「かぐや姫の物語(アニメ映画)」

総合得点
64.9
感想・評価
291
棚に入れた
1196
ランキング
3600
★★★★☆ 3.8 (291)
物語
3.6
作画
4.2
声優
3.6
音楽
3.8
キャラ
3.5

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ネタバレ

みかみ(みみかき) さんの感想・評価

★★★★★ 4.7
物語 : 4.5 作画 : 5.0 声優 : 4.5 音楽 : 5.0 キャラ : 4.5 状態:観終わった

「姫の犯した罪と罰」は、月の世界のはなしメインとかじゃないですからね。

 泣いた…というよりも、いろいろと心が痛かった…
 
 まあ、なんでしょうか。
 映像がすばらしいのは予告編でわかったことだったので、まあ、予告編ですばらしいな、と思った映像のすばらしさが、長時間にわたって展開されるわけですが、それはさておき。
 いや、まあ、まさか、これほど、よいものだとは思わなかったですわ。
 つーか、ほんとうに。

 とりあえず、まずは、以下、けっこうベタベタすぎる解説になると思うのですが、とりあえずベタ解説から、書いておきます。

■姫本人が感じる「罪」

 わざわざ言う必要もないことかもしれませんが、「姫の犯した罪と罰」というキャッチコピーの内容を単に月世界での過去のことだと考えて見ている人がけっこういるようですが、このキャッチコピーのメインの意味はそこではないですよ。たぶん。(もちろん、原則的には見方は自由だとは思いますが)


 ご覧になった方は思い出しほしいのですが、月のことを思い出す前から姫は自己嫌悪に襲われてますよね?
 作中のほとんどの時間、姫は自己嫌悪のなかに生きています。姫の悲しみをつくっているのは、翁だけが原因かというと、少なくとも姫本人の感覚としては、そんなことはないわけですよね。
 捨丸にいちゃんに黙って別れてしまったこと。町で見かけて捨丸にいちゃんを救ってあげられなかったこと。
 結婚の要求を拒否するための無理難題でもって、一人を事故死に導いてしまったこと。
 せっかく、翁が自分のために努力してくれているのに、そのことを受け入れられず、翁を遠ざけてしまっている自分のこと。
 そういったもろもろのことでもって、姫は自己嫌悪に陥っているわけで、姫にとってはそれらは「罪」です。
 
 
 それまで積み重ねてきたことが、本当に「罪」であるかどうかは、微妙というか、少なくともかぐや姫が望んで犯した罪でないけれども、意図せざる結果であるにはせよ、責任感の強い人にとっては、自らの至らない振る舞いが要因となってしまって生じた不幸な事態は、それらは「自分のせい」であるわけです。
 特に、自分が何もできていないなあ、と思っている人が、そういうことを巻き起こしてしまったと自覚するとき、それは「わたしのせい」になるわけです。

「 みんな不幸になってしまった。私のせいで。 偽物!にせもの!!私も、ニセモノ!!!!」

 かぐや姫自身が叫ぶのはまさしく、そういった心情の吐露ですよね。
 かぐや姫はすくなくとも、本人の主観的にはまさしく「罪」をたくさん犯してしまっている。だけれども、実際には、それはかぐや姫個人のせいではなくて、翁とか、プロポーズをしにくる男たちの、あさはかな振る舞いとかとの意図せざる共犯なわけです。

