青龍 さんの感想・評価
4.6
物語 : 5.0
作画 : 4.0
声優 : 5.0
音楽 : 4.0
キャラ : 5.0
状態:観終わった
八幡たちは「共依存」なのか?
アニメ化された『クオリディア・コード』、『ガーリッシュナンバー』などの渡航による原作小説は、『ガガガ文庫』(小学館)で刊行中(全14巻、外伝4巻、未読)。
アニメ1期は全13話+OVA1話(2013年春)。監督は、『Dance with Devils』、『チア男子!!』などの吉村愛。制作は、『デュラララ!!』、『虚構推理』などのブレインズ・ベース。
(※2、3期は、監督を『アウトブレイクカンパニー』、『ウマ娘』の及川啓、制作会社を『ヨスガノソラ』、『月がきれい』のフィールに変更し、2020年に完結。以上、Wikipedia参照。)
(2025.2.7投稿 2.9追記)
本作の主人公である比企谷八幡(ひきがやはちまん:CV.江口拓也)は、特に1期が放送された後、ラノベ好きの若者を中心に絶大な人気を博しました。
原作は、第1巻の帯に『僕は友達が少ない』の平坂読からの推薦文が掲載されているなど、いわゆる「残念系ラブコメ」を目指した作品のようです。しかし、それにしても八幡の「腐った性格と目」という癖強・ネガティブキャラは他の追随を許さない圧倒的なものなわけで、本来、それは人を選ぶキャラクターなはずなんです。
現に八幡を嫌う人も一定数いるようなのですが、それでも八幡が多くの人から支持された理由は、八幡が「時代の空気」という字面からしていかにも「ふわふわ」したものを上手く映していたからなのだと思うわけです(いうて、もうすでに10年以上前の作品ですが(笑))。
というわけで、この捉えどころのない「時代の空気」とやらを少しでも言語化できれば、これからの私のアニメレビュー生活にもきっと役立つはず!と思ったので、今回は主人公である八幡を中心に掘り下げていきたいと思います(※本レビューの内容は1~3期を通したもの。音楽、作画の評価については、2期から制作会社などが変更されているため1期だけ。)。
【「高二病」のカリスマ】
八幡は、一部で「高二病のカリスマ」といわれているようです。
聞き馴染みがないかもしれませんが、「高二病」とは、ピクシブ百科事典によれば、「中二病の亜種。中二病の各種症状が沈静化を迎える高二の頃に発症しがちなためにこの名が付いた」とのこと。
そして、その症状の特徴は、中二病を否定するため、「「特別」「理想」などの概念をすべて否定」、「中二の頃に比べて半端ながらも知恵がついているため口だけは達者になり、中二病をはじめとして様々な物事に対する批判的な態度が顕著に現れる」といったもの。
また、「中二病が「カッコよさや熱血への憧れ」によるものならば、高二病は「ニヒルさクールさへの傾倒」とも言えそうだが、中二病が肯定的な表現の発露であるので痛さに笑える余地もあるが、高二病は痛いだけで笑える要素が無い。」(以上、ピクシブ百科事典から引用)
八幡が高二病なのかについては、「青春とは嘘であり、悪である。」という八幡のモノローグから始まる第1話の冒頭(アバン)を見ていきたいと思います。
「青春を謳歌せし者たちは、常に自己と周囲を欺き、自らを取り巻く環境のすべてを肯定的にとらえる。彼らは青春の二文字の前ならば、どんな一般的な解釈も社会通念も捻じ曲げてみせる。彼らにかかれば、嘘も秘密も、罪科も、失敗さえも青春のスパイスでしかないのだ。」
「仮に失敗することが青春の証であるのなら、友達作りに失敗した人間もまた青春のど真ん中でなければおかしいではないか。しかし、彼らはそれを認めないだろう。すべては彼らのご都合主義でしかない。結論を云おう。青春を楽しむ愚か者ども、砕け散れ。」
いやあ、見事に病んでますね(笑)(※ちなみに、この一見もっともらしそうなんだけど内容は「ど陰キャ」な長いモノローグの後に、やなぎなぎによるいかにも青春ラブコメっぽい爽やかなオープニング曲『ユキトキ』が流れます。ギャップ(笑))。
この冒頭部分では、八幡の「「特別」「理想」などの概念をすべて否定」、「口だけは達者になり…様々な物事に対する批判的な態度が顕著」、「ニヒルやクールさへの傾倒」といった「高二病」の特徴が見て取れるのではないでしょうか。
しかして、八幡は、「高二病は痛いだけで笑える要素がない」ため、国語教諭で生活指導担当の平塚静(CV.柚木涼香)によって、完璧超人過ぎて周囲の嫉妬の対象となり八幡と同じ病に絶賛罹患中の雪ノ下雪乃(CV.早見沙織)と共に、奉仕部による社会的更生を言い渡されることに。
