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「聲の形(アニメ映画)」

総合得点
88.4
感想・評価
1522
棚に入れた
7499
ランキング
116
★★★★★ 4.1 (1522)
物語
4.2
作画
4.3
声優
4.2
音楽
3.9
キャラ
4.1

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聲の形の感想・評価はどうでしたか?

ネタバレ

Tnguc さんの感想・評価

★★★☆☆ 3.0
物語 : 3.0 作画 : 3.0 声優 : 3.0 音楽 : 3.0 キャラ : 3.0 状態:観終わった

道徳アニメではなく恋愛アニメに近い

~
 聴覚障がい者へのイジメとその加害者を取り巻く不安定な青春劇を描いた本作には、ジェンガのようにいつ倒れるか分からないハラハラとした感覚が、強い圧力で充満されている。まばゆい陽光の中、ゆるやかな日常に張りつめる均衡が、不安でたまらない。そこには、未熟なコミュニケーションの連鎖によって周囲を傷だらけにしてしまう不器用な青年たちが、己すらも傷つけながら、どこかにある青春の答えを見つけ出そうと、もがき溺れていく様子が痛ましい程に描写され、観ている者も呼吸を忘れてしまう。そんな自らが蒔いた茨の道から、逃げ出したり、拒絶したり、否定したりすることで自分を正当化しようとする中で主人公・石田だけは自分の犯した罪と向き合っていく。さまざまなトラウマを、ときには手を取り合い、傷を痛み分けながら進む石田たちの青春劇は、いびつな愛の形であるものの、なぜか美しかった。しかし、なぜ石田は心を入れ替えることができたのか、なぜ西宮は石田と友達になってくれたのか、なぜ友達は石田を迎えてくれたのか、なぜ西宮の母は石田を許したのか、そういう一番大事な経緯は驚くほどに明言化されず、イジメや障がい者といったテーマに反して道徳的要素は殆ど描かれていない。結局のところ、京アニが得意とするハイクオリティ美少女アニメと何も変わらなかった。この作品で描かれたホンモノは石田の母が持つ我が子への無償の愛だけな気がする。

個人的評価:★★★☆☆(3.0点)

投稿 : 2020/04/18
閲覧 : 521
サンキュー:

23

ネタバレ

画王 さんの感想・評価

★★★★★ 4.9
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 4.5 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

声だけじゃダメなんだ

 登場人物の掛け合いの一つ一つに意味があり、それらすべてが作品のテーマにつながっていく、脚本・演出・作画ともに見ごたえのある作品です。本作を読み解く上で重要になる、聲と声の違いに注意しながらあらすじを辿ります。
 硝子のヘラヘラ笑顔(by植野)や会話ノートは、聴覚障害で周囲の会話を聞き取れないことから生じる、不安を表す聲です(※1)。友達や先生がその不安の聲に気がついて、硝子をフォローできる余裕があれば、イジメは起こらなかったでしょう。聲に気づかなかった結果、声を使える将也と友達は、声を使えない硝子に苛立ち、ディスコミュニケーションによるイジメ(無視)を始め、将也がそれを暴力に近いイタズラにエスカレートさせます。一方、罪悪感から免れたいイジメ友達は将也に全責任を押し付け、イジメの標的を将也に変えます。イジメられる対象になった将也は、やり場のない怒りを硝子にぶつけ喧嘩します。自分の感情を行動で表現する、怒りの聲です。硝子も自分を理解してくれない悔しさを将也にぶつけましたが、将也が硝子の聲(不安や悔しさ)に気づくことはありませんでした。
 数年後、高校生になった将也は、硝子に謝罪するために再会します。手話を習得し、大切な会話ノートを返してくれた将也に自分への理解を感じた硝子は、友達になりたいという将也を受け入れます。そして、自分のために友達と再会させてくれる将也の行動やユズルが話す将也の姿から、硝子は優しい聲(泣かせたくない)を感じ、将也を好きになっていきます。話すことや聞くことが不得手な硝子は、人の心情を頭で理解するのではなく、心で感じ取ることができるのです。
 しかし、イジメの呪縛は残酷です。将也と友達は、罪悪感に苦しみながら、過去に犯したイジメについて口論(あなたのこういうところがよくない)を始めます。イジメ友達が良心の呵責を共有している時点で、イジメた側の問題は解決しているのですが、みんなが自分の罪悪感から免れるためにお互いの人格を否定しディスり合います(オマエが悪い)。みんなが自分を守るのに必死で、イジメられた側の硝子の気持ちを気にとめる人は誰もいません。ここでも、ディスコミュニケーションを生み出しているのは、皮肉にも、声を使えない硝子ではなく、声を使える将也と友達です。憔悴し友達を拒絶する将也に対して、硝子は何も言えずに泣いていました。自分はみんなを不幸にすると思い詰め、ある覚悟をしていたからです。
 養老天命反転地のデートシーン。将也は硝子の切ない表情に、イジメていたときの表情をダブらせます。将也は硝子の表情から、不安や悲痛の聲を少しだけ感じとれたのです。しかし硝子は、ここから一気にフラグを立てていきます。
 そして、クライマックスの衝撃のシーン。バッドエンドかと思った瞬間、将也の決死の祈りが聲になって硝子の心を動かします。あそこから生還できるのは現実ではありえない奇跡で、回収の仕方がアニメならではの卑怯さです。しかし、硝子が訴えたかった心の叫び聲(不安や悲痛)と、あるがままを見ただけで(祈りの聲を感じて)、そのものの本質を洞察できる硝子の能力を、視聴者にわかりやすく伝えることできるのもアニメならではです。(よい子は絶対にマネしてはいけません、アニメを愛する者の掟です。)
 硝子は、倒れた将也のために友達再結集にむけて行動します。将也が教えてくれた聲(行動)を使って、自分の思いを伝えるために奔走します。その過程で、わだかまりのない硝子の聲を感じることができた友達は、イジメの呪縛から解放されていきます。わだかまりがないというのは、あらゆる聲を感じ取ることができる硝子が、みんなの気持ち(良心)を一番理解していたということです。そして、イジメた側がイジメられた側の気持ちを理解しなければ、イジメは解決できないということです。
 硝子が見ていた夢は、友達に対する不信や憎悪を感じさせない、楽しい小学生時代です。実際はそうではなかったのですが、硝子はそうできるという可能性を友達に感じているのでしょう。そうなるために自分は将也を必要としていると気づいた瞬間、硝子は目を覚まして鯉の橋まで走り、将也を失うかもしれない喪失感に号泣します。それにしても、硝子を心配する将也が、意識不明から目覚めて硝子のもとに駆け付ける行動力はスゴイです。ここまでくると、ハッピーエンドに向けてやりたい放題です。
 自分の気持ちをストレートに表現できる将也の行動力、鯉を愛で、花火を目をつぶって感じることができる硝子の感性(話したり聞くことができなくても、ありのままを心で感じる)、異なる聲を感じることができる2人が惹かれ合うのは自然でしょう(友情ってのは言葉や理屈、それらを超えたところにあると思うんだby永束)。そして、究極かつ同一の目的である生きることを、お互いに手伝ってほしいと思い約束します(※2)。
 文化祭のシーンで、あの植野が硝子の不安を感じ取ってツッコミをいれ、硝子が手話でツッコミを返すコミュニケーションは俊逸です。ラストで将也は、硝子から教わった大切なこと「聲を感じる」ために心を開きます。聲には様々な形があって、人を理解するには声だけでなく、いろいろな聲を使い感じ取ることが必要なのでしょう。
 初見はいろいろキツイところがあって感傷的になりますが、あらすじを知って冷静にセリフを追えるようになると、いろいろな解釈ができるので面白いです。

 ちなみに、竹内先生がクズすぎます。手話に興味を示さない、校長の前で将也を吊るし上げにして、指導してまーすポーズ、硝子が転校して「ヤバいのがいなくなってよかった、っと」。この手の達観した顔して先生やってる奴は多くいますが、文科省がこの作品とタイアップしたことに驚きです。立て続けに2人も転校していくクラスがあったら、今だとPTAが騒ぎだしてアウトだろwww。成長できないまま大人になっちゃた教育者も、将也と硝子を見習えってことなのかな。

追記
※1. 原作のネタバレ本では、友達になりたいという希望を表す聲という設定らしいですが、希望には積極的な行動を伴う必要があると思うので不安としました。
※2. 原作では、硝子本人が鯉の餌やりは自分が必要とされているようでうれしいと語っているそうです。しかし、映画ではそのセリフがカットされていて自分がそこまで深読みできなかったため、おそらく原作と映画で解釈を変えていると考えて鯉を愛でているとしました。映画冒頭で、鯉が泳ぐ水面に波紋が広がるカットがありますが、それは鯉を愛でる心象に聲が響いて広がっていくという描写だと思います。「a point of the light, the shape of voice」は、心に唯一存在していた一点の光(自分の聲)が、いろいろな聲によって光輝き満たされることで、生きる希望になっていくという意味でしょう。

投稿 : 2020/03/20
閲覧 : 261
サンキュー:

10

ネタバレ

ワドルディ隊員 さんの感想・評価

★★★★☆ 3.2
物語 : 2.0 作画 : 4.5 声優 : 4.5 音楽 : 3.5 キャラ : 1.5 状態:観終わった

早見沙織の演技は素晴らしい

この作品は、大今良時氏の漫画「聲の形」を
原作としたアニメ映画である。
アニメ映画を通じて、原作を知ったため漫画に関しての詳しい
コメントはできない。
ちなみに、酷評気味に書いてあるため
この作品が好きな方は見ないことを推奨する。

改めて見直してみると、かなりの長文になってしまったので
渋滞時の時間つぶしや、寝付けないときの道具に活用するか位の
心構えで見て頂ければ幸いだ。

あらすじに関しては、他の方がレビューを書いているので
それを参照したほうがいいだろう。ここに書かなくても
知っている人は多いだろうし。

京都アニメーションが制作しているということもあり、
作画にはとても気合が入っている。また、演出部分に関しても
こだわりを感じられる。私自身、ここ最近の京アニ作品を
見ていなかったということもあり、どこが良いのかピン
と来ていなかったが、安定と信頼の京アニと呼ばれる
理由が分かったような気がする。

植野は、ぶっちゃけ好きなキャラクターではないが
硝子をいじめた側の人間の中では、高く評価している。
なぜ、硝子をいじめるようになったのかを本人に直接
ぶつけている描写があったからだ。自分がいじめていたことを
きちんと自覚し、尚且つ2人きりで向き合った行動は凄いと思う。
だからといって、彼女が過去に犯した行為は許されるものではないが。

書いていて、余り気持ちのいい物ではないが、いじめた側
の人間の描写は丁寧に描かれていたように思う。小学校時代の
石田は、クズと言われても仕方のないレベルだし、植野や川井が
やってきた行為もかなり悪質である。
島田や広瀬は、植野や川井の行動に便乗した形で、いじめの
ターゲットを変えてきている。

特に悪質なのは川井というキャラで、八方美人的な性格が強い上、
自分の都合のいいように解釈するという危険人物。硝子をいじめた
自覚がないというのが厄介なもので、都合が悪くなれば他の人間を
巻き込もうとする悪癖も兼ね備えている。尚、原作では
「心底気持ち悪い」と鋭い指摘を受けており、
それにはかなり参ったらしい。当たり前だが。
川井の様な人間と出会ってしまった場合は、警戒する必要
があるなと常々感じた。

一番の原因は、竹内という悪徳教師が存在していたことだが。
教師がいじめを止めないとどうなるかというのを示したという
意味では成功した作品だと考えている。
とりあえず、竹内の様な教師は一刻も早く解雇して欲しい
ものだ。顔も見たくない。

この作品において、私が一番評価した点は、ヒロイン西宮硝子
を演じた早見沙織の演技力である。ヒロインが、先天性の
聴覚障害を持つ少女だということも相まって
演じるのはかなり難しかったと思われる。最後まで、きちんと
演じきった彼女は本当に素晴らしい声優だと誠に感服した。

ここから先は、気になった点を述べる。
定期的に、足のみが挿入されるシーンがある。一回や二回だけ
なら気にならなかったがかなりの頻度で使用されたので、
気持ちが映画からそれてしまった。
よくよく調べたら、山田尚子氏がよく使用する技法であること
が判明した。彼女によれば、「人は足に一番感情が表れる」とか。
なるほどね。確かに、足の動きは心情に反映されているのは
的を得ていると思うし、その演出自体は良い試みだと思う。

それにしては、余りにも足の出番が多いような気がするが。
彼女にとっては、足が本体で、顔がアシストという考えなのだろう。
もしや、足フェチではあるまいな?まあ、これは私の戯言なので
流石に違うと思うけど。

尺不足かなと感じる部分が見受けられた。まず、気になったのは、
主人公の中学校時代である。なぜなら、中学校時代の石田を少し
見せただけで、終わってしまったからだ。
高校生時代をメインに描いているとはいえ、もう少し中学校時代
の彼を描写して欲しかった。

尺の都合で一番割を食らってしまったのは、真柴 智という人物だ。
彼は、高校編で登場する石田のクラスメイトであり、川井の恋人
として位置づけられていた。見終わった後、彼について
調べていたが、いじめを受けた過去があったのが分かる。
しかも、竹内という悪徳教師が主人公とヒロインに言い放った
侮辱を見て、水をかけた正義感あふれる人物である。

本来ならば、ある程度真柴にも焦点を当てなければならない
のだが、130分のアニメ映画では限界が来たのだろう、彼に
ついての描写が完全に省かれているのだ。
そのため、川井についてくるだけのマスコットにしか見えず、
彼に対して感情移入することが出来なかった。ぶっちゃけ、
無理して彼を登場させる必要はなかったのでは?まあ、
今更こんなことを書いても仕方ないが。

主人公が、いじめのことを引きずるのは分かるし、硝子
に過去の事を謝りたいというのもかろうじて理解できる。
だが、「友達になれるかな?」とはどういう風の吹き回しか。
いじめられた側は、いじめた側の人間の事を骨の髄まで覚えているものだ。
いじめられた側は許すどころか、激怒するに決まっている。
むしろ、二度と顔を見せるなと一蹴するだろう。ふざけるのも
大概にしてもらいたい。

ただ、それ以上に理解できないのは、いじめられた側の
人間である硝子が主人公を許すどころか、恋愛感情を
抱いてしまっているのだ。これは一体どういうことなのだ!?
まあ、百万歩譲っていじめを許せたとしても、恋愛に辿り着く
というのはかなり不自然で不気味に見えてしまった。
末恐ろしい恐怖は正にこのこと。

実はこの作品、ホラー物だったのではあるまいか?まあ、
それはそれで興味深いものに仕上がりそうだが。
私が硝子と同じ立場の人間だったら、
絶対許せないし、確実に恨むのだが…。
「人間って… 面白!!」とどこかの死神が呟きそうな展開ではある。
終盤で、硝子が自殺を図るのも唐突すぎて頭が追い付けなかった。
これは、人間は弱い生き物だよということを比喩したのだろうか。
原作の場合は、どうだったのかかなり気になるところだ。

ラストに関しても、自分にはしっくりこなかった。いじめた
人間への免罪符という風にしか見えなかったからだ。
これを劇場で見ていたら、激昂していたのかもしれない。

この作品が、いじめを題材としているということも相まって
視聴者の生まれ育った環境にかなり左右されるアニメ映画だと感じた。
いじめの教材として見るならありだと思う。

ここからは、聲の形は苦手だけど、
ホラー物は好きだよという人に向けて。

{netabare}
怪怪怪怪物!という台湾制作の青春ホラー映画を視聴した。
恥ずかしながら、自分は動画サイトで知った口だが、
かなり評価が高く気になっていたものの、
他の作品に意識を向けすぎて、一時期は
この映画の事をすっかり忘れてしまっていた(笑)

他の作品が目的でレンタルビデオへ立ち寄ったのだが、
運よくこの映画を思い出せた上、在庫があったことを確認。
この機を逃すと見れなくなると判断し、借りることを決めた。

