるオウム真理教信者が、どこにでもいる「承認問題」を抱えた比較的知能指数の高い若者たちだったことを思うと、なおさらだ。{/netabare}
ただ、私は渡辺監督の諸作品のファンでもあるので、この設定も実は、説得力のある、かつ、批評性に富んだものだったのだが、それゆえに何らかの政治的配慮で横やりが入った、という先述した邪推、というか、妄想を捨てきれない。
…ああ、わかっているさ。それこそが陰謀論だってことは。
■私が見たかった「残響のテロル」
…という話になってしまうが、少なくとも現代日本を舞台にテロを描くならば、ちょっと頭のよい屈折した、でも、普通の若者のいたずらが暴走して云々のような(「太陽を盗んだ男」のような)話でないとリアリティが保てない気がする。
おそらく、本作の作り手たちは、青春ものとポリティカル(政治的)サスペンスが融合した作品を作りたかったのだと思うけれど、後者を成立させるのは、政治的配慮云々を差し引いても困難で、その結果が本作なのかな、と思う。
ただ、青春ものとしては、そこそこ成功していた、とも思う。
特に、{netabare}不幸な生い立ちの主人公二人と不幸な境遇のリサがテロ行為を実行しつつも、アジトは一種の解放区のようになって──{/netabare}という序盤の展開。私はあの展開がとても好きだ。
テロ行為にまでは至らなくとも、不幸な境遇の者同士が出会い、心を通わせ、集団を作り、不穏な会話を楽しむ程度のことは、そこれそ日本中の学校やサイバースペースで起きていることだろう。それは、おそらく集団ヒーリングのようなものとして機能するだろうから、一概に否定はできない。何より、そこで生まれる共感には切なさと美しさが宿ることもある、と私は思う。
奇妙な、でも、実態だけなら実はどこにでもある青春ものとして、あの3人を掘り下げてほしかった。