みかみ(みみかき) さんの感想・評価
3.6
物語 : 4.5
作画 : 3.5
声優 : 3.0
音楽 : 3.5
キャラ : 3.5
状態:途中で断念した
ジョゼを単に「いい人」だと、思ってしまった人は、猛省してください。
※原作終了につき追記:
下記の評価は、原作が最終巻までおえた現時点においては、残念ながら、たぶんに過大評価であったと言わざるを得ません。
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【短い感想】
えげつない設定は、トリエラというキャラクターによって、どうにか水準の高い問題作、といえる何かとして鑑賞できるものになっている……とわたしは思った。が、本作にはさまざまな議論があるわけで、その入り組んだ批判も把握した上で、「いい」と思えるとすれば、はじめてこの作品は「いい作品」だと思う。
【長い感想】
いま、日本の全コンテンツのなかでも、もっとも評価の難しい作品の一つ。
本作を非難するのもまっとうなことだし、両手をあげて褒める人がいるのも、理解できる。ただし、雑に褒めたり、雑にけなしても、なんにもならない作品だという気がする。
この作品は、作品のシナリオ自体は、むずかしくない。
しかし、この作品について、どう反応するか、ということがとても、とても難しい。
結論から言うと、この作品は、褒めても貶しても、異論がないなんてありえない。そもそも、あらゆる作品はそうなんだけれども、この作品はとくにそういう側面が強い。
そういう構造になってます。
諦めましょう。
何かを。
その上で、何かを言うしかないんですよ、これ。
なぜ、この作品について語ることが難しいか、といえば、それは言うまでもなく、明らかに「無駄に、少女の悲劇。無駄な少女愛好」によって成立している設定、シナリオである、ということがあるから。それは、擁護のしようがない。
一方で、このあからさまに趣味の悪い設定を前面に押し出しながらも、この物語が提示する切迫した心情描写は、一定のクオリティを保ってる。
■ジョゼを単に「いい人」だと、思ってしまった人は、猛省してください。
まず、この作品の表現の強さを支えているのは、
「無垢、かわいいヘンリエッタ」が、「残虐なおそろしいヘンリエッタ」でもある、ということだ。
無垢なものが、同時に残酷でもある。そのことの、やるせなさというのは驚異的であり、昔から繰り返されてきた、物語の型の一つでもある。※1
そして、この作品の演出している無垢なヘンリエッタの「ピュアさ」の表現は、言うまでもなく、いわゆる「萌えシナリオ」をベースにしたものになっている。2000年前後の、葉鍵作品と呼ばれる『Air』『クラナド』などに代表的な、萌えシナリオに拠っている。
ここには歪さがある。
ヘンリエッタは、残虐でおそろしい。
だけれども、そんなヘンリエッタは、かわいそうである。
そして、ヘンリエッタは、かわいい。
残虐でありながら、「かわいそうで、かわいい」。そこがこの作品はすごくめんどくさい。すなわち、「かわいそうで、かわいい」ということに、どのように向き合うのか、に読者の資質が試される。
そっちの「こんなヘンリエッタが、かわいそうで、かわいい」と思っている「自分」を、何のタメライもなく許してしまう人は、わたしはやっぱりダメだと思っている。それは、やっぱりドン引かれて仕方ないし、「『ガンスリンガーガール』きもい」って言われていることの理由を理解してしていないんじゃないか、と思う。
別に、「こんなヘンリエッタが、かわいそうで、かわいい」と思ってもいいけど、そのことをね、ベタに許しちゃだめでしょ。それは、<無垢をめでる自分>という、安易なナルシズムともすぐに結びついちゃうだろうけれど、それは、ちょっと、いろいろと考えたほうがいい。
せめて一回、否認でもしてほしい。「おれは萌えてない」って。
で、否認してから、しぶしぶ認めてほしい。「やっぱ、かわいいと思ってるかもしれない」って。
そういうプロセスを通れるかどうか、というのが「オタク」をめぐる社会的な承認の是非にもかかっている。
ヘンリエッタの担当官である、ジョゼと視点を重ねること、にどういう意味があるのか。
そこの距離感の表現が、とれているかどうか、でこの作品のよしあしは決まる。
