ostrich さんの感想・評価
4.0
物語 : 4.0
作画 : 5.0
声優 : 4.0
音楽 : 3.0
キャラ : 4.0
状態:観終わった
日本アニメのフロンティア
■「2001年宇宙の旅」
まず作品冒頭が「2001年宇宙の旅」オマージュっぽかったので、「ほう、そういう作品か?」と思いながら鑑賞した。{netabare}結果、宇宙を旅したりはしないのでアタリとは言えないかもしれないけど、進化のフロンティアについての物語だし、重要なサブキャラクターとしてAIが登場するし、宇宙ロケットの発射台が核兵器の発射施設を流用したものだったりはした。{/netabare}作者がどの程度意識したのかわからないが、「2001年」側から辿っていくと、分家のひ孫くらいの関係にはなるんじゃないだろうか。{netabare}人間が宇宙船に乗らなかった{/netabare}「2001年」の前日譚とも解釈できるかもしれない。
■「王立宇宙軍」
{netabare}クライマックスは、「王立宇宙軍」と同じく宇宙ロケット発射をめぐる攻防だった。{/netabare}
こちらさすがに作者が意識した作品だろうと思う。
話が少し飛ぶけれど、「王立」といえば、以前、ホリエモンが続編に出資をするという噂があった。噂の真偽は定かではないが、現在、彼が宇宙ロケットを開発中であることから推察すると、それなりに確度のある話だったのかもしれない。
ちなみに、ホリエモンと虚淵玄は同学年で、「王立」をめぐるこれらのことはおそらく偶然ではない。彼らの世代は宇宙がフロンティアとしての魅力を失っていなかった時代をぎりぎり知っている。そういうぎりぎりの時代に作られた{netabare}ロケット打ち上げ{/netabare}アニメが「王立」なのだ。
■提示されるフロンティア
この作品は、現在われわれが進化のフロンティアと考えている「バイオ技術」「IT技術」が閉塞状態を迎えた時代を描いている。{netabare}「バイオ技術」はナノハザードを引き起こし、「IT技術」はマネーをメモリーに変換しただけで、たとえば、格差社会を克服したりはしなかった。{/netabare}
作品前半のアンジェラふくめディーヴァの人々は、自分たちが居住する場所を「楽園」と呼び、自らを「進化した人類」と認識しているわけだが、{netabare}脳の情報化によりほぼ永遠の命を得ながら、出世争いを続けなければならないなんて、そんなの煉獄もいいところだ。{/netabare}悪い冗談としか思えない。
で、そんな場所から主人公たちがどこへ向かうのかといえば、{netabare}ひとつは先述した通り、フロンティアセッターが目指す「宇宙」{/netabare}だ。で、これまた先述した通り、私は本作を「2001年」オマージュだと思っていたので、てっきり、{netabare}アンジェラもディンゴも宇宙に旅立つもの{/netabare}と思っていたのだが、なるほど、{netabare}「地上」{/netabare}という手もあったか。{netabare}文明が破局した「地上」は確かに未知の領域でありフロンティアとして成立する。{/netabare}
{netabare}ロケットが打ちあがるシーン{/netabare}も、{netabare}アンジェラが決断を下すとき、一瞬、緑に覆われる地表がフラッシュする場面{/netabare}もなかなか感動的だった。
{netabare}
宇宙に旅立ったフロンティアセッターは「2001年」のように、いつか、宇宙の神に出会うのかもしれない。一方、アンジェラとディンゴは、アンジェラの脳裏に浮かんだ風景を探す旅を続けるのだろう。同じロックミュージックをBGMにして。{/netabare}
-------------------------------
その他
-------------------------------
▼ホリエモンについての追記
すっかり忘れていたが、ホリエモンはネット界の寵児であった時代を経て、宇宙開発に手を染めている。やっぱり、本作とやけにシンクロする存在だ。
▼「仁義」について
本作でなぜやたらと「仁義」を口にするのか考えた。たぶん、「仁義」は「自由」な世界の最低限のルールなのだな。無法な場所で最低限守るべきルールというか。そういえば、ヤクザものもマフィアものも西部劇も仁義をめぐる物語だ。
▼フロンティアセッターに関する所見
ディーヴァの管理者が語るフロンティアセッターに対する所見{netabare}(AIを脅威とみなす){/netabare}は、「2001年」にも通底する。「2001年」には人とAIどちらが次世代の人類(スターチャイルド)となるか、という闘争があるのだけれど、その文脈で言えば、ディーヴァが恐れているのは、{netabare}フロンティアセッターがスターチャイルドとして、自分たちより進化した存在として帰還すること、{/netabare}と考えることができる。この辺の展開は、続編があるなら盛り込むような気がする。
▼ロックについて
本作のロックの扱いは、少々ステレオタイプで気恥ずかしい。が、私は嫌いじゃない。
それはさておき、本作のレビューに「(ロックの扱いが)アメリカ映画にありがち」という記述があって、ちょっとクラっときた。いや、ロックが自由と反逆のBGMなのは(だったのは、かな)、日本でも自明のことだと思っていたので…
もう、そういう時代じゃないし、私だってそれほどロックに詳しいわけではないのだけれど、文化が断絶しているのは残念な限りだ。
あと、個人的な趣味で言わせてもらうと、本作の主題歌は、初出のシーンだけは英語詞にするとか、既存の洋楽にするとかにしてほしかった。楽曲の良し悪しとは関係なく、ああいう文脈でロックを使うなら、ってこと。
同じディストピアSFアニメでいえば、ピクサーの「ウォーリー」はすごくうまく既存曲(ロックではないが)を使っていた。ああいう感じの演出で既存ロックがうまくハマれば、それだけで涙するオジサンはたくさんいるはずだ。まあ、そういうオジサンが本作のような作品を観るのか、という問題はあるが。
▼3Dについて
セルルックの3Dアニメはゲームでは当たり前なので、当然、アニメ映画もいくつか出ているのだろうと思ったのだが、そうでもないようだ。アクションシーンはともかく、日常の芝居が難しかったということなのだろうか。
私はFFやベクシルやアップルシードなどのリアルルック3Dアニメ映画にはあまり未来がないと思っている。リアルになればなるほど「実写でよくね?」と思ってしまうのだ。
あ、リアルルックでもゲームは別だ。ゲームはプレイヤーの主観で進行するので、ゲームパートとストーリーパートの親和性を高めるという意味がある。でも、アニメを含む映画は客観のメディアで、少なくとも鑑賞の初期段階では、観客は作品世界に没入していない。そして、初期段階で抱いた違和感は持続してしまう可能性が高い。
ピクサーやディズニーは、そもそも2D時代の作品からして、デフォルメとリアルな動きが売りで、3Dとの親和性が比較的高く、日本のアニメよりも早く3D化が進んだけれど、日本のリミテッドアニメは3Dとはかなり喰い合わせが悪い──いや、悪かった、というべきかもしれないな、本作が出てきた以上は。
本作は少なくとも表現手法としては、日本アニメのフロンティアに位置していると思う。すべてのアニメが3Dに置き換わるとは思えないし、仮にそうなったら、それはそれで功罪あると思うが、今は目の前に広がるフロンティアを眺めていたい気分だ。