薄雪草 さんの感想・評価
4.3
物語 : 4.5
作画 : 4.5
声優 : 4.5
音楽 : 4.0
キャラ : 4.0
状態:観終わった
想いやりで紡がれる "思い出"
本作をひとことで言いあらわすなら・・・。
"センシティブなフィロソフィーに満ちたナラティブアプローチ"。
そんなふうにも言えそうな雰囲気です。
出自への傷心を癒し、誇りを掲げるのなら、背すじを伸ばすような逸話や物語が必要です。
どんなに手探りしても、疲れはてて倒れても、そのきっかけさえ掴めたら、いつか全てを肯定し、やがて未来へと向かわせる泉が湧き出します。
そんな作風がベースなので、ボーイミーツガールを擽(くすぐ)るようなエッセンスは皆無です。
事前に一部で噂されていた百合フレーバーも、見事なまでに肩透かしだったようです。
米林監督が、原作の "When Marnie Was There"(1967年)をリスペクトしたわけは、自律への歩調と、自立への歩幅をとろうと必死にもがく、12歳の少女の心情を溢れるほどに表現したいと思われたからではないかと、私は思っています。
イングランドの北海に面したノーフォーク州の小さな港町に "Anna" 原作の舞台があります。
そのステージを、札幌と釧路湿地帯の入り江の町に置きかえて、"杏奈" の {netabare} ガールミーツグランマ {/netabare} が描かれます。
自然風土も地域文化も社会制度も、ぜんぶを日本向けに改変して、「わたし、もらわれっ子なの」という杏奈の人生を描き出し、問いかけてくるのです。
呻吟にあえぐ杏奈の内面世界を描きだそうとするのが本作のストレングスです。
でも、もう一つ大切なのは、胸のつかえばかりのマーニーの心頼りが、杏奈その人に委ねられたということです。
作品に没入するのなら、彼女の青みがかった瞳と、マーニーの真っ青な瞳に目を向けることがまず第一歩です。(どうにも真っ当な伏線と演出ですね。)
両者とも疎外を感じるポジション、抑制されたパフォーマンス、塗り固めたペシミズムが感じられ、それぞれのナラティブも読み解けもできそうです。
イメージボードで、彼女たちが背中で交わしあう姿には、いったいどのような意図があるのでしょう。
マーニーが杏奈に許しを求めた答えが "そこにある" のだとしたら・・・。
過去をそっと掬い取る手立てと、未来を晴れやかにしたい足がかりを、お互いに求めあおうとしているのかも知れませんね。
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ひとつ整理しておきたいのですが、杏奈が引っかかっていた "お金のお話" は、生活保護費ではなくて、里親制度の養育費です。
{netabare}
昭和22年、児童福祉法第27条にエビデンスがあります。
「家庭での養育に欠ける児童等に、その人格の完全かつ調和のとれた発達のための "温かい愛情" と "正しい理解" をもった家庭を与えることにより、"愛着関係"の形成など児童の健全な育成を図る」とされています。
本制度の意義は、「子どもが成長する過程においては特定の信頼できる大人との間での "愛着形成" がとても重要」で、「より多くの子ども達が "家庭と同じような環境" で生活することができる里親やファミリーホームにおける養育を推進」するところにあります。
杏奈のおばさん(佐々木頼子)にお金が支給されるのは、こうした「社会的養護(="愛着形成" )を支え推進する責任が、国にあるからにほかなりません。
その意義と目的からして、頼子が支え手でいられるための支援費の支給は、当然至極のものです。
里親制度が、里親のボランティアイズムや、個人の収入でできる手合いと思うのでしたら、それはちょっとした(実は大きな)勘違いです。
本来、子どもは社会全体の宝です。
大人がそっと見守り、賢く導くことで、彼らの可能性を広げられるのです。
そんな未来に飛躍していただくためには、社会責務としての納税とその活用が肝心です。
今日、日本では「家庭を持たない子どもたちが40,000人を超えており、児童養護施設などで暮らして」います。
ちなみに札幌市を例にとると、186人の子どもたちが里親さんと過ごしています(令和3年度)。
そんなわけで、どうしたってお金は必要です。
ですから、視聴の場合には、制度への理解や、その運用への期待が、本作理解への重要な鍵になると思います。
そうでなければ、視聴する側の気持ち一つで、作品のクオリティーに "線を引いて" しまいかねません。
個の権利意識やユニバーサルサービスに対して、長年にわたって歴史を積み上げてきた英国や欧州には遠く及びませんが、日本でも「もらわれっ子」が大事にされることは、決して出過ぎ行き過ぎだとは思えないのです。
ところで、里親制度に似た言葉に養子制度がありますが、法的に決定的な違いがあります。
養子の場合は、遺産相続権が発生するかわりに、国からの支援はなくなるのですね。
{/netabare}
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肌や、髪や、瞳の色や。
世間とは違う生活習慣も。
親の生きかたとか、子どもの育てかたとか。
血統からの断絶だったり、愛情からの乖離だったりとか。
そんなことで、少年少女の心が押し潰されたり、ましてや大人や社会に憎悪を抱いたりなど、いいわけがありません。
それらの捉え方や感じ方っていうのは、詰まる所、当事者の幼げな気持ちに大人がどう寄り添うのか、どうリカバリーを支援するのかってことだと思います。
12歳の杏奈は「魔法の輪の外側にいる」と言います。
