Progress さんの感想・評価
5.0
物語 : 5.0
作画 : 5.0
声優 : 5.0
音楽 : 5.0
キャラ : 5.0
状態:観終わった
もののけ姫 レビュー
毎回登場人物の動きから感想を書いているので、今回は私なりに見た世界設定から感想を書こうとおもいます。
まず、始まりの場所、アシタカの村(エミシの村)。この村は大和の国との争いの後蝦夷に逃げ込んだとされる一族で、争いから500年、一族も老いてきており、緩やかな死に向かっているとされています。
エミシは、実際に存在した蝦夷の人々で、アシタカが海を越える描写がなかったことから、北海道ではなく東北に位置していた蝦夷の民族だったとは思うのですが、あまり蝦夷に詳しくはないので、それ以上はよしておこうと思います。
彼らの文明レベル的に想像されるのは、外界との接続を500年遮断しているために、新しい血が入ってきていないのではないか、という事。
彼らの文明は、髪型、信仰、鉄の普及、衣食住の生活スタイルが、後のストーリーで登場するたたら場や侍(たたら場に敵対する武士勢力)に比べてかなり遅れていることが伺えます。そこには、あらゆる外界の訪問者を拒絶したか、または入ってこれないような土地に住んでいたと思われます。文明レベルが上がらないのと同時に、外界からの影響が何かしらあって一族が弱体化したか、血が濃くなったから弱くなったか。エミシの村に住むカヤは、アシタカを「あに様」とよぶが、許嫁であり、近親での結婚が多かったのかもしれません。(実の兄弟ではないが、兄弟で呼び合うような近い存在として生まれ育った想像がされます)
次は、たたら場を中心とする、本作の舞台となる人間社会。まず、たたら場は、川に面して砂鉄を取る拠点かつ砦になっています。たたら場を構成する建築材のほとんどが木でできており、たたら場に面した山の斜面の木がとりつくされていることが伺えます。この斜面が、猩猩と呼ばれる物の怪が木を植えても狩られるという場所だと思われます。斜面の木を伐りすぎると、土砂崩れの可能性が高まるのですが、あそこまで徹底的に木をなくすのは、なにか破壊を象徴させる意図を感じてなりませんが、いずれにしろ、鉄を取るために、森を切り取ったという意味を感じると思います。
さて、たたら場の中に入っていきますと、大きな炉によって砂鉄を溶かしています。砂鉄は外の川に面した場所で、土と砂鉄を振り分けています。
炉の温度について、たたら場で働く女性たちが気にしているのは、炉の温度の低下によって、鉄が炉内で固まると、詰まって取り出せなくなり、炉自体が使えなくなってしまうからだと思われます。
あの炉で鉄を取り出すという行為に用いられる、燃料としての木の量は、石炭のないあの時代では計り知れないものがあり、鉄を作るという行為自体に膨大な木を必要とする意味で、家を作るだけで森を切り崩すわけではないという意味が入っているんでしょう。
たたら場で目に付くのは、牛飼い、タタラ者、石火矢衆などの部隊という戦略。アシタカの住む村では、男衆であるとか、男女で役割が異なるくらいの人の分け方しかなかったのですが、人の能力や修練を積んだ人間を集めて、集団的行動を取らせる違いがあります。これはアシタカの村との時代の差もあるのでしょうが、人の多さによる役割分担を決めておかないと、機能しない、村と国の違いを表しているのではないかなと思います(事実、ラストシーンで「ここを良い村にしよう」とエボシ御前に言わせるあたり、村と国の違いを事前に描きたかったのではないでしょうか)。
さらに米を輸入するという部分にも着目してみます。たたら場の人間は、自分で食料を自然から調達もしくは農作物で調達することができない。アシタカの村はできる。ここにおいて、文明が発達することで得られた便利さと失ったものがあるのかも。自分で農作物を作ることで、自然と向き合い、自然と戦ったり恩恵を受けたりする過程を踏むことが、国と村の差として示しているかもしれないですね。
