nk225 さんの感想・評価
3.3
物語 : 3.5
作画 : 3.0
声優 : 3.5
音楽 : 3.0
キャラ : 3.5
状態:観終わった
【アニメキャラの魅力】死んだイヌはイヌじゃない!?パラサイトを右手に宿す高校生「泉新一」の魅力とは?
『寄生獣 セイの格率』は月刊アフタヌーン連載された『寄生獣』を原作とするアニメです。古さを感じさせない骨太なストーリーと魅力的な登場人物で、根強い人気と高い評価を得ている原作を、2クールかけて丁寧に描写しています。今回はその主人公である「泉新一(いずみしんいち)」君を紹介してみたいと思います。
■メガネ男子
アニメのキャラクターデザインで新たに眼鏡をかけることに。原作より見た目が気弱そうに見えます。しかし、根の部分は変わりません。物語の後半眼鏡を外し、髪を立てることにより印象ががらりと変わります。彼が変わった事を分かりやすく表現していると思います。
■お人よし
文句を言いつつも周囲の意見に従う人の良さ・・・、そんなところが彼にはあります。それは右手に寄生したミギーに対しても例外ではなく、散々おびえたり喚いたりしたものの一度彼を受け入れると無意味に対立することもなく、穏やかな関係を築いています。人と争うことをよしとしない優しい性格も彼の持ち味です。
■無自覚な変化_・・・死んだイヌはイヌじゃない、イヌの形をした肉だ
周囲に埋没するようなことはあっても大人しく優しい人間だった「泉新一」。大怪我をしたところをミギーの治療によって助けられます。ただ、その治療により体がパラサイトと混じってしまいました。それから彼は肉体的にも精神的にも変わっていくのです。
眼鏡をかける必要がないほどに視力が上がり、身体能力も大きく上がりました。決して冷淡というわけではないのですが、時折やけに合理的な考え方をするようになり、それが周囲の人間を驚かせたりします。
とはいえ、別に彼がまったく違う人間になったわけでもありません。自分でも無自覚だった変化を周囲の反応によって初めて気付かされ、自分の内側の変化にとまどい、恐怖することも・・・。特異な力を得たとしても彼は一高校生でしかないのです。どこまでも普通の少年・・・そんなところも彼の魅力のひとつです。
■決断し前へ。でもやらなけりゃ・・・確実なゼロだ!
自分自身がパラサイトによる直接被害に遭い、また身近な人物から被害者が出たことによって、自分がただ平穏に暮らしているだけではダメだと自覚します。それから彼は積極的に行動に移ることになります。状況に流されるように物事を受け入れるだけだった状態から、自ら状況を切り開く立場に立っていきます。物語の序盤では決して見られなかった意思の強さも感じられるようになり、様々な出来事を乗り越え精神的にも肉体的にもタフになったようです。
原作でもアニメでも実写映画でも、様々な彼の魅力を堪能する事が出来ます。まだ観ていないという方は、ぜひ一度ご自身の目でお確かめ下さい。
アニメ『寄生獣』ミギー役は平野綾だけではなかった もう1人のミギーは…女子高生!?
原作コミックの連載から20年の時を経て、この秋アニメ化された『寄生獣』。本作は、主人公・新一の右手に、謎の生命体“ミギー”が寄生するところから物語が始まる。このミギーを演じるのは人気声優・平野綾と公表されていたが、なんともう1人ミギー役が存在することが判明した。
もう1人のミギー役というのは、世界でも珍しい“女子高生ヒューマンビートボクサー”Rinka。ヒューマンビートボックスとは、楽器を使わず、人間の口だけでビートを刻み作り出す音楽だが、彼女の技術をミギーの様々な動きの効果音として使用している。
アニメの世界では史上初の試みとなった、ヒューマンビートボックスによる効果音作り。既に放送されている第1、2話では、若く、そして数少ない女性ビートボクサーながらも国内トップクラスの実力を持つRinkaが生み出すビートと、平野の声が見事な化学反応を起こした。アニメ版ミギーが彼女たち2人によって息が吹き込まれていることにも是非注目して欲しい。
『寄生獣 セイの格率』(きせいじゅう セイのかくりつ)のタイトルで、2014年10月より2015年3月まで日本テレビほかで放送された。全24話。テレビアニメ版につけられた副題のうち「セイ」にはさまざまな同音異義語を含んだ多義的な意味づけがなされ、また「格率」はイマヌエル・カントによる哲学用語に由来するとされる。
テレビアニメ化の発表は、同年の実写映画版の発表と同時に行われた。テレビアニメ化が発表された2013年頃における映画・放送業界では、実写映画とテレビアニメの企画を同時進行させることが多く行われており、本作の同時映像化もその流れに沿ったものである。こうした商業展開には、原作に準拠した内容のテレビアニメ版で原作の世界観を視聴者の間に浸透させた上で、原作とは別物という認識が一般的となっている実写映画版へと繋げるという意図が込められている。