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「千と千尋の神隠し(アニメ映画)」

総合得点
87.7
感想・評価
1804
棚に入れた
12236
ランキング
144
★★★★☆ 4.0 (1804)
物語
4.1
作画
4.2
声優
3.8
音楽
4.1
キャラ
4.0

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千と千尋の神隠しの感想・評価はどうでしたか?

nyaro さんの感想・評価

★★★★★ 4.7
物語 : 4.5 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 4.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

映画として破綻寸前ですが、それゆえ奇跡の名作となった気がします。

 24年9月再々レビュー。数度のレビューがゴチャゴチャしているのでまとめます。

 後期の宮崎作品の最大の欠点は、描きたいものを描くためにストーリー性を無視していることではないか、と思います。それが一番悪い方に出たのが「ポニョ」でした。

 本作においては、ストーリー性、テーマ性、エンタメ性などのバランスがかろうじて取れており、ただ破綻直前の危うさに幻惑される感じがあります。それゆえ非常に独特で他に類がない名作となっています。ただ、ストーリーの理解が簡単なようで難しい作品です。

 冒頭の夫妻の車はベンツとかアウディに見えます。上場企業の部長クラスという感じでしょうか。この2人は食欲に負けてブタになります。そして、彼らが迷い込んだのが、バブルのテーマパークの廃墟であり欲望のナレの果てと読み取れます。

 ここにカオナシを当てはめると、やはり欲望とそれに負けなかった千尋の「まともさ」が見えてきます。神々も娯楽として湯屋を利用しています。まあ、ソープランドだという説もあるし公式でもある程度認めているそうなので、そういう意味もあるでしょう。やはり欲望を開放する場所となっています。
 ですので、メインのテーマは食欲であり性欲、金銭欲の話です。それは読み取れます。が、白竜と魔女の話が入るのでややこしくなります。

 ボンと呼ばれる赤ん坊は、甘やかされた象徴でした。この子は旅をすることで成長、人間性を獲得します。それが千尋と重なるのかなと。親から離れて厳しいですが、自立する経験をしたことで名を得ます。名を得るとはアイデンティティの確立のことでしょう。ただ、その成長とは何か?がわかりづらいんですよね。もともと、親が謎の中華料理みたいのを食べているとき拒否します。その時点である程度まともな子に描かれています。そしてかなり初期でカオナシに優しい態度をとります。

 釜爺や先輩の女子から礼儀や社会性について怒られていますので、そこは未成熟ではありました。では、その成長物語なんでしょうか。そこがカオナシの話とずれてくるんですよね。

 これは白竜と湯バアバの系統の話になると思いますので、特に白竜についてはどんな存在かですよね。一応、千に対してルールの指導的な役割は果たしますし、どうも昔おぼれた川の神であることが示唆されます。ですが、そこに寓意が感じられないというか、何をいいたいのかわかりません。

 湯バアバと魔女の分裂から人間の善悪の2面性はあるかもしれません。欲望にとらわれた湯バアバもしかしセルフルール(つまり社会のルール)には縛られていますので、労働と成長の一つの要素にはなっていますけど。神々は面白い描写ですけど、要するにサラリーマンですよね。両親の問題も欲望のほかに、ルールを破ったことも大きな要素になっています。

 そう、こうやって考えると白竜が圧倒的に浮きます。浮きますが描かれているのは、宮崎駿氏が描きたかったのは白竜なんだろうな、と思います。「ハウル」のカルシファーとか重要だけどよくわからないものでしょう。