ヘンリエッタを単に愛でる「いい人」ジョゼ、というのはいない。
ジョゼは「いい人」だけれども、
ジョゼは、いい人、であることによって、いちばん最悪だし、醜悪になりうる存在でもあるわけで。で、それを、「一番最悪だ」って、すぐに頭ごなしに否定することも、より更にダメなことなんです。それをわかった上でジョゼ、という視点に入り込む必要がある。
「ジョゼをめぐるジレンマ」
それこそが焦点化されなければいけないはずで
「ジョゼのやさしさ」
に安易に感情移入する、というのはもっとも望ましくない見方だ、とわたしは思ってる。そういう見方をしてしまう人がいるのは、もちろん、わかる。アニメ版だと、ジョゼがヘンリエッタを愛でるシーンにいいムードの音楽が流れたりしてしまうし、アニメ版のほうがジョゼをめぐる「ジレンマ」よりもジョゼの「優しさ」そのもののほうに視点をあわせてしまう感じの作りになってしまってる。だから、わたしは、アニメ版の演出をつくったスタッフは猛省してほしいと思っている。
それは駄目。それは最悪。
ある作品が、道徳的に良いか、悪いかという議論が生じるのは、多くの場合、何が正しいのかわからない状況下において、その作品がある特定の価値観を、乱暴に肯定しているように見えるかどうか、ということだ。※2
ガンスリンガーガールで言えば、ジョゼの視点を肯定しているように見えてしまったならば、この作品は失敗。大失敗。作品として、何も宙吊りにできていないし、ただの気持ちの悪い萌えアニメそのものになってしまう。
■優しさが、残酷さを生き残らせていまっているんです。
で、わたしが、一番グッときてしまったのは、
…というと、なんか、懺悔みたいな言い方になるけど、
トリエラの存在はよかった。
ジョゼを、単に優しくていい人だと思っている人は、それこそ、トリエラに「身勝手な大人」認定をうけますよ。
ジョゼのわかりにくさは、「優しさ」に感情移入すればいいのか、
「ジレンマ」に感情移入すればいいのかが、わかりにくい、ということがあるのだけれども、
トリエラの存在は、ジョゼよりも、もっと明示的。
トリエラ、は無垢な存在とはちょっと違うんだよね。
「贈り物おくっておけば、保護者ヅラできるとでも思ってるのかしら」
とか言っちゃう子。
この子は、頭いい子なんだよね。
4話目で、
「わたしの許可なしに撃つな!」
「だったら、わたしの条件付けを強化したらいいじゃないですか!」
とかね。
ジョゼは、単に「やさしい」だけの鈍感な男なんだけれども、
トリエラ、はそういう「やさしさ」の発露そのものを、こばむんです。
トリエラがいなかったら、わたしも「ガンスリンガーガール、きもい!」っていう言説にベタに賛同したんじゃないでしょうか。
結局、自分の存在が人間なのか、道具なのか。
そのジレンマに一番ダイレクトに直面しちゃうのが、トリエラ、なのですよね。
トリエラは、やさしさ、みたいなものを向けられたときに、
そのやさしさこそが欺瞞なんだ。最悪なんだ、お前らは本当に勝手なんだ、って。
それを明示する存在でしょう。
これをね、組織の「上」の人が、やさしさを否定するんだったらね、
単にクソみたいな、気持ちの悪い感動話にしかならないんだよね。コレ。
「おれはヘンリエッタたちを人間として扱うんだ!」とかって言って、ジョゼが反抗して、それで終わりでしょ。
でも、そういうことを言うこと自体が、欺瞞で、
むしろ、ヘンリエッタ自身とか、トリエラ自身にとって、そういう優しさが本気で迷惑であることがありうるわけだ。
「だったら、わたしの条件付けを強化したらいいじゃないですか!」
という台詞は露骨にそこらへん、わかりやすいでしょう。
さらに、ややこしいのが、
トリエラは、やさしさに対して「うざい」と思っている一方で、
「優しさ+残酷なロボットとして使われる」というシステムにしがみつくことによって、
自分の存在が成立することもまた、いやんなるほど、わかってる。
これは確かコミックだと、5巻ぐらいで描かれていたと思うけど、
確か「わたしには、これしかないんだ」的なことを言うんだよね。
これは、もう、このガンスリンガーガールの設定そのものに対する明らかな批判的な意図を含んだ存在で、
そういうものなんだよね。
■やさしさは、どうして正義じゃないのか。
なんで、優しさが醜悪になりうるのか。
まあ、それはあれだ…。
