イシカワ(辻斬り) さんの感想・評価
2.7
物語 : 1.0
作画 : 3.5
声優 : 3.0
音楽 : 4.5
キャラ : 1.5
状態:観終わった
原作は素晴らしいのに、原作まで批難されてしまったアニメ化
アースーシーの世界観について
物語の中心となる多島海(アーキペラゴ)には肌の浅黒い人々が住んでおり、 肌の白く、髪の黄色い人々が住むカルカド帝国の侵略に悩まされている。カルカド人は血を見ること、市の燃え盛る匂いを嗅ぐことが何より好きな、獰猛で、野蛮な人間たちとして描かれている。といっても、浅黒い肌の人々の領主たちもまた海賊行為に忙しいといった具合で、至るところで略奪や奴隷化が行われており、争いは絶えない。多島海でモラルの力を発揮するのが、魔法を学ぶローグ学院だ。この世界で非常に大きな力を持っている。哲学的・思想的なものを学ぶことが多く、それに従わず技術のみ会得しようとする者には、やんわりと長(おさ)から意見される。
大賢人ゲドに関しての記述から確認できる情報
『ケド戦記Ⅰ 影との戦い より記載』
『最高の誉れ高く、事実、他の追随をついに許さなかった者がハイタカと呼ばれた男である。ハイタカは老いを待たずに、”竜王”と”大賢人”のふたつながらの名誉をかちえ、その一生は『ゲドの武勲』をはじめ、数々の歌になって、今日もうたいつがれている』
ハイタカとゲド、二つの名の示す意味。
『はじめのうち、魔法を習うダニーの楽しみはいかにも子供らしく、鳥やけものを思いのままに操り、その習性を知っていくことに限られていた。事実、彼は生涯この楽しみを持ち続けた。村の子供たちは、ダニーがしばしば、山腹の牧草地で、獰猛な鳥といるのを見て、彼にハイタカとあだ名をつけた。それで、彼は自分の本名が知らされるまでこの名で借りとおし、その後もずっと、この名を呼び名として使い続けることにした』
ダニーというのはゲドの幼少時の名で、母親がつけてくれたものだ。ダニーを出産してまもなく母親は他界している。まじない師の伯母からダニーが魔法を習っているとき、村の子供からつけられたあだ名を終生使い続けている。ハイタカと呼ばれている、という自己紹介の仕方は、こういう理由からだろう。
真の言葉というものは、名前を重要とするものらしい。というのも、一人ずつ呼び名以外に、魔法の言葉という意味の真名を所持しているからだ。筆者からすると、そのように操られてしまう可能性がある真名など持たないほうが身のためだと思うが、魔法使いからすると必要であるらしい記述が、本文からみつかる。なお、必要である理由は四巻の帰還に書かれていた。真の名前は本人には強さとなり力になるが、他人にとっては危険な重荷にしかならないということだった。
ダニーという少年の魔法使いが侵略してきたカルカド人から住んでいるゴントを救ったという噂を聞きつけ、ル・アルビに住む大魔法使い、沈黙のオジオンがやってきた。侵略者を退けることに成功はしたものの、ダニーは潜在的な力を使い果たし、口が聞けず、食べることも眠ることもしなかった。
『この子の命名はできるだけ早いほうがいい。もう名前が必要になっておる』
オジオンは才覚のあるダニーを引き取り、弟子にしようと思い立つ。オジオンが真名を与えるシーンがある。
『まじない師の伯母は、まず、赤ん坊のとき母親が与えたダニーという名を少年からとりあげた。名をなくし、衣服を脱いだ少年は、高い崖をあおぐ岩間に湧くアール川の水源の泉にひとり入っていった。彼が水に足を踏み入れたとたん、太陽は隠れ、日が翳って水面は暗くなった。少年は清冽な泉の中を、寒さに震えながら、それでもまっすぐ顔を上げて、ゆっくりと対岸へ進んでいった。向こう岸にはオジオンが待っていた。彼は手を差し伸べて少年の腕を掴むと、その耳元に「ゲド」と囁いた。それが少年の真の名前だった。少年はこうして、持てる力をあやまたず使いこなすことのできる優れて賢い男から、その名を授けられた』
ネット世代の我々にとって、HNが普段の名前である。いってみればハイタカというのはHNであり、本名がゲドである。ネット上での本名流出は危険を伴う。同じようにアースーシーの世界、特に魔法使いにとって本名を知られることは生命そのものを握られてしまう危険がある。
ゲド戦記Ⅲ さいはての島へ
吾郎監督は、『さいはての島へ』を基にしてアニメを製作したという話だった。しかし、調べてみると、テナーとテルーの女性二人も、また災いの影も登場していないのである。全体的なものを網羅する、オールキャスト編成にしていたことが、原作を読んで明らかになってきた。そうなると原作を理解するのに必要な三巻さえ読めばいいということではまったくならない。それが理由の事前資料だった。
では本来あった『さいはての島へ』とはどんな作品なのか。要点を引用して理解を深めたいと思う。
ロークの学院にアレンという名の若き王子が大賢人となったゲドを訪ねてくる。伝説の英雄の血筋であり、世界の中心といわれるハブナーの王子でもある。エンラッドは王権を持つ公国のひとつだ。
アレン自身が血筋を説明している。
『エンラッドにイリーンにウェイの三国が。かつてはハブナーとエアもそうでしたが、両国では王家の血が絶えてしまいました。イリーンの血筋は、海から生まれたジェマルから、アースーシー全土の王となったマハリオンまで。ウェイは、アカンバとシリエス家の血筋。そして、一番古いエンラッドは、モレドからその息子のセリアドまでと、それに加えて、エンラッド家の血』
周囲にアレンを紹介するゲドの解説の記述もある。
『エンラッド家を興したモレドが世を去ってからすでに二千年の歳月が流れていた。モレドの偉業はもはや過去の偉業ではなく、伝説と化していた。大賢人の言葉は、夢の跡継ぎと命名したようなものだった』
アレンが父親から言付かってきた話を要約すると、以下のような内容になる。
