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「魔法少女まどか☆マギカ(TVアニメ動画)」

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魔法少女まどか☆マギカの感想・評価はどうでしたか?

ネタバレ

TAKARU1996 さんの感想・評価

★★★★★ 4.5
物語 : 4.0 作画 : 5.0 声優 : 4.5 音楽 : 5.0 キャラ : 4.0 状態:観終わった

エゴイスト入門

2017年5月19日 記載

今回のレビューは自分の思った事、感じた事を直接的に語る傾向がとりわけ顕著に感じられるかもしれません。
もしかしたら、納得できない部分も多々あるかと思います。
こんな愚者の主張も1つの個人的感想として温かく見守ってもらえれば幸いです。



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望んでいた物を手に入れたと思い込んでいる時程、願望から遠く離れている事はない。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ『ファウスト』
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「魔法少女」
周囲の誰もが持っていない不思議な力を用いて、騒動を巻き起こしたり事件を解決したりする少女の総称を指します。
純真であり無垢な存在の造形
元々は普通の女の子であったと言える存在ばかりです。
1966年の『魔法使いサリー』から始まって、『ひみつのアッコちゃん』『魔法のプリンセスミンキーモモ』『美少女戦士セーラームーン』『カードキャプターさくら』『おジャ魔女どれみ』とコンスタントに続いていく理想体系
そんな、今なお隆盛を極めている1ジャンルに、新世代の幕開け2011年、大きな社会現象が巻き起こった事は、この供給過多の現在においても記憶に新しいと言えるでしょう。
長命なジャンルに一石を投じた「メルヘンホラー」
ダーク「魔法少女」ファンタジー『魔法少女まどか☆マギカ』
一大ムーブメントとなったこの作品について、実を言うと、これまでは語る気なんて全くありませんでした。
サブカルチャーに興味があったならば、殆どの方が分かっている位に認知、周知されているであろうこのアニメ
そんな本作に対して、もう私が語る言葉等、残っていないと今までは考えてきていたからです。
しかし、ようやく見つけました。
書きたい事、伝えたい事、語りたい事、即ち、私の一解釈
急遽、書く事になったこのレビュー
既出であったり、代わり映えの無い内容であったと感じたならすみません。
もしかすると、幻滅する可能性のほうが高いかも知れません。
それでも宜しかったら、自己満足ですが、どうかこの場で少しだけ話させて下さい。
本作のエゴイストが齎した、実に歪んだ「物語」について……


【あらすじ】
大好きな家族がいる。
大好きな親友がいる。
時には笑って、時には泣いている。
そんなどこにでもある日常
見滝原中学校に通う普通の中学二年生である鹿目まどかも、そんな日々の中で暮らす1人だった。
ある晩、まどかはとても不思議な夢を見る。
それは1人の少女が魔法で戦っている異世界での出来事
その少女の戦いを目撃し、観察している自分
そして、謎の白い生物から登場と同時に告げられた発言
「僕と契約して魔法少女になってほしい」
起きた時には、その光景は影も形もなくなっていた…

変な夢見後のある日、そんな彼女にとても不思議な出会いが訪れる。
まどかの通うクラスにやってきた1人の転校生
名前は暁美ほむら
まどかが夢で見た少女と瓜二つの容姿をした少女
偶然の一致に戸惑う少女に、ほむらは意味深な言葉を投げかける…

この出会いは偶然なのか、必然なのか、彼女はまだ知らない。
断言出来るのはただ1つだけ
これは、彼女の運命を変えてしまう出会いだった……


{netabare}
『魔法少女まどか☆マギカ』を早々に語る前に、1つこの場で質問を投げかけてみるとします。
皆さんは「魔法少女」と言う存在について、本作を観る前はどういった印象をお持ちだったのでしょうか?
私の場合は『おジャ魔女どれみ』が至極、「魔法少女」と言うのを想起する上で大きな指針であった様に思います。
そのアニメ内で「魔法少女」と呼ばれる存在は、地味且つ地道な物でした。
強い「願い」を持っていれば勝手に辿り着いてしまう魅惑の店、MAHO堂
そこで自らの「願い」を叶える為に1年間、魔女見習いとしての修行に励む者達
その「魔女見習い」こそが作中において「魔法少女」と呼ばれる存在だったのです。
時には災難、時には試練を与えられながらも乗り越え、見習い試験の全ての課題をクリア出来るよう、頑張る女の子達
そして、それら全てを達成する事で、ようやく彼女等は自由に魔法を使える「魔女」と呼ばれる存在になれるのでした。
そのような前例と同じように「魔女」となる為、奮闘していく主人公どれみを含む「魔法少女」達
詳細は第1シリーズを参考にして欲しい所ですが、その過程があったからこそ最後、彼女達は真の「魔法少女」としての選択をするまでに至る事が出来たのを覚えています。
そこに出てきたのは、自分の為に他者の「願い」を叶える姿
徹底的利他主義なんて難しい言葉ではなく、それは純粋に「友達」の為
相手の「願い」を叶えていくまでに昇華した人物像に、どれみ達は全51話を通して遂になれたのです。
当時の私にとって、それがはっきりと描かれた終盤は幼心ながらも甚く感動致しました。
そして、今思えばこの時に、私の中にある「魔法少女」と言う実体への固定概念が根付いたように思うのです。
努力と言う対価を支払った上で成立する優しき存在
等価交換があったからこそ、自らの為に誰かの「願い」を叶えていくまでに成長した存在
それこそが私にとっての「魔法少女」です。
そんな彼女達が活躍してこそ、私にとっては「魔法少女アニメ」であったと言えたのでしょう。

さて、それでは逆に考えてみるとします。
このような努力を踏まえなくとも、簡単に「願い」を叶える事が出来るとしたら、人間は果たしてどうなるでしょうか?
見習い修行を行わなくとも……
試練、課題、災難への道を歩まなくとも……
簡単に「願い」を叶えられる存在=「魔法少女」になれる。
確かに魅力的な提案
そんな風に問われたら、誰もがきっぱりと断るのは難しいでしょう。
ただ、確実に言えるのは、それを受け入れた場合、どれみ達のような成長は絶対に起こらないと言う事

前述の問いにおける答えは、実に簡単です。
たった1つ、計5文字の言葉で端的に表せます。
A.「エゴイスト」
誰もが皆「エゴイスト」(利己主義者)になるのです。
「エゴイスト」のまま停滞した状態になるのです(成長が無い)
こうなってしまった段階で、私のとっての「魔法少女」は消滅したと考えるのが妥当でしょう。
そう、上記の点を重視して考えるなら『魔法少女まどか☆マギカ』は確実に「魔法少女アニメ」とは言えません。
1ジャンルの中でも、実にアウトロー的存在
まず、願いを叶えるまでの過程で、対価を支払っていません。
願いが叶った後に待ち受ける運命こそ、作中における正当な対価
それこそ「等価交換の原則」と呼ばれる物ですが、勿論、作中に出てくる彼女達はその事を分かった上で、望んで行う訳ではありません。
そこが実に、不条理的で理不尽の産物
また、願いを叶えた事によって、彼女達が周りの人に感謝されたり、自分の抱えている問題が解決されたり等と言う事もありません。
いえ、正確に申すなら少しあるのですが、その場合も自分勝手に何も考えないまま願いを叶えた事によって、別の所で取り返しのつかない事が起きてしまっています。
そう、結局、自らの望んでいない結末へと彼女達は導かれていくのです。
そして最後に、本作では、誰もが己の為に誰かの「願い」を叶えていく利他主義者な訳ではありません。
自らの為に、自分の「願い」を叶えていこうとする利己的なキャラクターしか、この作品では「魔法少女」に選ばれていないのです。
「そうではないんじゃないか?」と解釈によっては疑問視されるキャラも皆さんの中には恐らく、いるかと思います。
しかし、個人的解釈では、その娘等も最終的に自分の為に生きてきた者達だと感じてしまいました(詳細は後述)
正に私の「魔法少女」における考えの心髄であった『おジャ魔女どれみ』と対極の存在
願いが叶うまでの過程を描いた『おジャ魔女どれみ』
願いが叶った後の結末を描いた『魔法少女まどか☆マギカ』
私の根底に潜んでいた概念と相反する過程を示したストーリーには、思わず度肝を抜かれたと言っていいでしょう。
実に見事でした。

ここからはそんなストーリーを軸にして、キャラクター達それぞれのエゴイスティックメンタルな部分について語っていくと致しましょう。
語る前に予め申しておきますが、このレビューは別にキャラクター批判と言う訳ではありません。
寧ろ、語りの中にある真意は全くの逆
私はこの点について語る事で、彼女等をとても人間らしく、人生を全うに生きた少女達であったと評価したい次第でした。
180度、視点と方向性を変えた結果、生まれた新しいストーリーとキャラ性
私のように『おジャ魔女どれみ』の概念が固着していた者にとって、それはあまりある衝撃且つ面白さの原動力要素と足り得ました。
彼女達のそのような個性が、この物語に大きな深みを与えたのです。
自分が可愛いのは正常でしょう、大いに結構!!
人間、美しい物にばかりなってもいられません。
なので、そこら辺は是非とも誤解しないよう、よしなにお願い致します。
(まあ、時代の先駆的存在であったアダルトゲームの世界では寧ろ、かなり一般的事象であったのですが(笑) 虚淵玄さんはそれらの要素をアニメ用に落とし込んで作り上げたと言う事なのでしょうね。氏のゲームはどれも面白いので、いずれプレイする事を推奨します。個人的お勧めは『鬼哭街』)

①巴マミ
「孤影悄然」
一般人を魔女やその使い魔等の敵から守るという信念で戦い続けた彼女
自分の為でなく誰かの為に戦い続けた結果、華々しく散った女の子
いくつかのシーンに重点を絞るなら、巴マミは最も「魔法少女」と言う存在を象徴していた人物だったと言えるでしょう。
まどかやさやかにとっては、同じ学校にいる1人の先輩
強くて、優しくて、憧れの存在であった彼女を2人が慕う過程は短い話数ながらも存分に上手く示しており、その描写は実に説得力のある物でした。
しかし、私個人から言わせてもらうと、この女の子にはどこか胡散臭い印象が当初から秘められていたんです。
キュウべぇと共にある不気味なカットも含めて、正直、裏があると何か言い知れぬ嫌な物を感じていました。
最終話まで観たから断言出来る事なのですが、やはり、今までの「魔法少女」観と本作は見事に異なっていると言わざるを得ません。
この女の子はそれを語る最初としては、実に相応しいキャラクターと言えるでしょう。

まず、1つ目にほむらの繰り返してきた過去において、絶望の淵に勝手に他人を殺めた行動が挙げられます。
いくらチームの仲が劣悪極まりない状態且つ、かなりの負担が掛かっていたとしても、そこに他人を殺すという選択肢が咄嗟に含まれる精神状態というのは、果たしてどのような物なのか…
確かに彼女も1人の人間、含まれても別に構う事ではありません。
しかし、その思考に至ってしまった時点で、自らの考えが暴走状態へと入っている事は必定と言えます。
この時の状態が利己的でないと断言するのは、些かの無理が生じる事、確実です。

そして、2つ目にあるのはほむらの言葉に最初から最後まで全く耳を貸さず、及んだ行動と言動の数々です。
「無関係な一般人を危険に巻き込んでいる」
「あなたは2人を魔法少女に誘導している」
最終話まで観た方なら自然と納得していると思いますが、ほむらはこの時点で至極、全うな真実を口にしています。
そもそも、彼女の中にあるのは先程述べたように、一般人を魔女やその使い魔等の敵から守るという信念だった筈
確かにキュウべぇから見込まれたと言うのは充分、魔法少女としての素質が備わっている事は必然でしょう。
しかし、元々の力があるからといって必ず、魔法少女にさせなければいけないと言う訳ではないと思うのです。
決めるのはあくまでも自分であり、他人に扇動されて決める物ではない筈
そんな私が感じたのと真逆に、マミは明らかに2人を誘導していました。
最初に出会った頃から、魔法少女になる為の願いについて尋ねる彼女
魔法少女にならないという選択肢も2人にはあるはずなのに、先輩であるこの娘はそれを口に出す様子すらありません。
寧ろ、魔法少女になるよう決意を促そうとしている風に見えます。
そして、一見親切心で魔女退治にある過酷な労働を共に体験させた後に、そこから魔法少女提案の形に持込むと言う形式を取って、決断の場を設けていました。
これらはぶっちゃけて言えば、巧妙な心理的誘導手口です。
1人の人間が相手を説得及び動かす際に、大切な事は何か?
相手を自らの都合の良いように、自分の話へ持ち込む力(会話テクニック)
その際に、相手の抵抗を少しでも弱める為の力(ラポール)
自分の目的を明確に持ち、相手に流されないようにする力(セルフマインドコントロール)
この3つです。
「願い」が何でも叶うと言う事実を上手く会話の中で突きつけて、相手を昂ぶりに舞い上がらせます。
自分のテリトリーで行ったならば、効果は2倍
それを信じさせる為、実際に現場経験をさせれば、「願い」に向けた気持ちが増幅するのは確実
共に同じ場を経験した共感覚を味わわせる事で、断り辛い形に被害者を巻き込んでいくスタイルも作り出せます。
また、自分の力をここで見せ付けて2人を助ければ、信頼も獲得出来るので抵抗は自ずと弱まるでしょう。
「話が違うよ」と抗議されない為の予防線効果も同時に生まれます。
また、その前後でマミ達は手柄の取り合いの話を引き合いに出し、ほむらが競争相手を増やさせないようにしていると言った悪印象をまどかとさやかに抱かせます。
それはまるで、ほむらを悪者へと仕向けているかのよう…
彼女達の正義感の強さやいたいけな優しさを事前に知っていたかどうかは分かりませんが、その話を知ってしまったらこの2人の場合、確実に関わろうとするに決まっています……マミ側の味方として……

「一挙両得」なんて物じゃない、利益的な世界の誕生です。
これは会話テクニックとラポールを1人と1匹が完璧に駆使して作り上げた、マヤカシの世界です。
その効果が絶大な物である事は、さやかのほむらに対する怒りでお察しの通り
しかし、自らの利己的な目的の為に放棄した犠牲、即ち、ほむらの言葉に耳を貸さなかった結果、マミはああなってしまったのですから、随分と皮肉な物を感じます。

さて、それではマミが抱いていた自らの利己的な目的とは一体何なのか?
それが分かるのは、彼女の結末に至る前、まどかと交わした会話シーンです。
「マミさんはもう一人ぼっちなんかじゃないです」と、まどかから元気づけられた時に振り返って、彼女の手を取った振る舞い
優しい言葉に破顔して、目には涙を浮かべてマミは語ります。
「本当にこれから私と戦ってくれるの……そばにいてくれるの?」
虚勢を張っていた緊張が解け、本音をさらけ出した瞬間
願いが叶うと知った時に、少しだけ揺らいだセルフマインドコントロール
ここで初めてマミの本音、即ち「目的」について察する事が出来ました。
彼女が魔法少女にならないという選択肢を話さなかった理由
寧ろ、魔法少女になるよう決意を促そうとしていた理由
それは偏に「孤独」でありたくなかったからだと私は思います。
自身が助かる事のみを願った為、家族を亡くしてしまった1人の少女
それに対する後悔の念と共に彼女から芽吹いていたのは、独りで生きる事への不安と孤独でした。
自らと共に生きてくれる誰かがいて欲しい。
自身と共に戦ってくれる仲間がいて欲しい。
自分と共に運命を背負う同士がいて欲しい。
根底にあった彼女自身の「寂しさ」が、2人を「魔法少女」の道へと誘ったのです。
誰かを仮想敵にしてしまえば、結束なんて簡単に生まれるでしょうから。

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孤独である。
人は本質的に孤独なんだと、何かで読んだ。
どんな生き物だってそうだ。
けど、それを自覚するのは人だけで。
生き物としては、昆虫の方が完成度高いのかも、と思ってしまう。

『CROSS†CHANNEL』
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それが彼女の打ち明けた、たった1つの本心
「孤独」を嫌い過ぎていた彼女の、唯一ともいえる本音です。
端的に言えば、マミの心は、5人の魔法少女の中で1番弱いです。
独りは嫌で、同業者の言葉には耳を貸さず、追い詰められれば簡単に発狂してしまう。
しかし、最後まで観ると、彼女の本質ははっきりと分かる形になっていました。
最年長でありながら、誰よりも弱い、可哀想な女の子
それがベテラン、巴マミの人々を惹きつける人柄と言えるのでしょう。


②美樹さやか
「団雪之扇」
マミが死んだ入れ替わりに魔法少女になった少女
いなくなってしまった彼女の遺志を継がんと、行動を開始する女の子
美樹さやかのエゴイスティックな面と言うのは、作中キャラの中でも最も分かりやすい部類と言えるでしょう。
人生において、最も人間性が姿を表す、麗しの情景
それ即ち、「恋愛」以外に他ありません。
幼馴染である上条恭介君に抱いた片思いから始まった行為
その行いは意識的か、無意識的か……
他人の為の願いと引き換えに魔法少女になった彼女
「上条と結ばれる」という自分の為の願い(利己的願い)を心の奥底に隠して、「上条の手を治して欲しい」(利他的願い)とキュウべぇに願った彼女
作中から判断するに、「上条の手を治す」と言うのは「上条と結ばれる」為の間接的手段でもあって、本当の願いと叶えてもらった願いにはズレが生じています。
今思えば、さやかはこの後、大事な人の手が救われた事に感謝して、「正義の味方」になろうと邁進するべきだったのでしょう。
それか、そもそも「魔法少女」に専念すると言う覚悟を込めた「願い」を申さず、貪欲に上条君の境遇を利用するべきだったのでしょう。
二兎を追うもの一兎も得ず
虻蜂取らず
あちらをたてればこちらがたたない世界です。
欲張って突っ走った結果は、皆さん既にご周知の通り
上記に心踊らされた結果、さやかは親友であるまどかに対しての八つ当たりや、杏子の言葉に耳を貸さない頑固さ等のエゴを存分に発揮
結果的に「上条と結ばれる」という1番の願いこそが、完膚なきまでに潰えてしまいました。

ですが、この娘の場合、状況も悪かったと私は思います。
非常に誤解されやすいのですが、今回の顛末は、全てが建前で彩った願いで本心を隠したから起こったと言う訳では決してありません。
確かに、彼女が上条の手を治して欲しいと願ったのには、あわよくば彼との良好な関係を手に入れたい利己的望みも当然含まれていた事でしょう。
マミの言っていた通り、さやかは「彼の望みを叶えた恩人になりたい」だけだったのかもしれません。
しかし、「上条の手を治したい」想いが嘘であった訳では無いのも確かな事なんです。
それは確実に作中の行動からも断言出来ます。
また、マミ死亡後の見滝原市をどうするか、まどかをどのように支えるかで頭が一杯だった現状がこの娘に大きな負荷を掛けていたのも否定出来ません。
タイミングがあまりにも悪く、彼女に対して一気に襲い掛かってきたと言う評価が妥当な所と言えるでしょう。
なので、ここからは身勝手で、外からなら何でも言える、私の適当な本音です。
それならもう少し、寛容性をまどかやマミ以外に対して抱くべきだったのではないでしょうか?
彼女の利己的な面は、実を言うと、この場限りであったと言う訳ではなく。
そもそもの悪い所は、自らの頑なで強情な性格に見事に直結していたように思うのです。
それはほむらの過去、彼女にさやかが与えた行為からも、存分に推察出来る事であります。
冷静に、他人の想いを少しでも考える。
そんな思慮深き行為に取り組んでいれば、確実にもう少し「魔女」になるより、マシな展開にはなっていたと私は思います。
もしかすると、性分的に無理な話なのかもしれないですが……
そして、擁護もしましたが、恋愛面において、奉仕の気持ちを秘めた「善」的行為一色ではなく、報酬の対価を求めた「偽善」的行為の意図が入っていたのは、確定的までに明らかです。
つまり、彼女は一部でも「見返り」を求めてしまった事に他なりません。
断言します。
「見返り」を求めてしまったならば、それは「愛」ではありません。
「見返り」を求めない奉仕の精神こそ、「愛」なのです。

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……誰だって、多かれ少なかれ、自動的に人を好きになる。
じゃあ……どうやれば、正しく好きになれるの?