(追記 ちょっと思い出したのが、途中でケガレ神?あの湯屋にデロデロの汚さで来た神は、千尋によって「汚れを落とす」=「射精」とも取れるメタファーがありました。あの表情のアップはすっきりした賢者タイムですよね?宮崎駿氏だとも見えます。
 環境問題ともとれますが、金を置いてゆくのでどちらかと言えば、やはり風俗の話が見て取れます。その後、その様子を見ていたカオナシも金満家(偽)として、風俗店で豪遊して千尋に向かって汚いもの(吐しゃ物=射精)を発射しようとしますので。
 これと対比すると、白竜は純愛…ともとれますが、やはり無理やり虫を吐き出されたシーンがあります。つまり童貞喪失?竜は川であると同時に男性のメタファだと考えると、白竜はお店の店員で本当は千尋に手を出すとひどい目に合うはずで、実際あいました。つまり、純愛であり、千尋が足抜けするために協力したお店の店員という感じでしょうか。ルールにこだわるのもこの辺の業界のしきたりのように見えます)

 欲望、社会のルールと成長。そういう要素は感じられますが、じゃあ、ストーリーは?という感じでした。それでいて、なぜか一貫性があって「物語」はあるように感じてしまうのが不思議な作品でした。


 別の話ですが、この作品の宮崎駿氏にとっての重要な点はヒロインが可愛くない、いわゆるラナとかナウシカの顔から脱したことでしょう。美少女を風俗に置きたくないのかもしれませんが、リアリティ、つまり当時の社会のアナロジーにしたかった意図は感じられます。
 宮崎アニメだとポニョと本作は敢えて美少女から脱した作品で、その意味は大きいでしょう。ここで初めて氏は社会の現実を見たのかもしれません。

 で、この作品の評価は再視聴するごとに落ちます。理由はストーリーの出来が悪いからです。ですので映画としての出来の評価は下げたくなります。宮崎ブランドの底上げが大きかったということでしょう。
 ただし、中に含まれている今まで気が付かなかったメッセージに気が付くのが宮崎作品のすごいところで、その点での評価は見るたびに上がります。

 ですので本作は、ストーリーは4.5ですが、非常に満足度が高い映画という評価になります。


 私としては、本作と魔女の宅急便が少女の成長物語として対になっている感じです。ナウシカ、もののけ姫の自然と文明の系統、そして風立ちぬ、君たちはどう生きるかの私小説系統など、テーマ性が明確な系統だった作品がのちに残る作品かなと。その点で「紅のブタ」も私小説系統なんですけどファンタジー色というよりイタリア的な描きかたがノイズだったかなあという気がします。

 トトロは自然系統ですけど文明批判が足りず。ハウルとラピュタはファンタジーすぎて何が言いたいのか良くわかりません。ポニョは論外…という評価でしょうか。

投稿 : 2024/09/04
閲覧 : 388
サンキュー:

9

イムラ さんの感想・評価

★★★★☆ 3.5
物語 : 3.0 作画 : 4.5 声優 : 2.5 音楽 : 4.0 キャラ : 3.5 状態:観終わった

もう17年も前なのか

<2024/5/26 追記>
自分の中で評点の基準を変えたので、修正レビューです。
(3.7→3.5 100点満点換算で63点)
そっか
これ映画館で2回見たんだ
懐かしいな

割と最近、金ローで見たのですが全部見てしまうだけのおもしろさはあったと思う。でも自分の中の評価はそこまで上がらず。
宮崎アニメは「コナン」「カリ城」「ナウシカ」「ラピュタ」「紅豚」辺りがぶっちぎりで好きです

<2018/1/2初投稿>
本年初レビューですね。
あけましておめでとうございます。

というわけで日本歴代興収No. 1の作品についてだらだらと書いてみたいと思います。

有名作品なのでお話の説明は割愛。
いきなり感想です。

これ二回観たんですが、印象は子供向け。
それも小学校向け児童文学のよう。

小学生の頃、図書室で見つけて読んだ本に、森に入ったらファンタジーな異世界に迷い込み、いろいろ冒険して最後は無事に元の世界に戻れました。というのがありました。
読み終えたあと、急に現実に引き戻されしばらくぼーっとしてたのを今でも覚えてます。
ネバーエンディングストーリーのバスチアンのような気分。