聲の形と同じくいじめを題材とした作品で、
主要人物がいじめっ子いじめられっ子の関係にあり、
悪徳教師が登場する等といった共通点はある。

だが、いじめられっ子がいじめに加担したり、化け物に
ひどい仕打ちをする、後半は惨劇が続いていくといったように、
全くの別物といっていい。
また、衝撃的な結末を迎えるため、耐性がない人が見るとかなり
精神的に来るものがあるだろう。

思い返して直に感じたのは、やはりいじめられっ子がいじめっ子に
恋愛感情を抱くのは余程の事がない限り不可能であるということ。

怪怪怪怪物!におけるいじめの主犯格は、想像以上の外道
として描かれており、机に悪質な落書きをする、首を絞める、
挙句の果てには、いじめられっ子を自分の所有物としか
認識していないので、他の人間が手出しすると
徹底的な制裁を加えるという有様。

また、いじめられっ子も自分がターゲットにされたくない
という一心から徐々にいじめっ子のグループへ加担
していくように。いけないことだと分かっていても、
こういう行動を取るのはやむを得ないと思う。
いじめられっ子の担任が、かなりの悪徳っぷりなため
それを助長している。

(これに関してはどっちもどっちだという見解だが)
両親の事を思い切り侮辱されたいじめっ子は、悪徳教師に
対してもきっちり報復をする。報復の仕方は
残虐かつ卑劣であるのだが、それ以上に恐ろしいのは
いじめっ子を含む他の人間は笑って写真を撮るだけなのだ。
いじめをここまで徹底的に描いた作品は中々ない。

この作品を通じ、人は環境や立場によって怪物のような
悪人へと変貌してしまうのだという事を学んだ。
人によっては反感を買うだろうが、仮にこういった
状況へ自分がなってしまったら?誰一人として味方がいない時、
正義を貫き通せるだろうか?非常に難しい問題だと私は思う。

自分としては、非常に見ごたえのある作品であることに間違いない。
ホラー物が好きで、尚且つこの作品に興味を持った人は一度視聴
してみてはいかがだろうか。かなりお勧め。
{/netabare}

投稿 : 2020/03/18
閲覧 : 1362
サンキュー:

33

ネタバレ

ツークツワンク さんの感想・評価

★★★★☆ 3.6
物語 : 3.0 作画 : 4.0 声優 : 5.0 音楽 : 3.0 キャラ : 3.0 状態:観終わった

硝子という聖人

心に響く場面(小学校のリアルないじめシーン)があったものの全体としてどうなのかなぁという感想

小学生時代の将也のいじめがえげつなさ過ぎて冒頭の自殺シーンは因果応報というか、理解できなくはないけど共感はできない
小中といじめられたなら高校くらいは少し離れた学校に通うとかしても良かったんじゃないかな
罪から逃げないっていう解釈だと自殺未遂とは繋がらないので、地元の高校に通う時点で生きるのを諦めてたのだろうか

硝子に謝るために手話を練習していたのは分かるけど、真っ先に謝ろうとせず大量の悪口書かれたノートを返すのは理解に苦しむ
過去のトラウマを抉るだけのノートを渡すとか鬼畜か
悪口が書かれたページくらい消しゴムで消すか破っておけよと
硝子が聖人だから許されてるけどどういう想いでノート受け取ったんだろうと疑問
将也のことが好き過ぎて盲目になってしまい、昔のノートを手話を交えて返してくれるなんて素敵だとでも思ったのだろうか
最初は拒絶されて段々と~といったステップも踏まずにいきなり赦されるものだから拍子抜けしてしまい、将也の贖罪が薄れて見える

硝子は自分の存在のせいで両親も離婚し、転校したことで将也がいじめられるといった経緯もあって全部の罪を背負い込み自殺しようとするのだけれど
障害者=聖人っていう安易な見せ方もこうなると疑問に感じる
エンタメだから良い面しか書かないにしても、全てを赦せる聖母レベルで人間味が全くないとなると障害者を美化し過ぎなんじゃないのかなって穿った見方をしてしまう
全部私のせいですからと背負い込む自己犠牲的人間がいないわけでもないのだが……
リアルないじめを描くのとは対照的に、あまりにも硝子が純粋無垢の聖人という点が歪に感じてしまう

観覧車での植野は罪を背負った硝子にトドメをさすのだが、そんなことも知らず硝子の母が土下座して謝るシーンは辛い
最後開き直ってる感あるけどお前の責任だぞって一番言いたい

尺の都合で描けないのは仕方がないけれども川井も大して改心した様子もなく、島田についても後で仲直りするかもね程度の投げっぱなしなので気持ち良く終われたという印象はない
コミュニケーションがテーマなのだから最後は全員と和解して綺麗に終わって欲しかった
植野とは最後に対等なコミュニケーションが取れたとしても前述の理由があるため謝罪くらいはしないと納得がいかない

川井のゾッとする気持ち悪さ、いじめの描写、小学校の先生など妙なところでリアリティを追及する割には硝子の存在がファンタジーになってしまったことと、気持ち良く終われる最後ではなかったので残念
障害=罪、障害者=聖人のような見せ方も実際の人から見たらどうなんでしょう

ただ早見沙織の演技は凄かったと一言だけ付け加えたい

投稿 : 2019/09/30
閲覧 : 380
サンキュー:

6

ネタバレ

退会済のユーザー さんの感想・評価

★★★★★ 4.3
物語 : 5.0 作画 : 4.5 声優 : 4.0 音楽 : 4.0 キャラ : 4.0 状態:観終わった

考えるきっかけになれば

レビューを書くのが難しい作品です。とりあえず感じたことを羅列します。

西宮さんが聾唖学校に行かずに普通の小学校に通わせたのは、普通の子と同じように通わせたいとの考えかもしれませんが、西宮さん本人がそれを望んだのでしょうか?
また、通わせることにしたとして、転校前にちゃんと学校側とどうすべきか話し合うべきだったのではと思います。
母親はなんとかなると思っていたのでしょうか。
担任が何もせず普通に自己紹介とか朗読とか普通にさせてるし、音楽教師も普通に歌わせようとしてるのはひどいなと思いました。

もちろん、いじめた石田たちはもちろん、悪口を言ったり笑って何もしなかった周りの奴らも悪い。子供って無邪気で残酷だから、時には平気で人を傷つけたりする。
子供の時に受けた心の傷は容易には消えない。

西宮さんはそれでも友達になりたくて手話で話しかけ、ノートで会話しようとします。こんな天使みたいな子いるんだろうか。

石田くんは西宮さんの補聴器を壊したことをクラスで糾弾され、それがきっかけでいじめられていきます。そして母親が西宮さんの母親に補聴器の弁償金を渡しながら謝っている姿を見て自分の犯した罪を意識します。
例えば石田くんがいじめられなかったら、はたして石田くんは西宮さんに会いに行ったのでしょうか。そのまま会いに行くことはなく、中学でも誰かをいじめていたかもしれません。
人間ってこういうきっかけがないと自分のしていること、相手の気持ちに気づかないものなのかもしれません。

石田くんは過去に自分のしたことを償おうとします。戸惑いつつもそれを受け入れる西宮さん。どんだけ天使なんだよ西宮さん。。
しかし上野さんにお前のせいで石田くんと友達の関係が壊れてしまったと聞かされて、西宮さんは自殺しようとします。

自分がいなくなればと考えたんだろうけど、自分が死ぬことで傷つき、悲しむ人がこの世界には必ずいることを忘れちゃいけない。
この世に不必要な人なんていないと私は信じたい。

石田くんが西宮さんに「生きるのを手伝ってほしい」と話すシーンはじわっときました。西宮さんは必要とされてるんだとちゃんと伝えられたから。

ラスト、石田くんの周りの人たちの顔についていたバツ印が剥がれます。石田くん自身も閉じていた心を開いたということなんでしょうか?

この作品は見る人によって見方や感想が分かれると思います。でも、この作品を見た人それぞれが障害やいじめについて考えるきっかけになればいいなと思います。

投稿 : 2019/09/23
閲覧 : 272
ネタバレ

Progress さんの感想・評価

★★★★★ 4.6
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 4.0 音楽 : 4.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

聲の形 レビュー

どういう切り口で話したものかと、様々な視点で語られる近作品。
登場人物たちに感情移入するような作品でもあるし、聴覚障碍について知る作品でもあります。社会問題を語れる作品という向きもあります。

私もいろいろと感想を考えましたが、上記の3つの性質とアニメーションとしての感想の範疇にしか収まっていません。
そこで歯がゆさもあったのですが、上記の性質ごとに感想を残しておこうと思うに至りました。

まず、1次的な感想「感情移入」については、
石田の罪に対しては共感できるところがあったんですよね。いつ謝るんだ、許されるな、逃げるな、救われるなという視点はずっとありました。
高校時代の石田の視点は、自己への罪の視点です。西宮の視点は許しの視点。

こういった、視聴者が登場人物の誰かの立場に立てるような構造になっている事が、様々な視点での感想を生んでいるんだろうと。

それは、小学生時代の、クラスでの役、いじめっ子や、いじめられっ子、傍観者、加担者等の、どこかに当てはまる人物を出して、どこかに視聴者がはまるような構造にしています。そして人物それぞれが、罪悪感を感じていることを描くことで、重ね合わせた人物の罪が自身の罪への意識を刺激するから、良くも悪くも擁護的になったり批判的になったりするのでしょうね。
それは、西宮といういじめられっ子、という人間が感じている罪悪感に対して、否定或いは肯定によって自己を擁護・批判する感想や、石田といういじめっ子が抱いた罪悪感に対して、肯定・否定することによって自己を批判・擁護する感想など、役が持つ罪の意識に対して、視聴者自身が持つ罪への意識や理解によって、様々な感想が生まれるんでしょうね。
かつ、クラスの中での役というのは、小中高の中で大小有れど変化が3回あり、複数の役を演じた経験から、作品中の複数の役に共感するから、複雑に考えることができるのでしょう。


2次的な感想「聴覚障碍」で言えば、コミュニケーション方法の一つが失われることによる、意思疎通の遅延、人間関係への影響です。
聴覚障害によって起きる意思疎通の問題に対し、様々なアプローチの提供、例えば、ノートに書く、手話を話す、表情で伝える。それらアプローチに対する結果の提示。結果は、情報の伝達速度、習得の簡便さ、正確な伝達力など、様々な評価基準によって示されていきました。
そして、コミュニケーション方法の一つを持っていないという事荷よって起こる事象を、西宮がコミュニティから疎外されるという結果を示しました。ここでいうコミュニティは、聴覚を持っている小学生のクラスです。コミュニティの障碍の許容というのを考えるには、小学生が許容を知っているかという問題があることで、考える必要性をあまり感じません。
つまり、聴覚障害によってコミュニティへの参加へのハードルが上がっている事を知ることで、聴覚障碍者への理解が深まる作品だと思います。


3次的な感想は、人間関係の中でも社会と接続された、いじめという問題につながっていきます。ここからは、映像的に不快だと思ったものも、敵としての表現だったではなく、何故必要だったのかを理由を考えなければいけません。

この作品における小学生時代のいじめ問題から展開される、「誰が悪い論」は、視聴者を誘導する意図が感じられます。そこから得られる作品構造は、登場人物としては被害者、被疑者、共犯者、傍観者、部外者等であります。そこで行われる行為は、暴力行為、非難、謝罪、罪の擦り付け、罰の執行(私的制裁、リンチ)などです。
誰が悪い論において、行為のほとんどは相手への自分から行う行為であり、行為を受け取った側は相手を自身の解釈で理解します。「この人は自分が嫌いである」と。

そして、相手からのいじめ行為に敵意を感じない、この枠に収まらないような人物が「西宮」です。彼女の論理は「自分が悪い論」です。なぜ西宮がそういった性格になったかはわかりませんが、彼女は自身に対してコンプレックスがあり、友達の意味は自分を受け入れてくれるような素敵な存在であったわけです。それによって、石田たちから受けるいじめ行為に対して、理解しようとはしなかった。彼女が友達への理想を崩さなかったために起きた、相手への無理解。

しかしここに落とし穴が存在します。いじめられっ子となってしまった「西宮」の性格を考えないこと。いじめられっ子が全て西宮のような性格をしている、とは言えないことです。西宮の「自分が悪い論」を持っているような人間でもなく、友達という理想を抱いているわけでもない。そんな人が、西宮の事を理解せず、こんな人はいないと、西宮の存在を否定することこそ、人への理解をできない現れではないでしょうか。
それもこれも、作品中の登場人物ほどに、他者を理解するという事を、世間は考えていないのが原因だと思います。
西宮と意見者の境界があいまいである事、西宮の性格を理解するという、本作品のテーマかつ魅力の部分を丸ごと切り捨てた意見が発生するのも本作を考える上で興味深かったですね。

つまり、西宮の個性を理解することというテーマと、いじめというテーマから読み解けるのは、相手を理解することを考えるというメッセージが、この作品に込められているのだと思います。


最後にアニメーションとして、こういう風に見せるのは面白いな、と思った点に、雑感を書かせていただきます。

①目線、目の美しさ。
 冒頭のシーンで小学生の植野の目線(目の動き方)が印象的。
 京アニという事で言えばけいおんの秋山澪の「don't Lady」を使用したEDの目線の細やかな動きに代表されるように、目線が非常に重要視される。
 また、ヴァイオレットエヴァーガーデンのように、繊細な目の光彩の描きは、京アニの武器であり、最近のアニメでも意識がある。
②顔にでっかくついた×マーク。
 ①で指摘した京アニの武器、目の美しさ、細かさをあえて隠すという、演出的だと感じた。
 周囲に×がついていないときは、石田視点ではなく、視聴者視点となる。視点の切り替えによって、感情の起伏を引き出している。

③登場人物の様々な目
 ①に書こうと思ったが、一応分ける。
 石田は三白眼、女性陣は京アニ特有の美しい目、島田は死んだ目、永束は何と言えばいいか、漫画的。
 そして印象的なのが、真柴。敵かと思うようなにやついた目。信用できない目。しかし、これが最大のポイント。島田もそう。
 死んだ目であろうがにやついた目であろうが、それは印象でしかない。
 作中の登場人物が真柴や石田をどう思っていたかはあまり語られないが、視聴者に信用できない印象や、心が死んでいるような印象を与えさせた。
 しかし実際のところ、真柴はそんな人を馬鹿にした人間でもなかったし、島田も心が死んでいたわけではなかった。
 目の描写によって人間性を描いてはいるが、それが全てではないという、パーツで見る事の不完全性があった。

④石田の目線、下向き
 石田視点でみた人物の脚の描写が多い。これは石田の塞ぎこんだ状況下での目線を示している。だから何だというわけでもないが、一応石田という人物の理解になる。

⑤心理的距離の表現
 印象的なのは、飛び降り前の西宮、石田の花火を見る河川敷のシーン。
 この時の石田と西宮の、実際の距離以上に距離を感じる、心理的な距離の表現が描かれている。
 ほかにも、そのシーンの対比として近づいたりするシーンや、登場人物のパーソナルスペースの距離を感じる描写がいくつかある。
 人が理解している物かどうかによって、またはその人の元々持つ性格によって、パーソナルスペースはその距離が変わる。


⑥聴覚と視覚の関係 
 石田の耳の塞ぎこみ。耳をふさぐという表現について。高校生になっても周りの声が自分の悪口を言っているかもしれないという理由で耳をふさいだ。
 この時の周りの描写に注目した。描かれるのは口元であり、目線は描かれない。
 目線はもしあってしまったら、怖いのだ。自分の悪口を言っているかもしれない人の方向は怖くて見れない。聞き耳を立ててしまう。
 しかし、実際は石田と関係のない話を周りはしている。それに気づかないのは目を見ていない、視覚を使っていないからだ。
 つまり、石田が聞き耳を立てている事によって感じる被害妄想は、聴覚だけわかる物事の不完全さや受け手側の心の持ちようを示している。

⑦ アニメーションの嘘 
人が好意を示したりであったりとか、そういった微妙な表情は実際の顔だと受け取りにくい。
裏で何を考えているかわからないような顔もしばしば。
今作では目と目を合わせて西宮と石田が話す機会が多い。逆に目を合わせないときは本音を話していないという描写もある。
その中で表情から相手の好意を自然と読み取るということを意識的に映像で見せている。ここが嘘というか、誇張だ。意識的に強く表情が焼き付けられるように絵を作っている。
表情という視覚情報をコミュニケーションのアプローチとして提示していた。