見返りを求めない。
それだけのことだよ。
見返りを求めた瞬間、それは取り引きになると思うんだ。
交換、トレード。
自分にいいものをあたえてくれるなにか。
言い換えれば、外部との交易を許容した自己愛だ。
見返りを求めないのは友情だけに非ず。
答えは近くにあったんだ。

『CROSS†CHANNEL』
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とまあ、愚痴愚痴語りましたが、私はこの娘嫌いではありません。
いやあ、本当に豊かな表情と感性を持っている女の子ですね。
私はこういったTHE 人間的なキャラクターが大好きなので、この娘も例外でなく……
生前はハラハラ楽しみながら、その動向を観察していました(笑)
さて、そんな表舞台から姿を消してしまった美樹さやかが再度、登場するのは最終話です。
概念状態で全てを悟ったかのようにまどかと話しながら、上条の演奏『アヴェ・マリア(グノー/バッハ)』を聴いているさやか
この時の彼女に対しては私自身、強い違和感を感じました。
制作の意図する所ではないのでしょうが、正直言って、非常に気味が悪く感じたと今でも思います。
それは何故か?
彼女は生前の頃より、更に詳しく狭めるなら魔女化する前よりも精神的に成長しているからです。
「うん。これでいいよ」
「そうだよ。私はただ、もう一度、アイツの演奏が聴きたかっただけなんだ。あのヴァイオリンを、もっともっと大勢の人に聴いてほしかった」
「それを思い出せただけで、十分だよ。もう何の後悔もない」
「まあ、そりゃ…ちょっぴり悔しいけどさ。仁美じゃ仕方ないや。恭介にはもったいない位良い子だし…幸せになって…くれるよね」
ええ、良い娘です。
ここだけ見たならば、本当に良い娘です。
奉仕の気持ちを秘めた「善」的行為一色に染まっています。
しかし、魔女になった前の慟哭、一般人に危害を加えたあの図式を観ていた身としては、あれ、こんな娘だったかと思わずにはいられません。
確かに彼女自身、「自分がどうなっても恭介の腕を治したい」と言う願いの覚悟で動いていました。
しかし、自身の生死問題を全く考えず、恋敵に自らの好きな人を託すと言う姿勢にはどこか、人間味の無い部分をも感じてしまったのは事実なんです。
変わるにしても、その変わり様があまりにも早すぎる気がしてなりませんでした。
過程無き成長と言うのはここまで恐ろしいものなのかと実感した次第です。

しかし、まどかの浄化によって、円環の理に導かれた魔法少女が「解脱」し、この世の柵から解放されたとするならば、考え方が達観しているのは、ある意味、当然の事なのかもしれません。
何故か精神的に成長したさやかにとっても、結果として、彼女自身の中では最良の選択となっているのは事実のようですから。
上条の音楽で語るなら、さやかは「罪深いわたしたち」であり、まどかは「マリア」もしくは「主」なんですかね……
死を迎える時も祈ってくださいと語っている祈祷『アヴェ・マリア』
死後の精神状態について、肉体を持って生きている時と同じように語るのは、もしかすると、とても無意味な事なのかもしれません。

そういえば、この最後のシーンで思い出しましたが、古代ギリシャ世界にはオルフェウス教と呼ばれる密儀教がありました。
「悲しみの輪」からの最終的な解脱、神々との交感を目的に天上世界へ赴く思想を秘めた宗教です。
「音楽を魂の浄化手段」と捉えるその考えは「万物の根源は数である」と語るピタゴラス教団で、理論的研究として扱われていました。
なぜなら、音楽と数学は、西洋の歴史の中で最初から強く結びついていたからです。
音の高さの違いを数字で表したり、その数字によって音と音の関係を論じたり、音が生み出す調和を考えたりとそれはまあ、色々
そんな彼らが音楽に求めたのは、完全協和音程
「世界は単純な数学の調和によって完成した秩序を持っている」と当時、ギリシャ世界で考えられていた思考法によって生まれた音程です。
中世以降になると、キリスト教の発展と共に神の完全性、三位一体の考えにも結びついた「完全」の概念は大きく発展していきます。
音程だけでなく、リズムについても「完全な拍子」をめぐる議論が展開されていくのでした。

ただ、実を言うと、「音楽を魂の浄化手段」として進んできたオルフェウス教と、同じような思想であったキリスト教との間に前後関係があったかどうか?
一直線に辿った歴史がそこに存在していたかどうかは、今でもはっきり断言出来る程の研究は進んでいません。
しかし、『まどマギ』はキリスト教観念にも大きく影響を受けて生まれた作品です。
上条の救いはさやかの願いによって叶えられ、さやかの救いは上条の演奏によって見事に叶えられたと考えるのも、実にロマンチックで「幸せ」な話と言えるでしょう。


③佐倉杏子
「臥薪嘗胆」
美樹さやかが台頭してきた頃に現れた、もう1人の魔法少女
利他的に見えて利己的な部分もあった彼女と、利己的に見えて利他的な部分もあった女の子
さやかと対照的でありながら、実に似通っている少女
佐倉杏子の利己的性格に至った背景は、自らの波乱万丈な過去と経験を通して形成された物と断言出来るでしょう。
「以前のような家族の団欒を取り戻したい」という自分の為の願い(利己的願い)を心の奥底に隠して、「宗教家であった父親の説法を皆に聞いてもらいたい」(利他的願い)とキュウべぇに願った彼女
これもまた、さやかと同様
「父親の説法を皆に聞いてもらいたい」と言うのは「家族の団欒を取り戻す」為の間接的手段でもあって、本当の願いと叶えてもらった願いにはズレが生じています。
奇跡の力によって、杏子は「父の為の願い」を叶えましたが、それが良い方向には進まず結果的に家族を失ってしまい、本当の願いである「自分の為の願い」は叶いませんでした。
唯一、さやかと違うのは、その後の姿勢
美樹さやかが偽善的で利他的な態度を前面に見せるようになったのと逆に、佐倉杏子は偽悪的で利己的な態度を前面に見せるようになったと言う結果です。
略奪・窃盗は生きる為に普通の事
魔法は徹頭徹尾、自分の為だけに使うのが信条
その為には、使い魔をわざと放して人間を襲わせる手段も厭わない。
「孤独」になってしまったもう1人の少女は、彼女達と真逆のスタンスを選んでいったと言えるでしょう。

しかし、私が1番、杏子のエゴイスティックな面を感じてしまった部分と言うのは別にあります。
上記の行為と言うのは、彼女が自らの信念を意識して行った、言わば「意識的」なエゴ行動です。
それは「演じている」と言う部分も相成って確かに利己的ですが、それ以上、特に語る事はありません。
私が思う部分は、彼女の中にある元来の人の良さが出た事で生じた、言わば「無意識的」なエゴ行動についてです。
「演じていない」本音の部分ならば、彼女の心性について存分に語る事が出来ますから。
それが出てきたシーンは美樹さやかが魔女になった後の事
彼女が魂の持たない抜け殻の肉体になってしまい、意気消沈の鹿目まどか
そこに、佐倉杏子が話をつけにやって来ます。
彼女は言いました。
「親友であるまどかが付いて来て、さやかの名前を呼びかければ、人間だった頃の記憶を取り戻せるかもしれない」
私が1番、杏子のエゴイスティックな面を感じてしまった部分と言うのは、実を言うと、ここにあるんです。
この言葉、最初は首を振りながら肯いて聞いていましたが、冷静に考えてみると、さやかにとってみれば、大変に失礼な言動であると言えるでしょう。
なぜなら、自らの悩みが、苦悩が、後悔が、「まどかの説得」如きでどうにかなるかもしれないと、彼女には思われていたからです。
勿論、杏子自身はさやかを助けたい気持ちで、まどかに協力を仰ぐ意味で、このように語った事は充分把握しています。
しかし、さやかからしてみれば、これは堪ったもんじゃない。
彼女の辿ってきた意思の変遷を考えるならば、言葉は悪いですが、そんな「行為」で改心する等、ちゃんちゃらおかしい話です。
安く見られてるって話でしょう。
そして、その結果、魔女になったさやかへと、まどかも従順に戦闘中、呼びかけています。
彼女自体にあの時、意識があったかどうか(恐らく無かったと思いますが)は分かりません。
しかし、あの戦闘シーンで戻らなかったのには、魔女になってしまったら、もう一生、元には戻らないと言うほむらの情報を補強しているのと同時に、さやかの上記に対する怒りのような物を私は描写から感じてしまったのです。
杏子の凄い所は、それを生きている間に察してしまえた所と言えるでしょう。
そう、まどかの「説得」でどうにかなるかもしれないと考えていた1人の少女は、戦闘中に、それが有り得ない事を肌身に実感したんです。

「ハッ、いつぞやのお返しかい?そういえばアタシたち、最初は殺し合う仲だったっけね」
「生温いって、あの時アタシがもっとぶちのめしても、アンタは立ち上がってきたじゃんかよ」
「怒ってんだろ? 何もかも許せないんだろ?」
「わかるよ…それで気が済んだら目ェ覚ましなよ、なぁ」
この時点では、まだ元に戻ると言う希望をさやかに対して抱いています。
               ↓
「アンタ、信じてるって言ってたじゃないか!この力で、人を幸せにできるって」
「頼むよ神様、こんな人生だったんだ。せめて一度ぐらい、幸せな夢を見させて」
ここでもう薄々とさやかは戻らない事を察しています。
最後に紡いだ言葉に残るのは「神頼み」と言う名の祈願です。
               ↓
「その子を頼む。アタシのバカに付き合わせちまった」
そして、最後には、今、認識している現実を見据えています。
さやかは戻らない。
さやかの苦悩は、そんな簡単に解消される物ではない。
さやかは、もう滅ぼすしかない。
               ↓
「心配すんなよさやか。独りぼっちは、寂しいもんな……いいよ、一緒にいてやるよ……さやか……」
この言葉は今までの過程を辿ってみると、実に深い意味を持っています。
意識的であれ、無意識的であれ、自らは利己的行動を数多く行ってきました。
しかし、最後にやっと、彼女は本来の性格を取り戻す事が出来たのです。
最後にやっと、彼女はエゴイストからアルトルイストへ変化したのです。
最期にやっと、彼女は利他的に、誰かの為に死ぬ事が出来たんです。

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ありとあらゆる人間関係において。
軽度の攻撃は、快楽になる。
強すぎれば、損傷するが。
基本的に、人が人に触れる手段は攻撃しかない。
交友とは、手加減の上手さでしかないように思う。
おどけるのも、自爆するのも、攻撃ではない。
知っている。
全て。

『CROSS†CHANNEL』
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彼女は最期に唯一、他人を攻撃しつつも攻撃しないで自らの人生を終える事が出来たと言えるでしょう。
この言葉の流れはこうして辿ってみると、実に良く考えられた、深い意味を持った台詞変移と言えます。
唯一、他人を見て自分を省みる事が出来た少女
唯一、エゴイストのままで死ななかった聖女
それが佐倉杏子と言う、この5人の中で恐らく、最も優しい女の子なのです。
ほむらがまどかの次に頼りにしていたと言うのも、実に納得の話と言えるかもしれません。


④暁美ほむら
「心神喪失」
幾度となく、時空の流れを繰り返してきた少女
鹿目まどかの「願い」を心に刻み、乗り越える事を誓った女の子
その結果、神に見捨てられた哀れな子羊
それが、彼女、暁美ほむら
巴マミが5人の中で誰よりも「弱かった」女の子なら、暁美ほむらは恐らく、5人の中で誰よりも「強くなった」女の子
TV版において、恐らく彼女は唯一、利己的に行動する事を選ばなかった娘と言えるかもしれません。
誰かの為に、まどかの為に。
そのように考えてきた少女の利他的善意は決して報われる事がなく、最後から続くその先でも、更なる戦いを強いられています。
そんな彼女に対して、本レビューで語る事はあまりありません。
しかし、そんな待遇と対照的に、私には彼女が1番、魅力的に映っています。
暁美ほむらを支えていた物
それは「まどかの願い」
暁美ほむらを形作ってきた物
それは「過去の記憶」
上記の「呪い」達によって、その人間性は変化せざるを得ませんでしたが、全てが変わる程ではなかった位に、彼女は良い娘で、強い娘でした。
人間の本質を知り過ぎる位に知ってしまっても、誓いの約束に裏切られようとも、その結果、その心が変貌を遂げてしまったとしても……
彼女は最後まで、誰かに対して「見返り」を求めようとしなかった。
最後まで観て、私は思います。
これが「愛」です。
これこそが「愛」なんです。
「思い出」を拠所に「愛」に生きた少女、それが暁美ほむらと言えるでしょう。

-----------------------------------------
思い出が欲しい。
記録したい。
心に刻みたい。
思い出さえあれば、その輝かしい宝石さえあれば……

『CROSS†CHANNEL』
-----------------------------------------

その「思い出」はもっとあれば、良かったのでしょうか?
後、少しの「思い出」があれば、彼女は自らの生きていく道を肯定出来たのでしょうか?
そんな空想的思考実験を『まどマギ』と言う作品全体を観返した結果、私は感じてしまいます。
「思い出」を求めた彼女が最後にどのような帰結を迎えたか?
気になった方は是非とも、『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 新編 叛逆の物語』を観る事をお勧めします。
彼女への想いがぎっしりと込められた、本作への解答だけが詰まっている映画です。


⑤鹿目まどか
「汎愛博施」
『魔法少女まどか☆マギカ』における主人公
1話と最終話を比較すると、そのあまりの変貌様に驚く事必須の娘
しかし、実の所、本質は何も変わっていない「残酷な優しさ」を秘めた女の子
鹿目まどかを形容するとしたら、私の場合、上記の文に間違いなく依存される事でしょう。
「霖雨蒼生」で「残忍酷薄」な、救いようの無い女の子
利他的であるように振舞っていて、実は最も利己的である事を証明しています。
しかし、そんな自らの精神にまるで気付いておりません。
鹿目まどかと言うのは、私が評するなら、正にそんな女の子です。

ここで暴露すると、私がこれまで本作のレビューを書いてこなかった理由の背景にいるのは、いつも彼女でした。
より詳細に申すなら、最終回で彼女が行った事に納得出来なかったと言う所にあるのです。
「あなたはわたしの、最高の友達だったんだね」
この言葉が出たシーン
正直に申しますと、非常に気持ち悪くてしょうがありませんでした。
そして、同時にこの鹿目まどかという少女を、とても怖い娘だなと感じてしまったのを憶えています。
登場キャラにおける1番のエゴイストは、私にとっては間違いなくこの主人公
その理由をここからは詳しく述べていくと致しましょう。
ここまでの駄文、読んで下さり誠にありがとうございます。
後もう少しだけ、私の戯言にお付き合い下さい。

さて、意識的か、無意識的か。
彼女は最終話以前まで上手く立ち回って、様々な魔法少女達の戦い、葛藤、決意を見てきました。
「幸せ」を「幸せ」と、態々実感する事もない程の充実した日々
そこに何度も、何度も、何度も、現れるほむらの言葉
「自分の事を、自分を思ってくれている人達の事を大切にしろ」
「自分に向けられた想いを大切に、今とは違う自分になろうと思うな」
「貴女は、貴女のままでいればいい」
『魔法少女まどか☆マギカ』と言う物語は悲観的に断ずるなら、最後までこの忠告に従わなかった彼女が純粋に見てきた、もう1つの世界その物と言えます。
巴マミの、想いが叶いそうになった直後のおぞましき惨状
美樹さやかの、悩みに悩んだ末に導き出した破滅的答え
佐倉杏子の、最後にようやく辿り着いた美しき死に様
そして、暁美ほむらの、これまで繰り返してきた残酷な過去
全てを痛感し、体感し、実感してきた鹿目まどかだからこそ、最後に導き出した答えはあのようになったと言えるのでしょう。
「全ての魔女を、生まれる前に消し去りたい。全ての宇宙、過去と未来の全ての魔女を、この手で」
うん、確かにこの言葉だけ聞けば、素晴らしき慈愛に満ちた「願い」です。
その結果、彼女が行った事は、他の絶望に苦しむ魔法少女達が希望に満ちた死を迎えるよう、魔女になる前に安らかに眠らせると言う事

