takato さんの感想・評価
4.7
物語 : 5.0
作画 : 4.5
声優 : 5.0
音楽 : 4.0
キャラ : 5.0
状態:観終わった
古典を超えるために。「まどか」と同じくシステムに対する恐怖がテーマ。
production IGでSFといえば、もはや古典といって言っていい押井監督の劇場版「攻殼機動隊」、そして弟子の神山監督が手掛けた同作のテレビ版の存在は良い意味でも悪い意味でも大き過ぎる。これをいかに超克するか、別の方向性からアタックするとしたらどうやったらいいか?というのが本作の立ち位置だろう。
攻殼のテーマは、ブレードランナーから続く実存的な問いという面が強い。即ち、究極的な問いといってもいい、人間とは何か?である。
劇場版はそれがより前面に現れており、テレビ版では刑事ドラマとしての面が強くてよりエンタメ寄りといって言い。
それに対して本作は、攻殼テレビ版のエンタメ性に近づけつつ、虚淵さんの作家性によって明らかに違う物になっている。それは、システムという巨大な物に対する脅威と恐怖の感情であろう。
ディストピア作品は、少なくても近年の日本では伊東計画さんの「ハーモニー」くらいであまり目立つ存在はなかったが、本作は頭一つ抜けた輝きを放っている。それは、エンタメ性とテーマ性の両立に成功しているからである。
コウガミさんの復讐の物語、朱ちゃんの成長の物語としても楽しめるし、悪役も脇のキャラたちまで魅力的で、しっかり甘味が効いているからこそ引き込まれてぐいぐい見ていくことができるのだ。
しかし、本作の味わいを深くしているのは絶望的なシステムの巨大さであり、その中で苦悩しつつも人間たらんとする少数の人々の希望としての姿であろう。
本作のディストピアの肝は、決して単なる悪ではない点にある。というか、大抵の人々にとっては望ましい社会であり、一部の人にとってはユートピアかもしれないのだ。故にこの世界は、「1984」よりザミャーチンの「われら」に近い。全体主義が真に恐ろしいのも、単なる悪ではなく、かなり多くの人にとって自由主義よりも魅力的で望ましいという点である。
全体主義社会では、自由より規律が、個人より全体が、健全さと従順さが賛美される。どっかの国でも、こういう主張をする人々を嫌でも見かけないだろうか?。ドストエフスキーが「カマラーゾフの兄弟」で述べた大審問官のテーマ、即ち大衆は自由なんか不要であり、パンと娯楽さえ提供されれば文句はないという主張は今も生きている。大抵の人にとって物理的な必要が全てであり、それ以上の価値に対しては色盲同然なのだ。
本作の人々が輝いているのは、そんな世界の中でも人間は必要を超えた価値があると信じており、それに命を捧げているからだろう。
結末が単なるハッピーエンドではないのは、この物語の必然といって言いだろう。規律と自由、これは近代社会のアンビバレントであり、決して安易に解決されえないことだからだ。しかし、朱ちゃんはニヒリズムに陥らず、前に進み続ける。
この物語もまた祈りでもって終わりを告げる。決して到達できない程に巨大な願いに向かって進み続ける意志だけが、人をして大きく高めうる。