⑧石田のリハビリ
石田の目線が下向きである事、耳をふさいでいる事は前述した。この行為の意味は視覚による表情情報と、聴覚による会話情報を得る事を拒否していることを意味している。
この事実から得られることは、彼の視点から見える×は、石田にとって情報を遮断している対象のマークであるという事だ。
ラストシーンで耳をふさぐことをやめた事からも、彼の心のケアが描かれている事は間違いない。

⑨聴覚の代替方法としての手話
 本作では手話によって会話が進行するシーンがある。
 石田がいちいち手話を言葉にするところがリアルでないという考えもあるが、手話を分からない視聴者を物語から置いてけぼりにしないために、やむを得なかった部分がある。
 手話を見せることによって発生するのは、手の描写である。
 手を移しつつ、顔を見せておかねばならない。顔の表情が重要だ。
 印象的なのは、西宮の母、基本無口に近いが怒るときはもっと無口である。
 無口でも状況や表情で怒りは伝わるのものであることがよくわかる。
 聴覚障碍である西宮とのコミュニケーションは手話であるが、実際のところ、表情によって手話に含まれる意味を補完している。
 アニメーションや漫画であるがゆえに、意識的に表情が強調されている。現実はもっとよくわからない顔の方が多い。
 公共放送の手話を見るとかなり表情豊かに表現している。
 西宮の顔の表現によって物語の進行を悟らせるシーンもある(告白の前、飛び降りなど)。

⑩それでも自分の声で伝えたい西宮
非常にショッキングなのは、西宮の声。
言葉を発するときに音程がばらばらであったり、言葉の伸びがおかしかったりする。

小学校の音楽の授業で歌わせるのは流石に配慮が足りなすぎるのではないのか。
西宮の告白シーン「好きです」が「月です」に聞こえてしまうのも難しい。
耳が聞こえないのに言葉で思いを伝えたいと思う西宮のその時の考えには非常に興味が湧く。なぜ、適切に伝えられる手話であったり、ノートであったりを使わなかったのか。割と私はサイコパスなのでわからない。わからないからこそ、難易度の高い方法で伝えようとした西宮が魅力的であると言い訳しておく。


まとめ
この作品でシビアでセンシティブな感想が沢山生まれてきたわけですが、人それぞれの過去の経験に基づく個性を引き出すような作品であった事、登場人物に感情移入をすることで深く強い感情を込めた感想が生まれる事。いじめ問題を通して人の理解することとその手法を考えさせる事、そのような意味で、私は非常に意義の深い作品だったと感じています。






【思考メモ】

いくつかの試行錯誤した感想の名残です。
{netabare}
【西宮を通してみた、他人への理解】
西宮視点から作品構造を見ると、西宮自身と他人があり、他人には友達というカテゴリがあります。ここで「誰が悪い論」と比較を考えながら、西宮と他人、友人の中でどういう行為が行われるかを考えます。西宮から他人へは、友達になりたいという努力行為(一方的な自分を理解してほしいという行為、後述する)、西宮から友達というのは、願望はありはすれども、何をすべきか、西宮自身もわかってはいません。(西宮には友達がいなかったため)
一方で、他人から西宮に行われる行為はどうでしょう。他人は「誰が悪い論」の世界のみからきていると仮定し、他人から受ける行為は被疑者によるいじめ行為だけに限定し、人の理解度、というパラメータを設定します。西宮は他人への理解度が低くても、人を信用している。そのため、相手がどんな人間か理解しなくとも、友達になろうとする。
小学生時代の石田などは、他人への理解度が低いと、信用していない。信用が低い相手(西宮)から優しくされたりすると、不信感により攻撃性が発現する。相手がどんな人間か理解しなくては、友達になれない。

そこから推定するに、他人から西宮に行われるいじめ行為は、反応を見たい理解をしようとする行為となる。
自分がやられて痛いと分かる、嫌だと思う言葉を投げつけるなど、自分の中で理解している感情を西宮の中に見つけるために行っている。彼らはアプローチに対する反応を待っており、暴力に対しては暴力を望んでいる。

つまり二次的なアプローチ論に戻るけど、いじめ行為が相手を理解するアプローチの一種として、子供たちは手法の倫理性を無視して暴走してしまうのかと考えてしまいましたね。

しかし、その暴力的アプローチは、西宮にとってどう映っていたか。
石田が自分で黒板に書いたひどい言葉を、黒板から消した行為に西宮は、ありがとうと書いたわけですから、ひどい物に対して酷いという感情を持っているわけです。暴力的アプローチによって、彼女の他人への理解はどうなったか?
世の中の人がこういう事をするひどい奴ら、ではなく、世の中の人に嫌われてしまっている自分という、他人に理解されない自分が嫌いだというのです。これが彼女の問題であり、自殺願望となる原因。(植野の西宮が私を理解してくれないという発言は、こういった文脈の中にあると考える)西宮にとって他人への理解はどうでもよく、自分を理解してくれる人が友達という、他人を見ていないという問題が浮き上がってきます。
しかし西宮の問題は、石田らが行ったいじめ行為の悪質さから増幅される、「誰が悪い論」で西宮は悪くないという考えに潰されがちなのですが、植野のセリフの文脈や西宮の自殺問題から考えるとどうしても作品が示しています。

【雑感的メモ~なぜ普通の学校に西宮を通わせたか?】
私が感じた疑問は、なぜ西宮は聲の高校に通わなかったか。という事。
西宮が普通の高校に通う事で、あまりに聴覚障害に理解のない子供たちと接しなければいけないこととなった。同じように聴覚障碍を持つ人の中で過ごせば、同じ悩みを持つ理解ある人々と出会ったはずである。片親である母親の経済状況なのだろうか?いずれにしても、この設定の謎は本筋を語るには必要のない謎だと思う。しかし、この転校がなければ、本作品の物語は始まってすらいない。

【メモ内での1次評価】
物語の評価としては
・石田と西宮は似た感情を持っていたという二重性。
・小学校の中で起きるいじめを扱い、登場人物に役割を与えたことによる、幅広い人々に受ける物語の没入感
・聴覚障碍を扱ったことによる意義

映像的な評価としては、
・登場人物の心理を表現する視点、表情、演出などのアニメーション。
・美しい表現をあえて隠す演出。
・映像のイメージで作られた情報を疑わせる問題提起。



【メモ】
作品構造を考える初期メモです。

・物語は小学生時代と高校生時代がある。
 小学校時代は最初の10分程度で、高校生時代における登場人物達の物語が主になる。
・小学校には、いじめられっ子(西宮硝子)といじめっ子(石田将也、およびその他クラスメイト)がいる。その他に傍観者(川井)がいる。
 後に高校生活に登場するクラスメイト達は、全員が自分が変われることを願っている。
 ここでいじめ問題に話題を持っていかれ、変わる必要があったのは誰かという話になってしまうことが多い。

・転校してきた西宮は聴覚障碍が理由でいじめられている。
 ここから聴覚障碍者についての話題に持っていかれることが多い。
 が、声と耳というコミュニケーション方法の問題となっている。
 
・西宮に対するいじめ発覚後、いじめっ子である石田はいじめられっ子になる。
 西宮が小学校を転校できたのは親の力によるものである。
  西宮のいじめ発覚と転校の時間にズレがあることが、西宮へのいじめ発覚が転校の直接的トリガーでないことを示す。(この時転校のトリガーを持つのは親である)
   石田がいじめられ始めた事に気づいた西宮が、自分のせいであると考えたために、母と妹に「死にたい」といったことが、母親に転校により環境を変える事を決断させたトリガーとなっている。
    西宮について、強烈な自己批判によって自殺願望が生まれている。
     強い自己批判性についてを、西宮が「ごめん」と伝えるたびに、植野は批判している。
      ラストシーンで植野が西宮の「ごめん」を理解することによって、西宮の自己批判性を個性として作品が落とし込んでいる。


・西宮が死にたくなった時に、妹は自身の素晴らしいと思った写真を家じゅうに張り付けている。
 しかし、西宮にとっては世界が美しいかどうかは問題ではなかったため、石田の交友関係の崩壊による二度目の自殺願望が発生してしまう。
    
・高校生になり、石田は周囲に対し塞ぎこむ。
  周囲が自分の事を批判しているという意識からである。
   これは世界が美しいかどうかではなく、自分が受け入れられない存在であるという意識が生まれたためである。
    西宮の自殺願望と動機が一致しており、石田も自殺をしようとしてしまう。
   西宮飛び降り時に石田は、全ての自分の特殊な行動を逃げと自己評価しており、自殺は逃げであるという事である。
    つまり、西宮の飛び降りをまた逃げであり、彼女には逃げたい罪悪感を感じるものが存在した。
     しかし、石田に助けられることによって、石田のこわれてしまった交友関係を再構築する方向に変わる。
      石田が死んでしまうと思わせる夢を見た西宮は思い出の橋に駆けていく。(身を案じるならなぜ病室ではなく橋なのか?)    

・石田は手話を習うために手話教室を訪ねようとしたところ、高校生の西宮と出会う。
 ここで石田からの友達になってほしいで涙を流す西宮。
  小学生時代に友達が欲しかったという願望が叶ったためである。
   石田が永束に打ち明ける友達とはという悩みからも、友達についての意識が向けられている。
    西宮の飛び降り、ひいては石田の交友関係崩壊への罪悪感は彼女の友達への意識が強い所から来ている。

・その後石田と西宮は交友関係を持つことになるが、植野によって心を乱された石田は、塞ぎこみによって友人を傷つけて、独りぼっちをえらんでしまう。  

{/netabare}   

投稿 : 2019/09/11
閲覧 : 386
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40

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yuki7 さんの感想・評価

★★★★★ 4.3
物語 : 4.0 作画 : 5.0 声優 : 4.5 音楽 : 5.0 キャラ : 3.0 状態:観終わった

タイトルなし

全体的に青みがかった色調と、丁寧な音楽が耳に残って印象的です。
OPでいきなりMy Generationが流れてきてワクワクします。
入野さん、悠木さんらはこういう繊細な役やらせたら抜群でしょうし、何より早見さんが素晴らしいの一言に尽きます。

投稿 : 2019/09/09
閲覧 : 179
サンキュー:

5

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退会済のユーザー さんの感想・評価

★★★★★ 4.6
物語 : 4.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 4.0 状態:観終わった

少し重い作品

本作のストーリー内容ですが、大人の見解からすると、子供時期特有の無邪気さイコール残酷さの描写がどうしても心痛める箇所も有り、又ヒロインの感受性は私個人としては、計り知れない領域なので、主観的な評価はすべきで無い作品だと思います。
ただアニメ映画としてのポテンシャルは、言うまでも無く最高レベルです。鑑賞後に流れるaikoさんの歌声は、余韻を更に増幅させるもので、このような起用は本当にセンスを感じさせます。
ストーリーは、考えさせられる内容でした

投稿 : 2019/08/03
閲覧 : 188
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ofAFF98719 さんの感想・評価

★★★★★ 5.0
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

硝子の考えを知ることが作品の理解ができる鍵

映画→原作と言う順で見ました。また、映画はあまりにも情報量が多かったこと、各場面の解釈を図ったため10回近く見るハメになりました(誉め言葉)

この作品の批判として「硝子みたいな人はあり得ない」「いじめっこに都合の良い話」など色々有りますが硝子がどんなことを考えていたか?を理解すれば彼女がなぜ将也を受け入れたか見えてきますし、硝子も天使のようだと言う考えも変わるかと

まず硝子の考えを知る第1の起点として、硝子が将也と友達になった理由ですが彼女の願いは「ノートを通して友達を作ること」です。
それはかつて将也に壊された願いでもありました(将也がノートを池に投げ入れたシーン)
しかし、5年越しにノートをもって現れた将也により図らずしも叶ってしまいました。

また、彼女を虐めていたのは将也や水門小のクラスだけでなく、転校前の学校で虐められていたと思われる描写も映画内できちんと描かれています(2回目以降見ると分かりやすいですがオープニング(The whoのMy Generationが流れるシーン)で川に落ちたか入ったか?までは不明ですが汚れた硝子が出ています

加えて彼女には将也と言う友達ができるまで友達が居なかったならば砂漠で出された水のように、それを受け入れてしまったのも、とても気持ちがわかります

第2に結絃に妨害されても無事に会えた二人のやり取りは将也側としてみると、とても不可解なやり取りがあります
将也の「君に合う理由を探してた。昔のこととか、しょっちゅう思い出しちゃうし」に対し硝子は「私も同じこと考えてた」と
硝子の言葉の意味は「将也は自分のせいでいじめられてしまった」と言う自己の加害者意識です
映画内では、余り語られていませんが(逆に原作だと明確です)硝子は自分の家族も含め色んな物を壊してきたと思っています
前述の将也へのいじめ(だから小学校で将也の机を拭いてました)や親の離婚、妹が虐められるる、水門小のクラスを壊す、高校生の将也が友達に絶縁されるなど…親の離婚や結絃のいじめは映画で描かれてないので反映されてるかは不明ですが
将也が怪獣のバラードで硝子の平和を乱す怪獣として描かれたように硝子もまた、様々な物を壊した怪獣だったと自己を考えていたのでしょう
だからこそ、天命反転地公園で「私と関わると、あなたが不幸になる」と将也に述べたかと
そして硝子は究極の自己否定として自殺を選びました。

第3の起点として彼女はなぜ自殺を選んだのか? 硝子は病院を抜け出した将也と再開した際に述べた言葉にヒントがあります。
「私が居なくなればって」…居なくなるだけならば街から出るだけでも良いハズです。でも彼女は自殺を選びました。

硝子は自殺時も自分は色んな物を壊す怪獣だと言う意識があったのでしょう。そして、これから行く先々でも自分は何かを壊すと…だからこそ行き先なんてなかった…
また、障害者を助けると言う健常者の親切心もまた彼女に呪いをもたらすような結果を起こしました
(上野さんに負担をかけて佐原さんは虐められて、妹は硝子を守るために男装したり…etc)
そのため自殺で「居なくなること」を選んだのだと思われます
なお自殺は臨床心理学で有名なフロイト曰く「攻撃性を他者に向けるのではなく自分に向ける行為」とのことで彼女も方向性が違えば誰かを傷つけるだろうし、結絃が家出するくらい酷いことを言いました。また、原作では年頃の女の子が口にするにはちょっとキツい下ネタじみた話も理解できてます。
家ではケーキを食べてるシーンで普通に笑ってたりドヤ顔してたりします。佐原さんの前でも笑ってましたし他人との接し方も心を開ける相手には普通の女の子って感じです。

そんな硝子が前向きになる大きなキッカケは「君に生きるのを手伝って欲しい」と言われたことでした。
少し差別的な書きますが、障害者に助けてもらうってことを考えたことのある健常者って世の中にどのくらい居るのだろう? 現に私は聲の形を見るまで考えたことすらありませんでした。
そして、上野さんに小学校で補助してもらったり、将也に友達の輪を広げてもらったりと自分では何もできない、迷惑をかけ壊す存在と自分を評価していた硝子です。そんな彼女を必要としてくれる(生きるのを手伝って欲しいと言う以前の将也は依存として硝子を必要としている部分が大きかった)どころか「生きるのを手伝って欲しい」と言ってくれる。きっとそれは彼女が初めて聞いた言葉だと思います(西宮母やおばあちゃん、結絃も当然ながら硝子は必要以上に大切な相手です。ですが、それをうまく伝えられてないのが作品のテーマ「ディスコミュニケーション」)
恋い焦がれた相手にそんなことを言われる…そりや「たった1つの道標」になるわけです

今回、硝子にフォーカスして文章作りました。なお、故西屋氏曰く「見るたびに新しい発見のある作品」とのことですが、私が10回近く見たのもそれが理由でした。「エンディングの『恋をしたのは』は恋愛の映画じゃ無いのになぜ主題歌?」と当初私は考えてましたが演出の意図が解ればしっくり来ます。
そんな奥深い映画です

投稿 : 2019/07/29
閲覧 : 223
サンキュー:

15

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ShouyouACL さんの感想・評価

★★★★★ 4.9
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 4.5 キャラ : 5.0 状態:観終わった

Koe no katachi is the best movie i ever seen (old)

The romance is not the central object, but i can feel the "love" whit shou-kun and shou-chan

投稿 : 2019/07/26
閲覧 : 369
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7

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退会済のユーザー さんの感想・評価

★★★★★ 4.9
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 4.5 キャラ : 5.0 状態:観終わった

気持ちを伝える事の大切さ

この作品を観て、改めて会話の難しさ大事さを考えさせられました。
そして初めて手話というものに関心持つ切っ掛けにもなりました。

アニメのキャラですから可愛いヒロインに感情を持つのは当然。
でも男女構わず、もし身近に似たような境遇の方がいたら自分は避けずに接することが出来るのか。交流を持ったとして、その人を人として優しさだけではなく、しっかりと気持ちをぶつけあえる事が出来るのか。不器用なりにそう接した植野直花の様に。その為の手段が手話だとしたら、それを学ぶ勇気はあるのか。

当たり前のように会話が聴こえて言葉に出来る自分の周りに、もしかしたら別の手段でそれを求めている人がいるかもしれない。

物語だけで終わらせてはいけない、素晴らしい作品でした。


2019.7.18
亡くなられた多くの方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

投稿 : 2019/07/19
閲覧 : 197
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ただのアニメ好き さんの感想・評価

★★★★★ 4.9
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 4.5 状態:観終わった

こ、これは凄い...