千と千尋はちょうどそんな感じの作品。
ただ惜しむらくは自分は既に子供ではなく、いろいろ出来上がってしまっていた大人でした。
どうせなら子供の頃に観たかったな。

ところでなんで二回も観に行ったのかというと一緒に観に行く相手が違ったからです( ・∇・)

それも今となっては甘酸っぱい思ひ出( ・∇・)

投稿 : 2024/05/26
閲覧 : 565
サンキュー:

42

ネタバレ

タイラーオースティン さんの感想・評価

★★★★★ 4.3
物語 : 4.5 作画 : 4.0 声優 : 4.0 音楽 : 5.0 キャラ : 4.0 状態:観終わった

90年代以降のジブリ最高傑作

ジブリの代名詞とも言える空を飛ぶという自由の象徴に突き進んでいくと思いきや、あわや軽々しくそれを放棄して、恐ろしい程、静かになってゆく。決して盛り下がっているというわけではなく、清められているというか、見終わった後、凛とした気持ちになっている。個人的に、そういったところがたまらなく好きなのです。
母の腕にしがみつき、夢かうつつか定かではない世界に入り込む千尋。かつての心もとない千尋のようなカヲナシに付きまとわれるようにまでになった千尋が、帰り道、今までの出来事がまるで嘘だったかのように母の腕にしがみついて、歩いている。成長というものは同一の環境下で為されて初めて、形容される言葉なのかと思い知り、そのストイックさに驚きを隠せません。変わったのは千尋ではなく、環境の方であり、元々眠っていた力が引き出されていただけ。でも、必ず、経験、記憶、そういった類のものは然るべきときに然るべく発揮されてゆく。だからこそ、千尋の紫色の髪留めが静かに、しかし力強くキラキラと光っていることに心が震えて仕方ありません。

投稿 : 2023/12/26
閲覧 : 90
サンキュー:

9

ネタバレ

青星アーツ さんの感想・評価

★★★★★ 4.7
物語 : 4.5 作画 : 5.0 声優 : 4.5 音楽 : 5.0 キャラ : 4.5 状態:観終わった

ほとんどが高水準、ジブリの怪作

 千尋がハクと遭遇したあとの不気味さとハクが唐突に現れたという演出から妙な世界へどんどん引っぱられていきます。時間をおいて見返したくなる、クオリティが高い独特な世界がある作品だと思います。

投稿 : 2023/11/02
閲覧 : 232
サンキュー:

2

セシウス さんの感想・評価

★★★★☆ 3.4
物語 : 3.0 作画 : 4.0 声優 : 1.5 音楽 : 4.5 キャラ : 4.0 状態:観終わった

ウルトラハイパーファンタジー

 途方もなくメジャーな作品ですが、子供が小さかった頃に見て以来久しぶりに見てみました。その時の感想は「可もなく不可もなく」でした。当時はアニメは子供につきあって見るもの、というスタンスだったからかもしれません。

 で、言わずもがなですがこの作品は、普通の10歳女子が迷い込んだ和風ファンタジー世界で頑張って成長するお話です。冒頭がホラーじみていて前回視聴時はウチの子は泣いてリタイヤしてしまいましたw 幼児向け作品ではないようです。

 「油屋」というスーパー銭湯みたいな施設を中心としたこの作品世界は本当に目をみはるような情景で、画面から目が離せません。そしてストーリーはシンプルなのでゆっくりこの世界に浸ることができます。登場するキャラクターは善玉悪玉で単純に分けられてなくて、ある程度深みのある人格になっています。そして名前すらないのに印象的なキャラクターが多いです。

 声優さんたちは学芸会みたいなレベルの人が多いです。前回見た時は主人公以外はそれほど感じなかったのですが今見ると他のキャラクターもかなりキツいです。
 作画はこの時代では高いレベルにあるのではないでしょうか。釜爺の腕の動きとか今見ても綺麗に見えるシーンがたくさんありました。魔女や神々、妖怪キャラの表情も繊細に描画されていたと思います。
 音楽は巨匠・久石譲が手がけた上質な曲が雰囲気を盛り上げます。そんなに自己主張は強く感じませんが、エスニック系の楽器が使われていたりして印象に残りました。