魔法の力を失ってしまった者が続出した。にも関わらず、住民は問題なさげである。疫病が流行ろうと、収穫が少なかろうと、何故か気にしない。住民もどこかおかしい。祭の日の当日、王は魔法使いに魔法をかけるよう命じたが、様式も言葉も思い出せないと言い出した。ついに王自らがいって魔法を唱えて宮殿に帰ってきた。しかし王は疲弊しており、様子がおかしい。王子が尋ねると、唱えるだけ唱えたが、唱えた意味があったのか、わしにはわからんという。その年の春先、雌羊がお産で何頭も亡くなり、死産が相次いだ。生まれた子供も奇形であったという。治安のすこぶる悪いホートタウンなどは、魔法はもう行われていないという知らせもあった。事態を重く見たゲドは長(おさ)たちを召集して夜長時間会議をしたがついに決定事項がないまま終了した。長たちの朝食にアレンも同席する。大半の長は、魔法の守りで固められているロークにいるせいか、事なかれ主義な意見を出した。魔法の法則を個人で活動を抑えてしまったり、魔力ある言葉を使えなくしたりできるとは思えないと意見した。
ある長はこういった。
『ハブナーにいるべき王はどこにいるのか。ロークは世界の中心ではない。あの塔こそが中心なのに。頂(いただき)にエレス・アクベの剣が輝き、中にセリアド、アカンバ、マハリオンと、三人の王のすわった玉座のある、あの塔こそが……。世界の中心が八百年もの間、空っぽのままにきたとは! 王冠はあるのに、それを戴く(いただく)べき王がいないときている。我々は確かに失われた神聖文字、王の、あの和の神聖文字は取り返しました。しかし、世の中は今、平和でしょうか。玉座には、やはり、王をおくべきだと思います。そうすれば、世の中は平和になり、さいはての海域でも、まじない師たちは心おきなく、その術が使えましょうし、すべてに秩序が回復し、しかるべき世の中となりましょう』
.賢王マハリオンが倒れるときにこう発した。予言となって残っている。
『暗黒の地を生きて通過し、真昼の遠き岸辺に達した者がわたしのあとを継ぐであろう』
アレンとカケという魔法使い見習いの若者二人で話し合っているシーンがある。
『「ああ、それができるのは魔法使いしかいない」
「そうです。闇に閉ざされた死者の国に行っても戻ってこられるのは魔法使いしかありません。ただ、その場合、通過するとはいえないのですが……。少なくとも、人々の話では、あの世とこの世を分かつ境界はただひとつ。それを越えると、果てがないそうです。となると、真昼の遠き岸辺とはいったいなんなのか。が、ともかく、先王の予言はそうなっています。ですから、いつか、きっと、その予言を実現する人が出てくるはず。そして、その時にはロークがいち早くそれを認め、各国が陸海多数の軍団を率いて、その人のもとへ馳せ参じることでしょう。そして、この世界の中心、ハブナーの王の塔では、再び王権の統治が始まるわけです」』
とりあえず簡単に説明しなおそう。
1.災いの兆しが顕著になる。魔法の消失、滅亡の様子が見受けられる。人々の様子も変になっている。人間個人の仕業とは考えにくいという意見が多数だった。
2.八百年の間、空だった王の塔の玉座に周囲が認められるほどの王をおけば治安が回復する。
3.賢王マハリオンが倒れるときにこう発した。
『暗黒の地を生きて通過し、真昼の遠き岸辺に達した者がわたしのあとを継ぐであろう』
暗黒の地とは、どうも死者の地であるらしい。それを生きて通過できるなど、普通に考えたら魔法使いくらいしかいない。若き魔法使いでアレンの話し相手だったカケも、どうも王はゲドだったら良いのに、と思っているような節があるようだ。
そしてこの物語の目的がはっきりする。
人為的か自然現象なのか、原因究明させ、天変地異を消滅させる。
「王の塔の玉座に周囲が認められるほどの王をおくこと」で「治安を回復させる」
のだ。
災いの兆し(きざし)が見え始めたアーキペラゴの元凶を探しに、ゲドとアレンは航海に出た。目指すはゲドにとって忌まわしき記憶の土地、麻薬がはびこり、奴隷商人がうろついて、下手な場所を歩こうものなら、すぐ鎖に繋がれて売り払われてしまうという、治安が極めて悪いホートタウンである。しかし南海域全体の情報が入ってくる場所でもあった。虎穴に入らずんば虎児を得ず、二人はホートタウンに乗り込む計画を立てる。潜入捜査だ。
ゲドいわく、とても有名な海賊イーグル船長の下で働いていた「ウサギ」と呼ばれる「海の司」が登場する。野盗の頭か、頭目の片腕のような形で登場して、剣や兜を身につけていたアニメ版ウサギだが、原作では力を失ったのに気づかず満足な仕事ができなかったことにより、イーグルの怒りを買って、右手を切り落とされてしまっていた。落ちぶれてしまったウサギは、ハジアという麻薬を使い続けた廃人になっていた。ゲドは露天商の女からウサギの情報を聞き出した。次々と魔法を使う者達がその手業を失っている事実を、当人たちから聞きだそうとするのである。
『二人は女が教えてくれた男に近づいていった。男は壁に凭れ、虚ろな目をして、座っていた。浅黒い髭面の顔は、かつてはたいへんな美男子だったことを物語っていた。切断された皮膚の縮こまった手首は、明るい太陽の照りつける暑い舗道の敷石の上に、いまわしいその傷跡をさらしていた』
ゲドは象牙か金かで支払いをする約束で情報を引き出そうとする。
『「そう、力だ。風や波や人々を支配する……。その名で呼べば、そなたの言うとおりになったろうに」
「ああ、思い出した。まだ生きていた頃のことだ」男は低い、しゃがれた声でいった。「そうだ。わしはいろんな名前や呪文を知っていた」
「というと、今は死んでおられるというのか」
「いやいや、生きているさ。生きているとも。昔、わしはたったいっぺんだが、竜になったことがある。……いや、死んではおらん。ただ、わしは時々眠るんだ。知ってのとおり、眠りと死と紙一重。夢には死んだ者たちが出てきて歩く。みんな知っていることだ。死者たちは生きてみんなのところへやってきて、ものをいう。彼らは黄泉の国を出て、夢の中に入ってくる。道があるのでな。存分に遠くまで行っても、ちゃんと戻る道があるのだ。ちゃんと。場所さえわかれば、その道は見つけだせる。ああ、それにもうひとつ、それ相応のものを差し出しさえすればな」