【あらすじ】
{netabare}将也のクラスに転校してきた硝子は聴覚障害者であり、自己紹介でノートの筆談を通じてみんなと仲良くなることを希望する。
しかし、硝子の障害が原因で授業が止まることが多く、同級生たちはストレスを感じる一方になっていた。そして合唱コンクールで入賞を逃したことをきっかけに将也を初めとするクラスメイトたちは硝子をいじめの標的とするようになり、補聴器を取り上げて紛失させたり、筆談ノートを池に捨てたりするなどエスカレートしていったが、ある日...{/netabare}

【感想】
{netabare}いやー、良いアニメでした。
見始めたきっかけは弟が僕に進めてきたことで、始めは気が乗りませんでしたが最近、同じジャンルのアニメばっかり見ていたので気分転換には良いかなと思い視聴しましたが、これは凄いです。
気分転換に観たのが申し訳ないくらい良い作品でした。

まず、この作品の特徴としてとてもメッセージ性があるアニメだったように思います。
「自分でやったことは自分に返ってくる」「自分でやったことの責任は自分でとる」
という感じではないでしょうか。
やっぱり、メッセージ性のあるストーリーは良いですね。
理解の幅が広がるので...

作画は映画というのと京アニさんというだけあってかとても繊細で美しかったです。
そしてなんといってもグラフィックと作風が合っていたのもこの作品の良さかと思います。
あと、なぜだか西宮さんをみているとバイオレット・エヴァーガーデンのヴァイオレットを思い出しました。
顔が似ていたからなんですかね?

キャラは大体というかほとんどの人がひねくれ者ですが中身は皆良い人っぽいです。
ただ一つ、気になった点だけ...
なんか、西宮さんがやさしすぎるような気がします。
まあ、僕の心が狭いのからなのかは知りませんが、小学校時代のことだとはいえ、結構というかとてもひどいいじめを受けていたのに将也とまだ友達になる気があるのは正直驚きました。

そして僕がこの作品を好きな理由の一つは音楽は別に盛大では無いのにとても盛り上がっていたことです。
まあ、特にとても沢山アニメを見てきたわけではありませんがここまで音楽が盛大ではないのに盛り上がっていたというのは凄いと思いました。
いやー、時代の進歩ですかね(笑)

万人受けしそうな作品かどうかは分かりませんが、多分結構沢山の方が好きな作品かと思います。
ともあれ、個人的にはとてもお勧めです。
どんなかたでも、一度は視聴してみることをお勧めします。

どうか僕の語尾力のない感想でこの作品が汚されませんように... T-T{/netabare}

投稿 : 2019/07/05
閲覧 : 299
サンキュー:

39

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心静 さんの感想・評価

★★★★★ 4.5
物語 : 4.5 作画 : 4.5 声優 : 4.5 音楽 : 4.5 キャラ : 4.5 状態:観終わった

考えさせられる!

幼い時に人をいじめたり、主犯じゃなくても
同調したりすることは誰しもたぶん経験したり
見たことがあると思いますが、
元いじめっ子目線の話で、新鮮でした。

分からなかったのは、なんであんなにいじめたのに
いつも許していたのか、、です。。
ふつうなら嫌いになってしまいそうなのに。

でも、色々あって結局2人は仲良くなれて
すごく良かったと思います!
楽しく最後まで、飽きずに見ることができました♩

投稿 : 2019/06/10
閲覧 : 239
サンキュー:

10

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退会済のユーザー さんの感想・評価

★★★☆☆ 3.0
物語 : 3.0 作画 : 3.0 声優 : 3.0 音楽 : 3.0 キャラ : 3.0 状態:観終わった

可愛すぎる。

高校生になった石田くん可愛すぎるやろ。
小さい子に優しいし、ええ子や。
子供の頃って、平気で残酷な事してしまうし、それが結果どう繋がっていくかとか考えへんよな。
良い映画やった。大人になった今でも、こんな風に人と向き合うってことないから、なんかすげぇなって思う。大人ほど、なーなーで付き合ったりするから体当たりで仲良くなってくって無いか。
あれだな〜、学生って良いなぁ。笑

投稿 : 2019/06/09
閲覧 : 197
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Mi-24 さんの感想・評価

★★★★☆ 3.9
物語 : 4.0 作画 : 4.0 声優 : 3.5 音楽 : 4.5 キャラ : 3.5 状態:観終わった

駄目な奴は何をやっても駄目だった。

綺麗な映像と音楽。優れた演出と話の展開。良く纏まったアニメ映画で、見た直後は「感動の名作だ!」と素直に思う。
しかし冷静になってじっくりと考えてみると、救いの無い酷い内容の話だ。


聴覚障害を持つ硝子といじめっ子の将也。
小学校時代に硝子に悪質ないじめを行っていたのは将也を含む男3人と女1人。
この中でいじめについてあれこれ考えているのは、自分もいじめの被害者になった将也のみ。
特に硝子をいじめた後に将也もいじめていた男2人は、いじめを行った事に対して後悔も無ければ反省もない。

結局いじめの加害者は自分が実際に殴られるなどの苦痛を伴った罰を受けない限り、自分の行いを省みる事は決してない。
獣のように苦痛を与えて躾ける必要があるのは悲しい話だが、悪質ないじめをやる様な奴はそもそも話が通じないので仕方が無い。


将也は自分の苦しみから逃れるために硝子に救いを求めるが、何故か硝子に受け入れられてしまう。
これによって将也が本当の意味で自分自身と向き合う機会が、永遠に失われてしまった。
硝子の妹がしたように完全に拒絶された方が、将也の将来のためには良かったと思う。

物語終盤で将也が硝子をいじめた原因について「自分はただ硝子と話がしたかっただけなんだ」と言っているのを聞いて、将也には心底失望した。
結局将也は何も分かっていなかった。

将也は自分がした「硝子に対して行った悪質ないじめ」と向き合うことなく、硝子に惨めったらしく依存して、しがみ付きながら生きて行く事になってしまった。


将也と硝子の恐怖のサイコパスカップルが誕生して物語は終了。
合掌。

投稿 : 2019/05/31
閲覧 : 265
サンキュー:

9

ネタバレ

ももへ さんの感想・評価

★★★★☆ 3.8
物語 : 2.5 作画 : 5.0 声優 : 4.0 音楽 : 4.0 キャラ : 3.5 状態:観終わった

足りない...物足りない...

いつも気に入ったアニメから原作を漁りに入る自分としては珍しく、原作から入ったアニメ。

京アニ製作だけあって作画はめちゃくちゃ綺麗。
環境音まで繊細に表現されていて驚いた。
硝子役の早見さんの演技は鳥肌立った。

...んだけども。

観終わっても感慨に浸ることもなく、原作の漫画を読んでる時のような衝撃も感動もなかった。

まず一つ。
映画だからまあ仕方ないとはいえ、大事な部分を省きすぎている。
特に友達みんなで映画作りをするくだりがないのは痛い。
出てくる時間が短い上に絡みが薄いから、サブキャラに感情移入できない。
原作では「あ、こんな奴実際にいるわ」ってぐらい、言動がリアルで人間臭い素敵なキャラ達だったのに...
小学校から一緒だった植野と川井ですらあっさりしすぎてる。こと真柴君なんて完全に空気。
それぞれのキャラに思い入れがないから、橋での喧嘩のシーンも淡々としていたし、そのあとの硝子の「石田君が築き上げてきたものを壊してしまいました」にも説得力が感じられなかった。
あと個人的に西宮ママの過去は入れて欲しかったなぁ...

もう一つ。
植野役の声優さんの演技が微妙。
原作では感情を思いっきり表に出して怒鳴ったり殴ったりしちゃうキャラなんだけど、映画を見てる中ではそういった激しい感情は全く伝わってこなかった。だから上で挙げた主人公との絡みの少なさも合わさって、影の薄さに拍車がかかってしまっている。
原作では一番好きなキャラだっただけに残念過ぎる...。

いちいち原作と比較してしまってごめんなさい。
でも、初めてこの作品に触れた人たちが満足できるのか、というのがすごく心配。
各キャラ達の考えていること感じていること、ちゃんと伝わってきましたか?この作品があなたに本当に伝えようとしていることは伝わりましたか?
自分は、この映画では「聲の形」の魅力は感じられないのではないかと思いました。

映画じゃなくて普通に12話ぐらいのアニメにしてくれていたらなぁ...(ボソッ)

投稿 : 2019/05/16
閲覧 : 249
サンキュー:

12

ネタバレ

さんの感想・評価

★★★★★ 4.1
物語 : 4.0 作画 : 4.0 声優 : 4.0 音楽 : 4.0 キャラ : 4.5 状態:観終わった

これが現実。作者は理解しているな。

いじめは許されないものだ。登場人物の大半はクズで反省していない。主人公は、いじめっこからいじめられっこになりいい気味だと思ったし、それで、謝りに来るのもどうかしてる。過去に見て見ぬふりした女が過去のことを暴露したり泣いたりして、マジで害悪。 結果的にそれが現実だし、みんな変わるなんて物語の中だけって思ってる。

だからこそ、クズをクズとして描いてくれて嬉しい。現実、いじめた人物は、そんな人ばかりだし、結果的に好かれるような人間ではない。嫌いなものを嫌いとして拒否したり、心の内は反省してない。

まじで、障害とかイジメとかそういう部分からハッピーエンドやみんなで「理解」しよう!みたいな話は綺麗事だし、この作品はいい意味で人間の本性を表していて好きでした!

みんな仲直りハッピーENDは非現実!
これこそがリアルって思いました。

投稿 : 2019/01/09
閲覧 : 267
サンキュー:

11

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takeboo さんの感想・評価

★★★★★ 4.2
物語 : 4.0 作画 : 4.5 声優 : 4.0 音楽 : 4.5 キャラ : 4.0 状態:観終わった

心が熱くなる

序盤のいじめは目を覆うものがあり、気分が悪くなって視聴を止めようかとも思った。でも思い直して視聴続行。
最後はいい形で終わって良かった。見て損はない作品。
83点

投稿 : 2018/12/24
閲覧 : 302
サンキュー:

7

ネタバレ

KINAKO音大生 さんの感想・評価

★★★☆☆ 2.5
物語 : 2.5 作画 : 2.5 声優 : 2.5 音楽 : 2.5 キャラ : 2.5 状態:観終わった

とりあえずこれ入れたら受けるやろうって作品

障害、愛、家族、友情、いじめ、恋愛、とりあえず全部ぶっ込めば受けるやろうって盛り込んだのはいいがどれも使いこなせず、あわわわわわーってなってる作品。捌き切れるはずもなく撃沈。

投稿 : 2018/11/12
閲覧 : 300
サンキュー:

9

ネタバレ

退会済のユーザー さんの感想・評価

★★☆☆☆ 2.0
物語 : 2.0 作画 : 2.0 声優 : 2.0 音楽 : 2.0 キャラ : 2.0 状態:観終わった

タイトルなし

いじめのシーンが辛かった。
京都アニメーションの作画と演出に声優さんの演技は素晴らしかったです。でも繰り返し観ることはないと思います。

投稿 : 2018/11/12
閲覧 : 273
ネタバレ

うちゅうじんピピピ さんの感想・評価

★★☆☆☆ 2.0
物語 : 2.0 作画 : 2.0 声優 : 2.0 音楽 : 2.0 キャラ : 2.0 状態:観終わった

ハチャメチャかっ?

何を伝えたかったのかわからない映画。いじめ?友情?恋愛?家族?どれを1番伝えたかったのですか?あれもこれもあっちゃこっちゃで軸のない内容なのです。っていうか、何も起こらないwww宣伝広告を見て純愛物だという先入観があったので、正直いじめからはじまる重い内容にガックリしました。最後も全然泣けない。無理やり終わらせる感じで、は?っと思っていたらエンディング。そしてそのエンディングソングが全然映画に合ってなくてフイた。アニメーション最高に美しいのに、ちょーーーもったいない作品。ほんとーに残念。

投稿 : 2018/11/08
閲覧 : 240
サンキュー:

8

ネタバレ

fuushin さんの感想・評価

★★★★★ 4.8
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 4.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

私たちぬきで、私たちのことを決めないで。

このアニメを観て思い出した言葉です。

出だしから、いささか硬めで申し訳ないのですが・・私たちは、民主主義というルールの中で暮らしています。
民主主義。・・・耳あたりのいい言葉ですが、問題点がないわけではありません。構造的に、どうしても多数の意見が優先されますから。

●民主主義と憲法と。硝子と将也と。
{netabare}
私は小学6年で、民主主義を憲法の学習で学びました。憲法には、国民主権、基本的人権の尊重、戦争の放棄(平和主義)の三大原則があると。それが民主主義の根幹だと知りました。先生は噛んで含めるように丁寧に教えてくださいましたが、なんだかとても難しい授業でした。

民主主義は、人が幸せに暮らすための手法・手段です。(目的ではありませんね。)
小学校、中学校から体験的に身につくように学び始めます。理屈でわからなくても大丈夫。クラス運営、生徒会活動、クラブ活動、ホームルームで体験的に学習していくのですね。身をもって学ぶ「実学」ですね。

今は18歳になると「選挙権」が付与され、地方政治や国政にも参加することができます。多数決というルールを基本にして、民意を政治(暮らし)に反映できるとてもわかりやすい手法・手段・仕組みですね。

ただ、落とし穴もあります。原則として多数決で決するので、圧倒的少数者の「願いと思いは置いてけぼりにされがちになる」ということです。

だれだって幸せな暮らしを願っているし、ちょっとでも豊かな生活を求めています。これは当たり前のこと。憲法13条にも「幸福追求権」として明文化されています。

日本国憲法 第13条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

文調は格調高くてよろしいのですが、少数者には13条のありがたみや利益がなかなか実感できないところが難点ですね。
ポイントは「公共の福祉」です。
「公共」とはどの立場から見たものか。明らかに絶対的多数者か行政権を掌握している側ですね。その最高の価値が「国」ですね。それは国民ならだれもが肯定する概念ですね。

今の時勢でいえば、TVで憲法論議がたけなわです。いろんな立場の人がいろんな意見を論じられています。意見を交わすこと、討論することは素晴らしいことだと思います。でも・・・。

硝子と将也は、選挙権もないしコミュニケーションも十分に取れないのです。いったい彼らはこうした議論にどう参加し、主張し、表現すればよいのでしょうか。
もっと言えば、大人の側が、どんな配慮や支援や指導をすればいいのでしょうか。どうすれば彼らが健やかにのびのびと成長できるようになるのでしょうか。

実は、つい最近まで、高校生にとって憲法を学ぶこと、民主主義(国民主権、基本的人権の尊重、戦争の放棄(平和主義))を学ぶ機会はほとんど保証されていませんでした。
まぁ端的に言えば、ほったらかしにされていたっていうことですね。(卒業したらすぐに大人扱いされるの、困っちゃわないかなぁ)それで、ちょっと気になったので調べてみました。