一番わかり易いのは、マンガの『新宿スワン』とか読むとわかりやすいだろう。
新宿スワンは、キャバ嬢とか、AV嬢とかをスカウトする、新宿のスカウトたちの話だが、ここでやり手のスカウトっていうのは、たいがいが、女の子に優しいのね。時には、スケコマシとか、ヒモに近い形で、風俗嬢の女の子たちに寄生している。
女の子が、「もうわたし、風俗辞める…!耐えられない…!!!」とかって言い出すと、やり手のスカウト(≒場合によっては彼氏)が、「そっかー。辞めたかったらやめてもいいんだよ。でもな、お前、俺のために、もう少しだけ、今は、やめないでほしい。お前が、辞めたら、この後、おれはお前のこと全力で応援してやるよ。でもな、今だけ。今だけは…」とか、うまいことなだめてすかして言いくるめて馬鹿な女の子を、風俗に押し留めるのね。で、スカウトの連中は、女の子を風俗にハメたお金で食っていくっていう、まあ、下衆な話があるわけですよ。
スカウトの連中っていうのは、まあ、自分たちが下衆であることは、自覚している。頭のわるい女の子を、風俗にハメて金をもらっている自分たちの「やさしさ」がいかに欺瞞にみちたものであるか、っていうのはもちろん、理解しているわけ。悪人である自覚があって、悪人なわけだ。
一方で、ジョゼのやってることって、そういう風俗嬢のスカウトをやってる新宿のチンピラとかと、実態としては、実はぜんぜん代わりないわけですよ。違いは、「やさしさ」自体を、女の子たちを管理するための道具として使っているのか、本当に入れ込んでしまって「本当にやさしい」のか。
自覚的に、計算高く優しくしてる奴らは自己欺瞞には陥っていないけど、救いようのない下衆。一方で、ベタに優しくしてしまっている人間は救いようのない下衆ではないかもしれないけれども、結果的には同じなんだから、自己欺瞞なんじゃないかっていう。
結局、やさしかろうが、やさしくなかろうが、許されないことをしているのには変わりがない。
そして、その「やさしさ」は、醜悪な免罪符になりうるわけで、そのことを自覚しないのはタダの馬鹿だと、私は思う。
やさしくされるほうが、ハメられてしまっても、裏切りにくいし。やさしくされるほうが、苦しむことだってあるんだよね。
じゃあ、だからと言って、優しくすることに一切価値がないかというとそういうわけでもなくて、
つらい状況にいる人間に少しでも手を差し伸べようとすること自体はそれはそれで価値があるけれども、手を差し伸べること自体が、相手を苦しませるという逆効果を想定しながら、手を差し伸べるしかないわけで。
■トリエラ派が問題ないわけではなくて。
で、この作品について「トリエラがいたから良かった」と言ったとしても、「要するに、トリエラは免罪符なんだろ」という批判もありうる。「トリエラのような存在がいるから、問題ない」…と言いながら、「結局、萌えている」という状態は成立しうる。
実際、成立してるでしょう。
わたしに対して「おまえこそ、そうなんじゃないか」って言われたら、それは実際に否定しづらい。わたしはトリエラみたいな屈折した状況のなかで、屈折をかかえながら生きている賢い人って、ベタに好きだし。それが、この作品のえげつない設定の上においてはじめて好きなのか、そうじゃないのか、自分で判別できないし、否定しづらい。「自分は問題ない」は言えない。
「トリエラがいるからも問題ない」を、何の疑いもなくいってしまうことも「問題がありうる」。
でも、もう、その種の萌えが何かの、醜悪な愛情でありうることを自覚しつつ、「でも、自分のなかには、そういう感情がある。決してほめられたものじゃないかもしれない」と言いながら、愛でる。
そういうことしかないんじゃなかろうか、と思う。
■批判なのか、肯定なのか、極めてややこしい一品。
オタクが、その「やさしさ」を自省することなく、ナルシスティックに受容できるようにもなっているっていう代物でありながら、同時にこれオタク系萌えシナリオの「やさしさ」を強力に批判してるものにも見える、そういうとんでもなく厄介な代物なのだ。
たぶん、一番ありそうなのは、マーケット的な売り方を考えたら、露骨に「萌えシナリオ」で売る、っていうのを主軸にしたほうが、やっぱ売りやすい。だから萌えシナリオがくっついてるっていのが、あるんでしょう。…けれど、それを自分で批判してる(ように見える)。