「それ相応のものとは?」ハイタカの声が舞い落ちる木の葉の影を思わせて、薄暗い部屋を力なく泳いだ。
「生命さ。ほかに何がある? 生命を差し出さないで、どうして生命が買える?」(中略)「ごらんのように、やつらはわしの手を切り取り落とすことができる。首だってはねることができる。だが、それがどうした? こっちには戻る道が見つけ出せる。どこを探せばいいか、ちゃんとわかっておる。どこを探せばいいか、ちゃんとわかっておる。そこへ行けるのは、力ある者だけだ」
「魔法使いという意味か?」
「そうだ、その……」ウサギは口ごもり、今聞いたその言葉を口にしようと何度かやってみたようだが、ついに声にはならなかった』
アニメ版と比べると妙な具合に知的なウサギである。言動からして卑下た笑いで弱者とわかると見下してかかり、強い者には手をすりゴマをすり、乱暴に剣を振り回したり、荒くれ者として肉を頬張ったりするような描写ではない。それは差し置いて、狂人の言い回しというのは、アニメや小説にはネタばれをさせない形、ぼかした形で読者に伝える格好の表現だ。
賢王マハリオンの予言も、ウサギのたわごとも、実は同じものを指している。闇黒の地は死者の国であり、死者の国を生きて通過できる場所がある。ということであるし、眠りと死は紙一重といっているように、途中で眠ることで死の国へ赴くことができるということでもある。死んだ者たちが出てきて歩くとは、ハイタカとアレンがたどり着いた死の国では死者たちが出てきて歩いていることを指している。こっちには戻る道が見出せる、どこを探せばいいかわかっておる、とは、死の国へ行っても戻ってくる道があり、探せば見つかるということだ。闇黒の地が死者の国なら、真昼の遠き岸辺に達した者とは、そこから生還して生者の地、岸辺に達した者であることがわかる。そして、よく考えると、戻ってきた人がたどり着く場所とは岸辺であるといっているのだ。ル・グウィンは、ネタばれの決定的な情報を、伝承や廃人のたわごとなどといった形、人々の噂などいう、さまざまな形で散りばめて、念入りに、少しずつ、しかし確実に誘導しているのがわかる。ウサギのいう相応のものを差し出せば、つまり生命を差し出しさせすれば、それは可能だといっている。この生命を差し出すという意味は、ラストまで読むと単純な表現ではないことに気づかされる。読了した筆者からすると、ウサギと伝承は微妙に意見が食い違っているのもわかってくる。
案の定、罠に嵌ってハイタカは後頭部をしこたま強打されて失神。アレンは海賊から奴隷商人に鞍替えしたイーグルに拿捕され、奴隷船に鎖で繋がれたり、夢の中で、闇の王に「おいで」と誘われたり、後から目覚めたハイタカによって救われたりと、アニメ版とは若干異なるが、類似した展開があり、その後はまた、ハイタカの愛舟・はてみ丸で航海を続ける。
旅の途中、ハイタカはアレンにいくつかの話を聞かせた。
『死と生は同じひとつのもの。手の両面、手のひらと手の甲みたいなものなんだ。同じひとつのものだけれど、それでもやっぱり、手の甲と手のひらは同じじゃない。……切り離すこともできないが、かといっていっしょくたにすることもできない』
死者の霊魂を呼び出す魔法を使った男の話をしている。『知恵の書』は、ゲドが先代大賢人ネマールを死に至らしめる原因となった魔法の記載されていたいわくつきの書物だ。
『「では今ではもうその術を使う人はいないのですか」
「いや、ひとりだけ知っている。その男は勝手気ままに使っておった。危険も考えずにな。そうだよ、この術は危険なんだ。死と生とは手の両面のようなものだと今、わしは言った。だが、実をいえば、わしらには、何が生で、何が死か、まず、そのところがわかっていない。わかってもいないものを意のままに動かそうとするなどとは、賢い人間のすることじゃないし、たとえしたとしても、いい結果を期待できるはずがない」
「誰だったのです、その術を使った男というのは?」(中略)
「ああ、その男か。男は、ハブナーに住んでいた。まわりの者は男をただのまじない師だと思っていたが、どうしてどうして、男は生まれながらの大魔法使いだった。そして術で男は財産をこしらえていた。彼は人が頼みさえすれば、死んだ妻だろうが夫だろうが、子供だろうが望むとおりの人間をあの世から呼び出してやっていた。男の家には、遠い昔に死んだ者たちの亡霊が右往左往していた。王たちの時代の美しい女たちの亡霊もあった。ある日、わしは、男がくだらん連中を喜ばすために、ほんのちょっとした術を使って、あの世から、わしの若い頃の師匠である大賢人ネマールさまを呼び出すのを目撃した。あのすぐれて偉大なお方の魂は、男の呼び出しに応じて、まるで犬のようにおとなしくあらわれた。わしは猛烈に腹が立って、男に向かっていった。―わしはその頃、まだ大賢人にはなっていなかったしな。―そして、こういってやったんだ『きさま、死者を自分の家に呼び寄せるくらいなら、どうだ、一度おれといっしょに、あたらの国へ行ってみないか』男はかたくなに拒んで、変身までして抵抗し、いよいよ打つ手がないとなると、声を上げて泣き出したが、わしは強引にやつをあの世まで引っ張っていった。(中略)男を連れて黄泉の国へ行き、そのままもどってきただけさ。男はひどくこわがっていた。死者をあれほど簡単に自分のもとに呼び寄せた男が、実は死を、自分自身の死を誰よりも恐れていたんだ。(中略)実は国境には石垣が積んであってな、それを超えると、黄泉の国なんだ。ただ魔法使いだったら、そこへ行っても、生きて帰ってこられる……ところが、その男、石垣のそばまでいったら、しゃがみこんでしまってな、なんとかこちらの意思に逆らおうとするのだが、それが、できないんだ。男は石垣に必死にしがみついて、泣くやら、わめくやら、そりゃもう大変だった。(中略)土下座して、パルンの魔法はもう二度と使わない、と誓った。わしの手にキスしたが、できることならわしを殺してしまいたかっただろう。(中略)それから何年か経って、わしはその男が死んだと聞いた。腕の長い男で、レスラーみたいに身のこなしがすばやかったが、始めて会ったときから、もう白い髪をしていた。(中略)みんなからはハブナーのクモと呼ばれていた。(中略)大変な力を持っていて、それがすべて、死を拒否することに向けられていた。それに彼は、パルンの『知恵の書』に書かれている大魔法ににも深く通じていた。わしがその魔法を使った時は、若くて知恵も浅かったから、災いは自分にかえってくるだけですんだが、齢を重ねた、したたか者が、生じる結果をよく考えもせずに使った場合は、災いはわしら全部に及ぶかもしれない」』