自作から離れたたたら場の人々は、自然とニュートラルに接する場所がなくなり、自然をただの敵と考える思想に若干染まっているのではないのかと見て取れる気がします。
さて、次は、もののけ姫の住む、シシ神の森について。
森というのは、本来はコミュニティではありませんよね。
ですが、人語を介すような物の怪と呼ばれる者たちが、そこに同種族の者たちで集まり、他種族の動物と共存するコミュニティを形成しています。
種族としては、山犬、猩猩、猪。そして、信仰対象としてのシシ神。
シシ神の森がコミュニティとして認識されているのは、もののけ姫が、姫という役割を負っていることからも、ある程度の社会として、エボシ御前には見られているのだと思います。
猪が滅びゆく種族、一族という点において、アシタカの村と状況が似ており、アシタカの行動にも幾ばくかの影響を与えているかもしれません。
乙事主に関しては、海を渡ってきたことが示されており、もののけ姫の世界と外界との接続をしめしています。たたら場で言えばエボシ御前などの支配層が帝との繋がりを持っており、外界の世界設定を広げて見ると、エボシがどこから来たのか、何故たたら場に戻らずにシシ神討伐を続けたのかなどの理由、世界状況がまた詳しくわかってくるのでしょうね。
物の怪というのが、人語を介するという点では、人間によって生まれた存在というのがわかります。動物なら、サンと動物たちは人語でコミュニケーションを取れず、やはり物の怪というのは人間のエゴの視点からそう見えているだけのように思えます。
物の怪は、そもそもは森に暮らす者たちであり、「物の怪」という言葉が持つ、人間に敵対する存在というポジションは、人間たちが与えたものではないでしょうか。
大和によって元の生活圏を追われたエミシの一族の末裔であるアシタカという立場だからこそ、人間によって森(生活圏)を奪われる物の怪の立場を保とうとする、共に生きる道を探そうとしたのかもしれません。
アシタカは呪いのために、村から旅立たされており、村を守ったのに見送りもなく追いだされるという理不尽を感じた心を持っているのですが、決して彼は自分のいた場所を否定していません。エミシの村の近くにもコダマのいる森があり、アシタカのシシ神の森への接し方はそこに倣ったものです。彼は掟に従うという村からの仕打ちに傷つきながらも、自分の村で習った自然に対するしつけや教育を基盤に、森と人がともに生きる答えを出したのだと思います。
アシタカの序盤で印象的なのは「里に下りたのは間違いだった」という、人と接する事を極端に避ける事です。これは、エミシの村が外界の人間と接触することを避けてきたことを示しているように感じます。
しかし、アシタカはその後もたたら場で人と接触しており、彼は彼なりに、エミシの村と違う道を選ぶことを意識していたのだと私は思います。かつて大和と戦い、外界と断絶することを選んだエミシを全肯定するのではなく、彼は外界との共存という道を選んだのではないのでしょうか。だから、彼はエミシの村に帰ることはなかったのかもしれません。
世界観設定について、私の見方を書かせていただきました。シシ神に住む物の怪のコミュニティと、たたら場に住む人間のコミュニティの対立に、なぜあのような道をアシタカが選び干渉したのか、なんとなく今回新しい事を感じれたと思います。
また、作品の魅力は、アシタカの「そなたは美しい」などの強いセリフ、シシ神に傷は癒されても呪いを解いてもらえなかったアシタカの絶望感、もののけ姫が屋根から落ちた後に刀を曲げながら進むアシタカの強い怒りを表現した映像、奇妙かつ神秘的なシシ神の森の持つ強度のある世界観など、総合力の高い作品だからこそ、今まで言葉にしづらく、しかしながらも私の記憶に深く刻まれた作品なのだと思います。
アシタカの呪いについてや、もののけ姫に関することなど、考えられる事、もっと詰められることはまだまだあるのでしょうが、それはまた、次の視聴時の楽しみに取っておきます。
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