この時の八幡と雪乃は、互いに「ぼっち」でありながら自意識だけはとても高いため、ぼっちになったことについて自分たちは悪くない、むしろ自分たちを受け入れない社会の方が悪いのだというスタンス。しかし、だからといって自分たちから積極的に働きかけて社会を変えようとは思わないし、自分たちを社会に無理に合わせることもしない。だから、半ば無理矢理に他人との接点を作るために「奉仕部」なる謎の更生施設に収容されたわけです。
この辺り、「社会を変える」なんて大層なことはコスパ・タイパが悪いし、仕事関係の人間関係より自分と同じ趣味を持つ初めから気の合う仲間との時間を優先する自分たちを無理に周囲に合わせようとしないといった最近の空気を感じます。
もっとも、この時の八幡は、社会に現存するであろう同じような多くの「高二病」患者のサンプルの一人にすぎず、まだカリスマには至っていません。
彼らと正反対、陽キャだけど他人の顔色ばかりうかがって自意識の低い由比ヶ浜結衣(CV.東山奈央)というカンフル剤が奉仕部に投入され、八幡は、奉仕部に持ち込まれる無茶ブリを雪乃曰く「斜め下」の方法で解決していくことによって「高二病のカリスマ」へと上り詰めていくことになります。
【八幡たちは「共依存」なのか?】
{netabare}八幡の解決策がなぜ「斜め下」なのかといえば、それは自分を専ら犠牲にすることで、自分以外の他のすべての人を助けるというものであったから。八幡は、普通の人が思いついてもやろうとしないか下策だと思う方法をあえて採るから、「斜め下」なわけです。
(※もっとも、解決策の良し悪しはあれど、厭世的な世界観を持つ「高二病」でありながら積極的に他人と関わり、結果的に人を救っているところが、「高二病のカリスマ」たる所以なのでしょう。)
さて、八幡がそのような方法をあえて採ってきた理由について、雪乃の姉である陽乃(CV.中原麻衣)が「君たち3人(八幡、雪乃、結衣)の関係性は共依存」なんだというわけです。
共依存とは、「自分と特定の相手がその関係性に過剰に依存しており、その人間関係に囚われている関係への嗜癖状態(アディクション)を指す。すなわち「人を世話・介護することへの愛情=依存」「愛情という名の支配=自己満足」である。共依存者は、相手から依存されることに無意識のうちに自己の存在価値を見出し、そして相手をコントロールし自分の望む行動を取らせることで、自身の心の平穏を保とうとする。」(以上、Wikipedia引用)
分かりやすい典型例は、「ダメ男製造機」でしょうか。
さらに、A.W.シェフという学者が挙げた共依存の特徴をあげると、「自分を価値の低い者と感じ、自分が他者にとってなくてはならない者であろうと努力する」、「他者からの好意を得るためなら何でもする」、「常に他者を第一に考え、自らは犠牲になることを選択する」、「奉仕心が強く、他者のために自分の身体的、感情的、精神的欲求を抑える傾向が強い」、「他者の世話を焼くことによって、その他者が自分へ依存するように導く」といったもの。
確かに、これを見る限り、なぜ八幡が「斜め下」の解決方法を採ってきたのかは、自己評価の低い八幡が奉仕部の他のメンバーから必要とされる「共依存関係」をつくるためであったと説明できそうです。
しかし、共依存を調べて分かったのですが、共依存って現代社会では非常にありふれた状況で特別な状況じゃないんです。どういうことかというと、共依存の本質は、「自分の存在理由(アイデンティティ)を他人からの承認に依存している状態」だからです。SNSの例が典型でしょうけれど、家庭や地域社会を省みず会社での評価にだけ拘泥した結果、リタイア後に社会に上手く適合できず孤立してしまう男性が多いといった事例もこれに含まれるでしょう。
もっとも、例えば、一般的に医者や弁護士が高給なのは、他人から必要とされ社会から求められているという評価の裏返しなのであって、ある程度「自分の存在理由を他人からの承認」に委ねること自体がすぐに病的だとか悪だということにはならないでしょう。
逆に、自分の存在理由について、他人からの承認と全く無関係な人の方が稀なわけで(※古代ギリシャの哲学者アリストテレスは「人は社会的動物である」といっています。)、他人からの承認にのみ「過度に依存する」という状況がまずいのだと思うわけです。
さて、長々と書いてきましたが、結局のところ、現代社会は、「共依存社会」、すなわち「自分の存在理由を他人からの承認に依存している状態に陥りやすい」という特徴を有しているんじゃないでしょうか(※ネットワークの発達による双方向の情報発信によって他人からの評価に直接晒される機会が多い傾向にある。→意識せざるを得ない状況。)。
あとは、それを認識したうえで、どうするかだと思うんです。
ようやく本作の話に戻りますが(笑)、3期第11話で、八幡は、雪乃に対して、「お前の人生歪める権利を俺にくれ」と告白します。これに対して、雪乃は「あなたの人生を私に下さい」と応えます。
