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『【推しの子】』2期 最終回まで
1期では主人公のアクア視点で俺TUEEE的な展開(年の功を利用した演技や言動で大人を翻弄・利用する)が多く、いわゆるなろう的ないけすかない主人公の活躍を中心に描かれていた。しかし2期では他の登場人物たちのエピソードがあり、このなろう的な不快感が少なかった。
特に吉祥寺と鮫島による漫画家同士の口喧嘩シーンは今までのなろう系展開と違い、自身の才能を過信して独りよがりな言動や態度を取ることを戒める内容になっていた。まあ主人公ではないサブキャラだからこそこの展開ができたのかもしれないが。
ただ主人公も舞台演劇において良い演技をするためには自分のトラウマをあえて思い出し、その苦しみを利用しながら演じるという、バトルものでありがちな痛みを伴う戦い方をしていた。これはなろう系ではあまり見られず、それこそ少年誌的な描き方だろう。ただ舞台演劇の公演期間中に、「アイ殺害を指示した黒幕への復讐」という本来の目的が一旦解決してしまった。その状態で苦しみを利用した演技ができるのかというのは疑問である。
総合的に見て1期よりは不快感が少なかった。ただ真の黒幕が別に存在していることが示唆され、だいぶ道なかばといった印象で物語としての評価はしにくい。また『サマータイムレンダ』のハイネのような黒幕の一味っぽい人物が登場し、だいぶフィクショナルな展開。そもそも転生要素がリアリティを強めていく物語とミスマッチだったが、この人物がどのように物語と関わるかで作品のまとまりが決まるのではないだろうか。
傑作・名作・佳作・凡作・駄作の個人的な5段階評価で言えば、凡作に該当する。原作が最終回を迎えるので、ぜひ最後までアニメ化してほしいところ。
『ネガポジアングラー』6話
鯛釣り回でありつつ、常宏とアイスの関係性が深まる回。物事に対して好き嫌いや得て不得手があっても経験を通して自身の中に新しい視点を取り入れることを緩やかに肯定していく内容。押し付けがましくもなく、攻撃的でもないこの作品の空気感は日常系の持つものとかなり似通っている。
6話終盤では常宏の歓迎会を開き、今まで関わってきた釣り仲間の温かさに常宏が絆されていく。船酔いも、パクチーも、集団での飲食も、そして釣りそのものや人間関係も、常宏にとって苦手で避けてきたものの楽しさに触れていく。常宏を通して退廃した視聴者に対して、人間性を再獲得させようとする作品である。
『ダンダダン』7話
アクロバティックサラサラ(以後アクサラ)の解決回。まさかのアクサラの悲しき過去が明らかになり、涙腺を刺激された。しかし、ターボ婆やアクサラなど怪異の動機が開示されていくたびに、ギャグ調で悪役にされ雑に処理された宇宙人たちとの非対称性が浮き彫りになる。今のところ宇宙人である必要性が感じられないので、怪異に限定して物語を進めた方が良かったのではないだろうか。
敵キャラに悲しき過去があるというのはバトル系ジャンプ作品ではよくある展開なので、特筆するところは少ないが、主要キャラは令和的な等身大の高校生のような印象を受ける。ただし少し実直で裏表がなさすぎる気もしないでもない。
『推しの子』って父(義父?)への復讐というテーマはシェイクスピアのハムレットと似てるね。ハムレットといえば演劇で、アニメとの関連で言えば黒執事がハムレットと似てるという評論もあったはず。
しかしこの主人公、あの性格で女にはモテるし母を殺されたという境遇ではあるが共感ができない。なろう系は俺TUEEEというより主人公様すごぉい♡であって、関心を向けられることが快感になっている。TikTokなどのSNSがそういう若者の心理を生み出していると思うのだが、作品がその手段に落ちては陳腐化してしまう。2期の範囲ではそういう描写が少なかったので気にならなかったが、やはりモテることだけは理解し難い。
デスノートのキラ的な、罪と罰的な社会正義も見えてこないので本筋が期待できなさそうなのも残念。
「1等・2等・3等・参加賞」のうち「3等」とさせて頂きます。
『ネガポジアングラー』 第8話
親子回で店長のダメ親としての側面が描かれる。この作品はマイノリティとマジョリティの塩梅がよく練られている。
マイノリティとしての外国人や欠如した社会性を描きつつも、その中に受容と福祉的社会機能を取り入れている。
クセの強い従業員を雇う労働環境や、陽キャ的でありつつも排他性を持たない関係性からは、この作品が社会の中で共存することを受容し、多様性の実存を認めるというメッセージ性を込めていることがわかる。それは現実的な成果主義や能力主義が根幹にある陽キャ的価値観ではなく、むしろリベラルな価値観をもとにしている。
少し前に京アニの『日常』をもう一回見ようと思い寝る前に見ていたのだが、いつの間にか2クール見終わっていた。