魔法なんて意味不明なものの言い方で世界に関わろうともせず、ひたすら頑なに拒絶するだけの自己を崩そうとしない彼女。
そのくせ、孤絶する態度に欺瞞を感じて、息さえも詰まらせています。
杏奈が喘息を患っているのも、そこに精神的な根拠が見つけられそうです。
山下医師の判断は、大人設計の制度と、生身の児童心理とのマッチングの難しさを意図させていますし、転地による緩和を促したのも、双方にとって必要なタイミングと見計らったからでしょう。
時には第三者の目に頼るのもいいことなのかも知れませんね。
大岩夫妻が杏奈に設えた部屋は、いつか大人に向かうきっかけをつかむための最適な舞台装置です。
自分ひとりの自我では、どうにも受け止めきれない発達プロセスの危ういローリング。
それを思いやるのは、線引きなど微塵も感じさせない大岩夫妻のオールさばき。
杏奈が手にする自由の一挙手、規律の一投足というお作法の世界を、部屋のうちそとが優し気に成熟してくれるのですね。
湿地に足を滑らせたり、ボートにグラグラ振られたり、草の茂みや道ばたやサイロの隅で眠りこけるのも、杏奈が杏奈のままいられるための必然の成り行きでしょう。
無口すぎる十一も、気のいい彩香も、マーニーを知るという絵描きの久子も、二人の因果を縒り合わせていく大切な人たちですね。
一つ一つにちゃんとした意味のある、珠玉のようなステキな演出のように感じます。
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さて、「思い出のマーニー」です。
振り返れば、マーニーとの思い出づくりに埋められた杏奈のひと夏のバケーションです。
もしも彼女が札幌にいるだけなら、先の青春はどんな色合いになっていたでしょう。
人との関わりを持たないままでは、彩りある思い出も何もなく愛着障害にこじれてしまいそう・・・。
おばさんの頼子の胸の痛みがそこにあったからこそ、遠く釧路まで杏奈を出向かせたのですが、あたかもそれはマーニーが娘の絵美里を寄宿舎に入れてしまったのと同じように感じられたのかもしれません。
だって、頼子は、絵美里とは年齢も近いようですし、それなら見知った間柄だったのかもしれないのですから。
いいえ・・・、たぶん・・・、血筋を同じくする直系、あるいは傍系といった近親者という捉え方のほうが私にはスッキリくるのです。
絵美里が杏奈にできなかったこと、マーニーが絵美里にも杏奈にもできなかったことを、頼子はどんな思いをもって杏奈に接していたことでしょう。
杏奈が「許してあげる」と語るのは、一族郎党にくすぶった暗い軋轢と、負の歴史遺産への "赦し" につながったのかも・・・。
「お母さん!」と呼び掛けられた頼子も、魂から救われたと感謝し、安堵する気持ちに胸を撫で下ろしたようでした。
そう思うほどに、マーニーが杏奈に "ステキな思い出" を作ろうとして、どうにかして屋敷に呼び寄せようと "画策" したのも頷けます。
三つ子の魂にも届かぬ孫を天涯孤独の身に置いたまま死に別れるなど、マーニーはグランマとしてどれほどの心残りに咽(むせ)んでいたでしょう。
マーニーが、杏奈の心にたくさんの彩りを与えたのは、彼女たちが双方にリカバリー(救済)を得るためには絶対に欠かせないプロセスでした。
お互いの生い立ちやあどけなさをしっかりと伝え合い、受け止め合うことはもちろんのこと、一族郎党の過去さえも丸ごと許すことに至ったグランマと杏奈の愛の交流。
「思い出のマーニー」とは、そんな、いかにも英国文学らしいフィロソフィーにあふれた作品でした。
こういう主旨の作品は、映像作品で目にする機会はそんなに多くないと思いますし、娯楽性を前面に打ち出すアニメではまずないことです。
そんなわけで、できればもう少し評価されてもいい作品かなって、私はひそかに思っています。
おまけ。
{netabare}
本作をもう少し深掘りすると、この物語のキャラの関係性には、家族・家庭形成においての "加害者と被害者" という特異な相関性が見受けられると思います。
詰まる所、それは "愛着形成の不全" を通底としながら、輪廻もしていると言えそうです。
マーニーは、彼女の親御さんの被害者であり、絵美里からみると加害者でもある。
おばさんの頼子にしてみると、マーニーにも絵美里にも、そして杏奈にも、似たような感情が、とても複雑な感情があったとみて間違いないでしょう。
ただ、杏奈だけは、純粋に被害者の立場に置かれているのですが、留意すべきはここ。
彼女の自我は、まだ、加害者の立ち位置には立っていないということですね。
このような負の連鎖は、単に二人の少女性のふれあいを描くだけでは、清算されにくい社会的な根深さがあります。
だからこそ、ひときわ文学的に、更には、時を同じくする魂の交流に昇華させることで、血統の穢れを心理的に浄化し、純化に至らせたのですね。
加害者は死してなお償いようのない罪の意識を孫子に抱え、被害者はそれを知らぬままに、何の因果応報の罰かと心を腐らせてしまう。
この重い病苦を根治させるには、まだ加害者に至っていない杏奈の「許してあげる。」のひと言に込められた無辜の愛のほかには、特効薬に足る純然な処方箋には、決してなり得ないのですね。
この世には目に見えない魔法の輪(廻)がある。
本作は、生者と死者が、渾然一体となって、それぞれに社会からの抑圧を解きあい、お互いのプレゼンスを社会のなかにエンパワメントしあっていくという、とても不思議で、至極真っ当なもの。
そんなふうに腹に落とせるものかと思います。
{/netabare}
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