退会済のユーザー さんの感想・評価
4.2
物語 : 3.0
作画 : 5.0
声優 : 5.0
音楽 : 3.0
キャラ : 5.0
状態:観終わった
現代の神話
PVの通り、単なるお伽噺だけでなく、現代の神話という形でまとまったのではないかと思います。やはりラストはこう来ないとだめでしょ!一応、期待通りの展開にはなっていたと思います。ただ、{netabare} 主要メンバーが全員死んでしまうという残酷な展開を考慮しても、 {/netabare}ずいぶんイクニは丸くなったな・・と。
2015/6/23解説を追記
<背景>
現在の日本社会、「愛」であふれかえっています。アニメや漫画、文学、映画で「愛」は欠かせない要素となっています。そうした「表現」の世界を離れて「現実」の世界に目を向けても、たとえば夜の大都会の街中を歩けば必ずカップルが歩いています。それに対して「リア充死ね」と言いたくなるヲタクは沢山いるでしょう。しかし、外見上「うまくいっている」ように見えても、彼女ら・彼らの中に見えない歪が蓄積して、ある日「サヨナラ」と別れてしまうこともあるのです。
<恋愛が長続きしないのはなぜ?そもそも長続きはいいこと?>
恋愛が成就しない人がいる一方で、カップルが成立しているのにすぐ別れてしまう人、見かけませんか?長続きしないのは、なぜでしょう?ただし、長続きしていればいいとは限りません。いわゆるデートDVといって、暴力によってパートナーを支配し別れたくても別れることができない状況も出来ています。ああ、恐ろしい!
<本当の愛とは?あなたのスキはホンモノ?>
恋愛にまつわる赤裸々な現実を考慮すると、「本当に愛し合っている人はどのくらいいるのだろう?」「そもそも愛って何?」という素朴な疑問がわいてきます。輪るピンドグラムでは、愛に救いを求めました。でもイクニ作品のファンがその意味を本当に理解しているかどうかという問いかけを、ユリ熊嵐はしているように思えます。本物の愛とは、自分を「万に引き裂くこと」で世界の「箱」から出て、他者と自分の間に存在する「理解しあえない断絶の壁」を超えて相手の全てを悪い部分も含め受け入れ「承認」する、ということです。しかも、これが双方向で成立しなければいけません。
<「食べる」の意味>
作品中では頻繁に「食べる」という言葉が出てきます。これについて議論が飛び交っていますが、私は「相手を自分の想い通りにする」ことだと解釈しています。
<なぜ紅羽はクマを撃てないのか?>
これは後半にヒントがあります。紅羽はクマと友達になろうとしたから、というのがシンプルな答えです。で、密子を撃つことができたのは密子の「相手を思い通りにしたい」という考えを否定したかったからでしょう。
<箱とはなにか?>
「箱の中にいる」とは、あくまでも自分の理想的世界の中に自分が留まってしまい、現実の変化を受け入れることができない状態を言います。ではユリーカはどうすればよかったのでしょうか?レイアと一緒に紅羽を愛してあげればよかったのです。それがレイアに対する本当の愛情ではないでしょうか??
<罪熊とは?>
大事なのは、罪の内容ではなく、それを「赦せる」かどうかだと思います。
<クマリアが爆発したとは?>
蝶子が「神など存在しない」というセリフを言ったとき、真っ先にニーチェの「神は死んだ」という言葉を思い出しました。このニーチェの言葉は既存の伝統的価値観の喪失を意味するものですが、イクニも現代の日本社会に感じていることではないでしょうか。つまり、みんな偽物の愛をしすぎているために本物の愛は喪失してしまった。だから神様はお怒りになったのだ、と。そしてユリ裁判で偽物の愛を裁いていったのです。作品中ではすべて判決は「ユリ承認」でしたが、裏では当然「不承認」もあったでしょう。
<最後に私的感想>
本物の愛を肯定するのは危険なことです。なぜなら本物の愛は社会のシステムに対立することがあるからです。これは作品中繰り返し触れられていることです。この作品では社会のシステム自体を「悪者」「暴力」に仕立て上げています。しかし私は「必要悪」としか言い様がないと思います。そのような「暴力」によって「ハイジョ」される人がいるおかげで我々は生活できているし、生まれてくることが出来て、安心して恋愛出来るわけですね。もっともここでの「我々」とは「友達」ということになりますが・・・
一番の問題は、「本物の愛」を意識してしまうと、どうしてもパートナーを「裁いて」しまうリスクが出てくることです。想像してみましょう。ある人がこう言いました。「あの人はまだ自分のことしか考えていない。でも私はあの人のことを無条件で愛している。」・・・どう考えても傲慢です。本当に愛しているのか疑いたくなります。
愛って難しいですね~