高校の場合は、
{netabare}
学習指導要領によると、教育課程における憲法教育等について、4つの指導ポイントが示されていました。主に「公民の現代社会」の項目で教えることになったようです。(平成21年3月告示。一部抜粋。)

①現代の民主政治と政治参加の意義、民主社会において自ら生きる倫理について自覚を深めさせる。
②個人の尊重と法の支配、他者と共に生きる倫理について自覚を深めさせる。
③現代の経済社会と経済活動の在り方、その役割と責任について考察させる。
④国際社会の動向と日本の果たすべき役割及び日本人の生き方について考察させる。

平成25年度(2013年4月入学)からの入学生から年次進行で実施することなりました。ということは、つまり、今現在で21歳以上の方は、憲法教育をほとんど受けていなかったのですね。
{/netabare}

ちなみに中学校の場合は、
{netabare}
平成24年度(2012年4月)在籍の生徒さんで、「公民的分野」、たぶん3年生時のなかで全面実施されています。20歳以下の方は学んできているはずです。内容は・・・、

①我が国の政治が日本国憲法が基礎となっていて、基本的人権の尊重、国民主権、及び平和主義を基本的原則としていること
②日本国及び日本国民統合の象徴としての天皇の地位と天皇の国事に関する行為のこと。
③法に基づく公正な裁判の保障、国民の政治参加、選挙の意義について。

いかがでしょうか?こういう①~④(または①~③)にあたる授業を受けた記憶はありますか?具体的に言えば「裁判官裁判」は授業にありましたでしょうか?高校で、倫理と責任、生き方について自覚を深めるような授業は受けましたでしょうか?
{/netabare}

物語的に言えば、硝子も将也も、授業で学んだかどうかは微妙ですね。
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●本作の評価は、いろいろあるし、なかなか難しそうですね。
{netabare}
「障害者へのイジメなんて許せない」、「自殺を表現するなんて間違っている」、「障害者を使った感動ポルノ作品」、「青春群像劇、恋愛ストーリー」、「コミュニケーションの難しさ」など多様な表現で評価されています。

逆説的に言えば、それだけ多様な要素をはらんでいる時代性がある作品だということですね。そのうえで「高い評価」を得ている点において、観るべき内容と価値は十分にあると思います。

さて、今の世は大人の世界でもコミュニケーション障害(以下、コミ障)などと揶揄される時代です。
硝子と将也、仲間たちの「聲、表情、行動」、その一挙手一投足のなかに、コミ障の息苦しさが表現されているように感じます。
一人ひとりが大事にされる時代のはずなのに、なぜそういう閉塞感や疎外感を感じるのでしょうか?
その視点でレビューをしてみたいと思います。

硝子と将也は「何かよくわからないのだけれど、ままならないネガティブな感情」と「何かうまく表現できないけれども、心に置きとどめておきたいポジティブな感情」に気づき、関心を持ったところからストーリーが始まります。
「名前のない気持ち」。それは何でしょうか。2人は何に気づいてしまったのでしょうか。

★将也。
{netabare}
今まで疑いようのなかった彼の世界に、彼の理解の範疇を超えた別の世界が触れ始めます。始まりは本当に何気ないものでした。
「しょうちゃん」
自我の象徴でもあるその呼称が、いきなり他者のそれと結び付けられるときのアイデンティティーの微かな揺らぎと、言霊のシンクロニシティへの朧げな興味。まず、それに気づいてしまいました。

彼は、硝子のコミ障の実相を理解することができません。どう受け止めればいいのかも分かりません。たぶん彼の生い立ちには感じ得なかった感覚でしょう。そしてそれは気にせずとも気になる感覚です。

将也は将也なりに硝子がクラスに溶け込めないことを気にしています。手を差し伸べもするのですが、と同時に、自分の言い分や接し方がうまく通じないことへの苛立ちも感じ、もやもやした気持ちを硝子にぶつけます。

将也の心に宿った相反する感情は、とてもナーバスなもの。そのまんじりともしない感情に向き合えないまま、やがてその原因が、あたかも硝子にあるかのように、そしてまるで頭から追い払うかのように、彼女のアイデンティティーの象徴でもある補聴器を取り上げては捨ててしまいます。何度も何度も。

将也は自分のアイデンティティーを守ろうとしただけ。
硝子とのコミュニケーションの必要性を感じなかっただけ。
硝子とのシンクロニシティの居心地の悪さを感じていただけ。
彼の行為がどんな結果を生み出すかイマジネーションを持てなかっただけ。

そんな将也に、硝子は事あるごとに微笑み「ありがとう」と伝えます。
それは反発を持って硝子に接してきた将也にとっては「意味がわからない」ことだったでしょう。
聞こえず喋れない硝子。冷たく突き放してもいつも微笑んでくる硝子。
ついに将也は二進も三進もいかなくなって、度を超えた態度をとってしまいました。硝子の「通訳ノート」を捨てたのです。

将也の行ないは、どうみてもいきすぎた行為、やりすぎた行動だと批判されることは否めません。でも、私は仕方ないことだと思います。
将也は、ほかにやりようを知らないからです。
友達も、先生も、母親も、そうなる前に将也に干渉することはしなかったし、将也自身も相談するといったことを誰にも求めませんでしたから。

でも、将也の行動は「どういう気持ちだったのか? どう整理すればいいのか? どんな解決方法があるのか?」といったことをクラスで考える大きなチャンスでもあったはず、それは何度でもあったはずだと感じるのです。

将也は、硝子が転校するに至って、今度は降って湧いたように自身がハブられるようになり、将也は自分が硝子にとって「いじめっ子」だったということにようやく気付かされます。
友達と思っていたのに、徹底的に無視され、しかも悪評を流されることになった将也は自分がどんなに硝子に辛辣なことをしてきたか身をもって知ることになります。
しかも、その償いを母にさせてしまったという自責の念は心中に強く働いたようです。
この出来事は、彼にとっては人とのかかわりにおいて大きな過ちをしでかしてしまった最初の気づきであり、人付き合いにおける価値観のコペルニクス的大転換になってしまったのではないかと感じます。

将也は悔恨し自分を詰(なじ)り彼なりのケジメを決心します。でも、その動機は母に迷惑をかけてしまったという範囲でのことです。しかし、未遂に終わった彼は、思いもよらずお金が燃えてしまったことで「もう一度やり直す」きっかけを手にします。そうしてようやく硝子のノートに目が向きます。

ノートの扱いをどうするか・・。こうして将也も、硝子に対する「何かよくわからないのだけれど、ままならないネガティブな感情」と「何かうまく表現できないけれども、心に置きとどめておきたいポジティブな感情」が心中に熾火となって残っていたことに向き合い「もう一度やり直す」ことにしたのではないかと感じるのです。

将也の行動は、形としては硝子への懺悔と謝罪です。でも自分にけじめをつけたいという自己弁護の気持ちの方が優先されていたように見えました。自分でも思ってもみなかった「友達になって・・」という言葉のあまりの軽さに狼狽する将也。彼自身にもそれはあまりにもご都合の良すぎる手前勝手な姿だと分かったのだと思います。

将也が、硝子にきちんとした謝罪をしたのかどうかはスクリーンには表現されてはいませんでした。(いささか疑問の残る不可思議な演出でした)
が、とにもかくにも硝子との気持ちの糸がつながりはじめます。
{/netabare}

★硝子。
{netabare}
硝子は、将也の自分への激し過ぎる関心に戸惑います。周りの同級生からすれば、間違いなく硝子へのイジメに見えていたでしょう。
硝子にとっては、将也はたびたびちょっかいをかけてきて、大事な補聴器を奪いとるとんでもない男の子だったでしょう。図々しくて、でたらめで、ちっとも悪びれる風でもなくて・・・。
と同時に、ときどき優しいそぶりを見せてくれる男の子でもありました。

硝子は、彼がどうしてそんなことをするのか困惑しているようでした。硝子も将也と同じように、自分の感情を、文字にできないでいたようです。
自分の感情がよく分からない戸惑い、それを伝えるきっかけを作れないもどかしさ、気持ちを受け止めてもらえない悔しさ、なによりも将也の気持ちを聴き取れない辛さを身の内に感じているように見えました。

硝子は幼児期に難聴であることがわかりました。もともと無音の世界が当たり前でした。それは、日本語を音として吸収・理解できないということです。理解できないということは、発声することはむずかしいということ。
補聴器を付けてはいます。1対1のときは有効ですが「1対多」のときはとても難しい。例えば、両方の耳を手で押さえて、前後左右4人から同時に話しかけられても、誰の声なのか、何を言っているのか、指示なのか、非難なのか、応援なのか、つぶやきなのか、判別できないことと同じです。

だから、硝子にとって望ましいコミュニケーション方法は、補聴器がメインではなく、ノートのほうだったのですね。必ず1対1になるし、明確に文字として残るからですね。

だから、将也にノートを奪われ、放り投げ出されたのは辛かったでしょう。
硝子は、将也からの決定的な絶交宣言、完全拒否の意思表明だと受け止めてしまったのかもしれません。

にも拘らず、否、だからこそ、将也の机に書かれた悪意のこもった文字を見るのが辛かった。
硝子が自分を伝えられる手段は、文字だけです。
クラスのだれかが、将也の机に書きつける「将也を否定する文字」。
文字の持つ重みを誰よりも知っている硝子にとって、将也が文字によっていじめられていることは、自分がそうされているかのように辛かったのではないでしょうか。

無意味な大声とか、砂を投げつけるとか、耳を傷つけるとか、補聴器を取り上げるとか、イヤなことばっかりだったけど、硝子のいたあのクラスの中で、文字以上に、音声で、そして体当たりでコミュニケーションをとっていたのは、ほかの誰でもなく、将也その人だったから。
音のない刺激の少ない世界にいた硝子にとって、間違いなく将也だけは異質な存在だったでしょう。

小6のわずかな時間、「将也と通じ合えなかった」という体験で生まれ得た硝子の気持ちは、転校してしまったのちも(母に転校させられた?)熾火のように心中に残っていたのではないかと感じるのです。
「何かよくわからないのだけれど、ままならないネガティブな感情」と「何かうまく表現できないけれども、心に置きとどめておきたいポジティブな感情」。
その感情のなかに熾火となって秘め置かれていたエネルギーは、将也とのコミュニケーションの扉を「閉じるための鍵」ではなく、いつかその扉を「開くための鍵」として心のなかに留め置き続けていたのではないかと私は感じるのです。

将也にも共通の体験があったからこそ、彼もまた、同じ鍵を持ち得ていたのではないかとも感じます。

先に扉を開けたのは将也でした。
硝子にとって、失われていたノートが再び戻ってきます。まさにいきなり突然に。薄汚れてよれよれボロボロになったノート。
それは、唐突に打ち切られた過去談が、もう一度つながることでもあるし、宙ぶらりんのままで放置されていたもろもろの感情にも向き合うことでもあります。

それは硝子の思いと将也の思いをつなぐ唯一無二のツール。
そのノートが誤って川に落ちた時、硝子は常軌を逸した行動に出ました。
後を追った将也の行動はノートよりも硝子を心配してのことでしょうから、硝子の動機とはちょっと温度差はありますが、でも硝子にとってはそれは嬉しいことだったでしょうね。ノートを捨てた小6の将也が、今度は高校生になってノートを一緒に探してくれるなんて、ちょっとドラマチックですね。
{/netabare}

★将也は校内では学友の顔に「✖」を見ているのですが、校外の人には「✖」がつきませんね。
硝子と校外で会ったのはラッキーだったのかなぁ・・。

{netabare}
学校ヒエラルキーなのでしょうか。
それもあるでしょう。でも、それだけではないような気もします。

将也がコミュニケーションがうまく取れない人に対して「✖」をつけるなら、「✖」のない人は将也にとってはコミュニケーションがうまく取れているということでしょうか。
「✖」がついている人は、将也にとってはキョンシーか、のっぺらぼうみたいなもの?そうであれば、学校はお化け屋敷なんでしょう。そんな居辛いところに3年間もいられるものなのでしょうか。将也には、引き籠ったり退学とかの選択肢もあっただろうに。母への懺悔から生じる遠慮があったのでしょうか。

硝子も、妹も、その母親も、息の詰まるような閉塞感や疎外感を心中に感じながら、言葉にできない、言葉にしてもいたし方のない不条理さを感じて暮らしています。その表情はお互いに気を使っていて明るくはなさそうです。

将也はその顔に「✖」をつけてはいません。不思議。
コミ障の人に、将也はなにかシンパシーを感じているのでしょうか。自分と同じものを持っていると感じるから、「✖」をつけなくても済んでいるのでしょうか。
その差、その違いって何なのでしょうか。

作品の中で、小さくぼんやりと映る外の世界を、暗いトンネルから覗くようなシーンが表現されていますが、それって将也の心象的な視野のように思えます。

コミュニケーションは目、耳、口、鼻、五体と、それにメンタルとが絡み合って進むことが多いですよね。その要素のうちの一つか二つが上手く働かないとしたら、あの暗いトンネルを通じて外の世界を感じることになってしまうのでしょうか。

将也の悩みは「なやみ」。言霊(ことたま)で読み解けば「汝の闇」です。

やはり、あのトンネルのシーンは、将也が内なる心の世界に籠って、自分自身の顔に「✖」を貼り付けた心象風景。視野もピントも色彩も、自らが発する闇に遮(さえぎ)られて、遠くにわずかにぼんやりと映っている外の世界を感じている(見ている?)ということになるんでしょう。これは相当メンタルをやられていますね。
{/netabare}

★たとえ小学校の頃に行き違いになってしまっていても、気持ちを大事に持ち続けていれば、そしてやがて思春期を迎えれば、そして一歩でも踏み出せば、小さな熾火であっても、恋のストーリーが燃え上がるきっかけになります。

{netabare}
それが小さな火種であっても、若々しいエネルギーが内包されていれば、やがては惹かれあい、初々しい「恋の舞台」が開場し、第一章の幕が開かれ、賑やかに物語が始まります。
この二人に絡む仲間たちは、それぞれの生き方に誠実に向き合おうとする仲間たち、自らの進路の舵を自分の手にしっかりと掴もうとする仲間たちです。二人の周りを固め、すてきな役割を果たしていきます。かつて、小6のときには上手く進められなかった取り組みや、硝子とのコミュニケーションへの理解を少しずつ深めながら、再演していくことになります。
何ともたどたどしくて、あきれるほど粗削りに見えてしまうのですが、どんなに紆余曲折があっても、めげずにやり直し、試行錯誤を厭わず、手放さず諦めず、何度も繰り返し、やがて邂逅をみせるまで、彼らの努力の筋道と足跡とが、しっかりと描かれていました。

だから、この作品は、損なわれた友人関係を再構築する群像劇でもあり、社会的障壁の矛盾に気づく社会派ドラマでもあり、淡い恋ごころが輻輳するさまを描いた純愛作品でもあるように思います。
決して「障害をダシにした感動ポルノ作品もの」ではないし、「酷いイジメをしでかしたから謝罪と贖罪をさせねばならない物語」でもないと思います。


武道の世界には「勝ち不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」という格言があります。

勝負を決するとき、勝とう勝とうと思っているうちはなかなか勝てるものではない。そこに、気負いが入り、慢心が入り、疑心暗鬼が入るからである。すなわち、平常心を失い、集中力を欠き、本来の実力を発揮できなくなるからである。なぜ勝ったのか分からないという不思議さを感じるくらいがちょうどよく、逆に、負けるときは何の不思議もなく負ける理由を自分は知っているものである。
というようなことですが、今風に言えばコンディショニングのことでしょうか。

将也の心を「負けに不思議の負けなし」という角度から見れば、汝の闇に自らが縛られ、囚われていたということでしょう。

また、「勝ちに不思議の勝ちなし」という角度で見れば、「あれ?あれあれ~?これって?友達って?」というフレーズにヒントがあったと思います。

硝子に手を引かれて校内をとぼとぼ歩いた将也は、まるでダメダメな形無しヤロウだったですが、むしろ、形無しでいいんです。面目もなくてもいいんです。
角張ったフレームを構えることもなく、仰々しくメンツを掲げることでもなく、むしろそんなメンタリティーはかえって自分を縛ってしまう。
レッテルを貼られていると思い込んでいた将也ですが、実相はその真逆で、レッテルを貼っていたのは将也自身だったのですね。

