薄雪草 さんの感想・評価
4.0
物語 : 4.5
作画 : 4.0
声優 : 4.0
音楽 : 4.0
キャラ : 3.5
状態:観終わった
何が人を変えるのか
美しくて、醜くて、とても難しい作品でした。(原作は未読)
いつもなら初見は一気見するのですが、今回は途中からシナリオが追えなくなり、REVボタンを押してはまた再生するという、私的には久しぶりの視聴パターンになりました。
正味2時間の作品にそれなりの時間をかけたので、観終わったとき、ようやくか・・という安堵の気持ちと、作品の持つ訴求性にたじたじになりました。
環境と立場のあまりの隔たりに、心を深く抉られた感じでした。
それは、つまらないとか、見るんじゃなかったとかの負の感情ではなくて、骨太の世界観と、複雑なキャラの心理設定に心が涙したという共感性であり、こんな作品が世の中にあったのかという驚きが近いように思います。
全体像としては、優しさのひとかけらもない世界。
そんな印象を持ちました。
私は、終始傍観者の立場に縛られ、当てるべき焦点も見つけられず、どうにも収まりのつかない心苦しさに悶々とする思いに耽っていました。
これは劇場で観るべき作品だったのかもという考えと、むしろレンタルで良かったという気分に分かれました。
思考回路のそれは、相反しながらも混じりあうもので、作品への評価の落としどころをしばらく探す羽目になりました。
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世界観の設定は、緻密に構成され、反論を許さない説得力があります。
物語の初発は2019年と設定されています。
あるアクシデント(大災禍=ザ・メイルストロム)からパンデミックが発生し、世界が崩壊しかけ、その半世紀後からが物語の本流です。
奇しくも、かの国にコロナが発生したのも2019年(12月)。
ピタリと一致するこの符合にほんとうに驚きました。
なぜなら、原作は2008年の刊行、映像化は2015年なのですから。
世界は今も、その高いツケを支払わされています。
それぞれの陣営は、望ましいハーモニーを求めて右往左往し、喧々諤々としています。
これらを意図する者たちは、いったい人間をどこへ向かわせようと考えているのでしょう。
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本作では、病気にならないこと、健康であることが、幸福を享受する唯一無二の価値(ハーモニー・プログラム)と位置づけられています。
そのために人々は、二次成長期が終わるとナノマシン(= WatchMe)を体内に注入し、自分の肉体と意識の安寧を、生府(パンデミック生存者?)に委ねています。
その技術と性能は、理解を超えて驚異的ですらあります。(重要な伏線)
おそらくはパンデミックへの恐怖と教訓から、人類存続のための決定打、最適解として採用・運用されているのでしょう。
わが国も、個人情報の一元的な管理(まずはマイナカードから)が始まろうとしています。
行政システムの簡便化(本末転倒?)はもちろん、接触頻度の低減(知らぬが仏?)、利用者サービス(海老で鯛を釣る?)、紛失回避の2枚持ち(月夜に提灯?)など、もはや何のための利便性なのか、損得を超えて善し悪しがわからない仕組みに感じます。
いずれせよ国家権力に個人情報の根幹を献上するわけですので、ハッキングや漏洩などの恣意的なリスクを考えると、不安を断ち切ることは容易ではありません。
ですが、本作のコンセプトは、それ以上のアクティブセーフティーを保証するものとしてのナノマシンの体内直注という荒ワザ。
言うなれば、それは血液のサイボーグ化、遺伝情報のマルチリンク化なのですから、マイナカードなど微笑ましいレベル、可愛らしいソーシャライゼイション(社会化)なのだろうと思います。
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話が横道にそれました。
0歳からの健康寿命が、24時間365日、管理され続けるという社会体制=思想と倫理。
そのシステムをテロリストがハッキングし、殺生与奪権を強奪、生死活殺を自在に操ることで社会転覆を狙うという大局観に迫るシナリオです。
ハーモニー・プログラムを暴走させ、プライバシーを人間のDNAに取り戻すことは、いったい善か悪か。
しかし、万一パンデミックが再来すれば、人類は朝露の如く消えるか、廃墟に身を寄せる弱者になりかねません。
思春期特有の共感性に生じる語感の心地よさとは真逆の、思春期ならではの反語的テーマがそこには隠されてあるような気がします。
果たして健康への必要なコストとは何か、生き方を自由に選択するリスクとは何か。
主人公たちは何に抗い、対立しあい、どんな最適解を視聴者に示そうとするのか。
生命哲学と社会倫理の調和の難しさを、局地戦で真を問うのが本作のドラマのようです。
答えの出しようのない答えを求められる・・・、そんな圧力にえぐられては、脳神経が激しく揺さぶられる思いになりました。