でも、結局、ウケ方としては、やっぱり、ベタに萌えシナリオに入り込んでる人けっこういるのは事実でしょう。
だから、これ
あんまシンプルに「よかった」とかは、すごく言い難い。
あるいは、シンプルに良かったって、言っちゃってもいいけど、相手との関係性や、言うときの文脈が必要で、どういう意図なのかが、すごく問われやすい。
シンプルに、よかった、と言わずに、これが何であるのか、を延々と書くことをいったん経由しないと、何かを言いにくいなあ、と。
とにかく、こういうものがある、ということ自体は、わたしはとても豊かなことだと思ってる。
ただ、これを受容する文脈のほうが問われる。
ほんとうにそういうものだと思います。
ペドと呼びたければ呼んでいただいてけっこう。
でも、わたしは自分をペドだと思ってません。
それを「おまえ、否認だろ」と言っていただいても結構。
そう思いたければ思ってくださって結構。
わたしにもわかりません。
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下記、補論
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■注意その1:~雑に褒めた場合の問題~「否認」:「自分は問題ない」
問題は、この無駄な設定、がどんな文脈によって受容されるのか、ということだ。
この設定を前提にして、「ヘンリエッタちゃんかわいい、はぁはぁ」とか言う人がいるなら、わたしはちょっとドン引きする。
あるいは、「ヘンリエッタがかわいいから、いいと思ってるんじゃない」ということを、必死に「否認」することを通じて、これを肯定する人というのも、かなり困る。
「否認」というのはオタクにはごくありがちだ。「アニメは××がかわいいからじゃなくて、物語として、十分すばらしいんだ!!」という主張は、オタクが陥りやすい。
いやいや、やっぱり、キャラがかわいかったり、かっこよかったり、戦闘シーンがかっこよかったり、盛り上がったり、エンタメとしていいから見てるんですよ。物語「も」いいとは思ってるけど、物語「が」いいと思ってるからじゃないでしょ、っていう。
そんな、すばらしい物語よみたいんなら、古典文学作品のいいものを探したほうが、ヒット率高いですよ。アニメの中にも、古典文学作品と並ぶものが出てきているのも事実だと思うけど、ヒット率は低い。エンタメとしては、古典文学より、遥かによくできてるけど。
「否認」というのは、「実際には欲望しているものに対して、理由を摩り替えて<自分は問題がない>と思ってしまうこと」だ。「心理学防衛機制」とも呼ばれる。
「否認」というのは、「あ、こいつ、いま、否認してるな」って思われると、本当にみっともない。で、この作品は、そういう「否認」機構を発動させるのに、もってこいの内容。
だから、これは、むずかしい。
■注意その2:~雑にけなす場合~「否認」もかんたんだが、「おまえ、それは否認だろう」というのもかんたん
さらにくそ面倒くさい問題がある。
「否認」ってのは2ch的な批判(=なんだって、そりゃ批判しようと思えば批判はできるよね)をする上でも使いやすい概念になってる。無根拠な批判をするためには超使いやすい。「おまえのは否認」って何にでも使えるから、否認って、ほんとにめんどくさい。※3
たとえば、「論点自体に賛同していない」ということと「否認」ということは紙一重になりがちだ。相手がこちらの論点そのものに賛同してくれない場合に、「おまえは否認してる」とかゴネて、相手の指摘をなかったことにしてしまう、というのは論争においてよくあるテクニックである。
なので、「否認」も安易にできるんだけど、「おまえの、その反応は否認」っていう、批判もすごく安易にできる。論点が本当に問題として成立するのかどうかが曖昧な事態の場合は、「否認の批判」すらも難しい…
だから、この作品を「おれは萌えてない」という人を安易に批判することすらも難しい…。実際、これ萌えなくたって、けっこう見られる内容なわけで、萌えシナリオに感動しているかどうか、は必ずしも論点にならなない。
1.ベタな萌え肯定 → だめ。ありえない。
2.萌えを否認しながらの肯定 → うそくさい
3.おまえ、否認してるだろ、って批判 → おまえ批判の意味わかってる?
