素塔 さんの感想・評価
4.2
深化した夏
劇場版「あの花」は、作品としての正当な評価を受けずに来たように思う。
確かに、TV版の総集編として企画されたことは事実であり、
後日談やオリジナルエピソードなども追加されてはいるものの、それも
補足説明ないしおまけの趣向くらいにしか認知されていないのも無理はない。
抉るように尖鋭な心理ドラマが展開された本編とは対照的に、
嵐が過ぎた後の凪のような穏やかな印象で、本作は淡々と進行する。
めんまと再会した翌年の夏のある日、超平和バスターズの面々が
それぞれがめんまに宛てた手紙を持ち寄って秘密基地に集合する。
この手紙という媒体による構成がすでに婉曲なうえに、視点が各人に分散し、
そこに回想や近況報告が絡むことで、一層ダイジェスト感が強まるようだ。
だが、TV版を基準にしたこうした見方とは別の位置づけも可能だろう。
すでに「ここさけ」と「空青」について一渉り考えた経験を踏まえると、
秩父三部作を一貫する通有的なテーマを措定することによって
劇場版の自立したオリジナリティをさかのぼって捉えることができるように思う。
そのように見た場合、本作がもつTV版に対する補完的な面はむしろ、
十分な表出に至らなかった主題の深化を目指した「修正」なのではないか?
その中に新たな物語への発展の可能性が内包されているとすれば、本作の、
三部作の起点としての本質がそこに見出されるのではないだろうか?
Ⅰ ほんとうの願い
{netabare}TV版の問題点は最終話に集約される。要するに物語の核心であるはずの
めんまの願いから逸脱し、めんまが「のけもん」にされていることだ。
感情の昂るまま、めんまの成仏を妨げたものは自分たちのエゴだと決めつけ、
全員が自らのトラウマやコンプレックスを吐き出す集団懺悔は見せ場には違いないが、
情動を煽ろうとする余りの空回り感が激しく、むしろ興ざめしてしまう。
着実なストーリー展開を捨て、強引な勢いで押し切った背景には
全11話という話数の制約を演出によって補う意図があったのかも知れない。
その結果、「泣ける」アニメの代表格という定評は得たものの、
露骨過ぎる演出に違和感を抱く視聴者は、自分も含め少なくはないようである。
劇場版はまず、この難点の克服に向かう。
仔細に観くらべない限り見過ごされてしまうだろうが、実は
劇場版に挿入された再編集部分には、重要な未放送シーンが含まれている。
メンバーたちとの和解を成し遂げたじんたんがめんまを迎えに戻り、
すでに力尽きているめんまから、本当の「お願い」の内容が明かされる流れで、
彼が駆けこんでくる直前に、めんまの独白シーンが加えられている。
横たわっためんまが仏壇の方を向き、じんたんの母の写真に語りかける。
「おばさん、ありがとう。めんま、またみんなに逢えてすごくうれしかったの。
最後にちゃんとバイバイしたかったけど・・・。」
憶測だが、これは元々TV版にあったシーンがカットされたものではないだろうか。
改めてTV版を観ると、ここが構成上の大きな欠落のように感じられるのだが、
これほど重要なシーンが省かれたことにはただ驚くほかない。
めんまと母が交わした約束が明かされる場面への布石として必要なばかりでなく、
ラストにかけて秘密基地で展開されるクライマックスの前提となるからだ。
秘密基地では、メンバーたちが見えなくなっためんまを探し回っている間、
めんまがただ一人、仲間たちへの手紙を書き続ける。この行為がずっと望んできた
大切な仲間たちとの「お別れ」の実現であることが表明されているのである。
「まだ、まだだよ・・・まだ・・・ちゃんとお別れしなきゃ・・・」
劇場版には、ペンをとって手紙を書き始める場面も追加されている。
「まだ・・・みんな、ちゃんと待っててくれたから・・・
めんま・・・ちゃんと・・・」
そして、手紙が書きあげられると、
「間に合った・・・今度はちゃんとお別れできたよ・・・もう・・・」
「今度は」、つまり、「あの日」に果たせなかった別れが叶ったいま、
ようやく「もういいよ」が言えるタイミングになったところで、
訣別を前にした悲しみがこみ上げて最後まで言えなくなっているのだ。
めんまのセリフの中に織り込まれた「まだだよ」と「もう(いいよ)」は
ちゃんとお別れができるまでは消えたくない、という切実な願いが
これらの文句となってずっと、めんまの心の中で繰り返されていたものだ。
従ってラストのかくれんぼごっこは、このめんまの心の願いから理解されるべきで、
芝居じみた演出のようになってしまったのは、この心情が曖昧にされたためである。
仲間との告別に向かうめんまの内面をもっと濃やかにたどってゆけば、
彼女が一人一人に宛てて手紙を書くことも、ラストのかくれんぼごっこも、
すべてが内的に連関し、自然な高揚を伴いながら「めんま、見つけた」の瞬間で
頂点に達し、無上のカタルシスがもたらされたことだろう。
感情には感情の論理がある。本物の感動を呼び起こすものは