将也は、自分はダメ人間だと自認し、自縛し、拘って、執着してましたが、その現場でもある校内で、硝子が先頭に立ち、一緒に闘ってくれた。彼女はごく自然に振る舞ってくれた。

硝子だけでは無理でした。1人よりも2人、2人よりも3人、3人よりも・・。みんなで分かち合えた、みんなが支えてくれた、将也の周りに信頼のおける友人が一定数いたのですね。だから、自力だけでは二進も三進もいかなかった壁が、他力が加わることで、将也には理解できない不思議さで心中の壁が打ち壊され、レッテルがフワリと剥がれていくんですね。剥がそうともがくこともなくごく自然にです。

自力と他力が交差した中で、将也が自分自身を許せたこと、自分で自分の心の枷を外したこと、そのことが私は一番嬉しく思えるのです。

硝子の強さは、見えにくく理解されにくい「難聴という障害」に立ち向かったことだったし、将也の強さは、やはり見えにくく理解されにくい「心中の怖気」に立ち向かえたことでした。
そんな2人が乗り越えられたのは、話を聴いてくれる友達ができていたということだったし、住み慣れた街と学校という場所があったからなのですね。

また、将也の母親の強さ、硝子の母親の心境の変化の兆しに、子どもへのゆたかな愛を感じます。家族という一番小さなコミュニティーですが、一番身近な大人が二人を支えているのですね。
(なんとなく「あの花」に似ていますね)

ここまで、お読みいただきありがとうございます。

ここから先は、本作では描かれていない、社会的障壁について少し記述してみました。関心のある方は覗いてみてください。
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硝子や将也、そしてクラスの友達、お母さん方が暮らしている町と、学校のことを考えてみました。
さらに長文をお許しください。また、今回はかなり硬派です。
本当は、硝子と将也のために、全文を読んでいただけると嬉しく思いますが、無理はなさらないでくださいね。

硝子と将也の生きている時代の背景。
{netabare}
これをきっかけにして聾啞(ろうあ)の方の障害のありようについて考えたり、手話教室に行ってみようかなと思ったり、その家族の方のご苦労に思いを寄せること。そういう興味や関心を持っていただければとてもありがたいと思います。
もし、お近くに教室や講座がありましたら、ちょっとでいいので、覗いてみて様子を見てください。あなたも将也や佐原のようになれますよ。きっとなれます。「またね」はもうご存知ですよね。次は「どうしたの?」を覚えるのがいいかな? 
私も、休み休みですが続けています。学校じゃないんだから続けられているのかもしれませんが。汗
それに、手話には「方言」もちゃんとあるんですよ。盛り盛りですから。存外、そこからはいるのも面白く思えるかもしれません。

ちなみに、聾啞は、耳が聞こえない、発声がうまくできないという意味です。手話や筆談がコミュニケーションの柱です。手話自体が独立した一つの言語体系なのですね。
聾は、耳は聞こえませんが、日本語の発声はできます。ただ、音声でどれだけ表現できるかは、学習の習熟度とか、獲得した技術とか、知識や語彙数にもよります。
コミュニケーション方法は、主に筆談や口話(*1)です。手話は使わないことが多いですね。発声の具合によってはスマホの音声サービスも使えますね。

*1)口話とは、相手の音声言語を、読話(*2)によって理解し,自らも発話により音声言語を用いて意思伝達を行うことです。
*2)読話とは、相手の口の動きや表情から音声言語を読み取り理解することです。クチパクだけで通じ合うのも口話をマスターしていればできちゃいます。



それから、もしかしたら、担任の先生の恫喝や、学級運営の拙(つたな)さを感じられた方もいらっしゃるかもしれません。
{netabare}
背景は、いろいろあると思います。例えば、
・障害のあるお子さんを受け入れる際の「指導要領の内容」の実態。
・大学の教育課程での障害児・者への国の施策や当事者団体の「学習の位置づけの弱さ」
・養護学校への「予算配分の少なさ」
・そして何よりも「硝子への支援方法についての不勉強」が強烈に描かれていることです。

そもそも、一般的に言っても、子どもには障害についての知識はないのです。そしてどこまでも自分本位なのです。
将也が「退屈なことを嫌がり、面白いことが大好きで、硝子の耳がどこまで聞こえるのか興味を持つ」ことは、とても子どもらしいと思います。それは至極、当たり前のことです。彼の人生にそういう子が現れなかったから尚更です。
彼の母親も自営業で、一家を支えて、日々時間に追われていることも、日本のなかでは普通にみられる風景です。

私が印象に残るのは、硝子も将也も、それぞれの母親も、精一杯人生を歩んできているのだから、誰からも責められることではないのに、いわれのない言葉で心に傷を負わされ、コミュニケーションがうまく取れなくなっていくしんどさと不条理さです。

音が聞こえないことは、硝子が好き好んで選んだ人生ではありません。硝子の母親にもその責任なんてどこにもありません。
でも、硝子は難聴を受け入れています。彼女は、当たり前のように補聴器とノートを使ってコミュニケーションを図ろうとしています。これは、硝子にとっては至極当たり前のこと。生きるための方法であり、硝子のもつ文化そのものなんですね。

クラスのみんなもノートを頼りに関わっていっています。手話も有効なコミュニケーション方法だからその導入も図ろうとします。これも、学級運営で作られつつあるお互いのための「新しい文化」なのです。

どうにもうまくいかない理由はいろいろあるのでしょうが、些細な誤解とか、思い違いとか思い込みとかでしょう。安易なことばに心に深い傷を負う子ども(佐原)もいるのです。

大切なことは、「誰が」悪いのではなく、どうすれば一歩前進するのか。
「誰か」を責めるのではなく、事柄・やり方を改善・改良することでした。
事柄とは、言葉の使い方であったり、態度であったり、当番制であったり。「文化」の醸成には「これが答え」というものはなく、たゆまぬトライ&エラーこそが、「より好ましい答え=新しい文化」に近づく唯一のやり方です。

先生だって難しさを感じていたと思いますが、それでも一応大学を出ているわけですから、あの姿は、正直、感心できませんね。
教室で起こることは教室のなかで解決する努力をする。子どもたちの側に立つ。子どもたち主体で学級運営をする。
先生がそこに向かっていれば、将也も植野も川井も、別のやり方にトライできたのではないかと思います。
{/netabare}

もう一つ踏み込むと・・。
「普通」「常識」「文化」。その概念は、とんでもなく幅が広いです。

{netabare}
最初のポイントは、硝子が感じている「不便さ」を知ることです。
クラスメイトという「多数」がそのクラスの「常識」を無意識につくり、それが「普通」なこととして運営されるようになると、「少数」の側には「普通」でない「不便さ」が生まれてきます。

もっと言えば、その「普通」とは、クラスの多数者が ”許容することのできる” 範囲の「普通」という意味を持っていること。
その「普通」は、硝子にとっては、クラスメイトには ”許容されていない” 範囲に存在しているとハッキリと感じられるのです。

多数にとっての「普通」は、少数にとっての「普通」ではありません。
将也たちとっては、「普通」に振る舞うこと自体が、とっても見えにくい「文化の壁=社会的障壁」を自分たちが作り出しているのです。

いまある社会そのものが、壁を作っているのです。それはとても見えにくい壁ですが、確かに硝子を阻んでいるのです。彼女が「普通」でありたいという気持ちと、行動の一つ一つを阻んでいるのです。

二つ目のポイントは、その「社会的障壁」と呼ばれる壁は、大多数の側の人たちが「より良く快適に暮らすため」「ごく普通に暮らすため」に作り出した「影」の部分だということなのです。
これは民主主義の「影」でもあります。

多数者と少数者の「普通」の概念は、そもそも入口が別のようです。
なぜそうなったのか? 
それは、その概念自体に、身体や、知的や、精神の障害をお持ちの方々や、難病をお持ちの方々が、社会に、政策に、政治に参加する機会が極めて少なかったからです。意見を反映させる機会が極めて少なかったからです。
なぜそうなったのか?
それをここで述べることはやめておきます。

でも、たとえ入り口が別だとしても、同じ学校で、同じ地域で、同じ職場で、誰もがその人らしく生き生きと暮らせる「普通」があるほうが、ずっとずっと、いいんじゃないかと、私は感じるのです。

「聲の形」は、その「普通」という文化をトライ&エラーで新しく作り上げていくプロセスを、硝子と将也と2人を取り巻く友人たちの交流(ソフトパワー)に示してくれています。

例えば、ユニバーサルデザインという概念もあります。
背の高い人と低い人への配慮として、自販機の選択ボタンの位置がちがっているのもそうですね。
車いすの方、お年寄り、子どもたち。社会への参加がた易い「多数者」の陰に隠れがちな「少数者」の人たちへの「合理的配慮」でもあります。

硝子と将也が暮らす街は、水がとてもきれいな大垣市が舞台です。
呼びかけ合えば笑顔が返ってくるような、そんな澄んだ街になるといいですね。
全国に、そんな街をつくること、そんな文化を作ること。
そういうことが、この作品から視聴者の皆さんに伝わるといいなと思います。

ユニバーサルな文化を作る。私は、個人的には、憲法にうたわれている「基本的人権」の発露だと思っています。
{/netabare}

ここまでお読みくださった方、本当にありがとうございます。
{/netabare}

もう一度、「私たちぬきで、私たちのことを決めないで」 

あまり耳にすることのないフレーズだと思います。でも、実は、国際社会ではよく使われています。 
硝子や将也がどういう時代に生きているか、ヒントになると思います。
少し長いですが、興味のある方は読んでみてください。

{netabare}
障害者権利条約

外務省Vol.109 「障害当事者の声が実を結ぶとき~障害者権利条約の締結」より抜粋しました。

●以下、「→ 〇〇は~」、硝子の支援者の解説です。参考になさってみてください。
(長文ですので、→のところだけを読んでくださってもけっこうです)


●1、2006年、「国連総会」で,「障害者の権利に関する条約」。
いわゆる「障害者権利条約。しょうがいしゃ けんり じょうやく」(略称)が採択されました。

→ 今から12年前、国際社会は、障害のある人には、権利があるってことを決めたよ。

●2、障害者権利条約は,障害者の人権や基本的自由の享有を確保し、障害者の固有の尊厳の尊重を促進するため、障害者の権利を実現するための措置等を規定しており,障害者に関する初めての国際条約です。

→ 今まで、こういうことを決めたことはなかったんだよ。

●3、その内容は前文及び50条からなり、市民的・政治的権利,教育・保健・労働・雇用の権利、社会保障、余暇活動へのアクセスなど、様々な分野における障害者の権利実現のための取組を締約国に対して求めています。

→ 硝子が悲しい思いをしないように、国連は、日本の政府にもいろんな取り組みを進めるように求めることになったんだ。でも日本の政府はすぐには参加しなかったんだ。

●4、それから8年後の2014年、我が国は障害者権利条約を批准しました。
障害者権利条約では,障害に基づくあらゆる差別を禁止しています。

→ でもね、日本の政府は、硝子が絶対に差別されないようにするって。日本に住んでいる障害者を守るって決めたんだよ。

●5、ここで言う「差別」とは,障害者であることを理由とする直接的な差別だけでなく、例えば過度の負担ではないにもかかわらず、段差がある場所にスロープを設置しないなど、障害者の権利の確保のために必要で適当な調整等を行わないという「合理的配慮の否定」も含まれるということが、明確に示されています。

→ 差別は、硝子だけに起こるんじゃないよ。それに、硝子らしく生きることは、どんな人にも、その人らしく生きることができるってことになるんだよ。

●6、またこの条約は、障害者が他の人と平等に、住みたい場所に住み、受けたい教育を受け、地域社会におけるサービスを利用できるよう、障害者の自立した生活と地域社会への包容について定めています。

→ 硝子は、どこの町に住んでもいいし、どの学校にも行けるようにするよ。日本の国は、そういう国になっていくんだよ。

●7、さらに、条約の内容が実施されているかを監視する機関を国内に設置することが明記されています。

→ もし、嫌なことや辛いことが起きたら、相談のできる場所も作るから、黙っている必要はないんだよ。

●8、条約の起草に関する交渉は、政府のみで行うのが通例ですが、委員会では、障害者団体も同席し、発言する機会が設けられました。

→ この決まりごとは、障害のある人と一緒に作ってきたんだ。彼らは立派だった。発言もたくさんしたんだよ。

●9、それは、障害当事者の間で使われているスローガン「“Nothing About Us Without Us”(私たちのことを,私たち抜きに決めないで)」にも表れているとおり、障害者自身が主体的に関与しようとの意向を反映し、名実ともに障害者のための条約を起草しようとする、国際社会の総意でもありました。

→ 彼らは、障害があってもなくても、自分たちのことは自分たちで決めるってことをいちばん大切にして来たんだよ。

●10、日本からも延べ200名ほどの障害者団体の関係者が交渉の行われた国連本部(ニューヨーク)に足を運び、実際に委員会を傍聴しました。

→ ニューヨークってアメリカの大きな町で、障害のある人が200人も参加したんだよ。

●11、日本の政府代表団には、障害当事者が顧問として参加し、日本は積極的に交渉に関与しました。

→ 日本の政府の人も、障害のある人と一緒に行ったんだ。

●12、2013年、衆議院本会議、参議院本会議において、全会一致で障害者権利条約の締結が承認されました。

→ ここ日本では、5年前に、国会というところで、議員さんが全員賛成したんだよ。

●13、これを受けて2014年、国連代表部大使が、障害者権利条約の批准書を国連に寄託し、日本は140番目の締約国となりました。

→ 4年前に、国会で決めたことを、国連に伝えに行ったんだ。世界では140番目の国だったんだ。

●14、日本がこの条約を締結したことにより、障害者の権利の実現に向けた取組が一層強化されることが期待されています。

→ こうして4年前に準備が始まった。これから硝子たちが、学校で勉強しやすくなるし、友達ともたくさん、そして普通にお話ができるようになっていくよ。

●15、例えば、障害者の表現の自由や、教育、労働等の権利が促進されるとともに、新たに設置された「障害者政策委員会」にて、国内の障害者施策が条約の趣旨に沿っているかとの観点からモニタリングが進められることになります。

→ 硝子が学校で困っていないか、大人の人がきちんと見守ってくれるよ。そういう仕組みもできていくんだよ。

ここまでは外務省ホームページより抜粋しました。
{/netabare}


ここまで、読んでくださって本当にありがとうございます!!
ちょっと、かたぐるしくていけませんね。

さて、次行ってみよう!!

内閣府では、次のようにまとめています。ガンバ!!
{netabare}

障害者政策委員会第1小委員会(第3回)議事次第より抜粋しました。
(平成24年10月15日付)

●1、障害者の支援は障害者が直面するその時々の困難の解消だけに着目するのではなく、障害者の自立と社会参加の支援という観点に立って行われる必要があること、障害者の家族を始めとする関係者への支援も重要であること。

→ 硝子やお母さん、その友達もふくめて、今も、これからも、この町で支援が受けれられるようにするよ。

●2、外見からは分かりにくい障害が持つ特有の事情を考慮するとともに、状態が変動する障害は、症状が多様化しがちであり、一般に、障害の程度を適切に把握することが難しい点に留意する必要がある。

→ 硝子が難聴なのは、ちょっと分かりにくいからそこは自分でも伝えていこうね。みんなで気をつけるようにするよ。

●3、障害のある子供は、成人の障害者とは異なる支援を行う必要性があることに留意する必要がある。

→ 同じ難聴でも、子どものときの硝子と大人の硝子では、支援の仕方が違うんだよ。硝子、わかるかい?