 そういうタイプの不幸な結果なんて、世の中にははいて捨てるほどあるわけで、それをわざわざ、かぐや姫が主観的に「わたしのせい」として引き受ける必然性なんて、ないっちゃないわけです。もし、かぐや姫が高慢な女性であったとすれば、「そんなのは、わたしのせいじゃない。ぜんぶアイツラが悪いんだ」と翁や、プロポーズをしにくる男性たちに、すべての問題の責任を押し付けるのではないか、と思います。
 そういった、高慢な心情にならずに、いろいろなことを自らの責任だと感じてしまうかぐや姫のこころのありようは、よく言えば高潔といえるし、悪く言えば、なんでもかんでも過剰にストレスと感じてしまう敏感すぎて、幼いともいえるわけです。
 そういう敏感すぎる幼さが状況を複雑にしてしまっているというのも、まあ事実っちゃ事実だし、誰も悪く無いといえば誰も悪くない。
 誰も決定的に悪い人というのはいないのだけれども、そこに不幸な状況が生まれてしまって、さまざまな人の欲望の集約点となってしまった幼い「姫」は、それを引き受けてしまう。で、そのことによって、抑うつ的な日々を暮らさざるを得なくなってしまう。そういった、ことのもろもろが、<罪>を再生産し、それがまた<罰>を悪化させる。負のループの再生産ですよね。


■決定的に、悪い人はだれもおらず、深刻な悲しみとマヌケな日常がまじりあった世界

 決定的に悪い人はだれもいないのだ、という演出はかなり徹底していたように思います。
 翁のつぶらな瞳や、素朴な愛情の強さの描写は、翁が愚かではあるけれども愛に溢れた人物であることをきわめてわかりやすく描いていますし、あさはかな悪役として登場するプロポーズをしてくる男たちもまた、コミカルに描かれています。
 子安貝をとろうと貴公子が死んでしまう場面は、いまひとつ馬鹿っぽくて「笑ってしまった」という人もいるぐらいですし、悪役的な振る舞いをするひとたちはみんな、悪役というほど悪役ではなく、だいたいマヌケです。
 悪意の中心は誰もいないから、姫にちょっかいを出してくる人々は、ほとんどの人が今ひとつシリアスな悪意も、シリアスな善意もなく、ただ姫の美しさが欲望のうずの中心として機能してしまっているだけだという世界なわけです。
 こういった世界の全体像の描き方は悪く言えばドラマティックさに欠けるともいえるかもしれませんが、よくいえば、とても穏当で、まさにまっとうな日常の風景の描写だったとも思います。

 そのような風景のなかで、かぐや姫が苦しい思いをしてしまう。
 誰もそこまで悪くないのに、そこに不幸な事態――<罪と罰>――があらわれてしまう。
 それは、わかりやすい悪者や、わかりやすい災害みたいなものがあることなんかよりも、もっと根深くて、悲しいことだとも捉えられるわけです。
 だから、こういう誰も致命的な悪者がいない風景のなかで、かぐや姫が苦しんでいるのをみて、厳しい人は「かぐや姫が勝手に、辛い気分になって苦しんでいるだけ」と言うかもしれません。あるいは「翁が人のこころをわからなさすぎ」というかもしれません。実際に、そうだと言えばそうなのだけれども、それはどちらも、ものすごく凡庸な悲劇で、かぐや姫が苦しむのは、少年少女の歳相応な感受性でもありますし、翁の素朴さは、田舎の人の素朴さとしては、実にありそうな人格でもある。
 そのような決定的なものの少ない「とるにたらない掛け違い」のなかの悲劇だからこそ、描くにたる、根の深い悲劇だろうと。
 それが、<罪と罰>の内実なのだろうと思います

■<ゆるし>と<罰>の対象構造:捨丸にいちゃんとの逃避行とかは、なんなのか

 最後に、捨丸にいちゃんと、不倫まがいの逃避行を行うわけですが、あれは「道徳的にあれは、ないわー」という話ではなく、すでに地球人として翁を悲しませ、人を一人死に導いてしまった、<犯罪者>である、かぐや姫の、罪を重ねる諸行としても見れるだろうと思います。
 犯罪者が、警察からの逃避行の最中に、バイク盗んで金を盗んで、どんどんと罪を重ねていく過程みたいなもので、それは負のプロセスでもあるわけだけれども、犯罪者になって、日々の生活やしがらみから解放される逃避行を行う。その非日常的な状態へと移行することによってはじめて、<犯罪者>はより苦しむ一方で、日々の辛さから自由になることもできる。そういう展開ですよね、あれは。
 罪人としての自らをいったん認めてしまうことによって、自分自身からのゆるしを得ることができたという風景だったように思います。

