れのん。 さんの感想・評価
4.7
物語 : 4.5
作画 : 5.0
声優 : 4.5
音楽 : 4.5
キャラ : 5.0
状態:観終わった
精緻なビジュアルに感動 ☆ 愛より孤悲のものがたり
2013年5月31日公開 アニメーション映画(46分)
監督・脚本・原作・絵コンテ・撮影監督 新海誠さん
背景美術 滝口比呂志さん 制作 コミックス・ウェーブ・フィルム
キャッチさせていただいている方のレビューを読んで、ぜひみたいと思って視聴しました。
長文、ごめんなさい<(_ _)>
万葉仮名では、恋(こい)という言葉は、孤悲(こひ)とかかれているそうだ。
いにしえの日本人にとって、恋とは、「孤悲 = ひとりであること(あなたにあえなくてさびしいこと)が悲しい」であった。
この作品は、孤悲(ひとりであることの悲しみ・苦しみ)ゆえに、大都会の真ん中で壁にぶつかり、うまくあるくことができなくなってしまっている27歳のユキノが、12歳年下のおとなびた少年タカオとの出会いをとおして、すくわれて、再び歩み出す物語である。
自分の印象では、この作品のメインテーマは、タカオとユキノのラブストーリーというより、むしろ、「孤悲(こひ)」である。
やや地味な作品だと思うが、自分としては、ちょっと衝撃的というほど感動してしまった(エンタテインメントを求める気分のときには、この作品は合わないかも知れない)。
冒頭、雨粒が水面に落ちて 波紋がいくつも広がってゆくシーンから、ビジュアルのすばらしさにつかまれ、やや単調なストーリー展開にも、すっかり引き込まれた。
とにかく、映像の美しさが、尋常じゃない。
新海誠監督へのインタビューによると、 {netabare}監督は、絵コンテというより、紙芝居のようなビデオコンテを、一人で長い時間をかけて自分の声を入れてつくるそうだ。これがいったんできあがれば、作品全体の厳密な設計図になるので、変更を加えないとのこと。
さらに、新海誠さんは撮影監督として、描かれた背景とキャラクターを重ね、雨や光を加え、色をコントロールして合成を行なう。
こうして、作品の入り口と出口をコントロールすることによって、自分が求めているクオリティーを保証するというのが、新海誠監督の「作家性の強い作品」をつくる方法である(参考 新海誠監督インタビュー)。 {/netabare}
新海誠さんは、ご自身が思春期のむずかしい時期に、「美しい風景によって救われた」という体験をとても大事にしている。その思春期の体験が、新海監督のアニメ作家としての原体験の一つなのだろう。
それゆえ、新海監督の作品では、風景の美しさが半端じゃないのだ。
雨は、この作品でたいへん重要な役割を持っており、作品中の7割以上の時間で雨が降っている。
新海監督はこの作品の制作にあたって、雨の描写に徹底的にこだわって力を入れたそうだ。池に落ちた数多くの雨粒の波紋が広がるシーンとか、雨粒がはねるところとか、「ここまでやるか!」と、自分は、うなってしまった。
列車の複々線の複雑な高架線、新宿御苑のさまざまの木々の緑、夏の雲と雷鳴、透明な傘をとおしてみる向こうの景色、コップからたちのぼる湯気、黒板にチョークで書かれた文字など、この作品は、精緻なビジュアル表現にみちている。
雨を中心とする精緻なビジュアル描写が、繊細な心理描写と深いところで共鳴し合っている。そのようにして、物語の叙情性が視聴者の胸にしみる。ラストシーンの感動にむけて、知らないうちに、ユキノやタカオへの感情移入が深まっている。
ラスト、雨の踊り場シーン。
ユキノとタカオは、はじめて感情をさらけ出し、二人の孤悲(こひ)のものがたりが、ぎゅっと凝縮する。
最初みたとき、自分はこの場面に、ひどく感動してしまった。何回みても、涙腺がおかしくなる。ありがちな弱さを抱えて苦しむ平凡なユキノに、どこか自分を重ね合わせているのかもしれない。
ユキノが泣きじゃくり、タカオに抱きすがりながら叫ぶ、 {netabare}
「まい・・あさ・・・・
ちゃんとスーツ着て・・・、わたし・・・
ちゃんと学校に行こうとしてたの・・・、でも怖くて・・・・、どうしても行けなくて・・・・・・・・・
あの場所で、わたし・・・、わたし、あなたに、すくわれてたの!(タカオの腕の中で号泣、タカオも号泣)」{/netabare}
ここのユキノのセリフは、最初聴いたとき、何を言ってるか聞き取れない部分があった(監督から花澤さんに、演技についての指示があったのだろうか?)。
くりかえして聴いて、やっとユキノのセリフを聞き取ることができた。
ユキノは、タカオの告白に対して{netabare}「わたしもあなたが好きなの!」と、いっているのではない。 「あの場所で、わたしはすくわれてたの!」といっているのだ。その「すくわれていた」という言葉に、自分は心が震えた。{/netabare} このシーンでの、ED曲・「Rain」(作詞・作曲:大江千里さん/歌:秦基博さん)の入り方は、演出効果が大きい。
