「アルドノア・ゼロ(第2期)(TVアニメ動画)」

総合得点
82.1
感想・評価
1693
棚に入れた
9755
ランキング
373
★★★★☆ 3.9 (1693)
物語
3.7
作画
4.1
声優
3.8
音楽
4.0
キャラ
3.8

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ネタバレ

ossan_2014 さんの感想・評価

★★★★★ 4.6
物語 : 5.0 作画 : 4.5 声優 : 4.5 音楽 : 4.5 キャラ : 4.5 状態:観終わった

呪いの言葉2

【2015/05/01 誤字等修正】


最後まで面白く視聴した。

文章が少しはしゃいでいるのは、感動が冷めやらぬせいだと笑覧してほしい。


2期に登場するイナホは、生き延びていた、というよりも、一度死んで、冥界から蘇えったような印象をもたらす。

新たな「左眼」もまた、ハイテクノロジーの精華というより「肉体の欠損や致命的な弱点と引き換えに異能を獲得する」という民話的、あるいは神話的な記憶を刺激するもので、先端医療によって延命したという印象よりも、聖痕と共に死から蘇える神話的英雄のイメージを強く喚起する。

非常に巧みに感じるのは、この「左眼」の機能がイナホの能力を補うような性質のものと設定され、イナホの「異能」に、絶妙に説得力を与えているところだ。

もともとイナホの「力」は(モリトから「頓知」といわれている様に)、「観察時間さえあればいずれ誰かが必ず思いつく」敵の弱点とその対応策を、短時間で見抜くデータ処理の速さにすぎない。物語の最初から、余人の及ばない超絶的な発想や、神秘的な天啓の獲得とは描写されていないものだ。
「時間的に蓄積される」観察データの代わりに、「量的に豊富な」それへ置き換える「左眼」のもたらす異能は、イナホの戦闘力をリアリティから浮き上がらないギリギリのところでうまく繋ぎ止め、スティグマを刻まれた神話的な存在を作品世界にしっかりと着地させている。

さて、製作者は蘇えったイナホの前に、どのような戦争を用意したのだろうか。




{netabare}企業の活動を、一個の人格の振る舞いとしてみなす「法人」という制度がある。
法律上、企業という組織を、いわば「擬人化」して扱うわけだが、集団や組織を「擬人化」して認識することはよくあることだ。

戦争もまた、「敵」を、「擬人化」された、統一された1個の主体として捉えがちだ。味方も同様で、言ってみれば、戦争は、「敵」「味方」という「擬人」=模擬的な主体同士の闘争として把握されやすい。

1期で「死」の直前にイナホが語った「交渉の一部としての戦争」観は、「擬人」としての敵を前提としている。
統一された一個の主体としての「擬人」が、「意思決定」を下し手足を「制御」して行動を起こしているという第一次世界大戦以前の戦争観であれば、「交渉」は可能だろうし、何らかの平衡点へ向けて「擬人」同士の行動は収束していくはずだ。

が、現代では、「敵」を、頭脳中枢や行動組織の秩序だった体系として捉えることが困難であることは、21世紀のアメリカ史を見ただけでも明らかだろう。にも拘わらず、依然として「擬人」として把握しようとしてしまう齟齬が、相互の絶滅という一種の倒錯を呼び込む一因となっている。
戦争観の失効へのそのような無自覚が、イナホに「死」をもたらした。
昏睡から覚め、同じ戦争観から「責任」を果たそうとするアセイラム姫の決意はまたしても無効で、スレインに突き付けた銃口は、あっさりと退けられてしまう。同様に、アセイラム姫の暗殺を企てる連合軍の作戦も、無効な戦争観から生じたものに過ぎない。

2期における描写からは、蘇えったイナホは、「死」をもたらす原因となった、「擬人」間の闘争の終結へ介入を企てた自分を忘却し、戦争の終結にコミットすることを放棄したように見える。
ひた向きにアセイラム姫を追う彼のまなざしの前には、すでに「擬人」間の闘争という「意味」は放棄され、単に大規模な戦闘状態というカオス的な「状況」としか見えていないようだ。

敵の「擬人化」を放棄したイナホにとって、連合軍という「味方」もまた、自分が器官として組み込まれ、運命を分かち合う「擬人」ではなく、単なる置かれた「状況」の一部に過ぎない。
彼が見据え、追いかけるのは、アセイラム姫、いや、彼にとってかけがえのない少女のみ。戦闘への参加は彼女へと到達する手段に過ぎず、「状況」それ自体への関心は些かも持たないように見える。

戦争を究極のカオス「状況」とみなすイナホにとって、「敵」は「死」の前とはその意味が変容している。

マズゥールカの解放を巡るエピソードは、その現れだろう。

「擬人」の闘争という一種の「意味」が崩壊し、状況の中の「個人」たちの振る舞いとして戦争を捉えるしかないイナホにとって、所属する集団は「敵」の指標として問題にならない。
「状況」の中での個々人の行動だけが、「自分の」敵か味方かを決定づける地点に連れ出されている。

その意味で、「彼の」少女へ好意と忠誠を向けるマズゥールカは、自らの所属する組織へ敵対しているにもかかわらず、「彼の」敵ではない。むしろアセイラム姫の解放と確保をもくろむイナホにとっては、マズゥールカ「個人」は結果的に「味方」として行動するだろうと予測され、軍法を無視して釈放を独断する。

その対極的な意味で、「敵」と名指されるのはスレインだ。


LET JUSTICE BE DONE,THOUGH THE HEAVENS FALL.