というどうどうめぐりになりうる。
●注意3:ベタ萌とネタ萌
あともう一個、ネタ的に「オレ、萌えてるよw」と。ベタに「萌え…いや…これはガチ…恋……」みたいなことの違いもかぶせて話もできて、そこも含めての議論は…誰かたのんだ……。
短く言うと、この作品だと、ネタ的に萌えることと、ベタに萌えることの差をどう文脈を形成すればいいのか困るし、「おれは、ネタ的だって」って、いいながら「ベタに」萌える、という半分冗談半分本気的な状況への処理とかも、結局問題にされるので、こまりもん。
●追記4:関連しそうな書籍・URLなど
*フェミニズム文脈
本作のややこしさは、やはりフェミニズムの文脈に対して本作をどう位置づけ、応答するか、という問題にかかっています。っつーか、その話しかわたしは、ほぼしていませんね…。
フェミニズムというのは、田嶋陽子的な「あたまのわるい」ものと、そうでないもの、があります。田嶋陽子のアレは、思想運動としてのフェミニズムの主流派ではありませんが、テレビ的な「わかりやすさ」だけが肥大化して、テレビで目立ってしまったというタイプの代表的な悪例です。
フェミニズムにおけるもっとも、中心的な部分をぎゅっとしぼったもの、としては上野千鶴子『差異の政治学』がやはり、ここ30年ぐらいのフェミニズムのダイジェスト本としては優れていると思います。たとえば、この中に収録されている「複合差別論」は、ガンスリンガーガール的なものが、どうして、わたしがこれだけ長文を書かざるをえない構造になっているか、ということを、たぶん、わたしの文章よりも、はるかにわかりやすく伝えてくれるものになっっているでしょう。
読みやすさ的にいえば、小倉千加子と上野千鶴子の対談本『ザ・フェミニズム』あたりのほうが、さらっと読めます。
できれば、上野さんもクセが強いので、上野さんじゃない人でいい人がいるといい、とも思うのだけど…。斎藤美奈子とか、小倉千加子とかあたりになると、議論の水準にだいぶ不安感が……
個人的には、上野さん以外で「これは!」と思ったのは、宮淑子さん。この人はもうちょっと読んでみたい。
*漫画表現論
あと、フェミニズムとはまったく別の文脈で、漫画表現論、マンガ批評の新地平を切り開いた、ということで非常に注目を浴びた伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』の後半でも、本作の批評が展開されています。面白いんだけど、伊藤さんの中でもまだ、なんか悩んでいる感じが残る…。
*その他URL
2004年に書かれたもの
http://animanga.stakasaki.net/GunslingerGirl/comic_review.html
「身障者=不幸」図式が前提とされているのではないか、という問題はなるほど、な、と思った。「身障者=不幸」図式がよくない、という指摘自体は賛同するが、本作への指摘としてあてはまるかどうかはいささか疑問。身障者一般が不幸だとは思わないが、本作の少女たちは、たいがいに不幸だと思う。
2008年の藤本由香里評
http://d.hatena.ne.jp/YUYUKOALA/20080529/GunslingerGirl_asahi
藤本由香里さんといえば、有名なマンガ批評の書き手の一人である。「藤本さんの書いた」ではなく、「朝日新聞に書かれていた」という主語になってしまうのは、ある種の朝日アンチ的な文脈なのだろうか。
この短い字数、そして朝日新聞という読者のリテラシーの幅を想定した上でバランスのとれた紹介をすると考えると、非常にすぐれた仕事をしているとは思う。#原稿料もどうせ1万~2万ぐらいのしょぼい金額だろうから、その労力を考えると、頭が下がる。
なお、今度でる15巻で原作のほうは完結するらしい。完結したら、あらためて、何か述べたい。
で、わたしは、ガンスリンガーガールが、そこそこ好きです。
まあ、それは無理に否定したって、それはなんか、「否認」っぽくしかならないだろうと思うので、腹をくくって認めておきます。
※1 わたしは、むかしっから、「無垢なもの」と「残酷なもの」というとりあえせの話はすごい衝撃をうけやすいです。何も知らない子どもが、何も知らないことによって残酷なことをなしえてしまう、というのは何か非常におそろしい感じをうけます。他のメディアの作品でいえば『蝿の王』とか『City of God』とかね。
