退会済のユーザー さんの感想・評価
4.0
物語 : 5.0
作画 : 2.5
声優 : 4.0
音楽 : 4.5
キャラ : 4.0
状態:観終わった
言葉にできないけど超好き
むかぁし、白川郷、行きましたよ、へへ。
知人に誘われたのを断ってひとりで行きました。おかしいでしょう。でもね、やっぱり数人で行くと「あーあれが圭一の家なんですねー」みたいな、ザ・聖地巡礼みたいになっちゃうでしょう。アレがねー、ちょっと、嫌だなぁと。ぼかぁね、少なくともこの作品においては、そういうのは、嫌なんすよ。絵馬にイラスト描いたりね。周囲がやるのはほほ笑ましく見ていられるが、自分でやるのはちょっと僕の想定していることとは違う。僕は聖地巡礼ではなく「帰省」するくらいの腹積もりだった。要するに「あれが園崎のお屋敷なんですねー」みたいなことはやりたくないんスよ。ひぐらしグッズももちろん買わない。だってだってよ、魅音が魅音の下敷き使うかぁ?使わないだろ!そりゃそうでしょうよ。『Like A Virgin』を聴いてごらんなさいよ。処女が「まるで処女みたいにドキドキしてるの!」って言うか?言わねぇだろ!つって。そういうことですよ。わからん?あとは察しろ!クエンティン君いいこと言うなぁ。じゃあ何をやったか。荻町城跡展望台の上で梨花ちゃまになりきって「フッ」と、絶望の淵ですべてをあざけるようなニヒルな笑みを浮かべてみたりだとか、展望台から村のほうに続く道を、下校中の圭一になりきってとぼとぼ歩いて、たまにハッと後ろを振り返ってみたり(鉈を持ったレナがついてくる妄想に心血を注いでみたり)、そういうことをシコシコやってきたわけですよ。もちろんiPodにはサントラ、キャラソン集、イメージソング集ぶち込んでそれを聞きながらひとりで再現するわけよ。今でも思い返すたび、あのときのさまざまな記憶がバーっと甦ってくる。天気とか木々の匂いとか歩き疲れて足が痛くなったこととかの具体的な身体感覚と、ひぐらしのキャラになりきって村を散策したことと、『ひぐらしのなく頃に』という作品の世界観、これら現実、仮構された現実、虚構の3つのレイヤーが記憶のなかでない交ぜになって、何が現実でなにが虚構なのかよーわからんすさまじいスペクタクルが浮かび上がってくる。なんちゅう記憶捏造力。変な脳内麻薬感がでてきてなんともいえない感じになる。まぁこれはたくさんある僕のひぐらし関連の想い出のひとつやね。
自分にとって本当に大切な作品を語るとき、いつも不安になることがある。
1.さまざまな観点のなかからどれか一つを選ばなきゃいけないことに対する不安
2.それじゃあ自分のなかにある作品の感覚質(使い方適当)はまったく何も捉えられていないことに対する不安
3.書かれている文章には決してあらわれない、しかも語らなかったことの単なる総和ではない豊穣さをもったいわく言い難い感覚をわかってもらえているかという不安
これは人の感想を読むときもまったく同じ不安にさいなまれる。
キャラ萌えとか社会反映論とかテクスト分析とかホラー文脈とかミステリー文脈とかノベルゲームのループ構造をメタ的に取り入れたとかベタな物語分析とか、とにかく一つの作品を語るとき、玉石混淆いろーんな語り口がある。
ある作品を見てパッと「あ、これはこういうことね、こういうことがしたいのね」「これは良く出来てますね」みたいな、そーいうドラスティックな語り方をサラサラッサッサーとやられてしまうと(それは仕方ないことなんだけど)その人には世間で流通している部分(どのような手法を採用しどのような切り口を見つけてもそういうのはほぼほぼ流通している)には決して回収されることのない、その人個人の内部で発酵されたうま味みたいなものが、ないように見えてしまうことがある。少なくとも僕には感じられないときがある。
そういった流通しないものは、他人と共約不可能なもので、そうである以上比較したり評価の対象にはなりえないんだけど、その「私秘的な何か」こそが本当の価値(価値ではないのだけれど)の源泉だ、ということを了解しているかどうか。ここがとっても大切になってくる。これこそが自分にとっての「ひぐらしのなく頃に」の本当の現場なわけです。でもそれは言葉でそう簡単に語ることはできない。ここが歯がゆいわけ。ここが(アニメに限らないけど)作品を語るときにいつも歯がゆくてもどかしい。
古代ローマ帝国の元老院議員ググレカスに範をとって「ひぐらしのなく頃に」で画像検索してみてほしい。いろんな画像がわっと出てくる。ほとんどは有名なシーンや残酷なシーンや二次創作。でもここに出てくる流通しきったイメージには決して回収されない「流通しないもの」がある。画像だけじゃない。世間で流通している「グロ」とか「ホラー」といった言葉であらわされる描写や、あるいは「信じる心」や、「仲間に相談することの大切さ」といった言葉であらわされる主題とはまったく異なる「ひぐらしのなく頃に」があるんです。それは決して流通しないんです。その感じ、分かる人がどれくらいいるのかちょっとわからないんだけど、そういうのがあるんだってことを担保してるかしてないかで全然まったくコミュニケーションのあり方が変わってくるように思うんスよね。どう変わるのかと言われると困るんだけど。何も自分だけを特権化するつもりはなくて、そういうのは誰にでもあるはず(リクツの上では)。だけど、そういうものがあることを了解するのは難しい。だから不安になる。ところで、今ぼくは流通というパースペクティブでごちゃごちゃ語っているがこれは失敗だった可能性が微粒子レベルで存在する。
なんでこんな話してるかというと、これは「ひぐらしのなく頃に」の作品内容に関係してくることだし、ひぐらしという作品に片足突っ込んでるどころか、もう鬼ヶ淵の底なし沼に全裸ダイブしてズブズブと沈んではや10年以上というか、心はすっかり鬼隠しにあってしまっている僕自身に関係してくることだから。これは本当に大事なことで。
なんかしょーもない一般論を振りかざして作品を外部からジャッジすることは容易い(本当に容易い)んだけど、ひぐらし(原作、アニメ、OVA、雛見沢停留所、ゲーム、漫画、それにラジオとかラジオCDとかドラマCDとか謎な奴も含めて)、総体としての『ひぐらし』にズブズブに浸かったカッコつきの『当事者』としては、なんか評価っていうっていうことに対する妙な空々しさを感じてしまう。だけどここが重要なポイントなんだけど、そういう空々しい語り口(言説レベルでの空々しさ)でも、それを語るあなた自身はまったく、まったく嘘臭くはないということを、その奥であなたが持っている何かを、とりあえず無条件で信頼することにしている、ということだ。でもそれはわからないことだ。あるのかどうかわからん。あるはずだ、ということで信じることしかできない。
とかいいつつ、ひぐらしオフで「圭一は部活メンバーの誰と結婚するのか」というきわめてインテレクチュアルかつ社会性に富んだ議題でアツく語り明かした夜とかもある。そういうモードもしっかり持つ。この適当さ、ゆるさ、そーゆーの大事ですよね。とにかく『ひぐらしのなく頃に』という作品は僕にとって思い出深い作品なのです。