2期でもタイトルロゴに挿入されて繰り返されるフレーズは、「敵」という「擬人」に向けるられものではなく、「彼自身の」敵、スレインという「個人」へと向けたものへと変奏されてゆく。


LET JUSTICE BE DONE,THOUGH THE HEAVENS FALL.

そしてまた、このフレーズは、スレインからイナホへ向けられるものでもある。

物語の最初から一貫して戦争を「状況」として捉えていた/捉えざるを得なかったスレインもまた、「擬人」としての敵、味方という認識の圏外にいる。
スレインの視界の中央にあるのは常にアセイラム姫のみであり、戦争もまた、取り巻く「状況」の一局面すぎない。「敵」「味方」は、彼女を中心として配置される「個人」の識別要素であり、所属組織は意味を持たない。

カオス「状況」の中、彼自身の「敵」を排除する行動の連鎖として、彼の「戦争」は遂行され、終始ブレはない。
かけがえのない特別な少女と彼の間に立つ者=「敵」をすべて排除するまで「彼の」戦争は終息しないだろうし、同時に戦争「状況」のカオス化を一層加速させてゆく。

少女との間に立ちはだかる「敵」として、論理的に最後まで排除し得ないのは、少女自身の心が求め、引き寄せるイナホだ。

かけがえのない少女を巡り、彼女を(象徴的な意味で)この腕に抱きたいという欲望に駆動される二人の若者の立場は、必然的に互いの絶対的な否定に帰結し、本質的に和解や交渉が不能だ。対手の消滅以外に、欲望を成就する道は存在し得ない。

美姫の獲得を賭けて求婚者が決闘する、前近代の古典的ロマンスのように。


LET JUSTICE BE DONE,THOUGH THE HEAVENS FALL.
〈倶に天を戴かず〉

個人に決して譲れないものがあるのならば、不倶戴天の「敵」は時には出現するだろう。
「擬人」間の闘争に絶滅戦を強制する倒錯を象徴するものとして用意されたフレーズは、個人の宿命的な対決から不可避に召喚されるものとして、2期ではその位相を変えている。

敵「擬人」の完全消滅を追及するのが一種の倒錯であるのなら、完全消滅せよと「意思決定」を下す味方という「擬人」と自己が一体化したものと了解して、「自分自身の」意思決定であるかのように共有するのもまた倒錯的だろう。
だが、恋敵の消滅をかけた争いは、悲劇であるかもしれないが、少なくとも倒錯ではない。

姫を抱く未来の不可能をみたとき、スレインの「戦争」も終決し、「擬人」を離れた各「個人」のそれぞれの「敵」への攻撃としてカオス「状況」は拡散する。

最後に残るのは、スレイン自身の不倶戴天の敵との決着。

だが、激突する決闘者の死を回避させたのは、対決の焦点に立つ少女の願いだ。



LET JUSTICE BE DONE,THOUGH THE HEAVENS FALL.
〈いかなる犠牲を払おうとも〉

呪いのフレーズは、ここで三たび転調する。

いかなる犠牲を払おうとも―――「不倶戴天の『敵』を赦す」という耐え難い犠牲を払おうとも。

アセイラム姫による、「自分自身」の「味方」を獲得する、という新たな視点から成されたバース帝国という「擬人」の解体と再編の決断は、戦争「状況」の小康と部分的な和平を呼び込む。
彼女自身の恋の成就という可能性を放棄することによって成される決断は、求婚者同士に恩讐を捨て去ってほしいという祈りと重なるものだ。


2期においてフレーズの転調を軸に、美姫を巡る決闘者たちの古典的ロマンスへと視点を移行させ、「擬人」間の闘争という戦争観の失効を二重写しに見せることに、製作者は成功しているようだ。

呪いの言葉から「擬人」の絶滅戦のある種のイデオロギーとしての作用を変質させ、個人の戦いを象徴するものへと変換させることで、製作者は、「擬人」の器官としての自己を解放し「自分自身」にとっての「敵」「味方」を見定める、戦争への新たな態度表明を提出し得たのではないだろうか。

お姫様を巡る決闘という古典的な上にも古典的なロマンスの担い手として、「死」から蘇えった神話的英雄を要請した作劇上の卓抜なバランス感覚が、物語を見事にまとめ上げている。


アセイラム姫の願いを果たすのを最後に、姫君への求婚者「役」から降り、「左眼」を捨て「神話的英雄」の役割をも捨てたイナホ。

「もう要らないから」というつぶやきが、失われた恋を振り返るような切なさを感じさせる。{/netabare}

投稿 : 2015/05/01
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サンキュー:

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