 20年ぶりに見ましたが感想は前回と同じく「世界観はすごいがアニメとしては大しておもしろくない」でした。宮崎作品のエンターテイメント性は未来少年コナンやカリオストロの城で既にピークだったのかなと個人的には感じました。

投稿 : 2022/04/29
閲覧 : 205
サンキュー:

2

ネタバレ

栞織 さんの感想・評価

★★★★★ 4.6
物語 : 4.5 作画 : 4.5 声優 : 4.5 音楽 : 5.0 キャラ : 4.5 状態:観終わった

見た当時は泣いた 今はいろいろ考えが出てきて

この映画は映画館で見たと思います。ただこれの前の「もののけ姫」は子育てが忙しくて映画館には行けなかったです。復帰後の最初の作品ですね。これ以降は「猫の恩返し」みたいな作品も含めて、「メアリと魔女の花」までだいたい映画館で見ています。

で、初見では泣きました。あのおでこツン場面でぼろぼろ泣きましたねぇ。その後湯婆婆を許してやる場面にはひっかかりましたが、感動作でした。しかしその後岡田さんの動画で「実は千尋には上に死んだ兄がいて・・・。」などの話を聴くにつけ、だんだん評価も変わってきてしまいました。私はあの母親はああいう人だと思ったし。それで当時ですかね、私は「ガサラキ」という右翼アニメにいれ上げていたので、その批判で豚に変わる両親が、「ガサラキ」の男性キャラにちょっと似ているのかなと思ってます。やはりああいう作品に入れ込むというのは、「中国共産党は人民を弾圧するのはやめろ」と天安門事件の時張り紙をするような人たちには、受け入れがたいものだったのでしょう。まあ「Vガンダム」でも私の同人活動への批判はあったと思いますが、この作品もそんな片鱗があるように思いますね。それで、個人的な話になりますが、ヒロインの千尋が私がOLの頃会社の部署で一緒に働いていた女性になんとなく似ていましてね。その人の方が課長受けはよかったから、いまだに課長さんから点数がつけられてそれなのかと思ったりします。その人に比べて私は劣っているから、豚にされた母親なんだなあと。そんなごく個人的な感想がありますね。

だから見た当時は映画のピアノ楽譜まで買いこんで、久石譲氏の曲を練習してみたりしましたが、それも今はほこりをかぶっています。テレビ放映されてもめったに見ませんね。赤千尋事件もありましたからね。あれも、作品中に日本の神様の名前を出したりしたことへの反動ででしょうか。共産党では自己批判しないといけないものと聞いています。しかしこんな風に右翼が左翼が、と思いめぐらさねばならない作品なのは、こちらが大人だからで、監督が子供は子供だけなんだ、と言われる意味は、そのような社会的な夾雑物がなく作品を受け止めることができるからだと思います。そういう意味では、本当に本作は上質の児童文学の再現であり、そのあたりに意図した事は、見事に映像化されていると思います。

投稿 : 2022/03/20
閲覧 : 204
サンキュー:

6

ネタバレ

蒼い✨️ さんの感想・評価

★★★★★ 4.4
物語 : 4.0 作画 : 5.0 声優 : 4.0 音楽 : 4.5 キャラ : 4.5 状態:観終わった

おじいさんからのおてがみ。

【概要】

アニメーション制作:スタジオジブリ
2001年7月20日に公開された125分間の劇場版作品。
監督は、宮崎駿。

【あらすじ】

主人公の荻野千尋は10歳の女の子で、両親の都合で引っ越すことになり、
仲が良い友達と離れ離れになったり環境が変化することに納得して無くて、
新居に向かう車のなかでも不貞腐れてるのも隠そうとしてなかったのだが、
陽気な父親も神経質そうな母親も千尋の気持ちを放っておいて、新しい生活に前向き。

