woa さんの感想・評価
1.0
物語 : 1.0
作画 : 1.0
声優 : 1.0
音楽 : 1.0
キャラ : 1.0
状態:途中で断念した
思い出補正で過大評価された作品
上映時間は98分。1984年制作。
押井守の作品で、これほど過大評価された作品も珍しいだろう。
言っていることは単純である。
要するにラブコメの終わらない日常というものは主人公がヒロインに対して告白できない優柔不断さを象徴しているということだ。
一視聴者としては唖然とするしかないだろう。
この場合の告白というのは、ラムちゃんがOKすることは間違いないのであるから(この認識は認識で問題あるが)、主人公は単にみんなでバカ騒ぎする日常を恋愛の煩わしさで壊したくない。主人公のあいまいな姿勢にラムちゃんが異議を唱えるという話である。
自分は馬鹿騒ぎする日常を全否定するわけではないが、単に理念的な怠惰を社会的に肯定してくれという制作者の意図にはまったく納得がいかないのだ。
怠惰は1980年代の経済成長があってこそ自明視されていたかもしれないが、現在の縮小社会においては日常の貧困こそがテーマなのである。今この作品が評価されるのはそういう意味で反動的で時代錯誤なのだ。
そしてこの作品の怠惰に影響された世代が制作の現場に携わることで、よりアニメは時代遅れとなるのである。大多数のライトノベルが良い例だ。
高橋留美子の原作自体、自分は少ししか読んだことはなく、これも思い出補正で過大評価されていると思いたい。
今日常アニメが評価されるのは、最も貧困をテーマにしやすい媒体だからである。貧困の配分効率というのは、例えば一作品に掛けることが出来る作画枚数のことである。
貧困というのは、要するに何をどのように誰に配分するかという効率の問題だ。何かには、勿論利得や生活資源でも良いが、一番需要があるのはコミュニケーションの配分だろう。
ラムとの関係を優先させれば、当然他のヒロインたちとの関係はある程度切り捨てざる得ない。ビューティフルドリーマーはこの事実を理念的にキャンセルしようというのだから、それは無限に資源がある(日本は成長し続ける)と考えられていた80年代ならではの懐古趣味であろう。
このアニメには、押井作品全般に言えることだが、このような経済性が致命的に欠けているのだ。主人公は誰彼かまわず欲情するし、居候のラムちゃんにも食費や学費はかかるのである。
漫画だから良いじゃないか、という意見もあるかもしれない。
自分は漫画(アニメ)だからこそ、不断人が思いもしないような当たり前の貧困について言及すべきだと思うのだが。
(ただこれはあくまで80年当時の高橋留美子についてである。近頃の作品は未読なので言及するのは差し控える)