 「ボニーとクライド」という美男美女の犯罪カップルが犯罪を繰り返しながら逃げていったという実話があって、あれは、なんども映画になっていますが、あれは逃避行のなかの刹那的で背徳的な自由を描く話として描かれるわけですけども、捨丸にいちゃんとの話は、まあ、そういうものかなあ、と思いました。ここらへんは、それほど明確な描き方ではなかったですけどね。


 さて、そして、最後に、かぐや姫にとって、なによりも最大の「罪」は自分を心から愛してくれた翁と媼の二人に感謝したいのにも関わらず、どうしてもそれが苦痛で、その苦痛のあまりに月に帰らざるをえない状況を自らつくりだしてしまい、二人を悲しませる親不孝をしなければならなくなってしまったことです。
 そして、月に強制送還されることは、月の人間としてみれば罪からの「許し」ですが、地球人としてのかぐや姫としてはそれは「罰」です。
 ここで、罰が許しであり、許しが罰である、という転倒した情景を描くことで、最後に圧巻の風景を描写しておえる。

 そういう映画だったのだと思います。 



**********************

■じいさん萌え

 まあ、以上はベタ解説だったわけですが、
 ここからもっとくだけて、適当に書きます。

 個人的に、ツボったのは、やっぱ、おじいさんの描写ですね。確実に、素朴で、感情の強い老齢の人が、いろいろな神秘体験をしたとき前が見えなくなってしまう、あの感じね。あれね。簡単に顔を真赤にしてしまう、あの感じがね、もう、あまりにツボでした。
 最終的に、おじいさんは、ある意味では悪者になるわけだけれども、朴訥な人柄で、いまひとつ、こころの機微がわからん人というのは、まあいるわけで。
 ああいう人物の素朴な感情を、微細な立ち居振る舞いから想像させていく力技といい、かぐや姫の自己嫌悪と、それがきわまったときに映像がきれいにこわされていく、仕掛けといい、もうね、素朴な言い回しだけれども、ぱあっっと、圧倒されるより他ないという感じ。

 最後のほうで、「虫や鳥達のように」とか、なんかとってつけたようなことを言い始めるあたりは、あそこらへんは削ってくれたほうがもっと上品で味わいのある作品に仕上がったのにな、と思うけど、まあマス向けにつくろうと思ったらああいうところがあったほうが、何かラストっぽいなあ、と腑に落ちる人は多いのでしょうね。しかしながら、なんつーか、マス向けに作るんだったら、不倫展開的なのとかは無くしといたほうがよかったんじゃね、とか思うけど、ああ、難しいなあ。

■金回りのはなしとか

 これだけ好き放題、予算気にせずに作って、美しいものをほんとうに気兼ねなくつくろうと思ったら、金回り的にはきちんとヒットすることを前提にしなければいけないわけで。しかしながら、この作品が保とうとしているトーンは、そんなにマス向けではない。別に、マス向けの作品で上品なものが作れないって話をしているわけではなくて、「この」作品がつくりあげようとしている一貫性が、それとそぐわないということだ。
 そうなってくると、一体全体、どうやってこの作品をつくるための原資を調達し、好き勝手つくればいいのか、と。

 クリエイターと呼ばれる人が好き勝手やって、悪い意味で馬鹿みたいな作品をつくってしまうことはよくあって『FF the movie』なんかはその典型だと思うけど、この作品も、まあ、金回りのことをまったく気にせずにつくったという意味では、雑に言えば『FF the movie』のような作品と同罪の何かなんだよね。まあ、あっちは驚異的な駄作で、こちらはすばらしい作品なわけですが。

■女童とか、まるめのものたち

 あとは、女童とか、まるめのものたちで全体的に顔がゆるみましたね。
 いや、よかったよかった。

投稿 : 2015/02/25
閲覧 : 547
サンキュー:

10

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