CLANNADやAIRで京アニは履修済みだったのだが、リアルタイムで京アニ作品を見るのは『日常』が初めてだった。確かニコニコの配信で見ていたので、当時の歌い手バッシングもあり、ヒャダインのOPが叩かれていた記憶がある。その時分の私は擦れていたのでこのシュールギャグを臭いと思い、好きになれなかった。ラーメンズ的なポーズを感じていたのかもしれない。しかし今見ると、面白くないのはみおちゃんの過剰なツッコミ(というよりゆっことの喧嘩)や囲碁サッカー部の新入部員、みさとの友達三人組ぐらいで、臭さよりもキャラの個性や関係性の豊かさに驚かされた。
ただし敢えて臭さを見つけるなら、知的とも受け取られるような珍しい語彙を散りばめる点、また時折何を言っているのか聞き取りづらい点が挙げられる。後者はdアニメストアの問題でないなら、おそらく京アニが日常的な発声に近づけるために意図的にそうしているのだろう(もちろん声優の演技力の問題も考えられるが)。しかし多分に王道ギャグ的演出をしているのだからそうした意図は記号的演出に対しミスマッチである。
『日常』で最も光っているのは笹原と立花みさとのコンビ、というよりカップリングである。記号的なツンデレキャラとお坊ちゃんの関係は、囲碁サッカー部や先生の絡みと同じく恋愛関係であり、散漫になりがちなギャグ作品に時間軸をもたらしている。また、俯瞰視点もしばしば見られる本作は男性をキャラとして立たせることに成功している。笹原はキャラを演じているという点でも女にモテているという点でも『はがない』の主人公と変わらないのだが、キャラクターになり得ているおかげで関係性萌えの世界へオタクたちを引き込むことができる。笹原は貴族を演じているのであり、そのポーズが綻びを見せるところに滑稽さとしての笑いと等身大の高校生としての笹原の魅力が生まれる。日常の不条理というテーマが恋愛するキャラたちを愛おしく見せる。
主人公三人組より他のグループの方が面白いというのはそれはそれでどうなのかと思うが、それぐらいキャラクターをデザインする能力があるということなのだろう。当時見たときよりも良いところが目立ったという感想であった。
『魔法使いになれなかった女の子の話』を見終わった。
『転天』と同じく百合ものでキャラデザはいいが、『転天』と同じく心の交流を欠いており百合擬態ものだと言わざるを得ない(他には『くまクマ熊ベアー』も該当する)
上述した作品はなろう系だが本作はそれとは反対に下降志向で、日常系をモデルにしているというのは確かである。しかし登場人物たちは自分の将来の夢にしか悩んでおらず、きらら系に見られる対人関係の悩みや甘え・承認といったテーマを欠いている。しかも主人公は親がエリート古代魔法使いであり、なろう的特権性さえ含んでいる。以上を考え合わせると、なろう系的個人主義の外に脱し得ない中途半端な日常系と言えるだろう。
おそらく作り手の意図としては魔法科の落第生たちがお互いにケアし合うことで生きがいを見つけていくストーリーにしたかったはずである。しかしこの主人公は開放的なキャラかと思いきや相談相手のユズ様に対しそこまで親しく自己を披瀝しない。それどころか常に自分の進路についてひとりでくよくよ悩んでいる。自分らしさとは何なのか。その悩みは進路の悩みの焦点化により影を潜めてしまう。
ユズ様はユズ様で主人公との出会いで大きな心境の変化がない。お互いに相手を必要とする関係にはなっていないように見える。心の交流というよりも自分がなすべきことを見つけ刺激し合うためのライバルのような、個と個との大人な関係のように映る。私の推測ではこの先の展開としてユズが現代魔法、主人公が古代魔法で、堀江先生と緑川先生の対立のようになるという、ハリーポッターのポッターとロンとの対立のようなストーリーを構想していたのではないだろうか。それゆえ日常系的なケア的関係にまで発展できなかった。
普通科の学生はどれも自分の夢を持っており、主人公も最終的には親の仕事を目指すという現代の若者のモラトリアムとは調和しない極めて理性的で世襲受容的な世界観である。決まってないことの不安を主人公しか抱えてないのも不思議である。このような理性主義・個人主義は水島監督の『終末トレイン〜』にも見られた。しかし人はもっと宙ぶらりんなものではないのか。
本作の現代魔法については原発のイメージが重ね合わされているのかもしれない。生命を生贄にして成り立つ魔力供給。人間の無限に膨れ上がる欲望に応えるため増強・稼働する装置。原発等現代のエネルギー政策のメタファーではないか。
古代魔法のイメージも万人に賦活されるという意味で左翼的ユートピア思想であり、合理主義的である。この物語自体が合理的個人の物語であることと共通する。
本作の評価は、私からは「1等・2等・3等・参加賞」のうち「参加賞」とさせて頂きます。