ニュータウンの新居が目に見えるところまで車は来ていたのだが、新居を目指して、
父親がいきあたりばったりで舗装されていない森の道を運転していくうちに、
車が通れない細いトンネルのある建造物に突き当たる。

車を降りた父親は、建造物と通り抜けた先に何があるのか興味津々。
『戻ろう!』と千尋の声を聞かない両親に、千尋はついていき、
親子三人はトンネルを徒歩で抜けて、無人の町に迷い込んでしまう。
その奇妙な誰もいない町をどんどん先に進み、食べ物の匂いを嗅ぎ取った父親、
親子は食べ物屋に入り、店員を探すが誰もいない。
あとでお金を払えばいいと、店内の食べ物を貪る両親。
千尋は食べずに、店を出て町中を歩いていると、橋の向こうに湯屋があった。
千尋は橋の上で出会った白い服の少年に、元いた所に帰るように言われる。

夜になった町は賑やかに明かりが灯り、黒い影のような住人で溢れかえり、
戻った千尋は両親の服を着た豚が飯を貪り続けていて、
ハエたたきで店員の影からの折檻されているのを見る。

もと来た道は大河になっていて渡れなく、千尋の身体は透明に透けていく。
このまま消滅しそうな千尋を助けたのは、先程の白い服の少年のハクだった。

【感想】

これは、当時は還暦に近かった宮崎駿氏が、
友人である50歳近く年下の少女からインスパイアを受けて作られたらしき作品。
その少女の父親は日本テレビの『金曜ロードショー』のプロデューサーとして、
スタジオジブリ作品の数々をプロデュースした人物であり、
宮崎駿氏と件の娘さんは家族ぐるみの付き合いで知り合ったわけですな。

カーネル・サンダースを意識したかのような白いひげの巨匠?というイメージで、
孫のような年頃の娘に向けた、寓意とカリカチュアで脚色された人生訓の物語?
と思いきや、実在のモデルがいる少女を八百万の異形の神々を客とした風呂屋で、
泥んこにして働かせたりで、色んな目に遭わせたりしているのがフェチ全開だったりでして、
それが風俗店のメタファーとか言われたりで、アニメでやってることは聖人君子ではなくて、
好きなことを描いてるうちに筆が乗っての気の向くままに話を作ってる気がしますな。

とはいえ“世界の宮崎駿”の体裁を守るためには、
実在の少女をモチーフにしたお人形遊びではいかんわけでして、
千尋の両親を用いて、バブル景気に浮かれた人間を強欲な浅ましき豚として扱うことで、
また、カオナシというキャラに関するエピソードで、
金と欲に支配されて人の社会から優しさが失わようとしているのは愚かであるとか、
社会への風刺や批判の要素でメッセージ性を入れているわけですね。

今作は10歳前後の女の子に観られることを意識した作品ということで、
あの世代の子供に共感してもらうのを意識して作ったのでしょうか?

千尋の父親は自分では家族思いの良きマイホームパパのつもりが、
自分が好きなことに夢中で視野が狭くて人の話を全く聞かない粗忽者。
よって経済的には保護者の責任を果たしているものの、

狭い山道を車で暴走してるのを「お父さん大丈夫?」と、
千尋からはスピード出しすぎなのを怖がられているのに、
娘に格好いいところを見せたいのか、
「任せとけ、この車は四駆だぞ!」と答えて山の中でスピードを上げるなど、
人の言葉や態度から意図を汲み取る能力が致命的に欠けていて、
常に話が噛み合わなすぎて親子の信頼関係が正しく成立しているとは言えない。