●4、障害者施策の評価に当たっては、障害者が意思決定過程に参画することとし、障害者の視点を施策に反映させることが求められる。

→ 硝子もお母さんも、難聴のある人の支援のしかたについて、仕組み作りに参加しようよ。

●5、聴覚、言語機能、音声機能のため意思疎通を図ることに支障がある障害者に対して、手話通訳者、要約筆記者、盲ろう者向け通訳・介助員等の派遣、設置等による支援や点訳、代筆、代読、音声訳等による支援を行うとともに、手話通訳者、要約筆記者、盲ろう者向け通訳・介助員、点訳奉仕員、朗読奉仕員等の養成研修等の実施により人材の育成・確保を図り、コミュニケーション支援を充実させる。

→ 耳が聞こえなくても、いろんな人に助けてもらえるんだ。これからはそれを当たり前って言えるようにしていくんだよ。

ここまで、障害者政策委員会第1小委員会 議事録よりの抜粋でした。
(平成24年10月15日付)
{/netabare}

さて、硝子や将也の関わるのは、「教育」の分野です。ここが肝心です。
{netabare}

教育にかんしての基本的考え方(平成29年12月22日、内閣府)

●1、障害の有無によって分け隔てられることなく、国民が相互に人格と個性を尊重し合う共生社会の実現に向け、可能な限り共に教育を受けることのできる仕組みの整備を進めるとともに、障害に対する理解を深めるための取組を推進する。

→ 硝子の耳のことも、クラスのみんなと一緒に教室で学んでいこう。障害があってもいいんだ。それがどんなふうに困っているか、どうしたらもっとよくなるかをみんなが知ることも勉強なんだよ。

●2、インクルーシブ教育システムの推進。
「インクルーシブ教育システム」(inclusive education system、包容する教育制度)とは、人間の多様性の尊重等の強化、障害者が精神的及び身体的な能力等を可能な最大限度まで発達させ、自由な社会に効果的に参加することを可能とするとの目的の下、障害のある者と障害のない者が共に学ぶ仕組みとされている。

→ 難しく考えることはないよ。これから学校は「インクルーシブ」っていうことばで一緒に勉強していくんだよ。

●3、障害のある幼児児童生徒の自立や社会参加に向けた主体的な取組を支援するという視点に立ち、基礎的環境の整備を進めつつ、個別の指導計画や個別の教育支援計画の活用を通じて、幼稚園、小・中学校、高等学校、特別支援学校等(以下、「全ての学校」という。)に在籍する障害のある幼児児童生徒が合理的配慮の提供を受けながら、適切な指導や必要な支援を受けられるようにする。

→ 硝子は、この学校でみんなと仲良く勉強できるように先生に意見を出して伝えてほしいし、先生もしっかり聞くよ。そうして先生が硝子の計画書を作るよ。硝子の意見や想いを受け止めて、勉強の指導も、障害の支援も、計画書に書くんだよ。

●4、こうしたことを通じて、障害のある幼児児童生徒に提供される配慮や学びの場の選択肢を増やし、障害の有無にかかわらず可能な限り共に教育を受けられるような条件整備を進めるとともに、個々の幼児児童生徒の教育的ニーズに最も的確に応える指導を受けることのできる、包容する仕組みの整備を推進する。

→ 硝子は、ノートを使ったり、手話を使ったりして、みんなとお話がしたいのだから、クラスのみんなにもきちんと説明するよ。どうするのがいいのか、その都度話をしようね。

●5、あわせて、「いじめの防止等のための基本的な方針」を踏まえ、障害のある児童生徒が関わるいじめの防止や早期発見等のための適切な措置を講じるとともに、障害の社会モデルを踏まえ、学校の教育活動全体を通じた障害に対する理解や交流及び共同学習の一層の推進を図り、偏見や差別を乗り越え、障害の有無等にかかわらず互いを尊重し合いながら協働する社会を目指す。

→ 将也はよくなかったけど、硝子のことをよくわからないことも理由だったよ。クラスのみんながどんなふうに接するといいのかを、目標や助け合いのやり方を先生は考えるし、取り組んでいくよ。

●6、障害のある児童生徒の就学先決定に当たっては、本人・保護者に対する十分な情報提供の下、本人・保護者の意見を最大限尊重しつつ、本人・保護者と市町村教育委員会、学校等が、教育的ニーズと必要な支援について合意形成を行うことを原則とするとともに、発達の程度や適応の状況等に応じて、柔軟に「学びの場」を変更できることについて、引き続き、関係者への周知を行う。

→ 硝子がこの学校に来たい気持ちは大事にするよ。お母さんも一緒にみんなで話し合いの場を作るよ。いやで我慢ができないときは、いつでもお話しできる人がいるから安心してね。

●7、校長のリーダーシップの下、特別支援教育コーディネーターを中心とした校内支援体制を構築するとともに、スクールカウンセラー、スクールソーシャルワーカー、看護師、言語聴覚士、作業療法士、理学療法士等の専門家及び特別支援教育支援員の活用を図ることで、学校が組織として、障害のある児童生徒の多様なニーズに応じた支援を提供できるよう促す。

→ 校長先生が一番先頭に立って、硝子を守るよ。それは学校の先生の仕事なんだよ。一緒に学校でできることを探そうね。

●8、各学校における障害のある幼児児童生徒に対する合理的配慮の提供に当たっては、情報保障やコミュニケーションの方法について配慮するとともに、幼児児童生徒一人一人の障害の状態や教育的ニーズ等に応じて設置者・学校と本人・保護者間で可能な限り合意形成を図った上で決定し、提供されることが望ましいことを引き続き周知する。

→ 硝子は、どんなことを質問してもいいし、先生も一生懸命に答えを見つけるからね。そのときお母さんが一緒でもいいんだよ。それはとても大事なことなんだよ。

●9、特別支援学校、特別支援学級、通級による指導を担当する教員については、特別支援教育に関する専門性が特に求められることに鑑み、特別支援学校教諭等免許状保有率の向上の推進を含め、専門性向上のための施策を進める。

→ 硝子は、心配なことは先生に話してくれるといいな。先生ももっと難聴のことは勉強させてほしいんだ。そういう役割を持ちたいんだよ。 

ここまでは、内閣府 障害者政策委員会 議事次第より抜粋しました。
(平成29年12月22日付)
{/netabare}

ここまで、目を通していただきまして感謝しています。
お疲れさまでした。


聲の形。

聲は、三つの形があると思います。三つのコミュニケーション方法です。
{netabare}

一つは、バーバル。言語的コミュニケーション。
日本語、英語など。話や文字など「言葉を使った」コミュニケーションです。朗読や落語、カラオケもそうです。ターザンの雄たけびもそうかも・・。ん?違うか。

二つめは、ノンバーバル。非言語的コミュニケーション。
顔の表情、身振り手振り、声のトーンなどの「言葉以外での」 コミュニケーションです。赤ちゃんの「ばぶばぶ、んまんま」もそうです。これは喃語(なんご)と言います。
パントマイムは立派な芸術でもありますね。
手旗信号なども立派なコミュニケーションの方法ですね。

三つめは、スキンシップです。
肩に触れる。手をつなぐ。固く抱き合う。ハイタッチする。グータッチもそう。髪をなでる。キスもそうですね。

どれもコミュニケーションです。

このように文字を使って概念化すると、硝子の聲も「普通」にコミュニケーションの一つなんだとわかります。
それが分かるように教えられない学校教育ってなんだ?と思います。

国語も算数も、英語も。みんなコミュニケーションのための媒体の一つに過ぎないです。
音楽も、絵画も、鬼ごっこも、やっぱり同じ媒体じゃないのですか?

学校の教育論について、どうのこうのいうつもりはありませんが、国語算数、理科社会。それらは媒体でしょう。
そういう媒体(教科)を通じて、理解力や咀嚼力、考察力や洞察力、想像力や創造力、そして協調性や向上心。
そういったものを身に付けることの方が大事なことじゃないかなって思うのです。

教育って、人間を深く理解するためにあるんじゃないんですか?
それって、人間を幸せにするためにあるものなんじゃないんですか?

もちろん友達の顔に「✖」を貼ったのは将也自身の心のありようです。
彼自身がレッテルを張っているのです。ですからそのレッテルを剥がすのは将也の手で剥がすしかありません。
でも、その原因が、小6のときの間違えてしまったコミュニケーションにあったのだとしたら、それはその時に戻ってやり直すか、あるいは、今生きている世界でもう一度取り組むか、先送りして苦しみ続けるか、死ぬまで持ち越していくかだと思います。
四者択一です。

硝子と将也は、友達の顔をまっすぐに見て、喜怒哀楽を感じながら、思いに寄り添ったり、時にはぶつけ合ったり、そういうことをいっぱい感じられるような生き方を選びました。
素敵だなって思います。

生きるって楽しい。そう思えるときはそのように。
辛いときは辛いと言えるコミュニケーションがあるし。
伝えたいことがあるときは、勇気を武器にしてコミュニケーシできるし。

硝子の笑顔って、ほんとうはとてつもなく素晴らしいコミュニケーションのひとつだったって。

そこに硝子がいてくれたから気がつくことができました。
そこに将也がいてくれたから、私に分からせてくれました。

聲の形は、いくつもあるんだってことを分からせてくれました。

{/netabare}

このアニメの懐の深さは、人が人として最も大事にしなきゃいけないところを、硝子と将也に演じさせたところだと思います。

2人だから、ここまで魅せてくれた。
すばらしい作品だと思います。

あにこれの先輩レビュアーに進められてコミックスも読んでみました。期待を超える表現に圧倒されました。先輩レビュアーに感謝です。
私からも、未読の方にはお勧めします。


★2018.4.8、追記しました。
{netabare}
聴覚障害の理解のために少し述べておきたいと思い追記しました。

①自然科学(医学、治療、リハビリ)
②社会科学(教育、共生、共同)
③人文科学(本作品など)の3領域でみておきたいと思います。

②社会科学の側面では、前述のレビューのとおりです。

①自然科学から聴覚障害をみてみます。
{netabare}
先天性と後天性。

先天性は、生まれたときから脳、聴覚神経系、三半規管、内耳、中耳など、「聴きとる力」に障害がある状態です。

今は、国、地方自治体、医療機関が連携して、早期発見、早期治療、早期療育に動いています。(平成21年より)
赤ちゃんが生まれると、新生児聴覚検査をします。時期は生後2日目~産婦人科退院前です。
次に、退院後、1か月健診をし、聴覚に障害の兆候がある場合は、生後3~4か月までに診断の確定が行われます。
難聴が認められると《 生後6か月までに療育を開始する 》ことになっています。

これから、お父さん、お母さんになられる予定の方にお願いがあります。
万が一、お子さんに硝子のように聴覚に障害があることが分かったとき、「わが子に限って!?」とフリーズするのではなく、現実を受け止め、いち早く打ちのめされて、そして少しでも早く立ち直って、6か月を待たずに療育を開始する判断をしていただきたいのです。子どものためのベストの選択をチョイスし、一歩を踏み出してほしいのです。
硝子を思い出していただきたいのです。

平成20年度までは「1歳半健診」が脳の発達、心身の成長の具合を確かめていたのですが、それでは間に合わない実態があったので、その反省を踏まえて今は「6か月」という段階で判断するようになっているのです。

聞こえないことのハンディは、日本語の発声ができないことにつながります。発声というのは自然に身につくのではなく、たゆまぬ反復訓練があってこそ身につけることができます。
否、聞こえないからこそ、専門家による適切な療育が必要です。我流やほったらかしは厳に慎んでほしいのです。

硝子も、口話法(聴覚口話法とも言います)を学んでいたと思います。
これは、聴覚障害児に、健常者の口の形と補聴器や人工内耳から聞こえる音をたよりに発音の技術を覚え、音声による会話ができるように指導する方法です。
硝子が「好き」を「つき」と発声することができたのも、このトレーニングを受けていたからだと思います。

将也に伝えたい感情を「ツキ=好き」という言語と発声に置き換えることができる力を硝子は獲得していました。これは表現方法に選択肢が増えたということ。硝子の頑張りの賜物(たまもの)です。

「気になる感情」を「好き」という言語に置き換える力。
それは言語の持つ意味とか概念とかを理解し、使い分け、表現する力。
「好き」という言葉を「すき」という発音に置き換える力。
それは発声法の訓練に立ち向かう力と、発声する技術を獲得する力。
「ツキ」と聴き取られてしまったあとに、「好き」を手話に変換する力。
あるいはノートに「好き」と書く力。
ここまでは、学習によってある程度は獲得できます。
これが療育・教育の効果なのです。もちろん、本人の努力や周りのサポートもあったからでしょう。

ですが、私は、硝子が、「好き」だと自分の言葉で伝えたくなる気持ちに、恋するすばらしい力があると深く思いを致すのです。(*3、後述)

恋する力は、聴覚に障害があってもなくても、何一つ私達と変わるところはありません。


次に、後天性。
後天性は、おおよそ3歳以降、病気などで少しづつ聴覚を失っていく。あるいは、交通事故、スポーツ障害、不慮の転倒、レクリエーション中の事故などで、突然、聴覚を失うこともあります。
そしてそれは、「大人でも同じ」なのです。

この場合、少しでも聞こえが悪いと感じたら、すぐに小児科や耳鼻科(あるいは、救急外来、脳外科、脳神経外科など)を受診して、しっかりした診断を受けて、医師の指導の下で適切な治療を受けていただきたいと思います。

後手に回らないことです。一刻も早く、何をおいてもです。

内服、または言語療法などのリハビリテーションを早期に開始することで、回復の効果についての「評価」を早めに得ることです。

大事なことは「時間」です。いつだって時間が問題になるのです。
データによると、発症後、2週間をすぎると、完全に失聴する場合があるようです。
{/netabare}


③人文科学から。
{netabare}
近頃は、障害とか難病とかをテーマにした恋バナが多くなってきていますね。

ここでは、アニメ「図書館戦争」をご紹介します。
パッケージ版の作品のなかに「恋ノ障害」という作品があります。
残念なことに、TV未放送、レンタル版未収録の作品です。

この「恋ノ障害」に、難聴の女性、中澤毬江(なかざわ まりえ)が登場します。硝子は先天性でしたが、鞠江は後天性難聴です。

それから「恋ノ障害」の演出に使われていたのですが、「レインツリーの国」という書籍があります。この作品には、ひとみという中途失聴の女性が主人公で登場します。(新潮文庫、平成21年7月1日初版、有川浩(ありかわひろ)著)。

*3)この2作品にも、恋することの素晴らしさ、恋の持つ力が十二分に表現されています。
もしよければ、ご覧になってみてください。

後天性失聴(聾・ろう)の鞠江やひとみとは違って、先天性失聴(聾啞・ろうあ)である硝子が、「音声」に拘り、憧れ、絶望した心情に思いいたすとき、本作の「並びないテーマ性の気高さと、多様性への寛容・受容を示したメッセージの尊さ」に心が震えて仕方ないのです。
{/netabare}

{/netabare}
長文を最後までお読みいただきありがとうございました。
この作品が皆さまに愛されますように。

投稿 : 2018/11/05
閲覧 : 690
サンキュー:

68

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mamiko さんの感想・評価

★★★★☆ 4.0
物語 : 4.0 作画 : 5.0 声優 : 3.0 音楽 : 4.0 キャラ : 4.0 状態:観終わった

人間らしさが描かれている

 物語としてはシリアスな展開が多めでしたが効果音と明るい音楽で緩和させてましたね。誰にも暗い過去があってどうやって乗り切るか?前に進むか色々と考えさせられるアニメでもありました。

投稿 : 2018/09/05
閲覧 : 189
サンキュー:

9

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Mamo さんの感想・評価

★★★★★ 5.0
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

心が抉られる、だからこそのカタルシスを味わえる

私は、人をいじめた経験、人にいじめられた経験を持っています。
だからこそ、一生忘れられない作品となりました。

まずは、この映画を作ったアニメ制作陣、キャストの皆様、ありがとうございました。この作品に出会えたことに感謝。

私はこの作品を映画公開二日後に見に行ったのですが、あまりにも良過ぎて見終わった後はしばらく放心状態になり、「聲の形ロス」から抜け出せなかったので原作をまとめ買いして一気読みしました。