うん?
これって本人の了解を得ていない安楽死に他ならないのではないでしょうか?
あまり詳しく語られていないので、明言はなるべく避けたい所ですが、魔法少女として死ぬより、魔女として生きる事を望んでいた魔法少女もいたかもしれません。
まあ、これについては傍観者である私が何を語った所で、意味は無いでしょう。
本人達が幸せに死ねたなら、それで良いと言えるのかもしれません。

次に私が遺憾に感じたのは、マミと杏子の死がなかった事にされると言う処置についてです。
これにはとてもじゃないですが、了解出来ませんでした。
確かに彼女達が無為に死んでしまう世界より、安息に日々を営む世界の方が遥かに良いと言えるでしょう。
それはこの作品を観た方なら、誰しもが自ずと考える事だと思います。
しかし、「死んでしまった」と言う事実は「死んでしまった」と言う結果として残さなければいけない。
まどかは、私達視聴者から、彼女達の「死」までも奪ったんです。
死ぬ前に見せた嬉しき顔も、悲しき決意も、悔しき葛藤も、夥しき感情も…
マミの、孤独が解消されると感じた時の安らぎに満ちた声も……
杏子の、大切な誰かのために自らを犠牲にしたあの尊厳死も……
全てが、はっきりなくなってしまいました。
彼女等が懸命に生きたと言う証の価値は、この時、永久に消え失せてしまったのです。
最後に出てきたマミと杏子は、私達とほむらが知っている彼女とは、明らかに変わっています。
これが皆さんにとって良い事なのか悪い事なのか、私には何とも言えません。
私個人の解釈としては、悪い事だったと言う、それだけの話
深層の感情は、個々人の中に存在していると言えるでしょう。

さて、それでは最後に、まどかの「願い」に対して最も遺憾に感じた箇所を書いていくと致します。
それは、この「願い」を叶えた事によって、純粋に彼女を考えてくれていた人の想いを踏みにじったと言う事実です。
これが結局の所、私の考える中で1番顕著に感じた部分となりました。
自分で全て考えて、他者からの想いに耳を傾けようとしなかったまどか
だからこそと言えるのですが、彼女は魔法少女の事以外、何も考えないまま、変身の道を選んでしまっています。
最後の展開を観る限り、円環の理にならなければ場を治める事が出来なかったのは確かです。
それは分かります。
しかし、この時点で、彼女は大事な人の事を何も考えていません。
最後まで引き止めようとしてくれた母親
優しい眼差しで見守ってくれた父親
いつも自分を慕ってくれた弟
そして、この道に誘われないよう、行動の限りを尽くしてくれた最高の友達
その全てを、考えていないのです。

「何も考えていない」事を如実に示しているのがあの言葉
「あなたはわたしの、最高の友達だったんだね」
だった……ですか……
確かにまどかは概念化する事でほむらの過去を知りました。
しかし、それって結局、ただ「知っただけ」に過ぎませんよね?
認識してるだけ、知覚してるだけ、認知してるだけ……
他人事のように語ったあの言葉が紡がれた時から、まどかが10話で唱えた「願い」は、完璧なまでに「呪い」と成り果ててしまいました。
これが私には酷く辛かったんです。
なぜなら、結局、彼女の頑張りが何も報われる事はなかったんですから。
因果律の法則が作中で示されたように、希望と絶望は表裏一体
「魔女」がいなくなった所で、それに代わる敵である「魔獣」が出て来たに過ぎません。
「魔女」にならない代わりに、前身となる「魔法少女」は消滅してしまうに過ぎません。
彼女は死ぬ前の「絶望」を感じなくさせた代わりに、生きている間の「絶望」を見事に与えてくれました。
そんな神の「祝福」には、もう、私もほむらも笑うしかない状況
そんな事を思うと、ほむらの最後の笑顔も随分と示唆的と言えるでしょう。

-----------------------------------------
この絶望も 希望も 畏怖も
平穏も 機微も 快楽も
てっぺんも 奈落も 狂乱も
全ては君の指揮次第で
今日もその掌で 好きに踊ろうと思うよ
どうせならば とびきりのスイングを
飛ばされて 降りたった国に
今なら過不足なく 愛を説けるでしょ

RAD WIMPS「ブレス」
-----------------------------------------

ここまでの意見でご周知の通り、私はまどかによる世界改変の内容には遺憾の意を示したい気分です。
そこに至った問題の箇所は、上記で全てと言えます。
存在が消えてしまった為に大切な約束も消滅しましたが、しかし、記憶から消えてしまったから約束もそれで良いと言う訳では当然、ないのです。
伝道者から、神の領域にまで上り詰めた少女、鹿目まどか
イエス・キリストの如き彼女にも、もしかしたら、魔法少女になるまでの過程で、私の与り知らない様々な想いが蠢いていたのかもしれません。
しかし、全話鑑賞した結果、私が彼女に対して抱いたのは
「誰の意見にも従わないで、考える事もしないで、思い出す事もしないで、自らが勝手に思っている最良の『願い』でしか判断しなかったエゴイスト」
と言う、正にイエス・キリストに対して思う同一の評価に他ありませんでした。
「何かをしたい」「何かが出来るようになりたい」という部分に囚われすぎて、本当に大切な想いに気付かなかった哀れな偽善者
最後の最後まで「大慈大悲」に満ちていた彼女は、どれだけ周りに大切にされていたかを理解出来ていなかったように思えてなりません。
家族から与えられた思いも、友達から与えられた想いも、何も分からないまま、考えないまま、簡単に選択した。
その結果があの「自己犠牲」だとしたら、あまりにもエゴに満ちた、救いようの無い話と言えるでしょう。

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極論ではあるが…
自己犠牲は、ひるがえせば全て自分のための行いとも言えるのだから…

『CROSS†CHANNEL』
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最初にも述べた通り、本当はこの作品について語る気はありませんでした。
それは、あの最終回に納得がいかなかった事もあり、これで一旦、終わりと言う形で温存していたからと言うのも理由の1つです。
しかし、先日、心境の変化があった結果、こうしてキーボードを打った次第でした。
本作における終わり方は「善悪の彼岸」と呼ばれる物に他ありません。
単純な「善」「悪」という言葉を超えた、まったく新しい価値観に委ねる終わり
それをどのように解釈するも、その人次第
その点においては、至極、懐が深い作品と言えるでしょう。

しかし、最後にこれだけは言わせて下さい。
このTV版の物語だけを見て、最後の終わり方から「綺麗なお話」と判断するのは少し危険と言えるでしょう。
なぜなら、本レビューで示したように『魔法少女まどか☆マギカ』と言う作品の根底にあるのは、ドロドロとした唾棄物に過ぎないからです。
結局の所、この物語もエゴによって全てが終わり、エゴによって全てが始まったに過ぎません。
本作は、エゴによって移り変わる世界の変革過程を描いた話に他ならないのです。

そして、この無慈悲な自然主義作品はこの後更に、私達を遙かなる高みへと誘います。
全ては新しい劇場版へ。
エゴとエゴのシーソーゲームへ。
彼女等の捩れ捻れた関係は、メビウスの輪のように相容れる事の無いまま、終わりの時へ、ゆっくり導かれていくと言えるでしょう。
レビュー、ここまで読んでくださり、誠にありがとうございました。

-----------------------------------------
すべて移ろい行くものは、永遠なるものの比喩にすぎず。
かつて満たされざりしもの、今ここに満たされる。
名状すべからざるもの、ここに挙げられたり。
永遠にして女性なるもの、われらを引きて昇らしむ。

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ『ファウスト』
-----------------------------------------
{/netabare}

P.S.
「物語」は多くの受け手がいてこそ、存在し続ける代物です。
その大部分には伝えたいメッセージが届き、少数には根拠の無い裏側が垣間見え、残った人達は無関心のままであり続けるでしょう。
そんな裏側を語った結果、「受け手の意思を無視した理論の押し付け」になってしまうのは否めません。
それこそ、正にエゴイスト
なので、どうか、この場のみで語らせて下さい。
私も即ち、エゴイスト
話半分の作品解釈レビューとして、どうか宜しくお願い致します。

投稿 : 2019/01/07
閲覧 : 868
サンキュー:

18

カズマ さんの感想・評価

★★★★★ 5.0
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

シリアスええわあ

自分が思う至高作品の一つ!

投稿 : 2019/01/03
閲覧 : 224
サンキュー:

3

ネタバレ

たいち さんの感想・評価

★★★★☆ 3.2
物語 : 3.5 作画 : 2.5 声優 : 4.0 音楽 : 3.5 キャラ : 2.5 状態:観終わった

まじかよ

誰も死なないとおもってみてたけど
簡単に死んだねw

投稿 : 2018/12/29
閲覧 : 238
サンキュー:

2

Vrama さんの感想・評価

★★★★★ 5.0
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

.

.

投稿 : 2018/12/23
閲覧 : 219
サンキュー:

0

てとらび さんの感想・評価

★★★★★ 4.9
物語 : 5.0 作画 : 4.5 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

マミってから物語は動き出す

"魔法少女"って言葉がどれだけ重いか、それに尽きる。悟りを開けば、題名で泣けます。絵柄と題名で敬遠してる様じゃあ、まだまだブッダへの道は遠いぜ。

投稿 : 2018/12/17
閲覧 : 261
サンキュー:

6

じん さんの感想・評価

★★★★★ 4.7
物語 : 4.5 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 4.5 キャラ : 4.5 状態:観終わった

非常に完成度の高いアニメ

この作品はオリジナルアニメーションとして先の読めないストーリーが話題を呼んだ。というのも絵柄からは想像のつかない厳しいストーリーに視聴者の興味が動いたからだ。
放映時に見なかった私はそんなギャップ萌えなど微塵も感じなかったのだが(あとから見た人はだいたいそうなのではないか)期待を大きく越える映像に息を飲んだ。

まずストーリー構成から。この作品は主人公とその仲間(同じ属性である魔法少女)の関わり方によって大きく区分されている。加えて伏線の張り方が非常に丁寧だ。各話ごとにストーリー上必要な説明が置かれ、飽きが来ない作りになっている。さらに重要な話になると視聴者を参加させるように主観的なカメラワークが用意されている。キャラクター同士のやりとりも、単なる会話劇に終わらないように言葉が選ばれており、ストーリーの厚みを助けている。

次に注目すべきは作画だ。戦闘シーンも作画枚数の増やされた圧倒的なリアリティーを誇り、背景作画が心情を炙り出す。特に魔女との戦いは不気味さを醸し出す増して強い彩度によって飾られている。これらの暗喩アートワークは深夜アニメにはなかなか見られない技法なのではないだろうか。

声優の演技も申し分ない。プロならでは、というものを見せつけてくる。行動の変化を我々が見守る主人公には多くの人が涙したのではなかろうか。

音楽はシーンにピッタリと合わせて作っている。もしかしたら音階の変化と台詞や絵の色調が合うように計算しているのかもしれない。

この作品の触れるテーマは友情である、と思う。それは切っても切れない半直線であり、本人足らしめる意識だ。誰にもあるもので、誰にもないものである。例え手段が変わろうとも不可能を破る意味が強調されるシーンがあるため、終わりには伝わるのではないだろうか。

タイトルの上塗りになるが、これは映像作品として一級品である。どれも丁寧に作り込んであるため自信を持っておすすめできる深夜アニメといったらこれであろう。

投稿 : 2018/12/07
閲覧 : 272
サンキュー:

12

dbman さんの感想・評価

★★★★★ 5.0
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

タイトルで敬遠してたけど見たらクソ面白かったアニメ筆頭

魔法少女をモチーフにしたダーク・ファンタジー。

2011年の放映当時は、多大に話題をかっさらった『魔法少女まどか☆マギカ』。当初は“魔法少女”というタイトルから否応なしに敬遠していたけれど、あまりにも話題となっているので視聴してみたらトンデモ作品だった私のなかの筆頭級。レビューを書くにあたって再度視聴しなおしてみたけれど、やっぱまどマギ、トンデモなかったです。

どこを掻い摘んでいいのやらとばかりに、作中ほぼすべての場面に無駄を感じることがなく、全容を把握している上での再視聴にも関わらず、序盤からして早々に物語に引き込まれてしまうし、その勢いのまま最後まで加速するものだからあっという間に時間が過ぎ去ってしまう。

何がそんなに引き込まれてしまうのかと観ていて気づいた点のひとつとして、まどかをはじめとする主要キャラたちは、その心情が揺らいでいることが多いためそれぞれに感情移入しやすいということ。一応の突っ込みどころというか、足早過ぎると感じた箇所が一点だけあったが、12話という長くない時間に抑えるためそこは已む無しといったところ。しかしこれ、全部で12話だったいうことに驚きを隠せず、その濃厚さはちょっと信じ難い域まで達しています。

ということで、私のように敬遠されてしまっている未見の方がおりましたら、結構強めにオススメさせていただきます。もし、肌に合わなかったとしても時間的なダメージは少ないものと思われますので。


余談もいいとこですが、まどマギ主要人物5人+1匹を演じたすべての声優さんが、私のアニメ人生においてTOPレベルに大好きな作品(『ARIA』『化物語』『CLANNAD』など)のなかでその命を吹き込まれている素敵な声優さんたち。そんなスペシャルで俺得すぎる声優さんたちが集ったまどマギに感謝!

投稿 : 2018/12/01
閲覧 : 376
サンキュー:

35

三毛猫メリー さんの感想・評価

★★★★★ 4.9
物語 : 5.0 作画 : 4.5 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

一見の価値あり

見た目が可愛いので、そういう少女アニメかなと思ってましたが・・・

このアニメは是非観ることをお勧めします。
魔法使いサリーの頃より続く魔法少女ものの価値観というか先入観が崩壊します。
そのくらい私には衝撃的でした。

    2013.6.30記

投稿 : 2018/11/26
閲覧 : 438
サンキュー:

23

SUtqr19781 さんの感想・評価

★★★★★ 5.0
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

アニメの枠を超えたメディア芸術

魔法少女という一見可愛らしいテーマをぶち壊していく素晴らしい作品でした。今後このアニメを超える作品はそうそう現れないでしょう。

投稿 : 2018/11/25
閲覧 : 215
サンキュー:

5

KINAKO音大生 さんの感想・評価

★★★★☆ 4.0
物語 : 4.0 作画 : 4.0 声優 : 4.0 音楽 : 4.0 キャラ : 4.0 状態:観終わった

魔法少女まどか☆マギカ

正直、絵が苦手で避けてきたアニメ。
でも、どこのランキング見ても必ず上位、または1位にきている作品。内容は絶対いいのは分かってるけど(だってアニメ歴長い人らのシビアな評価の中でトップランキングに入ってるんだし…)タイトルと絵が…で、萎えていた。
観終わって一言。内容は文句なし星5でした。あの絵にこの内容が来るとは思わなかったからくる人気なのかなーと。かなり芸術的な背景のおかげで助かってる部分はかなりあると思う。正直やっぱり絵で損している作品やと思う。私みたいに絵で疎遠にしてしまう人もいっぱいいると思う。後、タイトル。観たら絶対誰かにおススメしたくなる作品やのにこの絵とタイトルで…アニメ好きならすぐ受け入れてもらえるとは思う。絵も慣れたらすごい愛着出る絵だし、内容がいいから、キャラも愛着湧きやすいし、最終観終わったら絵も全部好きになるけど…何がいいたいかって、「観て!!絶対いいから観て!!」って広めたいのに入り口の絵とタイトルでめっちゃ説得ハードル高いもどかしさが残るから星4ってだけです。
まぁ充分有名なアニメなんですけど、全くアニメ観ない人を引き摺り込むのは難しい絵柄とタイトルやなぁーと…
勿体ない!!内容が素晴らし過ぎるだけに!!!普段アニメ観ない人にも観てもらいたい作品でした!!

投稿 : 2018/11/14
閲覧 : 289
サンキュー:

7

ももへ さんの感想・評価

★★★★★ 4.8
物語 : 5.0 作画 : 4.0 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

素晴らしい完成度

このアニメを初めて観た時には、独特な世界観や急速な展開、声優さんの名演、そしてそれらを盛り上げる素晴らしい音楽に終始圧倒され、感動でボロ泣きしながら自分の中で神アニメに認定しました。それほどインパクトが強い作品です。
毎話の内容がすごく濃く、それでいて無駄がなく、更にそれを1クールに収めている事には驚かされます。今でも何度か観返しますが、何度観ても、内容どころか所々のセリフまで覚えていても感動できます。ただし、このアニメをまだ観たことがなければ、ネタバレは絶対に見ないことをお勧めします。初めて3話や9話、10話を観たときの衝撃は格別ですよ☆

投稿 : 2018/11/14
閲覧 : 245
サンキュー:

9

ネタバレ

ぺこ さんの感想・評価

★★★★☆ 4.0
物語 : 4.0 作画 : 4.0 声優 : 4.0 音楽 : 4.0 キャラ : 4.0 状態:観終わった

面白かったんです!

でも...

多分なんの知識もなく見ればすごくびっくりしてすごく楽しめたんです

でもなんの知識もないと多分見ない作品なんです;

どーしたもんですかね
自分の中の偏見を変えていかなきゃいけない!
魔法少女ッてゆわれたら小学生までしか見なかったんですよね多分...
でもちゃんとひっくり返してくれてて、楽しめた!

まどかがあんまりにも魔法少女にならないからイラ②したり...マギカは出てきませんでしたね
よくわからなくなったり...

でも!
おもしろかったですよ!
戦場河原さんが羽川さんになるとことか!
ネタバレ指定してますよね?;

今後は人気作はネタバレ見ないようにしまーす!