合理的なプロセスによって自然に喚起される、説得力あるリアリティーである。
劇場版にはおそらくこの反省に立ち、逸脱した部分を作品本来の形に復そうとする
リベンジとも言うべき方向性が認められるように思われる。すなわち、
TV版では後景に退いてしまった、めんまの願いをふたたび「前景化」し、
更新されためんま自身の願いによる、物語の本当の結末を提示すること。
めんまが秘密基地に書き残していった言葉、
「超平和バスターズはずっとなかよし」。
ここに物語の着地点が置かれることは、TV版のラストシーンでもじんたんの
「そうだ、俺たちはいつまでも、あの花の願いをかなえつづけてく。」
というセリフとともに映し出される点から明白なのだが、
劇場版ではかくれんぼの最中にじんたんがこの言葉を眺めながら呟く、
「きっと、これなんだよな。俺の母ちゃんの頼みじゃなくて、
めんまだけの、めんまのお願いってさ・・・」
着地点は同じだが、更新されためんまの願いがはっきりと明示される意味は大きい。
この願いに収斂するプロセスにいわば上書きをするように全体の印象を操作し、
TV版が踏み外した軌道を微修正しようとする意図が感じられるからだ。
すなわち、物語の帰結となる超平和バスターズの和解が決して、
メンバーたちの個人的、一方的な自己批判や悔い改めによるものではなく、
めんまの願いを中心に全員の想いが一つに融合した結果、実現したものであること。
彼らの心の救済がめんまとともに過ごした時間から生まれた奇跡であること。
こうした方向に作品の本質をさらに深めて提示しようとする狙いが
ここに読み取られるような気がするのだ。{/netabare}
Ⅱ 共にある季節へ
{netabare}「超平和バスターズはずっとなかよし」。
これが本当の、「めんまだけの、めんまのお願い」だとすると、
物語の軸となる「お願い」の内容はいつしか更新されていたことになる。
再臨しためんまが経過した時間は、このひそやかな更新の過程であり、
そこにはめんま自身の再び生きられた時間が刻まれているのだ。
そのように見た時、特に山場のない散漫な劇場版の構成において
核心をなす部分は、めんまの内面が開示される秘密基地の場面だと言えるだろう。
別れの手紙を書きながら去来する回想が、メンバーたち一人一人との
再会の経験によって占められている点に注意したい。そこには
この願いが生まれ、強められてゆく過程がめんまの視点からたどられている。
さらにそれが、心の痛みに裏打ちされていることも劇場版は伝えようとしている。
めんまの死による喪失が周囲に引き起こした苦悩。家族の分裂。
そして立ち止まってしまった仲間たちを目の当たりにした時の驚きと悲しみ。
「めんまがいるとね、みんな、悲しい気分になっちゃうんじゃないか、って・・・。
みんなが、めんまのことで悲しいのは、もう絶対にいやだって思ったの。」
この言葉には「あの日」突然、自分がいなくなって仲間たちを悲しませたことが
めんまの無垢な心に大きな痛みとなっていた事実がさりげなく語られている。
これらは補足というよりも多分、独自のコンセプトに即した掘り下げなのだ。
だから、このように言ってよいのではないか―、
劇場版が独自に追求するもの、それはめんまが生きた時間、
その再臨の夏の「深化」である、と。
あるいは劇場版それ自体が、めんまの「再臨」なのだとは言えないだろうか?
じんたんに背負われて秘密基地に向かうプロローグにはじまり、
導入部のパートはめんまのモノローグによって進行してゆく。
さらにエンディングの先にも、生まれ変わりを夢見るめんまが再登場する。
TV版には希薄だっためんまの視点が全編を包み込むように設定されることで
手紙の形で表明されていくメンバー一人一人の内面との間に
対話のような空気感が生まれる。この対話性、あるいは双方向性とも呼べるもの、
これこそが劇場版が獲得した新たな地平ではないだろうか。
そしてそれは、「かくれんぼ」をとおして物語のテーマの深化へと向かう。
劇場版は夏の日のかくれんぼにまつわるめんまの思い出にはじまり、
和解したメンバーたちがめんまを想い、また繰り返すかくれんぼで締め括られる。
冒頭ではめんまの視点から、最後は仲間たちの視点から、
今もそれがもつ深い意味、むしろ更新された意味を交互に語り交わすかのようだ。
めんまにとってそれは、じんたんへの想いと仲間たちへの信頼を象徴するもの。
一方、メンバーたちが再び興じるかくれんぼの意味はおそらく、
本編最終話のあの「お別れ」にさかのぼって、その中に求められるだろう。
一年前の夏、奇跡のように実現しためんまとの「お別れ」は、「あの日」、
止まってしまった時間が再び流れ出す決定的な契機となったのだった。
その時かくれんぼは、「あの日」に失われてしまった無垢で幸福な日々を
再現する作用によって、心の傷の治癒のプロセスを具現化する、
いわば「回帰」と「反復」による、再生の装置に他ならないのだ。
