薄雪草 さんの感想・評価
4.7
物語 : 4.5
作画 : 5.0
声優 : 5.0
音楽 : 4.5
キャラ : 4.5
状態:観終わった
人は何に奉じるのか
まぁ、人を選ぶ作品だと思いました。
興行は国内10億円(延べ70万人)、アメリカでは1.2憶円(Wikiより)。
興行収入では大ヒットの目安が10億円なので、ギリ滑り込んではいます。
押井監督は50億を見込んでいたそうですが、私はやっぱり人を選ぶ作品に仕上がっていたと思います。
公開は2004年。奇跡的ではあるけれど、劇場で観た記憶があります。
映像美が凄かったし音響も凄まじかった。何よりシナリオに圧倒されました。
おかげでしばらくは頭の中がカンカン鳴っていました。
あの頃を振り返りつつ、今の私の脳を少しばかり比べてみようと思います。
~
まず第一関門。
とにかくやたらめったら引用文が多い。格言、箴言のオンパレードです。
初見ではちんぷんかんぷん。仮に知っててもシナリオに紐づけようものなら、脳みそがみるみる加熱すること請け合いです。
その結果、セリフを何度も聞き直す(観なおす)ハメに。
メモと辞書を突き合わせてシナリオを追いかけるハードワーク。
凝った作品だなという記憶が強く残りました。
もちろん今でも同じ印象です。
第二関門。
前作の攻殻機動隊のシナリオを踏んでいるし、キャラにも見覚えがありますが、「攻殻機動隊」のフレーズはどこにも見当たりません。
もはや別モノと言ってもいいくらいテーマ性が違います。
表層は電脳をモチーフにした難事件に立ち向かう機動隊には間違いありません。
中層は人間の生と性の業の深さが配置され、電脳への不遜と浅ましさが描かれます。
深層では児童虐待と女性蔑視が横たわっています(世界観設定がほんの8年後、2032年とは驚きです)。
そのうえでイノセンス=純真無垢、天真爛漫が、結語として提示され視聴者に訴求されます。
受け止め方はいろいろでしょうが、皮肉なのか当て擦りなのか、とにかく気持ちが萎えてしまいました。
第三の関門。
本作のコアには、強者と弱者が構造化されています。
ガイノイドが人間を殺すというのは、アンドロイドが人間を殺すのとは少し意味合いが違うというか、印象が変わるように思います。
ガイノイドは女性型玩具用アンドロイドを指し、本作ではセクサロイドに特化するものとして俎上しています。
女性性へのおぞましい消費が、男性生への反語として犯罪利用されるというわけです。
男性は心を痛めるでしょうか。それを私は喝采はしませんが・・。
第四の "関門" 。
20年たってようやく追いつけた感が私の実感です。
それだけ先見の目が未来のカタチを深く抉っていたという理解です。
あと8年も経てば、おそらくAIがゴーストの代替となりうるでしょう。
ならば不気味の壁を乗り越えたガイノイドたちが、市場に散見、いえ席巻しているのかも知れません。
その頃中国では {netabare} ゲノム編集されたクローンベビーが 14才を迎えているはずです。
オリジナルとコピーは何を語るでしょうか。
大きすぎる関門です。{/netabare}
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ガイノイド、アンドロイドは、言うなら傀儡(くぐつ、容れもの)です。
そんな彼らの電脳には、少女の生きた脳(ゴースト)が供与され、使役され、消費されるのです。
セクサロイドとなれば、男性の処女性への追求が、児童の肢体と少女の脳を生贄として犠牲を強いるのでしょうね。
それは魂への侮辱、凌辱、損壊。たとえAIだったとしても嫌悪感しかありません。
事件の発端はガイノイド(モデルネーム=ハダリ)による男性要人殺人です。
傀儡のハダリは、購入者・使役者の夜の営みに道具として扱われます。
同時にセクサロイドを囮にした正真のマーダーに豹変し、首謀者のプログラムに殉教するのです。
公安9課のバトーとトグサは身を張って事件の本丸に切り込み、無数のハダリを滅多打ちに。
攻殻×傀儡のバトルは物語の必然であり一興でもありますが、それはつまるところ、ハダリには高い性需要がある証左なのです。
児童の性の搾取、男と女の性対比として見るなら、心に棘を残すシーンでした。
解決として少佐のゴーストが関与することになりますが、バトーを側方支援しても、正面突破する "主体性" は見られませんでした。
ただ、少佐が降臨する理由は、明確に攻殻の目的意識性と合致しているわけで、あたかも鬼神のごとくの存在です。
さすがに「ネットにアクセスすれば、私は必ずあなたのそばにいる」というセリフには、彼女の "主意性" がしんみり伝わってきました。
でも、そこに何かの期待感を抱いたり、違和感を差し挟んだりするのは無用というものでしょう。
少佐とバトーの相関性は、トグサに抱かれた娘とその腕に抱かれた娘への "プレゼントの人形" と、同時にバトーに抱かれた "飼い犬のガブリエル" の両者の視線とに形而上化されるからです。
有体に言えば、傀儡には意志や感情などは本来不要であり、飼犬はあるじ(国家)に尾を振る姿が身の程というもの。
そんな玩具と玩犬の対置に、少佐とバトーの淡いイノセンスが窺えるし、それがこの物語の主張なのだろうと感じました。
ただ、 "世界を愛し、世界から愛される存在" として、ともに理解し合える徒(ともがら)として、その想いを形而下に置いておきたい二人なのでしょうね。
従は主となりえずとも、主たりうる願いをささやかに希求する従でありたい。
そんなふうに掬い取れば、「攻殻機動隊」などの大仰すぎるネームは、不要となっても構わない。
そんなふうに私は頷けるのです。
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おまけ
{netabare}
作品を俯瞰すれば、原作の時代背景には経済バブルとその崩壊の実相が見て取れるように感じます。
男も女も、老いも若きも、バブルマネーに狂奔し、我が世の春を永遠なるものと疑わなかった時代。
カラダの器は少しも変わらないのにキモチだけが肥大し、見栄え性だけは攻殻のように固太りした時代でした。
それに反して、精神性は礎石を見失い、あたかも浮わつくゴーストのように堕落と酔生夢死に現を抜かした時代。
バブル崩壊で実体経済も労働市場も極端に歪曲化し、明日をどう生きるかさえ見通せず、リストラと時間労働の切り売りに、国家の安定が根こそぎ損なわれた時代でした。
そんな時代に生まれた本作を、今になって見返す意味は何だったろうと自問しています。
インターネット、スマホ、AIなどのハイテクには目を剝くけれど、軽重犯罪と誹謗中傷が蔓延し、戦争と紛争が世界を蝕み、気候変動さえも近年待ったなしの瀬戸際です。
速度を上げて不安定化に突き進む地球に、いったいどんな選択肢を手にすればいいのでしょう。
イノセンスは "無知" とも "潔白" とも解されます。
二律背反にも感じられますが、そこに "規律と自由" とが併存し調和しうる道はあるのでしょうか。
そこを歩むとしても、この先、本物の寛容と忍耐とが問われる時代になるような気がします。
失われた30年とこの先の困難に、私は生々しいリアリティーを肌身に感じます。
果たして、人類の未来に何を奉じればよいのでしょう。
{/netabare}
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