ここでついに、クモの名前が出てくる。
1.死者を呼び出す魔法を使って、財産をこしらえていたが、ネマール招来をゲドに目撃されたのがきっかけで、醜態を晒した。屈服させられた恨みのせいで殺したいと思ったに違いない、とゲドは口にしている。二人が行った死の国の話は、擬似的に、つまり魂だけを死者の国に行かせたのだろうことは察しがつく。既にゲドとクモの間には因縁があった。危険が大きい知恵の書の知識に深く精通していたようだ。
2.死を誰よりも恐れている。大変な力を持っているが、それがすべて死を拒否することに使われていただろうということ。齢を重ねた、したたか者が、生じる結果をよく考えもせずに使った場合は、災いは世界全体に及ぶかもしれないこと。闇を破壊し、太陽を正午の位置に釘付けにしようとはかった奴まで出てくるというのだから、個人的な力などで社会問題を引き起こせるはずもない、という現代社会に生きる我々の感覚とは別物であることを指している。ひよっとすると、世界の大富豪や強大な国家権力者が、個人的でありながら莫大な富や権力を使えば、全世界に及ぶ破滅的な行為ですら可能である、との示唆なのかもしれないが。
3.男はハブナーのクモと呼ばれていた。レスラーのような身のこなしで、腕が長いことからクモと呼ばれていた。ゲドが初見した時には、既に髪の毛が白かった。つまり高齢だった。何より、クモは死んでこの世にいないという話だった。
さまざまな島に行き、情報収集を行う二人。織物の染物職人が手業を失い、その者も闇の王の声を聞いたといっている。アレンも夢の中で闇の王の言葉を聞いている。一体何者なのか。闇の王は死んでも現世に戻してくれると約束したらしい。 航海中、見知らぬ島にいた現地民の襲撃を受け、ゲドが致命傷に近い傷を負ったところを、いかだの上だけで生活するという不可思議な民族に助けられる。
『「今では他の地域の魔法使いたちまでが、みんな、それに加えて、いかだ族の吟遊詩人までもが、持っていた術や芸をなくしてしまったのに、あなたはちゃんとご自分のものを失わずに持っておられる。どうして、それがおできになるのです?」
「自分の術以上のものを望まないからさ」ハイタカは答えた。』
静養し終えた頃、一匹の竜が出現する。
『「さっきのはオーム・エンバーだ」彼は言った。「セリダーの竜でエレス・アクベを殺し、自分もエレス・アクベに殺された、あのオームの血をひく竜だよ」』
オーム・エンバーは他ならぬゲドを探していた。昔出会ったとき、ゲドを殺さずにいてくれただけでなく、王たちの失われた神聖文字がどうしたら見つけられるか教えてくれたのだという。エレス・アクベの腕環が見つかったのは彼のお陰らしい。オーム・エンバーはゲドの質問に対して正直に答えているつもりだが、常人には理解しかねるところがある。
『あれが言うには、わしらの探している人間はセリダーにいて、いないんだと。……竜にとっては、ものをわかりやすくはっきり話すのは大変なことなんだ。頭のつくりがそういうふうになってないものだから。まれに、なかの一匹が人間に本当のことを話す気になっても、本当のことというのが、人間にはどう見えるかということが、竜にはまったくわかってない。そんなわけで、わしはやつに訊いてやった『おまえの父のオームがセリダーにいるのと同じようにか?』と……なぜって、ほれ、オームとエレス・アクベはセリダーで戦って、ともに死んでしまっただろう? すると奴は答えたものさ、『そうだ、いや、ちがう。おやじはセリダーにいけば会えるだろうが、セリダーでは会えんだろう、と』(中略)「たぶんやつの言う意味は、探す男はセリダーにはいないが、見つけ出すにはそこへ行かなければだめだという意味だと思う。おそらく、そうだ」』
この話し方では、到底読者の方々はこんがらがってしまうだろう。まとめるとこういうことらしい。
『西国に一人竜王がいて、おれたちを破滅させようともくろんでいる。向こうの力は強大で、ゲドに助けを求めてきたのだ。(中略)北上してこちらに来る途中、カルチェル島の上も飛んだし、トーリングゲイト諸島の上も飛んだが、カルチェルでは村人たちが祭壇の石の台に赤ん坊を寝かせて殺そうとしていたし、インガットではまじない師が町の人々に石をぶつけられて殺されるのを目撃した。村人たちはあの赤ん坊を食うのだろうか。あのまじない師が死の世界からもどってきたら、今度は町の人々に石を投げつけるようになるのだろうか。(中略)ありとあらゆるものの道理が失われていく。この世界のどこかに穴が開いていて、海の水がどんどんこぼれていっている。光もそうだ。だんだん薄れていく。おれたちは干からびた土に取り残される事になるだろう。言葉は失せ、死もまたなくなるだろう』
『この世界のどこかに穴が開いていて、海の水がどんどんこぼれていっている。光もそうだ。だんだん薄れていく。おれたちは干からびた土に取り残される事になるだろう。言葉は失せ、死もまたなくなるだろう』
この言葉は、ある意味ゲド戦記のストーリーを知る上で、最重要ともいえる言葉だ。単純にいえば、世界というお風呂の栓を抜いてしまって、生命の力という海の水が吸い込まれていってしまっているのだ。
アレンとゲドの二人が果て見丸という舟に乗って航海しているとき、竜が共食いをしているシーンが出てくる。アニメ版ゲド戦記の始まりのシーンでは、モブの風の司と船長が船上で目撃している。
『「竜はそのう……共食いをするのですか?」