投稿 : 2018/11/11
閲覧 : 283
サンキュー:

15

ギバチサナ さんの感想・評価

★★★★★ 4.7
物語 : 4.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 4.5 状態:観終わった

え、これ1クールだったの?と驚く内容の濃さ

面白いから見てみろって!と言われると余計に観たくなくなるという人は私含め少なくはないはずだ。ハードル上がると粗探しをしてしまうから。

まず絵が受け付けず、OPまで見て「絶対好きになれないやつだ」とその時点でリアルタイムの視聴を断念した。放映終了後3年ほど経った後に、最後まで視聴する形となった。

まどマギほど、先入観とのギャップを痛感したアニメはない。

伏線となるものは大した仕掛けではないが(特定人物を除く)
各キャラクターがこの時どんな気持ちで言動を取っていたのかが気になって、何度も見直してしまった。

シャフト全開の作画と、特徴的なキャラ絵で食わず嫌いをする人は多いとは思うが
騙されたと思って、3話あたりまで視聴してみると良いと思う。
そこまで見てから、好き嫌いを決めて良い作品。
3話あたりまでです。大事なことなので2度ry

音楽と作画と声優は申し分なく最高だが、しいて言えば世界観に呑まれてキャラクターの深掘りが薄いところがあるので、もったいないと感じる。

だが、1クールでこのクオリティはすごい。虚淵玄、さすがの変態。褒めてる。

投稿 : 2018/10/24
閲覧 : 254
サンキュー:

10

ネタバレ

あらあに さんの感想・評価

★★★★☆ 3.8
物語 : 5.0 作画 : 3.0 声優 : 4.0 音楽 : 3.0 キャラ : 4.0 状態:観終わった

さすがの名作

物語が圧倒的に上手。
終盤のやや複雑なロジックも丁寧に書くことで、比較的わかりやすい内容に。

大きな起承転結がすごく綺麗にまとまっている。

投稿 : 2018/10/15
閲覧 : 168
サンキュー:

3

ネタバレ

fuushin さんの感想・評価

★★★★★ 5.0
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

少女の無垢な愛と実践を、素のままに受け入れられるかどうか。その感性と行動が問われます。

内容のある作品で、どんなふうに捉えるのがいいのか思案するところが多くて、悩んでしまいますね。でも、楽しめました。いい作品ですね。

個人的には、ゲーテの「ファウスト」がベースになっているように感じました。
それに、デウス・エクス・マキナとしてもいろいろ話題がありますね。

私は、このデウス・エクス・マキナに焦点を当ててレビューをしてみようと思います。
よろしくお願いします。


● デウス・エクス・マキナについて。
{netabare}
私が、本作を最高評価にするのは、デウス・エクス・マキナ(のように見せているシナリオ)に、もう一段デウス・エクス・マキナ(のように見せているシナリオ)を重ねていることです。
加えて、大どんでん返しがいくつも仕掛けられ、小さなどんでん返しは数知れず。
SF魔法ファンタジーとしては珠玉の作品でしょう。
これらの仕掛けだけでも、評価に値すると思っているのですが、私は、あえて、その先にあるものを述べてみたいと思います。


まずは、デウス・エクス・マキナ。deus ex machina

演劇用語で、演出技法の一つです。

歌舞伎などの演劇では、舞台の "奈落" から "せり上がって登場する" おおたて者が、スポットライトを浴びて見得を切る姿が見られます。観客は意表をつかれ、息をのみ、やがてどよめきたちます。いよいよ大団円を迎える最終幕。とびっきりの見せ場ですね。
人情味あふれる台詞遣いと、派手な大立ち回りに、溜めにためていた観客の情動は、万雷の拍手となって沸き上がって、喝采はいつまでも鳴りやまず、おひねりが飛び交って大盛り上がり・・・とまあ、そんな場面をTVなどでご覧になられたことがあるかもしれません。
この "奈落" 。人力と機械仕掛けで動かす舞台装置のひとつです。

デウス・エクス・マキナとは、このような「機械仕掛けの(舞台装置を使って登場する)神」という意味で使われています。

古代ギリシア時代の演劇では、実際に機械仕掛けで "神" を演じる役者を登場させたようです。歌舞伎のような "奈落" ではなくて、"宙づり" だったようですが。それがいつのまにか転じて、演出技法の一つとして確立したようです。

ここでいうところの "神" とは、舞台や劇中で、混沌となった局面に対して「神の声(神の風ていをしたキャラクター、または、神の声を演じるナレーション)」を発することで、一気に収束に導き、物語を解決に向かわせるという "演出技法" のことです。
悲劇ものによく使用されました。物語が混沌となりやすく、収拾がつかなくなりますから。
今から2500年ほども前から使われていた "よくある" テクニックのひとつです。

有り体に言えば、" わたしの鶴の一声で全部なかったことにしてあげるから、ややこしいことはもうお終いにしましょうね。今までのシナリオの流れも、これからの脚本も、もうどうでもいいからね。理屈も、納得も、感動なんてしなくても、そんなのどうでもいいからね。もうなんの関係もないからね。ささ、みなさん、もうおうちに帰ってね~。" ということです。

よく、"どんでん返し" という手法もありますが、これは、「びっくりしたけど、次はどうなっていくの?」という "あとの展開が盛り込まれています" から、デウス・エクス・マキナとは違いますね。


本作を観て、最初に思い浮かんだのは、鉄腕アトムです。最終話の展開がちょっと似ていました。と言ったら手塚治虫さんに叱られてしまいますね。ごめんなさい。

ここで、ちびっと、Wikipedia から引用しておきます。
『アリストテレスは、演劇の物語の筋は、"あくまで必然性を伴った因果関係に基づいて導き出されていくべきである" とし、行き詰った物語を、前触れもなく、突然解決に導いてしまうこのような手法を批判している。現代においてもまったく評価されない手法である “夢落ち” は、デウス・エクス・マキナであり、手塚治虫はそれを禁忌とした。』とあります。(ちびっと加筆しました。)
{/netabare}



● 鉄腕アトムについて。
{netabare} 
当時(1963年~)、もし、"あにこれ" があったら、大変なことになっていたと思います。

地上波、ゴールデンタイム、193話~。
国民的な大ヒーローでもある彼が、いかに人類を救わんとしても、大陽に突っ込んでいくなんて、あり得ないことです。
テレビ局には、「彼を死なせないで」との電話が多数寄せられたと言います。


彼は、デウス・エクス・マキナを否定しています。

彼は、人間の裏と表、心変わりや心移り、善は善でなく悪も悪でなしなど、0と1で処理しきれないことに苦悩?もする、すごいAIロボットです。
しかも、極悪非道、残忍冷酷、背徳没倫、不義不正。
そんな人間、どんな人間でも、彼は、助けるべき局面に立てば放っておくことはできない徹底的な人本主義(人間本位)のキャラなんです。
つまり、彼の最終命題は、"人間の命を守ること" なんですね。

手塚氏の出自は "生命の尊厳" ですから、アトムにも "人類の命を守ることが第一" みたいなところがあります。だから、人類に危機をもたらすものが太陽であっても、彼がとるべき道は一つしかないのですね。

彼には、戦争を否定する精神文化が根底にあります。
常日頃、粉骨砕身して汗水たらすアトムの思想には、太平洋戦争の敗戦で得た日本的な「基本的人権の尊重」がプログラミングされています。だから、どんなに小さな損得や強弱にも、そこに関わる人間の生き様に思いを馳せることができます。あるいは、国家という大きなイデオロギーの善悪にも同じ扱いができます。そのうえで、あらゆる価値を超えて、人権にフォーカスして、主体的に判断し行動ができるのです。彼は、突出したヒューマニスティックなシンボルといえるでしょう。

そんな彼が対峙するものは、決まって人間の行動の不条理さです。言ってみれば人間の愚かさです。彼は、そんな人間にいつも割り切れなさを感じています。でも、彼の心根には、グレーを黒と言い切れない、嘘つきを悪者と見なしきれない優しさがあります。
最終話において、その選択のはざまに立ったとき、"自分はどうすべきか" という自分への問いかけに答えなければならなくなりました。
彼のフィロソフィーでもある "科学・正義" を、愚かさを内包する人類に寄せるのか、それともさらなる高次元の宇宙の摂理に寄せるのか。
悩みぬいた彼の答えは、"人類の明日と未来を信じる" でした。



アトムは、悩み苦しむ科学の子なのです。

これは、その後のロボットアニメのルーツになっています。古くは鉄人28号、マジンガーZ、サイボーグ009、宇宙戦艦ヤマト、機動戦士ガンダム、エヴァンゲリオンなど、みなアトムの倫理観を踏襲していたと思います。彼らのギリギリの選択はいつも "人の命を守る" です。金田君、兜君、島村君、古代君、アムロ君、シンジ君。皆さん、性格はいろいろ、悩みもさまざまでしたが、落ち着くところはみな同じでした。

対峙するものは、地球人、宇宙人、人格を持つ何か、そして太陽など、多種多様でした。彼らの "使命感" とか "自負心" とかは、台詞の中には確かにありましたが、最終的な着地点は、お世話になった人たちへの "感謝の念" とか、未来への責任と貢献につながる "自尊心の発露" だったような気がします。彼らが、広く少年少女と国民の前で、主人公たりえていたのは、いつも彼らの前に、人類と、人権の概念と価値を揺るがすことなく据えていたからです。

SFベースのロボット系の作品群にあって、アトムほど、"道徳的規範性" において抜きんでているキャラクターはいません。事実、その後に登場するほとんどのロボット、または、その操縦桿を握る主人公たちの人間性に、アトムの性質や思想性が深く投影されているところを見れば、彼の影響力の絶大なことを感じます。

彼らのメンタリティーには、ときに、絶対的な神を "感じて語りかける" とか、奇跡を "信じて行動を起こす" とかのプロセスはあったとしても、しかし、肝心の神は登場することはありません。日本の神の役割は、じっと見守るものであり、キャラクターの不断の努力にそっと後押しをするものです。

ですから、キャラクターらが腹をくくったとき、あるいは、半歩だけ前に踏み出したとき、その結果、傷つき、倒れ、もうダメかも・・・という刹那に、必然としての支援、援助、援軍、秘密兵器の登場という "大逆転のシナリオ" が生まれます。
大団円における水戸黄門の印籠然り、ウルトラマンのスペシウム光線然り。それが日本ならではの感性と情緒性に訴えかける文化的演出、技法です。

なぜなら、前ふりとして、因果関係や物語性をじっくりと温めておかないと、作品への深い共感を得られないからです。作家や脚本家は、作品に魂と生命を込めます。どんなに薄いペーパーバックであっても、安直に、意味もなく、天照大御神は登場しませんし、させません。

天照大御神ご自身が、天岩戸にお隠れになられたときは、八百万の神がこぞって寄り合い衆議して、天鈿女命(あめのうずめのみこと)がおっぱいを露わにして、お腰の紐を危ういところまで下げてダンスをし、皆でやんややんやの手拍子喝采をして、そうして初めて、天照大御神が岩戸をちびっと開けたとき、天手力男命(あめのたじからおのみこと)がその手を握って、無理やり引っ張り出したという、そんなお国柄です。

古事記に描かれたこのシーンは、デウス・エクス・マキナなどの小賢しい介入や改変などが、全くナンセンスであることを示しています。
天照大御神以上の神様を、いきなり登場させて、「もうお終いよ~」なんてことをしたら、天の岩戸は永遠に開かなかったと思います。そんなことになったら、真っ暗闇のままで、シナリオは書けない、台詞は読めない、表情は観られない、入場料金は数えられない、で、もう考えられないですね。

西洋的な演出、特に、デウス・エクス・マキナのように、偶然に、唐突に、突然に、脈絡もなく、いきなり神の意志が働く演出なんて、全くの興ざめ、ナンセンスの極みです。そんなのは、脚本やキャラクターへの冒涜です。
必然と、伏線と、紆余曲折と、難行苦行があって、人の心に共感が生まれて、心が動き出して初めて、素晴らしい!と感動できるのが芸術作品の良さです。

ですから、日本の物語の "根幹" には、デウス・エクス・マキナは存在しないと思います。もし、それがあったとしたら、あにこれの評価は☆1個になっていると思いますね。
私は、本作品があにこれで高い評価を得ていることは、日本的な演出に適っているからだと思っています。
個人的な私見ですが、本作において確かに "神は降臨していない" と思います。ただ、まどかというキャラクターを通じて、"神に通じる表現" はあったと思います。そこがうまくレビューできたらいいなと思います。
{/netabare}



● ゴジラについて。
{netabare}
彼の役回りは、核兵器や放射能へのアンチテーゼでした。

圧倒的な暴力性、問答無用の破壊力、手の付けようのないアンコントロール性。平和利用に限ってですら彼の前では、安全神話など脆くも崩れ去ってしまいます。
ゴジラは、地球にあってはならない、人類にあってはならない "リスクの象徴" です。

ゴジラも、デウス・エクス・マキナを否定しています。

ゴジラに対しても、なかったことにできる神など、どこにもいません。然るに、かの大統領も、かの宰相も、ゴジラが再生すれば、そこが東京・新宿であっても、核兵器で攻撃をするといいます。(実写版の話ね。)
生ける放射能の塊(ゴジラ)に、核(ICBM)をぶつけるなど愚の骨頂ではありますが、それが、かの国の為せる業であれば、まさに、臭いものにフタであり、腐ったミカンは捨てよであり、なかったことにしようとする最低のデウス・エクス・マキナです。
それは、平和な日本への妬みなのか、あるいは、核兵器にどこまでも依拠する人類の愚直さと傲慢さへの批判なのか、ちょっと考えておく必要があると感じます。

神ですら、そんなシナリオは創らないでしょうし、そんな演劇を見せつけられたら最後、ブーイングの嵐、観劇料金の返金を求めるでしょう。いや、精神的被害を被ったとして、損害賠償ものかもしれません。
人類が2500年もの時間をかけて作り上げてきた文化的価値はいったいどこに吹き飛ばされたのか。つくづく、人間という生き物は業の深い存在です。

ゴジラには、核兵器を肯定する思想の裏返しの役割があります。と同時に、核兵器の廃絶がなかなか進まないことへの鉄槌の役割も象徴しています。

どれだけ文化が育まれ、繁栄があり、故郷があっても、核兵器の名代たる彼は何度でも日本の国土を蹂躙するのです。政府や自衛隊は必死にコントロールしようとしますが、彼は平然として海底の塒(ねぐら)に還り、またいつか、怒涛の如く押し寄せてくるのです。
人間は、電車をぶつけて彼を一時的に止めることしかできないのです。

ゴジラという存在自体がアンコントローラブルな禁忌の神。
すなわち核の存在なのです。


哀しいかな、そんな彼を、外国の方は冷たくあしらっています。一時は恐竜風情に身を窶(やつ)され、カイジュウと戦うのが関の山でした。それはショウみたいなものです。でも、もし彼(核)が "核施設" を襲撃するシナリオが書けたら、それは楽しいショウではすみません。彼は、原子力発電所の平和利用の意味など考えないし、核兵器の抑止力の理屈も知らん顔で暴いてしまう存在なのですから。外国の方にとっては、核兵器こそが太平洋戦争の終結を早めた最高の技術であり、現代の世界の平和を維持できている "魔法" でもあり、"神" でもあるのです。決してゴジラごときに "神" の正体と、その振る舞いを白日の元には晒さないでしょう。なぜなら、その"神" こそが、デウス・エクス・マキナだからです。

どれほど貶めようとしても、辱めようとしても、ゴジラはデウス・エクス・マキナを否定し続けます。何度でも、いくらでも、"その神の存在" の脅威となり、"その神" を凌駕します。なぜなら、"その神こそが、人間のエゴに依拠している" からです。


ゴジラは、怒れる大地と海の子なのです。
{/netabare}



● ほむらについて。
{netabare} 

まどかのもつ膨大なエネルギーの背景には、ほむらの魔法(タイムリープ)に拠るところの "蓄積と凝縮" がありました。キュウべえがほむらに明かしたことです。

ほむらの願いとは真逆の結果です。まどかの選択肢を狭め、リスクを高めたのですから。ほむらは、キュウべえの提示する条件にまんまと乗せられてしまったのです。

ほむらは、まどかに優しくしてもらい、守ってもらっていました。だから、その恩返しです。彼女はとても良い子で、動機は確かに "善" でした。


そんな彼女が、どこで間違ってしまったのでしょう。

彼女はタイムリープの能力を手に入れることで、ある禁忌を犯したのです。
まどかの命を守るためという理由はあります。でも、それはほむら自身への冒涜。と同時に、まどかへの冒涜でもありました。
加えて、宇宙の摂理を覆し、神の意志にも反したのです。

それは死ぬことの放棄です。

本作は、神が創られた最も繊細なルール、禁足地でもある神の領域に踏み込んでしまったがゆえに、ファンタジー枠から追放され "汚名=ダーク" を被せられることになったのです。
そして、その扉を開けてしまったのが、ほかならぬ "ほむらその人" なのです。

その意味では、ほむらの視野が狭かったと言わざるを得ません。善は善でも "小善" という概念、いえ "独善" という評価のほうが的を得ているかもしれません。

キュウべえの種族のほうが上手です。命が1回きりの利用価値であることを理解していましたから。少女→魔法少女→魔女→消滅ですね。だからこそ、わざわざマイナスの感情を最大限に増幅させる手段をとったのです。少女がどんな大言壮語な願いを語っても、所詮は地球上での単発・使い切りです。そのほうがあと腐れもなし、事もなしです。
キュウべえの種族は、宇宙の摂理に反する時間操作のリスクをわざわざ取る必要はなかったのです。

でも、第三者にさせることはできたのです。現にほむらはやっています。しかし、それは宇宙の摂理に反する行為です。キュウべえたちは、自らの手は汚さずにほむらに汚れ役をさせたのです。ほむらは、キュウべえたちでさえも触れなかった方法を選んでしまったのです。

宇宙の摂理に反する行為に、どうして個人レベルの願いが叶えられましょう。結果、ほむらの願いは叶わず、まどかの死を看取り続ける無間地獄に陥ったのです。自らの選択であるにせよ、責任の取りようのない事態を創り出してしまったことのジレンマ、ストレス、愚昧さに、ただならぬ重さと、背筋の凍るような冷たさに冒されて、ほむらの魂は彷徨い、阿鼻叫喚に苛まれることになります。

ほむらを擁護しますが、彼女にとっては、"まどかに魔法少女になることを選ばせないこと" が命題です。まどかが魔法少女である限り、"ワルプルギスの夜" はまどかを敗北に追いやり、命を奪うからです。だから、ほむらは、そうさせないため、輪廻を断ち切るために、タイムリープのできる魔法少女になったのです。ひとりぼっちを恐れず、たったひとりぼっちで命題と宿命に立ち向かったのです。


