因果 さんの感想・評価
4.3
物語 : 3.5
作画 : 5.0
声優 : 4.0
音楽 : 4.0
キャラ : 5.0
状態:観終わった
楕円形の周回軌道
何かにそのものに強くフォーカスするということは、換言すればその何かの周縁を度外視するということに他ならない。レンズをクローズアップしようとすれば、必然的に視野が狭まるのと同じように。
いじめ問題にフォーカスした出来合いの寓話は世の中にはごまんとある。いじめられている被害者の受けたいじめが克明に、執拗に描かれ、最後は「いじめはやめよう」のメッセージがデカデカと表示されるいじめ啓発ビデオなんかがいい例だ。私は幼少期に学校でそういうビデオを見せられ、子供ながらにその浅薄さに呆れた覚えがある。
それらの寓話の中で、本作の主人公である石田のような人間は決して主人公にはなり得ない。単に悪の象徴として描画され、それ以上のディテールを与えてもらえない。彼はいじめという主題において加害者、つまり憂慮されるに値しない周縁だからだ。「いじめた生徒の性格はこうで動機はああで家庭環境はどんなで…」などと注釈が入るいじめ啓発ビデオがこの世界のいったいどこにあるだろう?
したがって石田を一人称として進行する本作は、数多の教訓的寓話が度外視してきた「いじめた側」という周縁性に目を向けることによって、ある種影絵的に、いじめという主題の実相を浮かび上がらせようとした野心作であるといえる。
しかしながら、終始石田に固定され続ける一人称的カメラアイを鑑みるに、本作もまた石田という一つの周縁性に強く狭く深くフォーカスしてしまっていることは自明だろう。街行く人々の顔に貼り付けられた「×」の印はまさにこの映画が石田の自我の射影であることの示唆に他ならない。
いじめという主題を公平に描き出したいのであれば、冷徹な三人称こそが最も適当であるはずなのに、なぜだろうか。
このことが示すのは、以下に述べる単純な事実である。
それは、何かが語られるとき、そこには語る主体が必ず存在するということ、そして語りはそれを語る主体によって、意図的であれそうでなかれ都合よくねじ曲げ、隠され、組み替えられてしまうという性質を持つということだ。
これは黒澤明『羅生門』の時代から繰り返し言われてきた、人間の語りのイネビタブルな性質である。
ここからさらにこういうことがいえるだろう。人間は畢竟どこまでも自分勝手であって、それは各々によってバラツキはあれど誰しもが抱えている原罪のようなものである、と。石田の一人称視点という形式は、人間にそういった傾向があることを強く示唆しているように思う。
あるとき石田は、自身の過去を清算するために、元いじめの標的である西宮にアプローチをかける。しかし西宮の妹は、彼のそのような行為を「自分が気持ちよくなりたいだけだろ」と厳しく糾弾する。このとき石田は明らかに言葉に詰まっている。彼は自分にそういう側面があることを決して否定できない。さればこそ、カメラは執拗に彼の視界を映し出し続けるのだ。仮にここで彼がもし「俺はそんなふうに思ってない」とキッパリ答えられていたならば、私はその時点で視聴を打ち切っていたに違いない。そんな人間はこの世界のどこにも存在しないからだ。
そして自分勝手なのは石田だけではない。いや、この作品に登場する誰もが自分勝手だと言っていいだろう。西宮いじめの事実が浮かび上がるなり手の平を返すように石田をいじめ始めた島田や広瀬。その不条理を見過ごし続けた担任の竹内。植野は傍若無人に石田やその周辺の人間関係をかき乱し、川井はどこまでも保身に奔走。真柴は事情も知らずに石田の過去を軽蔑する。永束は見ての通りの直情径行。
そしてもちろん西宮も例外ではない。過去の再演=調和という幻想を思い描くも、それが破綻を迎えようとした瞬間、自身の死をもって贖罪を果たそうと試み、その結果石田を大怪我させた。
このように、すべての登場人物に何らかの自己中心的=加害的な側面を描き出すことは、ともすれば安易な相対化である。「みんな悪いんだから、みんな許し合えるはずだよね」という。
しかし私がそこに浮ついた虚構をあまり感じなかったのは、それがむしろ現実世界における人間関係のリアルを克明に写実しているからだと思う。
誰かに酷いことをされた経験というのは、簡単には忘却できない。『ガン×ソード』や『巌窟王』のような後腐れない復讐劇に人々がカタルシスを感じるのは、まさにそのような経験が人間精神の中に大きく影を落としていることの証左である。
しかし現実において、これらのように絶大なカタルシスを伴って憎しみが浄化されることはほとんどない。信賞必罰とはフィクションの論理に過ぎず、実際には得のほうが多い人間や損のほうが多い人間がいる。
先ほど私は登場人物の全員が自分勝手だと言ったが、そこに明確なグラデーションがあることは付記しておかねばなるまい。たとえば、クラスの中で唯一大人という立場でありながら、一切の介入を行おうとしなかった担任の竹内と、慈愛と自己犠牲精神に満ちた石田の母親を、同程度の悪人と評することは不可能に近いだろう。
さて、それでは実際にはいったい何が我々を慰撫してくれてのだろう。それは時間や、交流や、あるいは偶然である。それらはゆっくりと自分を慰め、さらには憎しみで隔たれた自己と他者の境界線をも曖昧にしていく。「もしかしたらあいつもそいつも、俺と同じなのかもしれない」という懐疑が生まれ、許しが形成されていく。
ここではもはや総量的な問題は問われない。誰がより多く失い、誰がより多く得たのか。そういった問題はナンセンスであるし、そこが問われずに済むからこそ、我々は関係を修復することができるといえる。許しとは例えるなら江戸時代の徳政令のようなものなのである。
本作における人間関係の修復の過程もこれに近い。誰かが他の誰か以上に罪を背負ったり、背負わなかったり。そしてそういう不平等的な方法での再生に誰一人として口を挟まなかった結果として、あの大団円的なラストシーンが到来するわけだ。
もちろん私はここで「反省できる人間が人一倍反省してくれるから、少しくらい反省しない人間がいたって構わない」などということが言いたいのでは決してない。
現実においては、誰もそうしようと思っていなくても、必然的にそうなってしまうことが多く、本作はそのような「許し」の歪なプロセスがきわめて真摯に、写実的に描かれている、ということが言いたいわけだ。こういった手合いの作品は、殊にアニメという媒体においては類を見ない。
最後に。
『聲の形』とは、倫理をめぐる一つの惑星であり、我々はその楕円形の周回軌道上をぐわんぐわんと回り続ける小さな小さな衛星である。あるときは接近し、あるときは遠ざかり、その延々たる繰り返しの中で、我々は倫理のあるべき姿を模索する。
原作者の大今良時が本作に対する批判を甘んじて受け入れているのも、まさに本作が個々の倫理の試金石として機能していることに彼が自覚的であるからに他ならない。
したがって本作そのものに対して端的に「良い/悪い」のジャッジを下すことはあまり意味がないように思う。それよりは、本作を見て、その上で自分が成すべきことをじっくり考えるほうがよっぽど大切だろう。
いじめとは、エゴイズムとは、友達とは、許しとは、何であり、どうであるべきなのか。真っ黒になったスクリーンの前で腕を組みながら、いつまでも悩み通したい作品だ。
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