「いや、人間と同じで、それはしないはずだ。だが、どうかしてしまったんだ。ものを言う力もなくしてしまっている。人間より先に言葉を獲得し、どんな生き物よりも遠い昔から生きているものが、あのセゴイの子らであるものたちが、なんと恐ろしいことだ、みんな、もの言わぬけものたちと同じになってしまった! おお、カレシン、お前はどこへ飛んでいってしまったんだ。まだどこかで生きていて、お前の仲間がこんな恥ずかしいことになってしまっているのを見ているのか?」』
カレシンというのは、竜の一族の中でも最も古くから生きているとされている存在で、オーム・エンバーですら、彼からすれば一年生だろうとゲドはいっている。このシーンの意味は、知恵のある竜が単なる獣のようになってしまったということだ。村人たちが赤ん坊を殺して食うのとさして変わらない意味だろう。
セリダーのオーム・エンバーはゲドに助けを求めてきた。竜王が破滅させようと目論んでいる。という、話の流れからして、ゲドとアレンが捜し求めている存在だろう。
『「そして、それはひとりの人間の、竜が言ったその男ひとりのしわざだとおっしゃるのでしょうか? とても考えられませんが……」
「なぜ? もしも、今、全土を治める王がいたとして、その王だって、ひとりだ。王はひとりで治めていくだろうよ。そしてひとりでこの世を治めることが可能なら、ひとりでこの世を破滅に導くことだって、やっぱり同じように可能かもしれない。人間ひとり、王にもなりうれば、闇の王にだって、なりうるものさ」(中略)
「王というものには取り巻きがいるはずです。兵士もいれば、使者もおり、大臣だっているはずです。王は取り巻きを通じて、民を治めるものです。その闇の王とやらの取り巻きはどこにいるんです?」
「わしらの心の中だよ。わしらの心の中にいるんだ。裏切者がな。利己心がいて叫ぶんだ。俺は生きたい。生きられるなら、世界中が灰になってもいいぞ! とな。りんごに虫がいるように、わしらの中にはこの暗がりには、小さな裏切者が潜んでいるんだ。そいつがわしらに話しかけてくる。だが、そいつの言うことがわかるのは、ほんの少数の人間だけだ。魔法使いとまじない師、吟遊詩人と職人たち。そう、それに英雄がいる。自分自身であろうと努めている人々だ。自分自身であるということは誰にもそうそうできることではない。大変なことだ。だが、永久に自分自身であること、それはどうなんだろう?」』
永久に、というところには、濁点で印がついている。こういう印はとても珍しく、わざわざ知らせるためにつけてくれたものだろう。
『邪な王がこの世を支配し、人は業を忘れ、詩人は言葉を失くし、みな盲(めしい)になる。今の状態が、まさにそれだ! 島という島にはびこる害虫。そして疫病。このただれをこそ、わしらは治さなくては。(中略)生は死から、死は生から生まれている。相対立しながら、両者はたがいを求め、たがいに命を与え合い、永遠によみがえり続けていく。すべてがそうだ。林檎の花も、星の光も……。生きてこそ死があり、死んでこそよみがえりがある。となると、死の訪れない生とは、いったいなんだ? どこまでも変わることなく、永遠に続く生とは? 死をほかにして何がある? よみがえりのない死をほかにして……』
世間一般では竜王などゲド一人しかいないと思われていたが、西国に一人竜王が出現したという。なぜ異変が起きているのかという解答を筆者なりに模索してみた。
闇の王が呼びかけてくる。死の国から現世に戻ってこられる、戻るための道の通行料が必要だ。通行料として今ある生命を差し出さねばならなない。そうすれば現世に戻りながらも永遠に自分自身でいられる。しかしその取引に応じてしまうと、魔法の手業が失われてしまう。これは何を意味しているのだろうか。魔法の法則は人々の魔法の使い方によって、心のありようによっても変化してしまうのは前述したとおりだ。現在ある法則、つまり生命という価値基準を捨てて、不死を望んだために、これまでの使っていた法則がなくなる、あるいは変更される。代わりに不死という名の法則を手にしようというのだろうか。
無制限に生き続けることを望む、その根底には、利己心があるのだゲドは警告している。
オーム・エンバーの話は、これまでの情報とは異なるものが含まれている。この世界のどこかに穴が開いていて、海の水も、光も零れ、だんだん薄れていくという。干からびた土に取り残される。言葉は失せ、死もまたなくなる……。何かしているのは西国にいるという竜王で闇の王。ゲドのように両方称号として所有している同一人物。事前に与えられた情報からすると、その正体は、ハブナーのクモということになる。しかし、ハブナーのクモはかなり前に死んだと伝え聞いている。クモは死を全力で拒絶するほど恐れていた。死者の国から戻るために、どこかに穴を開けたのは、クモだろう。
『永遠に続く生とは? 死をほかにして何がある? よみがえりのない死をほかにして』
生と死は手のひらと手の甲のように一つであるという言い回しがあったが、これは自然界における循環のサイクルのことなのだろう。その環を断ち切って、自分自身であり続けようとした。そのために、法則や秩序が崩壊したのだと、筆者は考えている。現在でも少子高齢化が叫ばれて久しい。どこまでも長生きしたいというのは、誰が思ってもおかしくない。しかし、自然の循環の摂理を超えた長寿は社会問題を招いてしまった。科学技術の進歩によって、あるいは不死・永遠の生命が確立される日がやってくるかもしれない。しかしそうなれば、自然界における循環の環は崩壊してしまう可能性も高いだろう。ゲドからすればそれは自然の循環を否定した永遠の死に等しいのではないか。
オームエンバーに案内された場所は、彼の棲家であるセリダーだった。
『地図のいちばん端のところにセリダーがあって、その先は無だった』
ここが、『さいはての島へ』というタイトルの原型になっているセリダーという島だ。人間が暮らして行くには到底適さない、浜の描写の初見からすると荒れ果てた島のようだ。竜の棲家として知られているが、この島の環境で暮らしていけることを考えると、ゲドの、竜自身が夢のようなものだ、という台詞を筆者は想起した。竜はどう見ても普通の生物とはかけ離れている。