ほむらは、信義に厚く孤立を恐れない勇気の子です。


ほむらのタイムリープは、なぜ、まどかを救えないのでしょうか。
宇宙の摂理とは何でしょうか。
彼女の決断も、努力も意味がなかったのでしょうか。

★1
ここに、まさかの "デウス・エクス・マキナ" があります。
{netabare} 
ほむらの能力は、タイムリープ。時間を操ることです。

それこそが、「なかったことにする」禁じ手。ほむら自身の墓穴です。
それゆえに、「まどかを守る=魔法少女にさせない」という目的も達成できません。

ほむらの願いは、気持ちとしては受け止めたいと思います。本作がファンタジーなればこそ、ほむらの願いを受け止めたい。

ですが、タイムリープの本質が、デウス・エクス・マキナである以上、彼女はそれを繰り返すたびに、まどかを苦しめ続け、死なせ続けるシナリオライターの役を担わなければなりません。彼女は賭場から降りられないのです。

ほむらは、彼女自身の絶望を、希望に置き換えるためには、"なかったこと" にするしかありません。
何度でも時間を彷徨い続け、新たな世界で失敗を繰り返すしかないのです。

私は、本作が、ダークファンタジーと評される本当の理由が、ほむらの選択にこそあると思わざるを得ないのです。
ほむらは、意図する、しないに関わらず、機械仕掛けの "神" の役を演ずることになってしまったのですから。


ほむらの禁じ手が、どういうシチュエーションを生み出すのかを考えてみました。

ここで、留意しておきたいことは、ほむらの願いは、"まどかを守る" ということです。まどかにとっての盾、防御、ディフェンドするということです。ということは、"ワルプルギスの夜" への攻撃、鉾、オフェンスではありません。ほむらにとっては、まどかが主。"ワルプルギスの夜" は従です。

そして、ほむらが守りたいまどかは、魔法少女になっていないまどかです。ということは、"ワルプルギスの夜" に対しては、絶対的な攻撃力をほむらは持っていないということになります。そして、その状態で、まどかを守らなければならないということです。

ほむらの選択そのものが、ほむら自身に勝ち目のない戦い、エンドレスな戦いを繰り返す宿命を背負わせることになってしまったということです。その結果としてのまどかの死です。


まどかが魔法少女を選択すれば、もしかしたら、2人で "ワルプルギスの夜" を倒せるかもしれません。でも、その選択自体が、まどかを魔女にさせてしまう可能性も生まれてしまいます。それはほむらの本意ではありません。まどかが魔法少女になることは、ほむらの選択肢にはありません。

万が一にも、まどかが魔法少女を選んでしまえば、"魔法少女ほむらと、魔女まどか" が対峙しなくてはならなくなってしまう状況が生まれるかもしれません。その可能性は、0%ではないのです。
せっかく、2人で "ワルプルギスの夜" を倒せたとして、そして、まどかを守ることができたとしても、そのまどかと戦うことにつながるなんてことになってしまったら、ほむらには耐えられないでしょうね。

では、逆に、まどかが魔法少女を選ばないケースはどうでしょうか。

ほむらには "ワルプルギスの夜" に勝てる見込みはなく、しかも、キュウべえの言う "宇宙存続のシステム" も変わることはありません。それは、キュウべえのリクルートが、まどかに対して、永遠に繰り返されることでもあります。

ほむらは、当初、まどかにとても冷たい態度をとっていました。そこにほむらの狙いがあったと思います。魔法少女の印象を悪くするためです。事実、まどかの目の前でマミが殺されたのですから、ほむらの狙いはほぼ成就しかけていたのです。ところが、ほむらに誤算があったのは、まどかの母親の存在です。まどかは、母親から人間の生き方を学んでいました。しかも、ほむらは、まどかと母親との会話の中身を知りません。つまり、まどかの人となりの深い部分を知らないということです。となると、ほむらの意図はまどかには通じない恐れがあります。

加えて、まどかはキュウべえの口八丁のリクルートを受け続ける可能性があります。
まどかのなかに母の考えが投影され、キュウべえの理屈になびき、それをまどかが望ましいと思う限りにおいて、まどか自身の手の内に選択権があります。ほむらがどれだけタイムリープを繰り返してまどかの翻意を願っても、まどかの心にあるものを追い出すことはできません。


そして、もう一つのシナリオは、"ワルプルギスの夜" の暴発によって、魔法少女になる前に、まどかが死んでしまうかもしれないということです。これもまた、ほむらの願いは叶いません。また、タイムリープを繰り返すのでしょうか。


では、仮に、ほむら一人で "ワルプルギスの夜" を倒したと考えてみましょう。

残念なことに、やはり、ほむらの願いは叶いません。
第2、第3の "ワルプルギスの夜" が登場する可能性があるからです。

少し、ややこしい理屈になります。分かりにくかったら、ごめんなさいね。

もし仮に、ほむらとは違う誰か(Hさん)が、ほむらと同じような願い(タイムリープ)を持てば、ということです。
そうなると、まどかとは違う誰か(Mさん)に、まどかと同じような役まわり(巨大な内的エネルギーを持つこと)をさせることが想定されます。
ひいては、その誰か(Mさん)が魔法少女となり、やがて魔女となって、ついには、第2、第3の "ワルプルギスの夜" になる可能性があるのです。

つまり、本作の構造上、"ワルプルギスの夜" は、単体であるとは限らないわけです。しかも、その魔女が、 "ワルプルギスの夜と同等の魔女" あるいは、"それ以上に強大な魔女" であれば、だれも倒せないのです。もし、その魔女がまどかと出会うことになれば、まどかが襲われ、死んでしまう図式は、やはり消えないのですね。

"宇宙の存続のシステムの維持が、絶対唯一の価値基準である" ことに、直接、触れない限り、ほむらは、未来永劫、無間地獄に陥ってしまい、自分自身が作ったタイムリープから抜け出すことができなくなってしまいます。
ほむら自身には、解決策は見いだせず、その苦しみが永遠に続くことになります。

まさかのデウス・エクス・マキナであるにもかかわらず、舞台の収拾はつきません。四方八方、幾重にも絡まりあうカオス(=混沌)は、解決の道筋を見出せない手詰まり状態です。
ほむらの 小さな "善" の種から生まれた大きすぎる "業" 。しかも、ほむら自らが刈り取ることは叶わないカルマなのです。

{/netabare} 
{/netabare}



● まどかについて。
{netabare}
まどかは、あふれる愛念と慈愛の子です。

彼女も アトムと同様に、"利他愛という高次元世界への存在の道" を選びました。

彼女の願いは、すべての魔法少女を救うということです。と同時に、その選択は、すべての魔女を救うということでもあります。

まどかは、ほむらの無窮の苦しみ・悲しみに思いを馳せたとき、同じように、3人の友だちが、無慈悲に、無残に殺され、死んでいったさまに大きな違和感を抱いていたはずです。

夢をかなえたその代償が、魔女と永遠の殺し合いを繰り返すこと、に。
魔法少女が、ついには魔女となり、家族と友人・知人にいたるまで、危険と危害を及ぼすものになってしまうこと、に。
その一方的なシステムを作り出したキュウべえの種族の意地悪さと意地汚さに、。

まどかはいたいけな少女です。だから、その感性で捉えれば、そもそも、少女が苦しんだり、悲しんだり、辛い思いをしたり、人を呪ったり、恨んだりするようなことになってしまうことがおかしいのだと感じたのでしょう。そして、そんなことはあってはならないこと、変えなくちゃいけないことなんだということに、思い至ったのでしょう。
そこで、大元になっている契約そのものに違和感を抱いたはずです。

ほむらの苦しみを解消してあげたい。ほむらが、魔法少女となった約束ごと(=契約)そのものが、"どこか、なにか、おかしいことが決められていて(不利益条項にまみれていて)" 、そこを直さない限り、ほむらを救うことができない。そういうふうに思ったのでしょうね。

今、目の前にいるほむらの命が消えかけている。心が折れかかり、呻吟する苦しみに潰れかけている。その献身のなかに、まどかは、自分の決意と目的、そして手段を見つけたのだと思います。

ほむらは、まどかへの絶対的な献身を持って "ワルプルギスの夜" と対峙し、まどかの幸せを達成しようとしました。時空を超えてひたすらに。
だから、まどかも、ほむらへの絶対的な愛を持って、キュウべえと対峙し、ほむらを苦しみをから解き放とうとしました。時空を貫くひたむきさで。

契約の発動によって "ワルプルギスの夜" の存在そのものがなくなり、と同時に、歴史上の全ての少女たちを、無限と無為の苦しみから救済し、魂を浄化し、安寧と平穏へと導きました。

私は、この展開に大きな衝撃を受けました。そして深く感動し、感激しました。
モニターを通じて、まどかの愛念と慈愛の固まりがシャワーのように飛び出し、それは、あまりにも美しい、あまりにも温かな瞬間だったのです。
私は、そこに、まどかの愛念が、神に通じたのだと感じました。
自我を乗り越えた、無償の愛念にこそ、神の意志も働くのだと。


★2 
突然ですが、言霊遊びを。
{netabare} 
まどかが自我を乗り超えたときに、どうして神の意志が働くのか、ちびっと言霊に触ってみましょう。

神社にお参りに行くと、拝殿の奥の方に、丸くて大きい「お鏡」がデーンと置いてあるのにお気づきでしょうか。
あの「お鏡」。何のために置いてあるのかということですが、「自霊拝」と申しまして、「お鏡」の前に座り、自分の姿を写して、生き様や日々の過ごし方、人との接し方や仕事の仕方を振り返るためにあるのです。
常日頃の行ないは、どうだろうか?間違ってはいないか?直すべき振る舞いはあるだろうか?そんなふうに自分自身の霊体に問いかけてみて、我が身、我が心を正すわけです。

さて、言霊で要素分解をしてみます。
カガミと書きますが。その真ん中に、ガとありますね。このガは、我です。
我を乗り越える、我を虚しくする。我を表に出さないという表現がありますが、カガミからガを抜き出すと、カミ=神と読めますね。
このように、我をコントロールすることによって、心の内におわします神なる性質が現われやすくなって、繊細玄妙なる精神性が自ずと表に出てくる、あるいは、引き立てを受けやすくなるという意味になるわけであります。

まどかとほむらの違いは、集団と個です。

まどかには、3人の魔法少女と母親が身近にいました。だから、まどかの悩みと苦しみは、一人だけのものではなくみんなと共有できていた。集団で担いあい、時には分け合っていられた。その分だけ、まどかには、強い我を出す機会もなく、またその必要もなかったように思います。
反して、ほむらには、集団がなかった。なかったが故に、個であり、孤であり、固であった。我を強く持つ必要があった。

視聴なさる方、特に男性がほむらに共感を持たれるのは、そのあたりではないかと感じます。ほむらのまどかへの思い。それは、より困難な課題、ミッションに立ち向かうときのエネルギー。義と理と忠と信です。
ちなみに、女性であれば、仁と礼、愛と情でしょうか。

カガミに映る "我" をどう捉えるか、そのあたりも、"カミ" アニメたる理由探しの面白さかもしれません。
オシマイ。
{/netabare}

さて、キュウべえの種族にとっては、宇宙を維持させることが大前提なわけですから、魔法少女が一人も生まれないことは避けなければなりません。であれば、魔法少女が生み出されつつ、魔女化させないシステムに変えればよいのです。そうすれば、まどかとの "ウインウインの契約" を成立させることができます。

なにを、どのように変えたのか。
 "ソウルジェム" の代用品として、"キューブ" が用意され、"魔女" の代わりに "魔獣" が準備されるのです。そうすれば、地球上でのシステムを変えながら、宇宙維持システムは変わらないのです。

まどかは、それをほむらに語り、ほむらは、まどかの献身とその意志を尊重するでしょう。
まどかの実相は、ひとりの魔法少女から、宇宙の一局面を統括する別の次元世界の存在へと置き換えられます。それは、まどかの願いでもある、かつての魔法少女の魂を救済し、愛念の溢れる安寧の住まいを提供する役割を担うことになるのです。

まどかは、その溢れる愛念で、少女たちの汚された魂を浄化し、彼女らの悲しみにくれた想念を癒やし、虚無地獄の次元界から救い上げるという、宇宙次元の慈母になったのです。


このような、繊細でありながら重厚なストーリーを、都合のいい デウス・エクス・マキナと捉えて {netabare} しまったらいけませんね。ちょっと見だけなら、そういう シナリオに感じて {/netabare} しまいがちです。


★3
ちびっと、念押ししておきましょう。
{netabare}
実は、1話から始まる巴マミの件(くだり)と、途中から参加する美樹さやか、佐倉杏子の逸話が、すべて伏線となっています。

覚悟の上とは言え、彼女らの試行錯誤の四苦八苦は、まどかに多大な影響を与え、彼女の決意を醸成していきます。
まどかにとって、決定的なターニングポイントになったのは、ほむらの決意と覚悟に触れ、エンドレスなタイムリープを繰り返してきた一途な献身を知ったときですね。

視聴される方は、第1期のマミ編、2期のさやか編、3期の杏子編、4期のほむら編をご覧になっていて、それぞれの目的と挫折をご存知な訳です。それは、まどかという主人公が存在していてこその4つのパートであり、言うなれば、まどかを元糸として、4人の撚糸(よりいと)が深く絡み合っているということも承知なさっていると思います。

であればこそです。
第1話から始まっているさまざまな経緯が、伏線として組み込まれていることがきちんと演出されているからこそ、本作品のシナリオにおいて、まどかの選択と決意には、デウス・エクス・マキナが採用されていないことが理解できると思います。それは、脚本自体にも、デウス・エクス・マキナは書かれていないということです。

まどかの意志決定は、キュウべえとの正式な契約によって、正当な権利として行使をしたわけであって、"第三者の神" がいきなり出張ってきたわけではないのですね。

ここまでが、本作のデウス・エクス・マキナ(に見せているシナリオの仕掛け)の一つめです。
{/netabare}
{/netabare}



● まどかの契約が成立・発動したにもかかわらず、ほむらたちは魔法少女として存在していました。
{netabare}
なぜ、ほむらたちは、まどかの願いに反して魔法少女たりえたのでしょうか。
それこそ、都合のいいデウス・エクス・マキナなのでしょうか。

ここに、二つめのデウス・エクス・マキナ(に見えてしまうシナリオの仕掛け)があります。

先だって述べましたが、本作品には宇宙の存続という大きなテーマがあります。キュウべえの種族にとってみれば、ほむらやまどかが、魔法少女になること、魔法少女でいることは、宇宙の存続のための "システムの歯車" に過ぎません。その要(かなめ)が "ソウルジェム" ですね。

キュウべえは言います。「"ソウルジェム" は、効率がいい」と。

宇宙の存続のためには、地球の少女、魔法少女の生命エネルギーが必要です。それは希望から絶望への "落差から生じる負の感情のエネルギー" ですね。それを貯蔵する器が "ソウルジェム" です。
夢から虚へ、光から闇へ、清浄から汚濁へと墜落するさまは、もしかしたら巨大な台風の1個分のエネルギーに相当するのかもしれません。
これは、たしかに、キュウべえのいうとおり、非常に効率が良いやり方です。でも、「キュウべえの種族の側から見て」ということですね。

まどかの条件は、その効率の変更を求めました。ここで必要になったのが、「折衝」ですね。

では、もう少しテーブルを大きくして視野を広げてみましょう。
もし少女ではなく少年だったら、あるいは大人だったらどうでしょう。
ソウルジェムではなく、キューブだったらどうでしょう。
魔女ではなく、魔獣だったらどうでしょうか。
全て、代替案です。
この構造転換は、多少は効率が落ちるものの "代用品" としては、契約条項の改変の許容範囲内なのかもしれません。台風ほどではないけれど、竜巻くらいのエネルギーにはなるのかもしれませんね。(比較としてはちびっと変ですが。)

つまり、まどかの願った希望は、少女たちを魔法少女や魔女にさせないという限定的な発言でしたが、キュウべえ側は、それを踏まえて、宇宙の存続という絶対的なシステムの見直しの検討をせざるを得なくなってしまったのですね。

そもそもキュウべえは、インキュベーターという役割で、言うなれば契約締結のための営業マンです。主契約者は、地球の "少女" と宇宙存続のシステムを定めた "キュウべえの種族の誰か" です。なので、一営業マンのキュウべえですらも驚く、窺い知れないような契約条項が追加されるによって、全く別のシステムが起動・発動したと解していいのではないかと思います。

そのシステムにおいては、魔法少女の存在は "必要" になり、ほむらたちはその役割を全うしていくのですね。そして、使命を全うした先にあるのは、まどかが願ったように、魔法少女の穏やかな死と、まどかが創出した安寧な次元世界への招待なのでしょう。
そこにこそ、ほむらたち魔法少女の救いの道が垣間見えます。かつて、虚無のエンドレスを作り出したほむらも、タイムリープから抜け出して、まどかの愛念によって創造された終の住まい、魔法少女の魂の安寧が保証された次元世界への旅立ちがようやく叶うのです。

この新しいシステムにおいてのミソは、ほむらだけが、まどかの "想いを知っている" ということ。そして、彼女だけが、まどかが魔法少女から、別次元の愛の世界の創造主に相転移した "実相(=愛の溢れている次元世界)を見ている" ということでしょうね。
(と同時に、視聴者も、ほむらと一緒に、まどかの創造する初発の次元世界を見ているということもミソです。なぜか?ってですか。
それは、ほむらの "魔法少女ほむら☆マギカ" たる所以が、そこを起点にしてスタートしているからです。存在の発端、物語の初発を知っているということは、ものすごい安心感を持てるでしょ?)