千尋の母親は、躾だと思っているのか娘に一切甘い顔を見せない。
と自分をしっかりした大人だと思っているのかもですが、
トンネルの先のふしぎな世界で足場の悪い岩場を移動するときは、
自分は身体を受け止めてもらって夫に甘えているのに、あとをついてきて、
怖がりながら渡るのに苦労している娘には「千尋、早く来なさい!」
とだけ言い放って放置して、自分たち夫婦だけ先へ先へ進む冷淡な態度。
娘の母親であることよりも、夫の女であることを優先していますね。

親子のコミュニケーションが上手く行っていなくて、
娘も不満だらけで明らかに不貞腐れてグズったりで、
父親は脳天気だし、母親も娘の態度への不満を隠そうとしていなくて、

親のほうはエンディングにいたるまで心の問題は一切進展しないのですが、
大人って自分が正しいと思ってて威張っててもこんなもんだから、
子供のほうで割り切って自分で自分を助けなきゃ何も変わらない。

娘である千尋のほうには、
ハクとの恋愛と湯屋での勤労経験と謎の腹痛と立て続けにイベントを起こさせることで、
大成長を遂げるわけでして、最初はダメダメだった千尋がしっかりした人間に急変して、
大人みたいに心の垢に塗れていない清らかさで、
作品のなかで生じた様々な問題を解決に向けていく。

その千尋の姿に子供目線で心に残るものがあれば良いわけでして、
この作品では千尋の不安や悲しみ、そしてそれを抜けた喜びの表情が生き生きとしていたことから、
映画は役者を魅力的に描けていれば見栄えがするというのは本当で、
アニメも、説得力を持つようにキャラの作画ができていれば、
そして声優のお芝居が合っていれば、銀幕に印象に残るキャラクターが生まれるわけでして、
キャラクターや演者より監督の名前ばかりがビッグな扱いを受けるのが恒例な宮崎アニメで、
荻野千尋というキャラクターが大健闘したということで、
この作品に自分は好意的だったりするのですね。

とはいえ、千尋が急に腹痛と初仕事の後から、おどおどした部分が消失して、
しっかりし過ぎだろうと思わないでもなかったですが、

・立場が人を作る。
・自分が逃げたらハクが死んだり豚にされた両親が食べられたりするので、
 千尋は無理して気丈に振る舞っていた。

と、きっちりフォローを入れるのを忘れていないわけでして、
キャラのモデルが具体的にいますと、感情が豊かに描かれてバランスがとれた作品になるわけでして、
前作の『もののけ姫』では理屈先行すぎて人間描写がつまらなかったのと、
7年後の『崖の上のポニョ』があんな無残なものになったのと比較して、
まだ、枯れていなかった頃の宮崎駿氏が、
おじいさんが10歳の少女に向けて書いた長文のお手紙のような、
自分の“好き”を目一杯に熱く描いたときの表現力を堪能することにおいて、
確かに優れた作品だと思いました。

アニメはそれぞれが膨大なスタッフの合作で監督一個人の私物ではないと思っているのですが、
ジブリは宮崎駿と高畑勲を頂点としたヒエラルキーの会社であったり、

20年前の、2001年の8月に劇場に観に行ったときは、
ただ漫然とスクリーンの中の出来事を眺めているだけで、
ラピュタや紅の豚みたいなのが観たくて退屈だなあ!としか思えなくて、
当時の自分には展開に面白みが感じられなかったりで、

色々と思うところはあったのですが、
改めて観たところ、良いものは素直に称賛しましょう!という結論に達しました。


ということで、これにて感想を終わります。
読んで下さいまして、ありがとうございました。

投稿 : 2021/12/28
閲覧 : 385
サンキュー:

38

ネタバレ

たわし(爆豪) さんの感想・評価

★★★★★ 4.6
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 4.0 音楽 : 4.5 キャラ : 4.5 状態:観終わった