オーム・エンバーの胸元で一晩休んでから、探索に出る二人の前に、クモの幻影が現れる。彼らは幻影と対峙する。
『砂山のいただきには、明るい日差しを浴び、海からの風にかすかに衣をなびかせながら、男が立っていた。男はじっとして動かず、その軽いマントのすそや頭巾が風にはためいていなければ、彫像かと見がまうほどだった。髪は長くて、黒く、つややかで、ふさふさとした巻き毛になって肩から垂れていた。背が高く、肩幅が広くがっしりとして、顔立ちも悪くない』
クモは態度が尊大になっていて、ゲドに自らのことを、わが主とか、王とか、我が君と呼べといい、本体に会いたいのなら、自分の好きなときに会ってやるといって消えた。にしても、かなりの芸達者だ。幻影に過ぎないのに、海の風に衣を靡かせるという芸の細やかさには感心する、声を出したり受け答えたりできるようだ。影の描写はなかったが、太陽にあわせて不自然でない形にしていそうである。
死者がうろつく不可思議な光景に驚くアレン。上陸二日目には、道案内をしてくれていたオーム・エンバーが言葉を失くしていた。
『ものが言えなくなった。やつまで、ものが言えなくなった。太古のことばがやつから奪われた。やつヘビのようになった。もの言えぬ虫のようになって、知恵も出口その出口を失った。だが、道案内はできる。大丈夫だ、ついていこう!』
二人はさまざまな死者に出会ったが、こともあろうに、歴史上最大の英雄であるエレス・アクベその人にも出会ってしまう。クモに操られているエレス・アクベの霊をゲドは術で開放する。ついに、クモの実体をその目で二人が捉えたとき、オーム・エンバーがクモに襲い掛かった。互いは相打ちになったはずだが、クモは再び立ち上がった。
『その顔には、一欠けらの美しさもなく、あるのはただ寿命を超えて生きてしまった人間の老残の醜さだけだった。口元には皺が寄り、眼窩はすでにとうの昔にがらんどうになっていた。ゲドとアレンはこうして、今、ついに、敵の本当の顔を見たのだった』
気づけば闇の飲み込まれるように姿を消したクモ。二人は探索を続ける。途中、死者と生者の境界線である、『石垣』を越えていく。この表現は、本来魂のみを黄泉の国に移動させたとき、境界線の意味を込めて石垣が存在していたはずである。なぜ、さいはての島セリダーに同じものがあるのか。魂ではなく、肉体を持ったままなぜ石垣にまでたどり着いてしまったのか。突入に関する明確な描写はない。そして、二人は不気味な死者の町を通過した。
『市場はどこもがらんとしていた。ここでは売り買いは行われていなかった。金をもうけたり、使ったりすることはなかった。作り出されることもなかった。(中略)人々は苦痛も、生命もすっかり癒されていた、怒りも欲望からも開放されてどの顔も穏やかだった。そして、そのくぼんだ目に希望の光はなかった。(中略)いっしょに死んだ母子を見かけた。子供は駆けることもしなけれぱ声を上げて泣くこともせず、母親のほうも、子供を抱くこともしなければ、見やることさえしなかった。愛し合って死んだ者たちが道で出会っても、ふたりはまるで他人のように、ただ黙って通り過ぎるだけだった』
元凶を探しに出たのはゲドだけではなかったようで、学院にいた長の一人、トリオンはついに二人に追いついたが、自らを見失っていた。
『「ここで何をしておられる、トリオン殿? そなたはまだこの国の人ではないに。もどりなされ!」
「わしは不死の人について、ここまでまいった。もう道がわからない」』
ゲドはトリオンを抱きしめ、石垣をのぼっていくように勧める。進み続けたゲドは、行く先に現れた道のことをアレンに話し始める。
『「そう、光の世界との境目だ」ゲドは答えた。「例の石垣と同じでな。あの山脈は、苦しみ、という名前でしか呼ばれておらぬ。あそこには、ちゃんとした道が一本ついていてな。ただし、死者がその道を通ることは禁じられておる。長くはないが、つらい道だ』
死者がその道を通ることは禁じられている。ならば、ゲドとアレンは、その道を通ることができるはずである。死者として、現世に戻ってくる道があるというウサギの言葉との違い。苦しみという名の山脈にある道は、生者が現世に戻る道である。谷間にまで降りた二人は、再びクモと出合い対峙する。
クモは驕り高ぶり、自らの成果を吹聴しはじめた。
『死をこの目で見た。だが、俺は受け入れないぞ。愚かな自然はそれなりの愚かな成り行きにまかせるがいい、だが、俺は人間だ。自然よりもすぐれ、自然を支配する人間だ。俺は自然のたどる道はたどらないぞ。どこまでも自分であることをやめないぞ!(中略)死から戻る道だ。俺は、この世が始まった時から閉じたままになっていた扉を開けた。だから今では、ここへ来るのも、生きている人間たちのところへもどるのも自由自在だ。人間の歴史が始まって以来、初めて、俺は生死両界の王となったのだ。しかも、俺の開けた扉は、何もここだけではない。生きている人間の心の中で、その存在の深みや知られざる場所でも、そいつは扉を開けているのだ。そういう闇をかかえこんでいる点では、俺たちはみんな同じだからな』
闇の王の声を聞いた者が手業を失う。そうした背景には、生死両界の「心」の扉ですら、クモは開けてしまった、それが原因らしい。いや、扉を開けるよう示唆した。開けてしまったのは声を聞いた人々自身だった。耳を傾けてしまったのだ。誰でも永遠に自分でありえるのなら、ありたいと願っても不思議でない。その心をクモにつけ込まれたのだ。クモとゲドの問答は続いてく。ゲドはいう。
『わしは生きている人間で、わしの肉体は太陽のもと、大きく巡る地球の、あのセリダーの浜にあるのだから』
描写は一切なかった。しかし台詞から察するに、セリダーの浜で休んだときには、ゲドとアレンはもう死者の世界への移動を始めていたことになる。セリダーという土地にはそういう現象を引き起こさせる何かがあったということなのだろうか。ただの死者の国に行くだけなら、どこからでも魔法使いならば行けるはずだ。クモがいる場所に続く道はここからだということだろうか。オーム・エンバーがこの地を目指した理由は、おそらくそこだろう。でなければただの遠回りにしかならない。