あるいはかくれんぼとは、見失われた自分を見つけ出そうとする、
内面的な営為の象徴でもあるだろう。その意味ではあのTV版の
集団カウンセリング風な自己批判にも一応の根拠は認められる。
ただし、ここが本質的な点なのだが、劇場版の軌道修正が目指す最終的な地点は
双方向性への転回によってこの自閉性を克服し、救済の位相を更新すること、
つまりテーマそのものにまで及ぶ深化を作品に遂げさせることだったと自分は考える。
秩父三部作を構成する作品群をトータルに見た場合、いずれもが自己の殻を破り、
他者との関係へと踏み出してゆく物語として総括できるものだとすれば、
劇場版で試みられた軌道修正にはこのベクトルが予見されているのではないだろうか。
めんまの願いに収斂させる方向性には、一つの想いを他者と共有することによって
実現する、関係性の深まりによる問題解決が表現されているようだ。
本作に続く第二作「ここさけ」は、この延長線上でテーマを顕在化させている。
原点=始まりへの回帰による救済という形で主人公二人の「再生」を描き、
さらにその中に萌している「共生」へのベクトルはミュージカルに具現され、
「再生」から「共生」へという、物語のテーマ的な深化が達成されるのである。
「あの花」のTV版から劇場版への深化は正しく、このプロセスを先取りするものだ。
「そしてめんまは俺を、夏の陽射しの下に強引に連れ出したんだ・・・」
再臨しためんまとともに甦った季節は、遠い夏の記憶と交錯しつつ、
めんま自身の「生きられた時間」を軸に、彼らの再生の日々が織り成されてゆく。
そして、じんたんが語る以下の言葉は、新たな季節とともに開かれた共生の地平に立ち、
そこに立ち現れてくる世界のすがたを見事に言い表している。
「おまえがもう隣にいなくても、ここにお前がいたって思うだけで、
なんか、今までの景色が違って見えるんだ。
ちょっとしたことが大切に思える。絶対に失えないものだって思える。いや・・・」
そして、しばらく間をおいて、この言葉が続く、
「失ったものなんて、何一つない。」
「あの花」の核心にあるモチーフは言うまでもなく「死」である。
そこで描かれた喪失としての「死」とは、不在でありながら
むしろそれ故に巨大な影を現実の上に投げかけるもう一つの現実だと言っていい。
そのような不在の実在を描こうとする、独特のオントロジーへの志向は
最終作の「空青」における「過去」の位相とも類比関係で結ぶことができそうだ。
その中で明確に提示されている思想は、喪失は錯覚に過ぎず、過去は取り返せる、
従って、生きられた時間にはすべて意味があるという、大胆な表明である。
この結論を先取りするように、秩父三部作を貫く力強い肯定が本作には宣言されている。
たとえ死であろうとも、共生の可能性をすべて奪うことはできない。
そのような「死とともに生きる」ことを肯定する「共生」の物語として
「あの花」は脱皮を遂げたのではないだろうか?
それは超平和バスターズの面々がめんまに宛てたそれぞれの手紙に
めんまとともに生きた時間を言葉に紡いでいく、劇場版の構成に端的に表れている。
さらにそこには、後続作品に結実してゆく本質的なモチーフがすでに予告されている。
「ここさけ」の「言葉」。「空青」の「時間」。
秩父三部作という集成はおそらく、このように定義できるのではないか―、
人間の生存にとって最も根源的な事象を中核的なモチーフとした心理劇、そして
それを通じて他者との関係性を追求し、肯定する作品群である、と。
その意味でもこの劇場版は、三部作の序章としての明確な個性を顕した作品なのである。{/netabare}
「死があたかも一つの季節を開いたかのようだった。・・・」
「あの花」で特権的に描かれた夏に触れて、ある小説の有名な導入が想起される。
同時にまた、死と季節をめぐる取り止めのない想念が沸き起こってくる…。
劇場版の枠組みとなる、めんまへの手紙を焚き上げるという着想には、
我々にも親しい夏という季節感を喚び覚まし、さらに印象を深める作用があるようだ。
魂に刷り込まれ、季節と響き合う日本古来の死者との共生のかたち、すなわち
親しい死者に仲介されながら、死というものに向き合ってきた死生観がそこにある。
あるいは「かくれんぼ」もまた、意識下で「かくりよ(幽世)」と結び合い、
往来の通路となるからなのだろうか、
「そうだ、かくれんぼしたら、見えるような・・・
そこにいたのに私たちにはずっと見えなかっためんま・・・
超平和バスターズのみんな一人一人に、
そして、この場所にもう一度、めんまが帰ってくるような・・・」
・・・そんな気がするのだろうか。
日本人にとり、幽世と現世(うつしよ)の隔たりはさほど大きなものではなかった。
三部作の舞台となる秩父の風土にはきっと、民族感情の古層が今も息づいているのだろう。
これらの作品が湛えている懐かしさと安らかさの源は、ここにあるのかも知れない。
(初投稿 : 2021/12/12)