無垢なもの、っていうのがある種の残酷さと簡単に結びつくっていうのはよくある話で。で、無垢だからこそ、何かが残酷になったときのパワーって、計り知れないものがある。残酷さを抑える仕組みがないからね。
いやらしい老獪さとか、俗物的な小市民性みたいなものっていうのは、多くの場合、無垢な残酷さを抑えるために機能するわけです。だから、我々は俗物のいる世界のほうが、意外と居心地がよかったりするわけで、俗物っていうのは世界の安定性を形作るのに強力に貢献します。
で、蝿の王、とかは、無垢さだけが強力に駆動してしまう恐怖の世界なんですよ。『無限のリヴァイアス』もそうだけど、無垢な人間だけで作られた社会がいかにこわいか、っていうことを示した話です。無垢な人間は、世界をしばしば思ってもなかったようないい方向に変えるきっかけもくれるけれども、思ってもなかったような残酷な方向に世界を変えてしまうきっかけももっているんです。それは、同じ事の裏表になっている。
ガンスリンガーガール、はこうした残酷さをあきらかに描写していて
「ごめんね」と言いながら、罪のない男の子を射殺してしまうヘンリエッタとかね。
ヘンリエッタ、っていうのは、明らかにそういうもの。「無垢で残酷な装置」の象徴でしょう。
ヘンリエッタは、そういう恐ろしいもの。
まず、その描写から、この作品ははじまっている。
しかし、にも関わらずそこに、「萌え」シナリオがかぶされている。かわいくて、かわいそうなヘンリエッタ。かわいくて、かわいそうなヘンリエッタが人を殺していく。
そこにぞっとする。そういう話です。
まあ、これはまず一つ、この作品の露骨にえげつないところでしょう。
残酷なものが、同時に愛すべきものでもある、という表現自体は、実は昔からあるわけです。
たとえば、手塚は『アドルフに告ぐ』のなかで、ヒトラーと愛人の話をけっこう情感を込めて描いているし、古いものをひっぱってくると、鬼子母神の物語、っていうのがこういう構造をしています。
人の子を食い殺す鬼子母神は、実は自分の子どもがかわいくてかわいくて仕方がない、ピュアな母親としての側面ももっていた、という話ですね。
ガンスリンガー・ガールは、それらの物語を、同様の構造をもっています。
虐殺者ヒトラー + ピュアな夫としてのヒトラー
虐殺者鬼子母神 + ピュアな母親としての鬼子母神
虐殺者ヘンリエッタ + ピュアにジョゼを慕うヘンリエッタ
こういう形で並べることができます。
そのための、露悪趣味的なやり口があまりに、やり方がえげつないっていう、そこで批判が生じるのもわかるし、そこに否認問題やら、安易な否認批判やら、雑音が混じりやすい構造になってるっていうのもある。そこらへん、いろいろ面倒なんだけど。そういう問題はある。
けど、やっぱり、ガンスリンガーガールは、ごく単純に、この構造によって、ひどくえげつない表現として強さを獲得していることは、まず実態としてあるだろうと思う。
「萌え」に対するごく批判的な想像力としていい話でしょう。
なお、人の子を食い殺していた鬼子母神の場合は、その後、お釈迦様から、「自分の子どもが死んだ時の哀しみを想像してごらん。それでも、おまえは、他人の子どもを食えるのかい?」と言われて悔い改め、その後、安産と子育ての神ということになる…という素朴なお話です。
古代のほうが、こういう怖い話って多分、リアルにすっごい沢山あったぽい感じはある。「他人がどう思うか」とかを考えながら生きるスタイルは、近代のほうが強まったと思うので。
※2 整理すると、
第一に、その作品がえげつない設定を作品内にもっているか、ということ。
第二に、その「えげつなさ」をめぐる態度が、最低限の議論を尽くした上で、きちんと中立的に、宙吊りに描けているかどうかということ。
その二点だ。
※3 むかし、わたしも、
「きみ、それ否認だよね。君、それできてないよね。
問題があることを無理に認めてないよね。
弁が立つからって。弁が立つ人にありがちだよね」
とか上司にいわれて、
確かに、議論がかみあってないのは事実なんだけど、
「おまえの論点自体が間違ってるっつーとんじゃい、それを<否認>認定するとか、貴様はアホか」
と思ってムカッ腹がたった…そんなこともあった。