27歳のユキノは、15歳の少年タカオの前で、こどものようになって自分をさらけ出してしまう。社会的な立場での二人の関係{netabare} (同じ学校の生徒と退職する教師){/netabare}もぬぎすててしまう。雨の東屋で、そうだったように。
ユキノの孤悲(こひ)の苦しみは、タカオに洞察されており、「そうやって貴女は一人で生きていくんだ!」というタカオのセリフに表現され尽くされている。号泣して少年の腕に飛び込んでゆくユキノは、この孤悲の苦しみから、だれか信頼できるたしかな人の手に飛び込もうとした。
このアニメでの花澤さんの声は、他の作品での彼女の声と比較して、大人の女性を演じており、たいへん印象的である。タカオ役の入野自由さんの演技もすばらしい。
ユキノは、自分としては好感が持てる、普通の、やや平凡な女性である。ただ、自分もそうであるように(あるいは、多くの人がそうであるように)、ユキノは弱さを持った人間である。タフではない。タフなのはむしろ、12歳年下の少年タカオの方だ。
ユキノは、四国の田舎から上京して、職場の同僚との恋愛も、優しいばかりで体面を気にしている元彼に傷つけられて終わってしまい、ちょっとした職場の困難にぶつかって、「うまく歩くことができなく」なってしまう。味覚障害という、ストレスから起こった症状に苦しんでもいる。
歩けなくなっているユキノに対して、靴職人になるのが「大人には理解されない夢」だと思い込んでいる少年タカオ。
たしかに、今の時代、靴のほとんどは大量生産されているだろうし、靴職人として生活を成り立たせることがはたして可能なのか、彼の夢の実現に向けて、道は険しそうである。大人たちが、安易に彼に、「その夢はねぇ、現実には・・・」とでもいってしまいがちな状況は、彼も理解しているのだろう。
しかし、タカオの「靴職人になりたい」という夢は、タカオという少年の存在そのものの、根っこのようなものではないだろうか?
「歩けなくなっていたのは、自分も同じです」と、タカオが言うのは、そういうことを意識しているからだろう。
雨の東屋で、年上の心惹かれる女性であるユキノに、自分の夢を聴いてもらえた、その体験は、タカオにとって貴重なものだった。
このように、二人の孤悲(こひ)は、シンクロしている。
新宿御苑の東屋、雨の日だけに約束もしないのにあう二人。
まわりは雨、雨が降るから他にはだれも来る人がいない。
雨に守られ、この限定された、二人だけの不思議な時間と空間に守られ、二人の非日常の出会いの物語が展開する。 雨は、この作品では、「第三のキャラクター」であった。
{netabare}「あの、俺、ちょうどいま、靴を一足つくっているんです。」
「だれのかは決めていないけど、女性の・・・・、靴・・・。」
もちろん、「だれのかは決めてない」というのは、タカオの配慮であって、ユキノも、自分のためにタカオが靴をつくってくれていることはわかっている。{/netabare}
靴も、この作品では、あるけないユキノをすくいたい、少年の切実な気持ちの現れとして、大切な象徴的意味を持っている。
ユキノは、靴のサイズのために素足を測らせるが、ユキノがこの空間で少年に心を許し、よほど親しみをもっていることの表現でもあろう。
新海誠さんのチームにとって、美術の滝口さんの存在は大きいと思われる。新海監督も、滝口さんに深い信頼感をもっておられるのだろう。
ビジュアルの完成度はすごいのだけれど、今後の新海誠作品に大きく期待している自分としては、ひとつだけ、少し気になったことがある。
それは、メインキャラのキャラクターデザインをもうすこし工夫できれば、作品の完成度と感動の大きさがさらに強いものになりそうなことだ。
とくに、ユキノのキャラデザ。 {netabare}
27歳の普通のまじめそうな女性、年下の少年に思いを寄せられてもおかしくないイメージ・・・・、そういう点で、この作品のキャラデザも、わるくはないと思う。
思春期の男子が、年上の女性(20代くらいの先生)になんとなく思慕するというのは、よくありそうなことだ。ただ、この作品では、思慕にとどまらず、雨の東屋という不思議な時間と空間の力で、二人は急速に親しくなる。そういう関係性を考えれば、もうすこしはっきり、ユキノを、少年の目線からみて、「なるほど、この女性なら、思いをよせるのもわかるなぁ」というキャラデザで描いて欲しかった。ユキノについては、眼差しや仕草、表情の描写もすばらしい。また、cvの花澤香菜さんの演技が(ラストの踊り場のシーンなど、とくに)ちょっと感動的なほどすばらしく感じられただけに、キャラデザがもう一歩・・・、と感じたのは、自分だけだろうか?{/netabare}
日常で起こりうる物語なので、実写にできそうな作品にみえる。しかし、孤悲(こひ)というテーマを、美しいビジュアルに心理の綾をシンクロさせながら描くには、アニメのもっている力が、表現手段としてはるかにすぐれていると感じた。