コレ、二人らしい愛の告白だと思うのですが、視点が、他人からどう思われるか(他律的)から、自分がどうしたいか(自律的)に転換している。自己の存在理由を専ら他人に依存しないためには、自分自身がどうなりたいのかを自分で考えていく必要があるわけです(※『NieR:Automata Ver1.1a』のテーマであった「実存主義」です)。
もっとも、自分がどうしたいかばかりを優先すれば、それはそれで今度はストーカー問題になってしまう…
だから、八幡や雪乃のように、他人からの承認を意識したうえで、最終的に自分がどうしたいのか。この二つのバランスのいいところ、いわゆる「中庸」を心がけることが現代の「共依存社会」をよりよく生き抜いていくために大切なのではないでしょうか。{/netabare}
【「他律」と「自律」から読み解く「俺ガイル」。本作でいう「本物」とは?(※余談)2025.2.9追記】
{netabare}上で色々と言語化した結果、キーワードとして「自律」と「他律」という言葉が出てきたので、この二つの言葉を使って本作を説明できるかも?と思ったので、やってみようと思います。
ちなみに、ここでいう「自律」とは、「他からの支配・制約などを受けずに、自分自身で立てた規範に従って行動すること」、「他律」とは、「自らの意志によらず、他からの命令、強制によって行動すること」(以上、goo辞典)とします。
結衣は、クラスメイトの顔色ばかりをうかがうなど、その行動基準は周囲の評価であったことは明らかなので、「他律」的であったといえそうです。また、結衣が八幡や雪乃に近づいた動機は、彼らの自意識が高く「自分自身で立てた規範に従って行動」しているように見えたことに対する憧れからでしょう(※この辺の問題は、『スキップとローファー』がテーマにしている印象)。
もっとも、「自分自身で立てた規範に従って行動」しているように見えた雪乃ですが、物語の進行とともに姉である陽乃の後を追いかけていたということが判明します。誰かの人生をモデルにして、それを追いかけているので、これも実は「自分自身で立てた規範に従って行動」というよりは他人を基準にしているので「他律」的だといえる。雪乃は、この姉に対する憧れ・呪縛からいかに解放されるのかも本作のテーマであったと言えそうです。
そして、八幡も「理性の怪物」、「自意識の化け物」とされていますが、「自分自身で立てた規範に従って行動」しているわけではない。なぜなら、あらゆることを理性によって冷静に分析して、最適と思われる行動をとっているだけなので、自身の行動の基準を「自分自身で立てた」わけではないからです。八幡の行動は客観的な分析の結果であって、行動の決定に八幡自身がどうしたいのかという意志が介在していないといった方がわかりやすいでしょうか。
結局、みんな「自分自身で立てた規範に従って行動」しているとはいえない(※日野聡さんが演じた一見賢そうに見える海浜総合の生徒会長もそうですよね。)。自分の中に自ら立てた人生の行動指針となりえる「確たるもの」(※私が考える本作でいうところの「本物」。例えば、八幡が色々な経験や葛藤を経て自ら掴んだ「お前の人生歪める権利を俺にくれ」という気持ち。)がないと周囲に流されやすくなる。
ここでいっている「自ら立てた人生の行動指針」というのは、哲学という小難しいものではなくて、3期第5話で平塚先生が今後の雪乃との関わり方を八幡を尋ねるシーンに集約されているでしょうか。
「受験や就職あるいは30歳までに一区切りとかな。そうやって自分と向き合う時期がいずれ訪れるんだ。」
「やりたいことや、なりたい自分がたくさんあった。やりたくないこともなりたくない自分もたくさんね。その度に、ちゃんと選んで、挑んで、失敗して、諦めて、また選び直して、その繰り返し。未だにそうだよ。」
「その上で訊くが、君はこれから彼女(雪乃)とどうかかわるつもりだ。」
「少なくとも、関わらないという選択肢はないと思います。」
こういうことって、本来は、「青年期」に終わってないといけない(笑)
だから、この手の話は、青春っぽいということになる。もっとも、図らずも平塚先生も未だにそうだと言っているように、多くの現代人は、この問いを「ちゃんと選んで」こなかったので、猶予期間・モラトリアムが長くなっているといわれています。
個人的には、やはり『NieR:Automata Ver1.1a』でテーマにされていた、「生きる目的」は自分で決める、「実存は本質に先立つ」という20世紀の哲学者であるサルトルの言葉が現代人にとって未だに問題というか、より深刻な状況になっているという印象でしょうか。
ちなみに、「生きる目的」といっても、正解なんてわかりようもないので、「どうしたら後悔しないか」くらいの意味で使ってます。{/netabare}