いやー.....何回見ても良い作品ですなぁ.......泣

私は今回の地上波放送で5回目の鑑賞になります。

[はじめに]
物語序盤のいじめのシーン。
初見の時は、当時人をいじめていた事の罪悪感と、いじめのサイクルが自分に回ってくる恐怖を呼び起こされたみたいで、正直心地良いものではなかったですが、同時に、『聴覚障がい者と普通の人間とのコミュニケーションの壁』をテーマにしたこの作品を、「これは挑戦的な内容だな、面白い」と、つい魅入られてしまいました。


[キャラクター]
登場人物がみんな魅力的で、同時に皆それぞれ欠陥がある。

他人の目を見ようとしない、声を聞こうとしない、将也。
経験上から愛想笑いが癖になってしまい、自分を卑下してしまう、硝子。
本音、本気のコミュケーションしか取れない、永束。
自分が正しいと思い切ってしまう、植野。
自殺されることへの恐怖から姉の為に尽くすようになった、結絃。
自分の考える正義の下に行動してしまう、川井。
苦手な人と関わることに臆病な、佐原。
変な正義感があり、つい首を突っ込んでしまう、真柴。

人間の不完全な所が要所要所に滲み出ていて、見ていて「何でそう言っちゃうかなー!」と思っちゃうけど、その分リアルに人間味が溢れていて、多少の行動が気に食わなくても何処か愛らしいキャラクター達で、群像劇として見てもとても良い内容だったと思います。


[作画]
川の流れや水の波紋、気泡までも繊細に描いていて、やっぱり「流石京アニや!」と思わざるを得ませんね。


[音楽]
劇伴の牛尾憲輔にも、敬意を称したい。
ピアノの内部にマイクを仕込んで、より立体的で内面的な音楽を作ろうだなんて発想、脱帽しました。


[声優]
配役、演技、ともに完璧すぎるでしょ!
個人的に入野自由さん、悠木碧さん、そして早見沙織さんのお芝居が凄すぎてもう.....!何回泣かされたかww
将也=入野さんの演技で特に良かったのは、
例の西宮の自殺のシーン、「西宮柵、柵持って.....!」のところ。
声だけで余裕がないのがとても伝わってきます。
結絃=悠木さんの演技で特に良かったのは、
「へぇそりゃムカついただろうな」の笑い方や、動物の死骸の写真を泣きながら剥がす時の「どうすれば良かったの....」の声が物凄い演技とは思えない臨場感があったりと、毎回見るたびに「声優さんってすげーな」と思います。
早見さんは.......もう全部良かったですよね。言ったらキリないのでカット。正直「早見さん神すぎない?」という感想で十分かと。


[物語]
ストーリーの内容がとてもシリアスで重いから見てて心にずしっと来るモノがあるけど、それを乗り越えた分、最後のシーンはカタルシスを存分に味わうことができて、自分は劇中の将也のように一緒に号泣しました。



[こういう人におすすめしたい]
10代20代はもちろん、小学校の道徳の時間とかにもこの作品を見せてもいいかもしれません。

「自分に魅力がない」「人と関わりたくない」「死にたい」と思ったことがある人にこそ、是非見て欲しいですね。
少しは生きる希望を見いだせるかもしれません。



長文になりましたがともかく!
良いところをあげたらきりがない、とても素晴らしい作品でした!

やっぱり俺はこの作品が ちゅ、き!!

投稿 : 2018/09/04
閲覧 : 215
サンキュー:

16

ネタバレ

菊門ミルク大臣 さんの感想・評価

★★★★☆ 3.5
物語 : 2.0 作画 : 4.5 声優 : 5.0 音楽 : 3.0 キャラ : 3.0 状態:観終わった

中途半端な終わり方

物語としては主人公が転落するとこまではそれなりに見る事が出来ましたが
以降は撒いた種の割にさらっとし過ぎなのと主人公が学祭でオカマ泣きしてお終い。
主題歌もただのエンドロールとして使われるだけで効果的でも何でもなく少し残念。
恋愛がテーマと言うわけでも結局の所はなかったので曲は良いが相応しいかは微妙。

登場人物はクズ揃いでそこからどう今に繋げるのか、踏み込んでるなという印象がはじめは強かったのですが
主人公に気があったり、虐めてた奴らが助けた的な、実は悪人ではないっぽい的な感じに仕上げられてて、であれば当人側のエピソード挟まないと全てが意味をなさない無駄なものだなぁとしか…

ヒロイン?に関しては、これが可愛くなかったらどうか、妹の写真や回想シーンでイジメで死にたい的な感じで泣きじゃくってて、そんな事があったのに果たしてイジメられてた相手に好意を抱くかなとか、そもそも聴覚障害者をサポート出来ない普通のクラスに放り込む時点でおかしくないかとか…

終盤主人公が目覚めて橋まで走りますが、怪我してなかったのか、体力、筋力低下してないのか、何故橋で奇跡的に再開するのか…ドラマ性を生みたかったのか知りませんが意味不明でした。結局恋愛に重点置かれた作品でもなさげなので更に。


過去の過ちが原因で目を伏せ耳を塞いで生きてきた主人公が反省し立ち直る様を描くのであればヒロイン関連は一切いらない。薄れる。
色々あったけどそこで終わるの?という感想が正直なところ。

最後に言えることは川井が一番のクズ

投稿 : 2018/09/03
閲覧 : 287
サンキュー:

4

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小豆マメマメ さんの感想・評価

★★★★★ 4.6
物語 : 4.5 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 4.0 キャラ : 4.5 状態:観終わった

予想外

心かき乱されました

投稿 : 2018/09/03
閲覧 : 228
サンキュー:

4

ネタバレ

たま。 さんの感想・評価

★★★★☆ 3.5
物語 : 3.5 作画 : 4.0 声優 : 3.5 音楽 : 3.5 キャラ : 3.0 状態:観終わった

ご都合主義

話題作だったので視聴。

京都アニメーション製作。
『けいおん』『たまこまーけっと』の山田尚子監督。

耳の聞こえない女の子とその子をいじめてた男の子(主人公)を中心とする青春もの。

物語のテンポが悪い。
登場人物がみんないい人すぎる。

主人公がヒロインに興味を持つ理由とかよく分からなかった。
写実的を狙ってるが、少し現実離れ感。

こんないい人たちが居るわけないだろ(汗)

まぁ、アニメだからいいのか・・・(棒)。

投稿 : 2018/09/02
閲覧 : 302
サンキュー:

7

ネタバレ

杞冬@あずさ さんの感想・評価

★★★★★ 4.8
物語 : 5.0 作画 : 4.5 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 4.5 状態:観終わった

アイネクライネ

8月26日、9月17日。
この二つの日付を見て気づいた人がいたらすごい。
そう前者は「君の名は」で後者がこの「聲の形」です。
世間が君の名はブームで沸いてる時期に公開されたのが本作です。
本当に時期が悪かったとしか言いようがない。
そんな自分もなんだかんだ見る時間作れなくて見れなかった一人です。
NHKで放送されるとのことだったのでようやく視聴しました。
見終わった後は後悔しかなかった。
なぜ映画館で見なかったのかということを…

余談ですが、24時間TVの裏でこれやるNHKの最高に皮肉がきいててとても良きだなと思いましたw

原作は既読済み。
原作と比べると所々がマイルドになってかなり見やすくなっている印象。
特に小学校のとこはサクッと進んでいますが、
原作はもっとしっかりやっているので映画できついと思った人は原作は結構ハードかもしれません。

将也と硝子この二人の出会いは最悪でした。
将也はとにかく退屈が嫌いで度胸試しと称して危ないことをして退屈な気を紛らわせていました。
ですがだんだんと友達はついていけなくなり、
そんな時に現れたのが、「西宮硝子」だった。
いじめようとか思っていたわけでなく耳が聞こえない彼女の限界を、
好奇心を持ってしまった。
だがそんな楽しい日々は続くことはなく、立場が完全に変わってからようやく自分のしてきたことの重大さに気づく。
そんなキツイイジメ描写から物語が始まります。

将也と硝子は個人的にはとても似ていると思った。
二人とも全部自分の責任にして抱え込もうとするところなんかは特に。
そして最後には自らの命を断とうとするところも。
将也はずっと硝子の小学校の楽しい時間を奪ってしまったことをずっと後悔し罪の意識にとらわれている。
硝子は自分が入ってきたことでいろんな人の関係が壊され、自分がいることで不幸になると罪悪感にとらわれている。
そんな二人が一度死のうとしてもう一度生きなおそうとするのがこの作品一番大きなテーマだと思います。

人間描写がとても丁寧。
それでも主要の二人以外はあまり描き切れなかった。
そこは原作でしっかり補完できるのでそういった意味でも原作を読むのはおすすめです。
映画だとヒール役川井が選ばれていますが、
原作はぶっちぎりで先生がヒールとなっています。
原作読めばすこしは川井のことも理解できる…かもしれないw
なのでクズの一言で済ませず一度理解してあげようとして見てあげてください。
特に西宮のお母さんの話は見てほしい。
というか完全にクズじゃないと言い切れるのは永束と将也のお母さんぐらいなのものですしw

硝子役の早見沙織さんの演技がほんと素晴らしいの一言しかない。
聴覚障害の子の声がとてもリアルでびっくりした。
ほんと早見さんで良かったと思える演技でした。
演技の幅がめちゃくちゃ広くてすごいですよね、早見さんは。
音楽もとてもいいですね。
静かでとても聞いていて心地が良い。

君の名は万人向けで聲の形はすこし人を選ぶ作品かなと。
ほんと今となってはなぜ劇場で見なかったと己を糺す日々ですw
でも劇場で泣いちゃいそうだしこれで良かったのかもしれませんw
ストーリーもとても綺麗にまとめられていてとても見やすかった。
少しでも興味があるなら見たほうが良いと思います。
原作読んでいる人でも違った楽しみができますので是非に!!!

投稿 : 2018/08/31
閲覧 : 389
サンキュー:

15

ネタバレ

sunnyday さんの感想・評価

★★★★☆ 3.8
物語 : 4.0 作画 : 4.0 声優 : 3.5 音楽 : 3.5 キャラ : 4.0 状態:観終わった

不完全な者同士の意思疎通の難しさ

映画館で公開されている際には見ることができなかったのですが、Eテレで放送されるということで視聴しました。
視聴する前は、単に聾者と健常者の間のいじめを表現したよくある話だと思っていました。ですが本作はそこではなく、人と人との意思疎通の難しさにフォーカスした作品でした。

-物語について-
物語は、登場人物の小学時代を経て高校生となった現在までを描きます。ストーリーの流れが良く、脚本の方が上手く原作をまとめてます。最後に石田が他人の声を聞けるようになったシーンは感動しました。人見知りの自分にとっては、共感できるところがあったりして、やっぱコミュニケーションって難しいな〜と改めて感じました。
ただ、石田が硝子に対して行ったいじめが、行為の悪質さに対して周りの反応が薄い気がしました。傷害までしてあれくらいというのは、少し現実味に欠けます。

-作画について-
いつもの京アニクオリティですが、劇場版ということもあって、背景や水の描写にいつも以上に力が入っているように感じました。美しいです。

-声優について-
僕は耳の不自由な方と関わる機会がないので分かりませんが、硝子の声優である早見さんの声は自然で、本当に上手く喋れない人なのかと思ったほどです。

-音楽について-
BGMは主張しすぎておらず良かったのですが、EDのAikoさんの歌は本作とはあまりマッチしておらず、なんか拍子抜けした感じです。
また、視聴中は気づかなかったのですが、ピアノの伴奏のシーンでは、補聴器を通して聴こえる音になるように録音方法を工夫されているそうで、世界観を大事にしているんだなあと思いました。

-キャラについて-
登場するキャラクターはみんな性格に筋が通っておらず、不安定で、ぐちゃぐちゃです(永束くんは除く)。
例えば、主人公の石田は、小学時代に聾者に対して傷害をしておきながら、高校になってぬけぬけといじめた本人に会いに行きます。はっきりいってクズです。他のキャラクターの性格も、論理が破滅しています。
ですが、現実社会において、何の欠陥も無く、誰にも悪口を言わない、完璧な性格の人はいるのでしょうか。むしろどこか人には言えないことがあったり、後ろめたいことがあって当然だと思います。
論理的に物事を考えて行動できる人なんて、アニメにしか存在し得ないし、そういう筋の通った性格のキャラを期待して観る人もいるでしょう。でも本作はそれを描かずに、実際に存在し得るクズを描きました。その気持ち悪いほどのリアリティが本作に共感や嫌悪感を産む原因だと思いました。

個人的にはとても良い作品だと思ったのですが、対人関係にトラウマのある方、特にいじめられたりした人にとっては結構キツイと思います。でも、僕はおすすめしたい作品です。

投稿 : 2018/08/27
閲覧 : 238
サンキュー:

20

ネタバレ

バニラコーク さんの感想・評価

★★★★★ 5.0
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

突き刺さった。

やっぱり不安なんです。
この先の二人の行く末や妹の事、家族の事。
友人の事、環境のこと。世間の事。
彼女が親になった時の事。
彼女の子供の事。
彼女の子供の友達の事。
考えると押し潰されそうになる。
どうしてもこの物語の行く末を考えてしまう。
観る度に涙して、そしてハッピーエンドなはずなのに
不安になるんです。
で、頑張るしかないから頑張るんです。
こう言う気持ちになるひとが少しでも減ったらいいな。


小学生の幼さ故の感情が大人になってみてみると
恐ろしい。怖いと感じた。
いじめの犯人探しから彼の人と関われない、
関わらないという心の聴覚障害が始まったように
思う。 母に対しての負い目。清算してから
死のうと考える。高校生だぜ、ここまでさせる
苦しみを越えた先の絶望はいかほどのものか。
もうひとつが小学生時代の彼女にした仕打ちへの
後悔、自分に対する嫌悪。
ノートを読み返してどう感じたか。
全部自分に跳ね返ってきて初めて自分のしたこと
の酷さに気付き打ちのめされたであろう。
一方の彼女はどうか。笑顔の裏で
彼女もまた自分の事が好きになれない。
自分は周りを不幸にする、必要のない人間だと
ずっと考えていたに違いない。
妹はそんな彼女の気持ちを見抜いていたであろう。
だからこそ動物の死体の写真を撮る。
恐らくは学校で姉の事で苛められたであろう。
言われなき誹謗中傷をされたであろう。
彼女もまた人と関わることに絶望を感じていた
のではないだろうか。
彼女たちの母親もそう。
社会から蔑まれたであろう。人との関わりを
恐れ、社会を憎んだであろう。
祖母の死は姉の自殺未遂の引き金になったか。
妹はそれを危惧し、恐れていたのであろう。
彼の心の障害は彼女と過ごす時間で少しづつ
快方には向かうのかもしれないが
故に過去に自分のした事で自分を責める。
彼女もまた彼との時間で自分の存在を肯定しつつ
あるが、故に彼の自戒の念を自分の存在の
せいにしてしまう。
変わらないと。彼女の自殺未遂と彼の意識不明。
きっかけはともかく二人と周りの人々がそう
考え、行動した時にようやく止まった時間が
動き出す。
この先も二人にはもっと大変な困難が待ち受けて
いるであろう。もっと悲しい出来事が起こるかも
しれない。それでもなお
二人の行く末に素敵な素敵な、、、
心から願います。

最後にこのアニメは障害をもつ我が長男と
それを支えてくれる弟のために
二人が大きくなった時に困難にぶち当たった時に
見せたいと思います。

投稿 : 2018/08/27
閲覧 : 355
サンキュー:

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聲の形のストーリー・あらすじ

聲の形」は、聴覚の障害を持つ少女・西宮硝子と、彼女へのいじめに加担していた過去を持つ少年・石田将也の物語で、2人の衝突や再会を通して、孤独や絶望、愛などが描かれている。(アニメ映画『聲の形』のwikipedia・公式サイト等参照)

放送時期・公式基本情報

ジャンル
アニメ映画
放送時期
2016年9月17日
制作会社
京都アニメーション
主題歌
aiko『恋をしたのは』

声優・キャラクター

入野自由、早見沙織、悠木碧、小野賢章、金子有希、石川由依、潘めぐみ、豊永利行、松岡茉優

スタッフ

原作:大今良時(講談社コミックス刊)、 監督:山田尚子、脚本:吉田玲子、キャラクターデザイン:西屋太志

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