『暗黒の地を生きて通過し、真昼の遠き岸辺に達した者がわたしのあとを継ぐであろう』
この伝承を若い二人が話し合ったことは前述したが、それが可能なのは本来魔法使いだけである。しかしこの場合、アレンもまたその資格を得たというべきだろう。周囲の予想と異なり、魔法使いでなくとも、生きたまま、暗黒の地を通過しえたのである。
『死の国からあれほど多くの影を呼び出し、最大の知恵者たるわが王エレス・アクベまでも呼び出しておきながら、それがわからなかったのか。あのお方は、いや、あのお方でさえ、影と名に過ぎないということがわからなかったのか。あの方の死はあの方の生命を失わしめはしなかった。あの方を亡き者にはしなかった。あの方は向こうにおられる。ここではなく向こうにおられるわい。ここにはなんにもない。あるのは塵と影だけだ。向こうであの方は土となり、日の光になっておられる。木々の葉になり、また、鷲となって飛んでおられる。あの方は生きておられるのだ。死んだ人々はみな生きている。死者は朽ちることなくよみがえり、永遠に果てることはないだろう。ただ、そなたは別だ。死を拒んだからだ。そなたは死を失い、死を失うことで、同時に生を手放した。自分を救おうとして、たたが自分ひとりを救おうとしてな。(中略)そなたに自己と呼ぶべきものがあるか? ない。そなたが売ったのは、そうよ、そなた自身だったんだ。そなたはただで、何もかも放棄してしまった。それで、今、そなたはその後のがらんどうをうめようと、やっきになって、世界を、自分が失くした光や生命を、自分のところに引き寄せようとしているのだ。だが、それは不可能だ。大地の歌のすべてをもってしても、空の星のすべてもってしても、そなたのその空白は埋まるまい』
ゲドはクモの前で再び自然の循環のサイクルについて語った。ゲドの言うよみがえるとは、生まれ変わることなのだろう。不死を願ったことで、生まれ変わる事も手放してしまったのだ。自分自身を売ってしまったとゲドはいう。気づけば、クモは真名すら失っていた。何者でもなくなっていたのだ。ここでいう影とは、災いの影のことではなく死霊のことだ。クモが手に入れようしたものは永遠の自分自身だった。だが、売り払ったのものも自分自身だった。生まれ変わることも、死ぬこともできなくなってしまっていた。がらんどうになり、常に空虚になっていた。世界を自分のものにしても空白は埋まらない。
今まで自信満々だったクモの様子が一変する。散々困った様子をしたあと、クモは、
『「生命を」といった。
「クモよ、できることなら、わしもそなたに生命をやりたい。だが、それは無理だ。そなたは死んでいるのだから。しかし、死ならやれようぞ」
「無理だ!」盲(めしい)の男は叫んだ。「できっこない!」男はうずくまって、啜り泣きを始めた。(中略)
「おまえには無理だよ。もう誰もこの俺を自由にすることはできん。おれは両界を仕切る扉を開けてしまったんだ。おれにはそれが閉められない。いや、誰にもそれは閉められない。扉はもう二度と閉まることはないんだ。開いた口は引っ張る。このおれを引き寄せる。おれはそこにもどって行かなければならない。俺はそこをくぐり抜けて、またここへ、この塵と寒さと静寂の中にもどって来なければならない。開いた口がたえず俺を吸い寄せるので、俺はそこを離れることができないんだ。それでいながら、俺はその扉を閉じることもできない。開いた口は、やがては、地上の光のすべてを吸い込んでしまうだろう。川という川が、この死の川のように干上がってしまうだろう。俺の開けた扉を閉めることのできる力はどこにもないのだ!」』
筆者の魔法の推論でいえば、死者の領域にも生者の領域にも属さないクモは、両界の狭間に吸い寄せられてしまう。どちらにも属していないので、一時的に死者の国にも生者の国にも移動はできるが、長くは保てない。自分自身を保ちたいと願った男の哀れさを筆者は感じてしまった。あれほど強がっていたのも、実は虚勢だった。確かにクモは求めたものに達成はした。しかし、クモの望んだ形とはかけ離れていたのだ。よくわからない力を使って、良い結果が得られるとは望めない、そうゲドは話していた。
生死両界の扉の吸い寄せる力は、人の心の闇に繋がっていて、そこから人の手業を使うための力を吸い取っていたのかもしれない。そう考えると、一応の理屈は成り立つ。これがオーム・エンバーのいっていた穴の正体なのだろうか。クモは寂しさからか、一緒に不死身になり王となって君臨しようと言い出す。ゲドが穴を閉じると宣言すると、とたんに抵抗をはじめた。支離滅裂というか、正気ではない。閉じてほしいのもクモの本音であり、永遠に自分自身でありたいのも、王でありたいのも本音なのだろう。
穴というより、大きな一つの岩が割れていて、そこから吸い込まれているらしい。
ゲドは、生涯をかけて磨いてきた技と勇猛果敢な精神のすべてを動員して、開いた扉を閉じにかかった。アレンは初めて自らの立場に気づき、妨害するクモを剣で滅多切りにする。
『癒されよ!一(いつ)になれ!』
生と死は手のひらと手の甲のように一つであるという言い回しからすれば、大きな割れた岩は、生と死が一つであったのに、無理矢理に割れてしまっていると筆者は表現したい。生と死という割れた岩を癒して一つにするのだ。 岩は一つに癒され、穴は塞がれた。
死んでいる意味を失っているクモは再び動き出そうとしていた。
『この世の終わりまで語られることなき言葉でわしはそなたを呼び出し、この世の曙(あけぼの)に語られた言葉で、わしは今、そなたを解放する。さあ、いくがいい!』
ゲドはクモに何かを囁いた。
『クモは立ち上がった。彼は見える目でゆっくりとあたりを見回した。彼はアレンを見、それからゲドを見た。ひとことも言わなかったが、黒い目はしかとそれぞれに注がれた。その顔には、もはや、怒りも、憎しみも、悲しみもなかった。彼はゆっくりと踵(きびす)を返すと、死の川を下って行き、やがて、見えなくなった』