さて、この所以(=ゆえん。理由。ほむらたちが新しいシステムのもとでも魔法少女であることの理由)が、由縁(=ゆえん。事の起こり。まどかの願いに添った宇宙存続システムのいくらかの改変の結果)として、"理屈が通っていると理解できる" ならば、それはもう、都合の良いデウス・エクス・マキナではありませんね。

まどかの願いは、一介の営業マンであるキュウべえにも理解できない、もっと高次な選択と判断があってのことです。そのもとは、あふれる愛念そのものなのでしょうが、感情を分析することの苦手なキュウべえにとっては、到底、理解のしようもないことです。
キュウべえは、何も知らないまま、まどかの意向を受けた新しいシステムの維持のために、ほむらたちとともに、ひたすらにキューブを回収する役目を負うことになります。
彼もまた "ひとつの歯車" となって、インキュベーターの役割を全うしていくのでしょう。

★4
ところで、もうひとつ、言及しておきたいことがあります。
{netabare}
"魔法少女" は、新に生み出されるのでしょうか。

"魔獣" は、人間のマイナスエネルギーの象徴であり、その実相としての造形物でもありますから、人間が地球にいる以上、永遠に生み出されてくるものと解すことができそうです。

作品の設定内では判断しにくいのですが、ほむらたち魔法少女に、穏やかな死が約束されているのであれば、システムの維持のためには新たな魔法少女は必要でしょう。そうなると、キュウべえは少女たちをリクルートし続けるでしょう。新しく魔法少女となった少女は、自分の夢を叶えつつ、魔獣狩りを終えたあとには、まどかが創出し、魂の安住が約束された次元世界へ旅立っていくのでしょうね。

また、ほむらが契約に基づいてタイムリープし続けるのであれば、魔獣狩りの役割を永遠無窮に担うのかもしれません。それは、まどかとキュウべえの種族との契約に基づいたシステムの一部かもしれません。

また、まどかとほむらの友情の約束による必然でもあります。
どういうことかと言いますと、ほむらは、まどかにたいする悔恨の気持ちと、贖罪の気持ちがあると思うのです。
悔恨とは、ほむらの能力でもあるタイムリープが、まどかの選択肢を狭め、そこにおいて、結果的に、まどかを追い込んでしまったことです。
贖罪とは、まどかの選択の結果とは言え、まどかの家族の記憶からは、まどかの存在は抹消されています。
母親が、"何か" を懐かしむ姿が切なすぎて、泣けてきちゃいますね。

その意味において、ほむらが、悔恨と贖罪の念を持つ、"理由と背景" になっていると感じます。
{/netabare}

さあ、この最終盤においても、すべてに整合性が担保されたシナリオになっていることが確かめられたのではないかなと思います。

こうして、二つめのデウス・エクス・マキナ {netabare} に見えがちな、実はそうではない確かなシナリオ {/netabare} に、きちんと収束していくわけですね。

これが、本作のもつ、二重構造のシナリオの面白さであり、高い評価を得ている魅力でもあると思います。
{/netabare}



● 最後に、虚淵氏によれば、本作は、『折衝と和解』というテーマを含んでいるということです。
{netabare}
私は、それこそが、デウス・エクス・マキナを、"2度も否定している確かな証左" であると感じます。

私たちの世界には、さまざまな国家、文化、宗教、歴史、科学、経済、政治体制をもつ多様な価値観の中に日々の生活があります。ひとり一人の暮らしの中にさえも、それぞれに言い分があり、主張があり、価値観の違いがあります。
そこには、ご都合主義の神様などいるはずもなく、また、一国のご都合主義で世界を翻弄することは許されるはずもありません。それは、世界の人々に対する愚弄です。当然、行き過ぎた個人主義も同様でしょう。

本作品が、まどかの選択に、ともすれば "自己犠牲" にも見える方法を演出したのには、深い思慮があると思います。

分かりやすいところで申し上げれば、例えば、科学。
それは日進月歩の進展を見せてはいますが、世界の全ての課題を解決しているわけではありません。自然科学、社会科学、人文科学など、人類の叡智が束になってかかっても、太刀打ちのしようもない、途方もない問題が目の前に横たわっています。
そしてそれは、幸いなことに人間が作り出してきた文化・文明です。


★5
お話はちびっと横道に逸れますがお許しください。
{netabare}
2018年10月1日、ノーベル医学・生理学賞に京都大学特別教授の本庶佑さんが選ばれました。

撲滅不可能とされる癌の治療方法に一石を投じてくださいました。これは、嬉しいことですね。外科的切除、化学療法、放射線治療に次ぐ、第4の治療法としての免疫療法です。患者さんの心身への負担の少ない治療法として期待が高まっています。

富士山の登山道も四つありますね。御殿場ルート、須走ルート、富士宮ルート、そして吉田ルートです。
登る方の体力、あるいは、景色の楽しみ方によって、ルートが選ばれます。ルートは、登頂への手段であって、目的はご来光? いえいえ、それは一つのイベント。むしろ、生きているからこその唯一無二の魂の悦びを感じ得られるからでしょう。易く言えば、日本人たる者、一生に一度は、富士の高嶺に立ってみたいというささやかな願望の "達成感と充実感" の実相に触れて、感じてみたいと思うからこそでしょうね。

文化・文明というものは、医療技術にしても、山岳文化にしても、長い時間をかけ、たくさんのお金をかけ、多くの人が手塩にかけて、ゆるゆると創造されるものです。人類は、それを "歴史"と言い "未来" とも言います。
そして、現在は、そうした時間軸のか細い世界線の上に、漸く立っているところです。

その立ち位置は、ほんのちょっぴりずつ変化していくのでしょうが、そこに貫通する大切な価値観を体現しているのが、本作品のまどかであり、ほむらであると感じます。

"魂の救済" ともいえる悠久の道筋を創りだし、愛念をもって後悔しない生き方を示したまどか。
"宇宙の存続" という永遠の一端に関わり、その労苦を選ぶことで自らの生き方を示したほむら。

彼女たちが示すのは、むしろ、有限の時間の尊い価値への気づきを促すものであり、限られた時間の中でしか自己実現できない私たちへの慎み深いエールなのではないでしょうか。

皆が、ノーベル賞に選ばれることはないし、誰でもが富士山の剣ヶ峰に行きつけないのかもしれないけれど、それぞれに向かうべき道にも夢があり、いくらかの努力を尽くし、その過程で、自由と安寧、友情と信愛を手にすることが叶い、生きる糧にも繋がるとも思えるのであれば、望外の喜びと受け入れられるのではないでしょうか。

ひとりの小さな一歩は、ささやかで目立たないわずかな歩幅ではあるけれど、いつかきっと、見たことのない、夢のような未来へとつながっていくはずです。それこそが、文化と文明を生み出す原動力。
まどかの役割、ほむらの役割を、私は確信として受け取り、胸に深くしまって、歩んでいきたい。そう強く願いました。
{/netabare}


★6
本作において、まどかの選択に、驚きと戸惑いのご意見が多く寄せられていることについて、これまたちびっとだけ。
{netabare}
驚愕を、禅的に言い換えれば、近い概念に "大悟" があります。

まどかの選択に何を見たでしょうか。

私は、まどかは、"慈愛と愛念" の実相をスクリーンに表現した、アニメ史上、唯一無二のキャラクターと捉えています。
そして、その慈愛が、宇宙と対等な契約の重みになっているという扱いにも驚きました。

それを踏まえて、もう一つ。
私は、まどかの自己選択、自己決定、自己責任において、"自己犠牲" という "言霊" にフォーカスを寄せることは、本作の主題にはそぐわないような気がいたします。

むしろ、ここでのまどかの心情は、"利他愛の祈りとその実践" にあったのではないかという思いを持っておりまして、そこにこそ目を向けるべきではないかと思っています。
{/netabare}


★7
デウス・エクス・マキナに陥りそうに見えたまどかの "躊躇" とそこからの "昇華"。
{netabare}
最終話においては、まどかの心情の変化が、躊躇から決意へ、とてもドラスティック(徹底的で激烈なさま)に描かれておりました。

まどかが躊躇した一つめの理由は、まどかが、魔法少女の存在価値の軽さに怖れを感じていたこと、その勝ち筋をなかなか見いだせなかったからでしょう。

それは、キュウべえの語る契約と理屈への違和感です。
そして、マミらの非業の死のあり様から受けたショックとトラウマの影響です。

怖さと懼れ、怖じ気と畏れ。不安と恐さ。
誰でもが陥り、縛られ、誰にでも圧し掛かってくるマイナスの固まりです。

この躊躇のさまに、私は理解を寄せながらも、しかし、勝ち筋の読めない閉塞感に大いに焦らされました。演出上のこととはいえ、極めて自然な形で、最後の最後まで、まどかの躊躇する想いに私自身の思いが縛られてしまっていました。

まどかがキュウべえと契約を結ぶ段になっても、まどかの心の傷の深さから、デウス・エクス・マキナに陥るのではないかと気が気でなりませんでした。


まどかが躊躇した二つめの理由は、まどかのキャラクターの造形の妙から受ける無邪気さとは比較にならないほどの、決断の重さと非情さです。

これは、おもに私の主観によるものなのですが、キュウべえとの契約を受け入れるまどかの判断に、私の心が冷えてしまったということです。

魔法使いの少女は、可愛く、表情豊かで、正義感をあらわにするというバイアスの為せる業でしょう。私自身の思い込みによって、まどかに死を招くような契約をさせたくはないという大きな "思い違い" が生じていました。


その態度からは、全てを投げうつ覚悟を微塵に感じ取らせませんでした。
その表情からは、どんな予測の介入も辞さない決意を見せませんでした。
その声色からは、独りで立ち向かう不安に嗚咽する涙も隠していました。
その意志からは、僅かな心の移ろいゆくさまさえ伝わらせませんでした。

これが、私の見るところの鹿目まどかだったのです。

穏やかな表情のしたに、躊躇しているだろうことはうすうすは感じてはいましたが、まさかキュウべえと契約することを選ぶとは・・・。
話数的に、「デウス・エクス・マキナもありかな?」と諦めていましたが・・・。

遂に切られたまどかの啖呵に、私は、頭の中が真っ白にさせられました。
露わになった覚悟の深さに、私のバイアスは根こそぎ覆され、彼女に寄り添っていたつもりの理屈も感情も完全に焼き切られました。

ここに及んで、その信じられないほどの "落差感" を実感しました。
とうとう、まどかがキュウべえと契約を結んでしまった・・・。
間違いなく、私は、ほむらの心情に絆されてしまっていました。

そして、ふと、思ったのです。この苦々しい感情は、もしかしたら、ソウルジェムの "穢れの実相" なのではないだろうか。
その刹那、私は、ソウルジェムがグリーフシードに変わるさまを、"追体験させられている" のだと気付きました。
キュウべえとの契約は、まさにこの感情に向き合うことになるのか、と。

しかも、そのショックも冷めやらぬままに、それを "見事に回避した" まどかの "空前絶後の条件の中身" に、"さらなるショック" を受けることになるとは。しばらくは立ち直れませんでした・・・。


システムを改変するために、若くして重い宿命を負わなければならなくなったまどかの "昇華" を、理解することも納得することも、もちろん称賛することもできなくて、"虚しさと諦観" ばかりに心が震えていました。
{/netabare}


★8
デウス・エクス・マキナに陥らなかったまどかの "利他愛の祈りとその実践"とは。
{netabare}
"その実践" とは、虚淵氏がおっしゃられている『折衝』と『和解』にほかならない。私はそのように思っています。

『折衝』、『和解』においては、"自己犠牲" も "利他愛の祈り"も、ある程度、必要不可欠な要素だと思います。
人と人、組織と組織、国と国、どのレベルのどのお相手に対しても、『折衝』と『和解』を進めるうえでのメンタリティーとしては、必要なものです。

アトム、ゴジラ、まどかの通底を貫く象意は、"悩み苦しむ科学"、"怒れる大地と海"、そして、"溢れる愛念" の "先" にあります。

三つ巴に組み合わされるメッセージから、いったいどんな新しい価値観を必要とするべきか、そのことは、今の時代、喫緊の重要な課題であると感じます。

そして、この三人三様のメッセージは、"文化・文明" は、デウス・エクス・マキナにはならない、させないということに集約されます。

日本の文化・文明が生みだした3人の偉大な主人公のメッセージに、私たちはどのように向き合っていけばよろしいのでしょう。

今こそ、地球に住まうすべての人たちが、エゴと国益とに縛れらることなく、利他愛に徹した愛念をもって、『折衝』と『和解』を大胆に進めていく時期に来ているのではないかと、私は感じます。



科学と、自然と、愛念を前にして。

今日のあなたの感性を、昨日よりも、一歩前へ。

今日のあなたの行動も、明日は、もうちびっとだけ高みへ。

皆さんも、デウス・エクス・マキナではない物語を、是非、探してみてください。
{/netabare}
{/netabare}

長文を最後までお読みいただき、ありがとうございました。

本作が、皆さまに愛されますように。

投稿 : 2018/10/13
閲覧 : 393
サンキュー:

36

ネタバレ

ピピン林檎 さんの感想・評価

★★★★★ 5.0
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

私たちは、なぜ「まどマギ」にこうも感動してしまうのか

  この大ヒットアニメには5人の魔法少女が登場するのですが、そのうち、魔法少女"契約"を受け容れる動機や願いと、その結末が、本人の感情推移と共に詳しく描き出されているのは、{netabare}美樹さやか、暁美ほむら、鹿目まどか{/netabare}、の3人でしょう。
 ここでは先ず、この3人について個別にその役回りを検討し、そのあと作品内容を要約します。
(※残りの2人については(※注釈)へ)

★美樹さやかへの《同情》 - 片想い少女の絶望の物語
{netabare}
 美樹さやかは、主人公鹿目まどかの一番の親友なのですが、映画前編(TV版第8話まで)では、本来の主人公である鹿目まどかではなく彼女の方が、①いち早く魔法少女になる決断をし、②まもなく魔法少女の実際の姿を知って苦悶し、③そして絶望してしまう物語、と受け取る方が適切なほどの活躍ぶりを見せます。
 美樹さやかは、この年代の少女に相応しく身近な恋をしており、その片想いの少年のために自分のたった一回の奇跡のチャンスを捧げてしまうのですが、少年は彼女の献身に全く気付かず、残酷にも彼女のもう一人の親友(志筑仁美※彼女もまた美樹さやかに知らず知らずに命を救われた存在です)の告白を受け容れてしまいます。

 もし『魔法少女まどか☆マギカ』が、この前編(TV版第8話まで)に描かれた《美樹さやかの絶望の物語》として完結してしまったとしても、私はそれだけで、総合評価 ★ 4.0 以上を付けたことでしょう。
 私たちが美樹さやかに抱く感情は、きっと、《同情》、すなわち、悲しい境遇にある他者に対する憐憫の感情(~は可哀想だ、という想い)でしょう。
 良くも悪くも、美樹さやかは、その感情や行動の推移が、魔法少女というよりは等身大の中学生少女であり、その点で彼女は私達が自分と同じ目線で物語を追える存在でしょうし、男であれ女であれ、さやかと似たような片想い経験のある方は、彼女の物語にとりわけ深く共感することでしょう。
{/netabare}

★暁美ほむらへの《共鳴》 - 病弱少女の誠実の物語
{netabare}
 映画前編が美樹さやかの失恋から絶望に至る感情推移を描いた物語だったのに対して、後編は、前編では殆ど謎だった暁美ほむらの感情推移と行動動機を描いた物語と見ることが出来るでしょう。
 しかし、美樹さやかの物語が、おおよそ私達の想定範囲内(私たちの日常生活でも起こりそうな感情推移の範囲内)のものだったのに対して、暁美ほむらの物語は、私達の想定を超える大きな振幅で彼女の変貌を描いています。
 美樹さやかは、鹿目まどかや志筑仁美という親友、そして上条恭介という身近な想い人のいる、普通に活発で明朗な女子中学生として描かれているのですが、暁美ほむらの場合は、もともとは心も体もか弱い、自分に自信が持てない臆病な少女、まどかの中学校に転校する直前まで心臓の病気で病院で寝たっきりの、これまで友達の一人も持った経験のない、まどかがいなければおそらく転校先のクラスでも浮いてしまう苛められっ子タイプの少女だったことが後編(TV版第10話)で明かされていきます。
 しかし、その病弱で臆病な少女が、自分のたった一人の「友達」のために、あらん限りの気力を振り絞って何度も何度も奮闘する姿が、いつの間にか私たちの心を激しく揺さぶるに至ります。

 もし『魔法少女まどか☆マギカ』が、この後編(TV版第10話まで)に描かれた《暁美ほむらの過酷な運命への抵抗の物語》として完結したとしても、私はその時点で、総合評価 ★★ 4.5 以上を付けたことでしょう。
 そして、その場合、私たちが、暁美ほむらに抱く感情は、きっと、《共鳴》、すなわち、悲しい運命に懸命に立ち向かう他者に対して、心から応援する感情(~よ頑張れ、という想い)でしょう。
 正直な話、私たちの多くは、『魔法少女まどか☆マギカ』を初めて鑑賞して、この暁美ほむらの誠実さに心を射抜かれて、この作品が大好きになってしまうのだと思います。
{/netabare}

★鹿目まどかへの《憧憬》 - 真打ちヒロインの降臨
{netabare}
 しかし、この作品の本当の奥深さは、ここを更に超えた地点にあります。
 私は、この作品を初見して、暁美ほむらの誠実さに感激して、TV版を5回以上おそらく10回近く通しで視聴し、それから劇場版が公開されると早速、前編・後編を毎週のように鑑賞しに出掛けたのですが、そうやって劇場通いをしているうちに、ふと、それまで余り深く読み取れてなかった鹿目まどかの決断に至る心情の描かれ方とその結末の見事さに魅了され始めて、改めてこの作品に感嘆の気持ちを強く持ちました。
 それはきっと、ラスボス魔女(ワルプルギスの夜)を前にして、魔法少女となったまどかが、「もう良いんだよ。そんな姿になる前に、貴方の想いは全部わたしが受けとめてあげるから」と呼びかけて、劇場スクリーンいっぱいにズームアップされていく、あの神々しいシーンを目の前にした時のことだと思います。
 私は別にキリスト教とか、その他何か特別な信仰をもっている、とかそういうことは別段ない人間ですが、もし神が降臨するとしたら、きっとこういう感じになるのかも知れない、と思わず《錯覚》してしまう、そんな不思議な魅力をこの作品から感じ取りました。
(※なお、ファンの間では魔法少女に変身したまどかは「まど神様」と呼ばれているそうです){/netabare}

★以上、3少女の描かれ方から見た《物語の要約》

(1) 『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 前編』(TV版では第8話まで)は、{netabare}「美樹さやかの失恋と絶望の物語」{/netabare}
(2) 『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 後編』(TV版では第9話以降)は、{netabare}「暁美ほむらの誠実と奮闘の物語」{/netabare}