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パンデミックから約半世紀後(2062年頃)、仲良し3人組の女子高生のトァン(主人公)、ミァハ(キーパーソン)、キアン(共通の友人)が、そのとき何を考え、選択したのかが物語のスタートです。
そしてその13年後(2075年頃)、成人した彼女らが、過去をどう評価し、未来にどう生きるかという筋立てでリスタートします。
友情物語の陰で、言わばパンデミックによる世界の分断と、その対処としての社会思想の分岐点が少しづつ示されます。
それは、まったく悍ましいほどの情念をからめながら、凄まじい世界線が一気呵成のスピードで開示されていくのです。
ユートピアとディストピアの狭間で、お互いのアイデンティティをぶつけ合うトァンとミァハ。
キアンはその亀裂に落とし込まれ、 {netabare} 自らの手で(しかし意思は生きようとしながら)命を落とします。 {/netabare}
かつて胸襟を開きあった3人組が、監察官、唱導者、犠牲者という立ち位置に分かれてしまう道理と不条理。
美しくあるはずの友情と信頼は、生き方の両極地で牙を剥きあい、命の存在価値を削りあうのです。
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すこぶるハードSFです。
盛り込まれているテーマは、個人と社会の相関性、自由と規律のバランス、生きることの希望と憎悪など、とにかく一つ一つが重いです。
パンデミックの教訓は、パンデミックを二度と起こさないこと。
強力なそのバイアスが、命と肉体はもとより、意思そのものの自己所有感すら社会へと外化させる。
それは新手の思想統制であり、一種の優生思想であり、宗教に似た選民思想に感じます。
その片隅で、高校生のミァハとトァンとキアンは、 {netabare} 集団自決 {/netabare} という手段で自由への脱出を試みます。
その選択は、思春期に芽生える純粋思想を昇華させ、若々しい肉体を穢れなく保ち、最高の境地へと導く唯一のプランだったのです。
おそらく、それが彼女たちのハーモニーを約束するものだったのではないかと思います。
ただ、どうしてミァハがそこまでを求めるのか、彼女の動機が今一つ分かりませんでした。
ですが、最終盤になってそれが明かされたとき、彼女の深い悲しみと尽きぬ怒りとが私の胸を鋭く突いてきたのです。
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そこには生命と自我への圧倒的な暴力と、ジェンダーへの無慈悲な凌辱があったのです。
彼女の魂を丸ごと破壊し支配するのが一つの世界なら、命をかけて復讐するミァハの気持ちもまた、"自明の世界" を取り戻そうとする彼女なりのハーモニーへの意志だと理解できなくもありません。
"自明" は重要なキーワードだと思います。
作品のなかでも説明されていますが、独自解釈として、私は「民族自決権」と捉えたいと思います。
それは、ソ連崩壊後、チェチェン共和国としての独立を、ロシアからも国際社会からも、その承認を得られなかった人たちの "生存する権利" のことです。
ロシアとチェチェンとの因縁と紛争は、16世紀半ばから今もなお継続しており、チェチェン紛争(1994~2009年)のみでも20万人以上の死傷者というデータもあります。
宗教的、地政学的、人権的に棄損され続け、世代を超えて苦しみを背負っているチェチェンの人たち。
こうした現代史をなぞりながら本作を俯瞰してみると、チェチェンに生まれたミァハの生い立ちやその背景が俄かに立ち上がってきます。
彼女の "意識" が、その場所で、その行為の中で生まれた原体験と、日本で感じ取ったハーモニー・プログラム下での追体験も。
彼女の思い、感情、意図は、同情もするし否定できるものではありません。
ですが、同時にそれはテロリストの理論であり、立場であり、方法論でもあります。
ミァハがキアンに為した行為も、しかし、トァンがミァハに為した行為も、是非もなく非難されるべきことと思うのです。
でも、それもまたそれぞれの価値観(宗教・国家・人権・生命倫理など)のハーモニーを天秤に掛けた結果だとしたら・・。
本作品が示そうとするテーマが、ここにあるように思います。
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いたいけな少女たちは、いったい何にもてあそばれ、何に蹂躙されたのか。
友情を美しく信じるがゆえに同調と共鳴を求め、しかし、正義と善とを決する不協和がその道を分けてしまう・・。
自らの意志で自由に生きることの充実感と、他者によって無難に生かされることでの亡失感をモチーフにしながら、遠くに感じる国際情勢を身近に感じられる課題・問題としてのアプローチを落とし込んでいます。
生き方への調和性にまつわる少女たちの親和性と乖離性に、一分の慈悲も与えない作品。
それを、あえて<harmony/>と掲げることの重たさ・・。
久しぶりに、骨のある作品に出あいました。
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