nyaro さんの感想・評価
4.7
戦争責任、文明論、母性と地球。ガンダムがなぜ出来損ないなのか。
最近、富野由悠季氏の考え方に興味があって、ただ、あまりインタビューとか見るのが好きではないので、過去の作品を順番に見ています。
この時期は、ライディーン、ザンボット3、本作などの過去の古代兵器に興味があったようですね。これは海のトリトン(あるいはムー大陸伝説)の影響なのかもしれません。古代文明=兵器による争いで失敗した象徴として文明を重ねてみていたのでしょう。全滅エンド、主人公死亡エンドがこの時期描きたかったのは、おそらく戦争に参加し、人の命を奪った報いがどんな理由があったとしても必要だという思想なのかもしれません。
本作を見て、ファーストガンダムにおいて、アムロとシャアが生き残ったのは、戦争の責任と言う意味では、実際富野氏が描きたかったものと違う可能性を感じました。だから、逆シャアが必要だったんだろうと思います。Zでカミーユは精神崩壊する理由も同様ですね。
人類の進化としてのニュータイプというオカルト的な思想も持ちかけましたが、マリア主義=エンジェルハイロウ=人類補完計画を否定したと同時にニュータイプも否定しました。Zの時代にはもう否定し始めていますが、それが無いものねだりの願望だと気が付いたのでしょう。精神のつながりはあくまで個で個と個がコミュニケーションをとり、愛し合うことだと。ただ、その本質は実は本作イデオンの時代ですでに気が付いていたのかもしれません。
そのファーストガンダム時代に宇宙への進出により新たな人類への覚醒を考えたようですが、Vガンダム以降は過度な文明化の否定に移ります。それは本作でも表現されており1980年からあった思想なんだと思います。
そして、富野氏はミソジニー(女性嫌悪)の気も感じますが、一方で母としての女性に非常に深い想いがある気がします。ブレンパワードに端的に表れていますが、アニメになっていないベルトーチカ・チルドレンを見てもその考えは顕著です。その意味では逆シャアの赤ん坊設定を外したのはやっぱり本意じゃないんだろうな、と思います。
ファーストガンダムでカツレツキッカをホワイトベースに乗せたのも、次世代という意味では似たような意味だったのかもしれません。宇宙船の中に妙に生活臭がするのも本作と共通しています。
後にVガン、ターンA、Gレコと宇宙進出から地球回帰へと思想が変遷しますが、根は一緒ですね。母なる地球=女というのを強く感じます。男女が愛し合い赤ん坊を作り、赤ん坊を育てるにふさわしい環境を作り上げてゆく。そこに人類の本質を見ているのでしょう。カテジナルースが、女として男を愛するのではなく、女を利用して自己実現しようとした末路に、欧米的資本主義的な女性に対する強い拒否感を感じます。
そして「アニメなんか見てちゃだめだ」ということより「戦争アニメ」を否定したいけど、それしか描けない。つまり宇宙と戦争にあこがれがあるのではないでしょうか。その自分の矛盾にジレンマがあったのではないでしょうか。
全39話の作品+結末を3時間(映画180分。TV1本20分として780分以上です)の尺にまとめたので、4分の1以下ですね。発動編冒頭の青髪の女性(キッチン?)はコスモと恋愛関係がありそうでしたが、一瞬でした。とびとびで話は分かりづらいですが流れは充分理解できます。その理由はバッフクランの重要人物であるカララが地球の視点になるというストーリーの上手さがああるおかげでしょう。
カララの安易な冒険で、戦争がはじまります。命のやり取りは軍としての戦闘行為であり、個人のパーソナリティとは全く関係がない。また、なぜ、異星人と地球人がコミュニケーションできるのかという疑問も提示されます。これは2つの種族は仲良くする選択もあったということだと思います。また、性愛の力を強調するために、こういう構造になったとも言えます。
イデの力は赤ん坊であり、無垢性・純粋性の象徴です。その赤ん坊の生存本能はどう反応してどう成長するのか。赤ん坊のイデの力は、実は人間の意思と知能を集積してエネルギーに変えるもの。つまり文明そのものです。使い方を間違えると文明を滅ぼす。接触編においてそれを描きました。
発動編において、さらに赤ん坊が重要な役割を果たします。異星人と地球人がなぜ愛し子供を作れるのか。理性では間違っているとわかっていても、個々の思惑で戦争が激化してゆく。まさに、エロスとタナトス。人間の本質です。
結果としてカララですね。異星人と愛し合い子供を身ごもったカララを殺してしまった。これが話全体の象徴です。母とは今の我々、現在の人類。そして、赤ん坊とは無垢。可能性であり未来です。その未来を殺した。つまり、その行為で異星人、地球人ともに生き残る資格がないということでしょう。憎しみが人類の未来を摘んだことになります。
ただ、両文明とも男女で愛し合い赤ん坊を産み、文明を作るところまできました。そこでメシアの光です。惜しいところまで人類は来ていたのでしょう。今度生まれかわれば…可能性がある…のかもしれません。
最後のハッピーバースデイトウユーは「幼年期の終わり」ですね。富野氏のSFの造形の深さをこの物語から感じます。つまり、物質文明の終わりです。人類が裸の状態=精神だけになること=つまり、心だけの状態になることで初めて生まれ変われるのでしょう。資本主義的な国家の覇権や個人の競争の否定です。
映画だとわかりづらいですが、逆に短く圧縮した分、非常に胸に来る作品でした。そして、本作を見るとガンダムが出来損ないだという意味が良く理解できます。戦争を行った責任、女性と地球の母性、そして文明論…ですね。本来富野氏が描きたいことがファーストガンダムは中途半端でした。
なお、テーマ曲のセーリングフライは非常にいい曲です。