・・・として、それぞれキッチリ完結していることを踏まえた上で、

(3) 作品全体としては、{netabare}「主人公・鹿目まどかによる魔法少女達の救済の物語」{/netabare}

・・・として確り成立。

☆補足説明(主人公=鹿目まどかの非凡さと、それが視聴者になかなか理解されない理由)
{netabare}------------------------------------------------------------------------------
 一見どこにでもいる平凡でおとなしい女子中学生と受け取られがちな鹿目まどかですが、注意して観察していくと、母親や父親、あるいは他の魔法少女たちとの関わり方のうちに、その非凡さの片鱗が確りと描き出されていることが次第に気づかされます。
 例えば、(劇場版では残念ながら省かれていますが)TV版での父親の言葉によれば、まどかの母親は「何かを達成することが夢なのではなくて、何かを頑張っている、そうした生き方そのものが夢である」人であり、まどかもまた母親のそうした生き方の影響を知らず知らずのうちに強く受けていて、序盤で、特別な願い事もなく、あっさりと魔法少女になることを決めた理由を、「マミさんみたいな魔法少女になれたら、それで困っている人達を助けられたら、それだけで私の夢は叶ってしまうんです」と、述べてマミさんを感激させるシーン。
 そして、その母親によれば、まどかは「悪いことはしない、いつも正しくあろうと頑張っている、もう子供としては合格だ」と褒められる自慢の存在なのですが、そうした、まどかの「正しくあろうとする」姿勢は決して独り善がりのものではなくて、ちゃんと周りの人達全員の言い分や願いや想いを推し量って、「それが必要であるとしたら、躊躇わずに行動できてしまう」(続編映画『叛逆の物語』での暁美ほむらの言葉)、全体にとっての最善への志向性を兼ね備えた特別な強さと優しさを持ったものなのです。

 そういう意味では、

(1) 美樹さやかが、心の強さ、という意味で一番平均的で等身大の存在、
(2) そして、暁美ほむらは、平均よりもずっと脆弱な心を隠し持ちつつ無理に無理を重ねて奮闘している健気な存在であって、

・・・それぞれ私たちの琴線に直接に響く、分かりやすいキャラクターであるのに対して、

(3) 鹿目まどかの場合は、平均よりもずっと心が強くて寛大な、特別な存在

・・・として、実は描かれていると思いますし、その特別さが、私たち視聴者に、なかなか鹿目まどかの魅力が理解されない原因となっている、と思います。

 以上、先に述べたように、私たちが、美樹さやかに抱く感情が《同情》であり、暁美ほむらに抱く感情が《共鳴》という、それぞれ身近な感情であるのに対して、私たちが、鹿目まどかに抱く感情があるとしたら、それは、《憧憬》、すなわち「自分もこのように、強く優しい存在でありたい」という感情なのだろうと私は推測します。
------------------------------------------------------------------------------{/netabare}

 そして -これが肝要なのですが- この《憧憬》は、きっとこの作品の制作者が抱いた感情だったと思うのです。
 結局のところ、制作者(※特に脚本家=虚淵玄氏?)の想い描いた鹿目まどかのイメージがどこから来たのか、を考えると、やはり{netabare}《聖書》に描かれたメシア(救済者)のイメージ{/netabare}・・としか答えようがないように思います。
 そうした作品モチーフの考察は本レビューの末尾にひと通りまとめました。

◆作品評価《まとめ》

 暁美ほむらの誠実を描いた時点(TV版の第10話まで)で、私は、既にこの作品はアニメとしては出色の「名作」と呼ばれるに相応しいものとなっていたと思うのですが、その先にさらに、鹿目まどかの決断を描き出したことによって、私は、この作品が、アニメに限らず、文芸ジャンル全体の中でも、特別に高くまた深い「傑作」となった、と個人的には評価しています。

 勿論、作品の評価は人それぞれのものであり、また、この作品の大ヒットには、製作者(※制作者ではなく)側のマーケティングの巧みさも当然あったのでしょうけど、それでも、これ程までに私たちを魅了してくれる作品を、放送しばらく後、および上映当時に鑑賞できたことを私は素直に喜びたいと思いますし、この作品の成功をベンチマークとして、今後さらなる高みを目指した作品が制作されていくことを期待したいと思います。

※以上で、TV版・劇場版に共通した、私の「まどマギ」への全般的な評価・感想を終わります。

(※注釈){netabare}
 序盤の華々しい活躍のあと突然退場してしまう中3の年長少女(巴マミ)と、少し遅れて登場し終盤手前で退場してしまう奔放少女(佐倉杏子)の二人の先輩格の魔法少女の感情推移については、外伝マンガ『魔法少女まどか☆マギカ ~The different story~』に詳しく描かれています。
 →これも、結末部分が若干ブレてしまっていますが作画・ストーリーとも傑作だと個人的には思っており、まどマギが気に入った人には特にお勧めです。{/netabare}

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◆制作情報
{netabare}
原作           Magica Quartet(新房監督/岩上プロデューサー/キャラ原案・蒼樹/脚本・虚淵4名の共同名義)
監督           新房昭之(※劇場版では総監督)、宮本幸裕(※劇場版監督)
シリーズディレクター 宮本幸裕
脚本           虚淵玄
キャラクターデザイン 蒼樹うめ(原案)、岸田隆宏
音楽           梶浦由記
アニメーション制作  シャフト{/netabare}


◆各話タイトル&評価

★が多いほど個人的に高評価した回(最高で星3つ)
☆は並みの出来と感じた回
×は脚本に余り納得できなかった疑問回

============ 魔法少女まどか☆マギカ (2011年1-3月、4月) ==========
{netabare}
第1話 夢の中で逢った、ような・・・ ★
第2話 それはとっても嬉しいなって ★
第3話 もう何も怖くない ★★ 驚愕回1
第4話 奇跡も、魔法も、あるんだよ ☆
第5話 後悔なんて、あるわけない ☆
第6話 こんなの絶対おかしいよ ★
第7話 本当の気持ちと向き合えますか? ★
第8話 あたしって、ほんとバカ ★★ 驚愕回2
第9話 そんなの、あたしが許さない ★
第10話 もう誰にも頼らない ★★★ 神回!
第11話 最後に残った道しるべ ★★★ 連続で神回!
第12話 わたしの、最高のともだち ★★ 見る度に美味しくなるスルメ回{/netabare}
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★★★(神回)2、★★(優秀回)3、★(良回)5、☆(並回)2、×(疑問回)0 ※個人評価 ★★★ 5.0

OP 「コネクト」
ED 「Magia」

※このように「まどマギ」は、第10話がアニメ史上最高レベルの神回、続く第11話も胸熱必至の神回で、さらに最終第12話は最初はピンと来なくても視聴を繰り返す毎に美味しくなってくるスルメ回なので、第1-2話を見て「絵柄や作風が自分に合わない」等の理由で断念してしまうのは本当に勿体ないです。

====== 劇場版 魔法少女まどか☆マギカ (2012年10月、2013年12月) =====
{netabare}
前編 始まりの物語 ★   ※TV版の第1~8話をほぼ新規作画で再構成/再録
後編 永遠の物語  ★★★ ※TV版の第9~12話をほぼ新規作画で再構成/再録
新編 反逆の物語  ★★  ※暁美ほむらのその後を描いた完全新作{/netabare}
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総合        ★★ 4.9

OP 「ルミナス」(前・後編)、「カラフル」(新編)
ED 「Magia」(前編)、「ひかりふる」(後編)、「君の銀の庭」(新編)
挿入歌 「未来」(前編)、「コネクト」(後編)、「misterioso」(新編)

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※以降は、よりマニアックな作品モチーフの考察です(長文注意)。

◆《聖書》をモチーフとする契約と救済の物語
{netabare}
 この大ヒットアニメからは、印象深い幾つもの名文句が生れたのですが、その中でも一番有名なのは

「僕と契約して、魔法少女になってよ」

でしょう。
 白い小動物の甘い囁(ささや)きに頷(うなず)いて、たった一つの願い事と引換えに魔法少女となった中学生たちは、彼女の魂であり魔法少女の証(あかし)でもあるソウル・ジェム(soul gem 魂の宝石)が①破壊され、または②濁りきって消滅する日まで魔女と闘い続ける過酷な運命を背負わされてしまうのですが、作品の序盤から終盤までこの小動物が繰り返し少女に持ち掛けるこの「契約」というキーワードが、この作品に他の作品にはない特別な雰囲気と意味合いを与えています。

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けい-やく【契約】 (広辞苑)
<1> 約束。約定(やくじょう)。平家物語(2)「日来の-をたがへず、参りたるこそ神妙なれ」
<2> (法) 対立する複数の意思表示の合致によって成立する法律行為。贈与・売買・交換・貸借・請負・雇用・委託・寄託などがその例。
<3> (宗) キリスト教で、神が救いの業をなしとげるために、人間と結ぶ恵みの関係。イスラエル民族に対してモーセを通じて結ばれた関係を旧約(旧い契約)、後にイエス=キリストによって結ばれた関係を新約(新しい契約)とする。
=========================================================================================

 「契約」と聞くと、私たちが通常、思い浮かべるのは、上記の広辞苑にある <2> 売買・貸借・雇用・請負など、①物品やサービス(役務)の受領(または提供)と引き換えに、②何がしかの代価を提供(または受領)する法的な約束(法律行為)なのですが、この作品で語られる「契約」は、そうした主に金銭を代価として結ばれる民法・商法上の行為ではなくて、広辞苑にある <3> 神(や悪魔)と人との間に結ばれる魂(たましい soul)を代価とした絶対的・宗教的な拘束のことです(そのためにこの作品をゲーテ『ファウスト』に喩える感想・批評が沢山書かれました)。

 キリスト教の《聖書》によれば、人類の祖アダムとイヴはエデンの園で、何ひとつ不自由なく、悩み・苦しみもない幸福な生活をおくっていましたが、サタンの化身である蛇がイヴを唆(そそのか)して禁断の知恵の実を食させてしまい、そのために彼らは神の怒りに触れて楽園を追われ、この地上で苦渋に満ちた人生をおくるはめに陥りました。
 そしてアダムとイヴの子孫たちも、祖先が犯したこの原罪を背負って、苦しみの生涯を送ることが運命づけられました。
(※ただしイスラエル民族だけは預言者モーセを通して、救世主(メシア)の到来により救済されることが約束された(これを旧約(=旧い契約)といいます))。
 しかし、やがてアダムとイヴの子孫たちの苦しみを哀れに思った神は、精霊となって聖母マリアの胎内に降り、神の子イエスとして地上に顕現し、新しい神の教えを人々に伝えたあと、彼を神の子と崇める全ての人の罪を贖(あがな)って自ら十字架にかかりました。

 このように、神の子イエスは人々の原罪を贖った救世主(メシア)であり、彼によって神と人との契約が更新された(これを新約(=新しい契約)といいます)、とするのが全てのキリスト教徒の根本的信条なのですが、『魔法少女まどか☆マギカ』は、この聖書の根本ストーリーにヒントを得て、そのストーリー・ラインが構成されている、と指摘することは、決して突飛ではないでしょう。

すなわち、

(1) 白い悪魔(QB)に唆されて「契約」によって魔法少女になった少女
≒命ある限り悩み苦しまなければならない、という「原罪」を背負わされたアダムとイヴの子孫に相当

(2) 魔法少女たちの運命を哀れに思った一人の少女(鹿目まどか)が、古今東西の魔法少女達の絶望を一身に贖(あがな)う救世主(メシア)となる=古い「契約」の結末部分の改変=「円環の理(ことわり)」の挿入
≒救世主イエスによる新しい「契約」の挿入に相当

※因みに、鹿目まどかが、いよいよ魔法少女になるシーンで、QBは「君は本当に神になるつもりなのかい?」と驚きを露わにし、これに対してまどかは「神様だって何だっていい・・・」と応えており、また、この作品の続編である『魔法少女まどか☆マギカ -叛逆の物語-』では、鹿目まどかの救済の力の及ばない結界内の世界で、子供姿の使い魔たちが「Gott ist tot. 神は死んだ」と囁くシーンが繰り返し描かれています。
※※なお、「Gott ist tot.神は死んだ(=God is dead.)」は、19世紀末ドイツの哲学者ニーチェによる哲学小説『ツゥラトゥストラはかく語りき』にある有名な文句で、ニーチェはこの書物の中で、キリストによる救済を完全に否定し、「永劫回帰」という暁美ほむらの救いのないループをイメージさせる仮説(死後の救済など虚であり、私たちは同じ苦しみの人生を果てしなく繰り返すだけである、とするアイデア)を提唱しています。{/netabare}

◆バッドでもハッピーでもない、《ビター(bitter ほろ苦い)な結末》
{netabare}
 「まどマギ」以前のアニメで、《聖書》(らしきもの)をモチーフとするストーリー展開で私たちを何かしら深い沈黙に誘う作品として有名なのは、『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年~97年制作)でしょう。
 確かにエヴァンゲリオン(旧作)には、傑作と呼ばれるだけの魅力があったのですが、ただ、今の私たちの眼から見ると、この作品は、たかだか一人のセンシティヴな(sensitive 感受性の強い)少年の煩悶という private(私秘的)な世界の描写に終始しており、残念ながらそこからの昇華を見ることはできませんでした(むしろ、出口を全く見つけられない徹底的な閉塞状況の描写が、当時は受けた、とも言えるのですが)。

 これに対して、時代が下った「まどマギ」では、少女のセンシティヴでプライベートな煩悶を、ジェネラス(寛大)なより大きな存在が包み込んで昇華させる、という新たな解決策 -全ての問題が丸く収まって全員が直ちにハッピーになれるような解決策ではなく、あくまで古いシステムの最悪の結果を回避するという部分的な解決策ですが- が示されました。

 バッドエンドではないけれども、ハッピーエンドとまでは言い切れない、こうしたほろ苦さの残る結末をビターエンド(bitter end)というのだそうです。

 「まどマギ」が、ビターな結末となったことについては、これでは全然不十分であり、もっと根本的に魔法少女システム全般の問題が解決される、文字通りのハッピーエンドが望ましかった、とする意見も多いようです。
 しかし、これについては、「まどマギ」のモチーフとなった(と思われる)、《聖書》の救済のストーリーそのものがビターエンドでしかないわけで、それを参照した「まどマギ」がビターエンドになるのはむしろ自然なことではないか、と私は考えています。

 《聖書》でいえば、悩み・苦しみの生涯をおくる、という人間の背負わされた原罪の結果そのものは、イエス=キリストの降臨の前も後も、全く変わらないのです。
 変わるのは、悩み・苦しみながらも義に殉じて生きた人が、その生涯の最期に、神の恩寵により原罪を贖われ(※あがなう=罪を免じられる、の意)、最後の審判の後に天国に迎え入れられる、という「新たな約束(=新約)」が救世主(メシア)から授けられたこと、の一点です。

 「まどマギ」でいえば、奇跡を手に入れた代償として魔女(改変前)ないし魔獣(改変後)と闘い続けなければならない、という魔法少女の運命そのものは変わらないのです。
 変わるのは、魔獣との闘いの果てに絶望に沈む寸前となった魔法少女が、その最後の希望である「円環の理」に導かれて、魔女化(=絶望)を免れて消滅する、という一点です。{/netabare}

◆心をつなぐ(connectする)《約束》
{netabare}
 上に述べたように、白い小動物(QB)は、少女たちに言葉巧みに「契約」を持ちかけるのですが、実はこの作品中で、ストーリー展開のキーパーソン(暁美ほむら)が何よりも大切に思い、全身全霊を込めて果たそうとしているのは、この強制的な拘束力を持つ「契約」ではなくて、彼女と「友達」との間に private(私秘的)に交わされた、果たされる何らの保障もない只の「約束」の方です。

 ここでOP「コネクト」の歌詞を確認しておきましょう。

作詞・作曲 渡辺翔
歌唱     ClariS
{netabare}
<1番>
交わした約束忘れないよ/目を閉じ確かめる/押し寄せた闇 振り払って進むよ
いつになったらなくした未来を/私ここでまた見ることできるの?
溢れ出した不安の影を何度でも裂いて/この世界歩んでこう
とめどなく刻まれた 時は今始まり告げ/変わらない思いをのせ/閉ざされた扉開けよう
目覚めた心は走り出した未来を描くため/難しい道で立ち止まっても/空はきれいな青さでいつも待っててくれる/だから怖くない/もう何があっても挫けない

<2番>
振り返れば仲間がいて/気がつけば優しく包まれてた
なにもかもが歪んだ世界で/唯一信じれるここが救いだった
喜びも悲しみもわけあえば強まる想い/この声が届くのなら/きっと奇跡はおこせるだろう
交わした約束忘れないよ/目を閉じ確かめる/押し寄せた闇 振り払って進むよ
どんなに大きな壁があっても/越えてみせるからきっと/明日信じて祈って

<3番>
壊れた世界で彷徨って私は/引き寄せられるように辿り着いた
目覚めた心は走り出した未来を描くため/難しい道で立ち止まっても/空はきれいな青さでいつも待っててくれる/だから怖くない/もうなにがあっても挫けない
ずっと明日待って{/netabare}

 この「約束」は、3回目のループ時に、一つだけ残ったグリーフシードで暁美ほむらのソウルジェムを浄化した鹿目まどかが、「QBに騙される前の馬鹿な私を助けてくれないかな・・・」と尋ねて、ほむらが、「約束するわ、きっと貴方を助けてみせる。何度繰り返すことになっても」と涙ながらに返答した、その一回きりの果かない約束のことなのですが、これを果たすために、暁美ほむらは、自分のたった一人の「友達」であり自分が守る対象である鹿目まどか本人からも誤解され、まどかの「親友」美樹さやかや「憧れの先輩」巴マミかは疎んじられる羽目になっても、まどかに、もう二度と魔法少女「契約」をさせまいとして、心を鬼にして一人孤独な奮闘を繰り返すことになります。
 この3回目ループ時が、暁美ほむらにとって、まどかとの「約束」が自己の行動目的となり、QBとの「契約」がその目的を達成するための手段となった瞬間であり、彼女にとって、まどかとの「約束」が交わされた(=心がつながった=CONNECTされた)この瞬間が、最大の苦しみを味わいながらも、同時に彼女が最高の幸福を感じた瞬間だったように私には見えました。
 これ以降のほむらは「まどかを守るために生きる」、自分にとっての「絶対的な正義」に殉じた、良くも悪くも張りつめた時間をおくることになるのですが、しかし、こうした充実した時は長くは続きません。
 暁美ほむらは、自分がループを繰り返せば繰り返すほど、自分が守ろうとしている鹿目まどかの因果が深くなり、彼女の絶望までもが深くなってしまうことを、やがて悟ります。