おそらく、ゲドは新しい真名をクモに与えたのだろう。死という形で開放されたクモは去っていった。
アレンにとって本当に大事な局面に突入していた。ゲドは力尽き、立ち上がることもままならなかったため、ゲドを背負ったまま「苦しみの道」をアレン一人で登りきった。ゲド一人では生還できない状況で、彼を助ける方法はアレンが頑張るほかないのだ。気づけば、アレンは霧がかった昼間の、セリダーの砂浜で倒れていたのである。『真昼の遠き岸辺に達した者』の意味は、このことだったようだ。立ち上がったアレンが見たものは、寝ている間に来ていた最大にして最古の竜、カレシンだった。伝説上の存在にして、未だに現存する存在でもある。カレシンに乗って、アレンとゲドはロークの学院に帰参する。駆けつけてきた人々の前で、ゲドはアレンにひざまづいていう。
『わが連れなりし王よ、ハブナーの玉座につかれたあかつきには、永く、平和に世を治めらんことを!』
ゲドは再びカレシンに乗り、故郷へと帰っていった。
『「ゲドの武勲(いさおし)」には、かつて大賢人だったゲドは、その後、世界の中心点なるハブナーの剣の塔で行われた、アースーシー全土を治める王の戴冠式に参列したとある。しかし他の伝承では、森に篭ったまま姿を現さず、戴冠式に出席しなかったという』
いくつか重要な資料があとがきや、設定資料集からみつかったので記載しておきたい。
外伝に別記されている設定資料より
『レバンネンが王位につき、ハブナー・グレートポートに最高裁判所と枢密院議会がふたたび開かれてからは、ロークは大賢人がいないまま今日まで来ている。もともともが学院の管理ともアーキペラゴの統治とも関係なかったこの役職は、もはや不要で、時代に合わず、大賢人の中の大賢人と多くの人々が呼ぶゲドが最後の大賢人だったと言われる日がやがてくるのではないかと予想される』
レバンネンとはアレンの真名である。大賢人から王の時代に移り変わっていく様子がわかる。普通なら、前政権が打倒される形が一番多いが、ゲドとアレンは協力する形で事を成し遂げた。大問題を解決した人物としてアレンは実績を得た。この物語の背景には、王族であったり領主の息子であったりしても特に何かしない限り周囲が認めないところがある。どういう役職か、有識者かなどではなく、実績によって周囲が認めていくのだ。こうして、ロークの学院の象徴たるゲドから、王権の象徴たるアレンに視点は移っていく。ゲド戦記は、力の物語、と訳されようとした経緯がある。この力とは、闇の王や災いの影、巫女アルハ、魔法使いの大賢人、ハブナーの王族、そして竜などといった、権力ピラミッド構造のトップの移り変わりや消滅などの物語でもある。ゲドとアレンは移り変わる時代の象徴の人なのだ。
補足情報
影・災いの影。
高慢と憎しみの心のあやつり人形となり、食い尽くされ、姿はそのままに、世の中を歩き、あまたの人を破滅に導くとされる。擬人化された名の無い存在。スペンサーという船乗りを内面から食い尽くし、成りすましてハイタカに接近して殺そうと企んだりした。高い見識があっても、力の扱い方、つまり様式を知らないまま行うことの無知と、心の傲慢さえあれは呼び出してしまう可能性がある。カルカド人はこの影を信仰対象としていた。人に災いを振りまくためにいる存在であり、影に良心がある表現をル・グウィンはしていない。精神医学用語のシャドウとはまったく異なる。ル・グウィンは財界人に対する非難をするような意見を出しており、恐らくはそれらに該当する人々の擬人化であると思われる。
『アニメ版ゲド戦記
宮崎吾郎編』
アレンは天変地異で窮地に陥っている父王を、いきなり刺し殺してしまう。これを偉大なる父駿の重圧に耐えられなくなった息子吾郎王子が、無意識のうちに障害を取り除くため父を殺害してしまう。この物語は、父王から受け継がれる王の重圧から逃れたい王子の物語となっている。ハイタカは単なる魔法使いとして現れ、生き方らしきものを示すが、ボーイミートゥーガールを再優先するかのような構成のために、端役に成り下がっている。ハイタカホームズの助手であるアレンワトソンの、魔法型推理小説の形態を削除してしまった。いってみれば、名探偵コナンを元に、推理の部分をなくし、ボーイミートゥーガールだけにしたのだ。換骨奪胎というより、ミミズのように頭と終わりだけで、うねうねとして起承転結がなくなった。そして精神医学用語のシャドウに影の内容をすり替えた。シャドウアレンを追う本物のアレンを登場させ、シャドウを受け入れることで、精神的な克服をする形をとっている。最後は捕まったハイタカたちをアレンが救い、ヒロインテルーをアレンが抱きしめる形でENDとなる。
ゴハおばさんが、ハイタカにあなたはアチュアンの地下墓地から助けだしてくれました、といっており、他のストーリーとの繋がっていますよ、と表現している。繋がっているので、設定も同じだ。お風呂の栓は抜けたままだ。なので生命はあの世の向こうへ流れていき、世界は破滅する。アレンが認められる形で玉座につくことで治安も安定しない。原作のアレンは、原因究明に人海戦術を使わないことを奇妙に思っていたが、それは誰でも黒幕のクモが倒せてしまうと、他の王侯貴族たちが王になる権利を主張できてしまうから、誰でも行けない場所にクモがいるしかない設定にしたのだ。なのにクモは現世に戻ってきてしまっている。
では天変地異の根本原因もわからず、当然にして解決しないままになる。細部の面で破綻しているのだ。なにより推理小説なのに推理の部分を外して、好みのボーイミートゥーガールにしたので、ハイタカが本来主人公なのに、いる必要性がない状況になっている。チェーホフの銃という言葉がある。この概念は「ストーリーには無用の要素を盛り込んではいけない」という意味を持っている。無理矢理に改変したので、無用の要素が増えすぎてストーリーとして破綻しているのだ。これではひどい評価になるのも当然だ。