 幾度となく繰り返された時間遡行の果てに、遂に「自分はまどかを救うことは出来ない」「自分のやって来たことは無意味だった」ことを思い知らされて絶望の淵に立たされたほむらの前に、魔法少女の全ての希望と絶望を知ったまどかが現れて・・・

 「ごめんね、ほむらちゃん。私、魔法少女になる」

 こうして「約束」は、提案者のまどかの方から破棄され、彼女の願いによって魔法少女の絶望は回避されることになります。{/netabare}

◆「約束」が破棄された世界と《ほむらの本当の願い》
{netabare}
 まどかが「円環の理」となった後の世界に残された暁美ほむらは、「まどかが守ろうとした世界だから、私もこの世界を守る」という新たな決意のもと、魔女に代わって世界に禍いをもたらすことになった魔獣との闘いを続けるのですが、彼女のこの決意には、どことなく嘘っぽい、心ここにあらずといった投げやりな雰囲気が漂っていました。
 TV版ラストの魔獣の群れへのほむらの無謀な突入は、もうこんな世界から離脱したい、消えてしまいたい、という、彼女の焼けっぱちの本音が露わになった瞬間のように、私には見えました。
 ここで、私たちが改めて思い起こすべきは、ほむらがQBとの魔法少女「契約」を受諾した、その最初の願い(=ほむらの本当の願い)が何だったのか、という事でしょう。

 「私は鹿目さんとの出逢いをやり直したい。鹿目さんに守られる私ではなく、鹿目さんを守る私になりたい」

・・・結局、これが、ほむらの初心であり本心だったんですね。
だとしたら、続編映画『叛逆の物語』のあの結末も、この願いの内に実は胚胎していた、と考えるのが妥当ではないでしょうか。{/netabare}

◆《まとめ》①ストーリー展開の面白さと、②登場キャラの心情推移の説得力を両立させた名作
{netabare}
以上の考察から、私は、この作品が

①単にストーリー展開が予想外で興味深いだけでなく、
②登場キャラクター全般(とくに主役の2人-鹿目まどかと暁美ほむら-)の心情推移の説得力が、このTV本編だけでなく続編『叛逆の物語』も含めて、稀に見るほど高いこと

を強く指摘しておきたいと思います。
通常は、

<1> ①ストーリー展開が予想外に面白い作品は、②登場キャラの心情推移がストーリーに振り回される格好になってどうしてもチグハグになりがちであり、
<2> 逆に、②登場キャラの心情推移が的確で説得力に富む作品は、②ストーリー自体は起伏が少なく面白みに欠けるものになりがち、

・・・なのですが、本作はこの二つを見事に両立させていると思います。

私が本作に、個人的に最高評価 ★★★ 5.0 を与える理由です。{/netabare}


*(2018年10月7日) 制作情報等を追加
*(2018年10月9日) 段落等を修正・劇場版情報等を追加

投稿 : 2018/10/10
閲覧 : 1566
サンキュー:

107

World さんの感想・評価

★★★★★ 4.3
物語 : 4.5 作画 : 4.5 声優 : 4.0 音楽 : 4.5 キャラ : 4.0 状態:観終わった

落差で魅せる作品

最初の印象からの落差を楽しむ作品。

ほのぼのからのシリアス、鬱、からの感動という、最近の作品を見ればまぁまぁありきたりなストーリー展開なのだが、その落差はFUZIYAMAレベル。
ここまでの落差を、伏線を張りながら演出したのは流石だと感じた。

基本的に鬱→感動は楽。それっぽいことを言わせて、自己犠牲解決でOK。
ほのぼの→感動も楽。それっぽい悲劇系エピソード挟んで、解決でOK。なんなら登場人物が死ぬだけで成立する。
でも、ほのぼの→鬱→感動はかなり難しい。それを、無理なく伏線も回収して行うのは素晴らしい。

ただ、結局何?と少しだけなってしまった。

後は貴方で考えてください!のスペースが多過ぎて、見終わった後の余韻があまりなかった。

すげぇ!すげぇ!終わり!って感覚でした。


でも、凄い事に変わりは無いので普通にオススメです。

2018 10/6

もう一度全て通して視聴しました。微上方修正します。
1話1話区切って見るより、一気に見た方が遥かに面白い作品ですね。
話のテンポが悪くなりそうな部分は、殆ど最後に切って、後は脳内補完してくださいってスタンスだからかもしれません。

後、物の見せ方がとても秀逸でした。
これは、シャフト作品全般に言える事かもしれませんが、物と場所を関連付ける事によって、その場所全体を映さなくてもどこなのか分かるように工夫がされています。
その為、絶対にあり得ないようなデザインの家具や構造になっていたりしますが、それによって無駄な部分を極力省くことが出来ているので、テンポが良いです。
又、キャラそれぞれにも割り当てられた色とアイテムがあるので、上記と相まってとても分かりやすいです。

キャラに関しても、上方修正しました。
この作品は、おそらく、おそらくですが、着地点を決めてからその内容を考えていったのだと思われます。
終わりをかっちりと決めておいて、それに見合う内容にしていく。といった形だと思います。
というか、設定考えてからキャラクター動かしたらこうなりましたって作り方だったらもう天才過ぎてヤバいです。

で、その作り方だと、キャラが薄くなりがちなんですよね。
終わりを想定して動かすので、都合の良い様に動きがちだし、要所要所も動かされてるように見えてしまうことがよくあります。

でも、この作品のキャラクターは、自らの個性と感性で動いていると感じることが出来るので、共感する事ができます。
この難解なストーリーで、個性を出すのは相当難しいです。
素晴らしいと思います。


これから視聴する方は、なるべく一気に見ることをオススメします。

投稿 : 2018/10/07
閲覧 : 251
サンキュー:

15

8’ さんの感想・評価

★★★★★ 4.5
物語 : 4.5 作画 : 4.5 声優 : 4.5 音楽 : 4.5 キャラ : 4.5 状態:観終わった

正義と悪

中二病みたいなタイトルになってしまいましたが
本当に正義と悪ということに考えさせられました。(もちろんキャラは最初から最後まで可愛いですほとんど)

今もし誰かに傷つけられたと思っていたり
意見が合わない相手がいる人がいたら是非見て欲しいと思います。解決するかもしれません。


(あと物理の勉強してる人にもオススメです。)

とても泣けて良いお話です。一人でも多くの人に見てもらいたいです。

投稿 : 2018/10/06
閲覧 : 174
サンキュー:

6

K さんの感想・評価

★★★★★ 5.0
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

マギレコアニメ化待機

元祖釣りアニメにして考察アニメの頂点
この頃はオリジナルアニメは売れないと言われておりこの作品をきっかけにオリアニならではの先の読めない展開が視聴者にヒットして現在では多くのオリアニが制作されるようになりました。アニメ界に残る素晴らしい功績の一つでしょう

投稿 : 2018/10/01
閲覧 : 318
サンキュー:

4

ネタバレ

ミュラー さんの感想・評価

★★★★★ 4.8
物語 : 5.0 作画 : 4.5 声優 : 4.5 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

すばらしい

過去見たどんなアニメ、物語と比較して、これに勝るものはない。衝撃を受けた。これほどすばらしい脚本は無いと思う。この作品ほど、何度も見返したことはない。


---2018.9
放送からもう7年過ぎましたか。今日また新たな事実を。{netabare}「ひとりぼっちは寂しいもんな・・」の杏子とさやかが爆死してしまうシーン。テレビ放送では無かったが、DVDや劇場版では、二人の隠し絵が差し込まれているということで、いそいで確認しました。あった!感激!{/netabare}
このシリーズ、第10話が最高だと思っていますが、9話もいいですねえ。というかすべていいんだけど。

投稿 : 2018/09/20
閲覧 : 374
サンキュー:

21

退会済のユーザー さんの感想・評価

★★★★★ 4.4
物語 : 5.0 作画 : 4.5 声優 : 3.0 音楽 : 5.0 キャラ : 4.5 状態:観終わった

魔法少女とかどうせロリコンアニメだろ・・・とか言ってすんませんでした系

【総評Aランク】
S:特別好きなアニメ A:かなり良い B:なかなか良い C:普通 D:微妙 E:くそ

魔法少女と聞くと一歩引いてしまう自分ですが、あまりに話題になっていたので見てみたら・・・
これはスゴイwすばらしいの一言!なるほどたしかに文句なしの90点台だなという出来
ループものの代名詞といえばコレでしょう
シャフト独特の絵本の中に入ったような世界観が特徴的でこういうアニメにシャフトは抜群に合うなと思いましたね

1クールにうまくまとめられていて、一つの物語としてのあまりの完成度の高さにビビりました
ものすごくスケールのでかい宇宙規模の魔法、概念系の話ではありますが、
一人一人の心理描写、友情、物語のつながりが上手く観てる側を絵本の中に引き込むような作品
えええーっ!と言う展開にハラハラして、鬱要素を含むダークなスパイラル感につい感情移入してしまいますね
いやー、ほんと良く1クールで描ききったなあと、ラストも好きだしだらだらやらなかったのが良かった
魔法ファンタジーアニメで四天王を選ぶとしたらまず選出されるアニメでしょう
あと僕が一番好きなのはほむらですねー、友情のためにひたすら一途でカッコイイ!

ただ、自分は1話と2話がものすごーーーく苦痛で殴りたくなりましたし同じような人もいるでしょうが
とりあえず3話まで見てから切るかどうか決めたほうがいいです
そこでこのアニメの方向性が少し分かってきます
今となってはまた観たい作品の一つですね

つかキュウベエぶちのめしたいズタぼろに!!首の骨ヘシ折っていいですか?

投稿 : 2018/09/18
閲覧 : 447

ザカマン さんの感想・評価

★★★★★ 4.1
物語 : 5.0 作画 : 4.0 声優 : 3.5 音楽 : 4.0 キャラ : 4.0 状態:観終わった

ヤバい

3、4話あたりからこのアニメの、いろんな意味での「ヤバさ」を感じてきて

そして、後半からかなりヤバくなり

最後は完全にヤバくなっちゃった(笑)

投稿 : 2018/09/10
閲覧 : 289
サンキュー:

6

ミチツキ さんの感想・評価

★★★☆☆ 2.7
物語 : 3.0 作画 : 3.0 声優 : 1.0 音楽 : 3.5 キャラ : 3.0 状態:途中で断念した

う〜ん...

内容と絵のギャップが良いという人が多いのだろうが、自分は内容と絵のギャップを好きにならなれなかった。まぁそこが売りなんだけどね。
だからこの作品は好みの分かれる作品だと思う。

投稿 : 2018/09/07
閲覧 : 196
サンキュー:

5

塩谷ナオ さんの感想・評価

★★★★☆ 4.0
物語 : 4.5 作画 : 4.0 声優 : 3.0 音楽 : 4.0 キャラ : 4.5 状態:観終わった

願いを叶えた代償として魔女と戦う宿命を負う少女達の物語り

全12話・原作なし

一番の良い所:3話から急展開でストーリー重視。10話(過去編?)が切ない

一番の悪い所:最終話、特にラストは少し理解し難い演出でした

感想:キャラデザからは予想外に少し重い内容で見応えあります

投稿 : 2018/08/25
閲覧 : 415
サンキュー:

9

しろくま さんの感想・評価

★★★★★ 4.1
物語 : 5.0 作画 : 3.0 声優 : 5.0 音楽 : 3.0 キャラ : 4.5 状態:観終わった

(ノ∀≦。)ノオモロイ

起承転結がしっかりしてる。戦う意味をずっと模索して最後にそれを見出したときの圧倒的強さがまたいいラストだった。

投稿 : 2018/08/22
閲覧 : 219
サンキュー:

3

ネタバレ

mr.po さんの感想・評価

★★★★★ 4.9
物語 : 5.0 作画 : 4.5 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

私の知る中で最高の作品

私がアニメにハマるきっかけとなった作品


3年ほど前

深夜アニメを見たことがなかったのですが、後輩に3話まで見てつまらなかったら

謝るとまで言われたので視聴しました

アニメの耐性の無かった私にとって2話までは正直苦痛でしたが

3話の例のシーンで心を鷲掴みにされました

そのあとは気付いたら次の日の仕事に行く前まで

一気に見てしまうほど夢中になってました

そして、今や通算10回は見返したほどに好きな作品となりました

この作品をきっかけにアニメ熱が生まれ

気が付いたら3年で150作品位は視聴することになるくらい

アニメの世界に引き込まれました

この作品との出会いが私の人生を変えたと言っても過言ではありません

3年ほどアニメを見ていて、好きな作品はいくつもできましたが

魔法少女まどか⭐︎マギカの3話初めて見たときを

超える衝撃をまだ感じることができていません

今後この作品を超えるお話に出会えること期待して様々な作品を

視聴していこうと思います

投稿 : 2018/08/15
閲覧 : 150
サンキュー:

7

ひうぜき さんの感想・評価

★★★☆☆ 2.8
物語 : 2.0 作画 : 3.0 声優 : 3.0 音楽 : 3.0 キャラ : 3.0 状態:観終わった

色んなアニメなどの寄せ合わせ

少女革命ウテナのオマージュアニメ、ウテナを体現している「バーチャルスター発生学」の歌詞を読めばわかること
このアニメ、円環って言葉を理解して使ってるのか疑わしい

投稿 : 2018/08/14
閲覧 : 321
サンキュー:

3

宇宙開発長門有希 さんの感想・評価

★★★★★ 5.0
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:----

傑作です

日本人が潜在的に持っている死生観を物語にしたアニメだと思った。
身を投げ捨てて日本を守ろうとした特攻隊に通じるものがあるね。
ただ女性にもこういった純粋性があるとは気づかなかった。

個人的には、キュゥべえは世界を支配するユダヤ財閥と捉え
魔法少女をその支配に抗う神風特攻隊として見てた。

ホムラちゃんのワルプルギスの夜の戦闘シーンは素晴らしすぎる。

最も心が動いたアニメの一つ。

投稿 : 2018/08/07
閲覧 : 290
サンキュー:

12

シグマk さんの感想・評価

★★★★★ 5.0
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:----

歴代でも指折りの作品!

この話は無駄な部分がないと言ってもいいぐらい
少なく、3話から怒濤の展開が続きます。
よく12話で収めれたなーと感じました。
一度見ただけで話を完璧に理解できる人はかなり
少ないと思うぐらい深い部分までつくられて
います。
そういう意味でも万人受けはしないかも
しれませんが、作品自体はすごいと思います。
もし、何で人気があるかわからない人が
いれば、よく考えてみてください。
何度見ても楽しめる傑作でした。

投稿 : 2018/08/03
閲覧 : 197
サンキュー:

8

ヒナ さんの感想・評価

★★★★★ 4.9
物語 : 5.0 作画 : 4.5 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

精巧に作られた物語!

キャラといいop ed といい最高に良い。
魔法少女ってだけでお子様扱いして見ないのは勿体ないですし、かなり内容は精巧に作られていて面白い。なかなか言葉では表現できないがとにかく凄い。映画版もまた驚きを与えてくれる。これはオタク界の王者ですね。

投稿 : 2018/08/01
閲覧 : 214
サンキュー:

8

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魔法少女まどか☆マギカのストーリー・あらすじ

市立見滝原中学校に通う普通の中学2年生の鹿目まどかは、ある日不思議な夢を見る。そこは少女が魔法で戦う異世界。その少女の戦いを目撃する自分と、謎の白い生物に「僕と契約して魔法少女になってほしい」と告げられる夢であった。翌朝、見滝原中学へ転校してきたのはなんと夢で見た美少女の暁美ほむらだった。ほむらは、まどかに「魔法少女になってはならない」と警告する。
放課後、親友の美樹さやかとCDショップへ行ったまどかは謎の声に呼ばれ、ビルの一角へ迷い込む。そこで見たものは夢の中で見た生物キュゥべえの傷ついた姿と、それを殺そうとするほむらの姿だった。まどかとさやかは戸惑いつつも、当たり前の優しさからキュゥべえを助けるが、直後に今度は本当に異世界へ迷い込んでしまう。魔女の使い魔と称される化物達に囲まれた2人を救ったのは、同じ中学の3年生でキュゥべえと契約した魔法少女の巴マミだった。事後、改めてキュゥべえに「魔法少女になってほしい」と告げられたまどかとさやかは、思いがけない好機に興奮する。だが、それは2人が直面する様々な苦難の始まりであった。(TVアニメ動画『魔法少女まどか☆マギカ』のwikipedia・公式サイト等参照)

放送時期・公式基本情報

ジャンル
TVアニメ動画
放送時期
2011年冬アニメ
制作会社
シャフト
公式サイト
www.madoka-magica.com/tv/
ニコニコチャンネル(配信サイト)
ch.nicovideo.jp/channel/ch260
主題歌
≪OP≫ClariS『コネクト』≪ED≫Kalafina『Magia』

声優・キャラクター

悠木碧、斎藤千和、水橋かおり、喜多村英梨、加藤英美里、野中藍

スタッフ

原作:Magica Quartet、キャラクター原案:蒼樹うめ、 監督:新房昭之、シリーズ構成・脚本:虚淵玄、キャラクターデザイン:岸田隆宏、シリーズディレクター:宮本幸裕、総作画監督:谷口淳一郎/高橋美香、アクションディレクター:阿部望/神谷智大、異空間設計:劇団イヌカレー、レイアウト設計:牧孝雄、美術監督:稲葉邦彦、美術設定:大原盛仁、色彩設計:日比野仁/滝沢いづみ、ビジュアルエフェクト:酒井基、撮影監督:江藤慎一郎、編集:松原理恵、音響監督:鶴岡陽太、音響制作:楽音舎、音楽:梶浦由記

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