ハクは千尋の死んだ「お兄さん」

「千と千尋の神隠し」はジブリのアニメの中でも最も難解で、一度見ただけでは理解できない情報量と「暗喩」に満ちている。

湯婆婆が経営する「湯屋」は日本の江戸時代に女性が性的に奉仕をしたと言われる吉原の風俗だということも、千尋が迷い込む神の世界は平成のバブル期に乱立した「ハコモノ」レジャー施設だったりと、今やそれが廃墟となり、不気味な心霊スポットになっていることも、言ってみれば本作はホラー映画であり、「呪いのビデオ」や「本当にあった怖い話」などと同じくらい当時流行っていた「ジャパニーズホラー」の系譜である。

そしてなによりも、本編に出てくる「カオナシ」と呼ばれる妖怪と、幼い頃千尋を救ったと言われる湯婆婆の丁稚こと「ハク」の正体であるが、

「ハク」は千尋が幼い頃溺れたコハク川の主であり土地神である「饒速水小白主ニギハヤミコハクヌシ)」であるとあとで判明するのだが、

本編冒頭で、「千尋の母親が千尋に余りにもそっけないこと」「千尋が溺れた記憶がなく母親から後で聞かされたこと」「千尋が溺れたシーンで小さい子供の手のひらが千尋を救ったこと」などを考えてみると、ハクの正体は「千尋がまだ物心つかない時に、千尋に変わって溺れ死んだ実兄」であり、これによって冒頭の両親のシーンや、なぜ夜にならないと見えるはずもない神様が「ハク」だけ千尋には見えたのか。。など、合点のつくシーンが多いのである。

それだけ考えてみても、たかだか子供向けのアニメの中に、それだけの重厚な伏線を用意しているのは。。宮崎駿だからである。

投稿 : 2021/10/28
閲覧 : 447
サンキュー:

14

ちあき さんの感想・評価

★★★★☆ 4.0
物語 : 4.0 作画 : 4.0 声優 : 4.0 音楽 : 4.0 キャラ : 4.0 状態:観終わった

良い

言葉にならないことを伝えてくれるジブリの作品。
はっきりとするものは理解できないが、でもなにかを訴えかけてくる作品です。
別にそこまで観たいと思わないのに、テレビで流れているのが目に入るといつの間にか魅入ってしまいます。

投稿 : 2021/10/25
閲覧 : 382
サンキュー:

2

退会済のユーザー さんの感想・評価

★★★★★ 4.5
物語 : 4.5 作画 : 4.5 声優 : 4.5 音楽 : 4.5 キャラ : 4.5 状態:観終わった

ほっこりする

姉と一緒に映画館に見に行ったのを今でも覚えていますが、この作品は、ストーリーより世界観を楽しむものだと解釈しています。

別に、ストーリーがつまらないという訳ではありませんが、出てくるキャラそれぞれに個性があったり、
背景や景色、建物などを素晴らしいと感じ、それが良いなーと思って見る作品だなと私は思いました。

人間とは欲の塊だから、醜い豚の姿にされたのかーとか思いながら、今回は見ていました。

投稿 : 2021/08/29
閲覧 : 218
ネタバレ

アハウ さんの感想・評価

★★★★☆ 3.5
物語 : 3.5 作画 : 4.0 声優 : 3.0 音楽 : 4.0 キャラ : 3.0 状態:観終わった

監督の頭になにが詰まっているのか

千は源氏名なのでしょう。
としたら湯女の類かもしれません。
このはな綺譚の柚も仲間?
あの世とこの世の間にある温泉宿。

ハクは言われているように、兄かもしれません。
溺れている千尋を助ける代わりに、自分が溺れて死に
神になったというのです。
監督は銀河鉄道の夜を暗示させることを言っています。
カンパネルラも川で溺れたザネリを助けて死んでしまっ
たことが思い浮かびます。
列車で死者の国に赴いたことも怪しい感じがします。
ハクは妹を救うために八つ裂きを受け入れたのかも。

全体的に怖い物語だと思いました。

投稿 : 2021/07/04
閲覧 : 231
サンキュー:

13

ASKA さんの感想・評価

★★★★★ 5.0
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

流石のおもしろさ。歴代日本映画興行収入2位(2020年12月現在)になったけど、面白さは変わらない。。ジブリの名作。

今作はスタジオジブリ制作、宮崎駿原作脚本監督作品。
2001年公開長編アニメーション作品。
スタジオジブリを代表する作品日本歴代興行収入2位の作品で、316億円の興行収入は2020年12月、劇場版鬼滅の刃に抜かれたので、2位です
ストーリーは、荻野千尋という少女が家族で引っ越してくるが、その途中不思議な世界に迷い込んでしまい、油屋というお風呂屋で住み込みではたらくことになるという物語です。
声優は芸能人が多く、主人公千尋の声は演技が気になりましたが、それ以外はあまり気にならなく、湯婆婆・銭婆の声の夏木マリさんや、釜爺の声の菅原文太さんなどは芝居が上手く、合っていたと思います。
ハク役の入野自由さんや坊役が子役時代の神木隆之介さんで、注目ですね。
音楽も久石譲さんの劇伴や、木村弓さんのいつも何度でもなどは素敵な曲で、作画も不思議な世界を現した世界観を表現していて楽しめました。
キャラも湯婆婆や釜爺、マックロクロスケそっくりなのや坊のネズミや番台蛙など不思議なキャラが多かった。ジブリの名作です。

投稿 : 2020/12/28
閲覧 : 337
サンキュー:

27

ネタバレ

ねっち さんの感想・評価

★★★★★ 4.6
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 3.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

ジブリ作品で一番好き

いやー、やっぱ大好きです。色々な感想や考察が語られているこの作品ですがボクにはなんというかそうゆうところよりも理屈抜きで「好き」といった作品です。シーンひとつひとつがほんとうにコミカルでかわいいですね。千尋の真似をしてネズミになった坊が呪いを踏んづけてすすにエンガチョしてもらうシーンなんかすごく可愛かったです。あとはやはりジブリ作品全般に言えることなのですが音楽がほんとうに物語ってるんですよね。BGMひとつとっても聞いたことがある、耳にスッと馴染むような音楽は他の作品には無いものを感じます。また、この作品は「親子のあり方」や「仕事」、「愛」などの要素が含まれていると思いますが、自分が1番ストレートに伝わったのは「愛」でした。釜じいの「愛だ、愛」というセリフが「あぁ、いいな」となんかこの作品をうまく一言で表しているなと、腑に落ちました。またこれは何度でも見返すだろう、そんな作品でした。

91/100点

投稿 : 2020/10/24
閲覧 : 289
サンキュー:

2

ネタバレ

もぐもぐ さんの感想・評価

★★★★★ 4.1
物語 : 3.0 作画 : 5.0 声優 : 4.0 音楽 : 3.5 キャラ : 5.0 状態:観終わった

こわかった

小5のときにスクリーンで観ましたが、恐怖を感じた映画として印象に残ってます。
一つにはキャラのキモさですね。そりゃビビるでしょ。カオナシはガチでトラウマでした。あんなのに応対してる千尋すげーって思いましたもん。
しかしそれ以上にビビったのは世界観。本当に世界が一変する、なにより超自然的な現象が自分(=千尋)の身にふりかかるというのは、もはや恐怖そのものではないでしょうか。子供にとって一番起きて欲しくないと思ってることが起きてしまったわけですから。
千尋がありのままの10歳の少女として描かれていて、それゆえに非常に没入感のある世界観だったと思います。

ストーリーの流れは分かりやすく作られてましたが、なぜそうなったのかを理解しにくいところも多かったです。特に最後に千尋は豚の両親を一体どうやって見分けたのか。
見分けられた事実ではなく、見分けられた方法にこそ千尋の成長を感じられるはず。たしかにあの見せ方は単純すぎたかもしれません。子供心に、ただキモいだけの子供騙しの作品だと烙印を押してしまいましたから、我ながらとんだマセガキでしたわ。
今では、あれは幼児的万能感の発露ではないかと考えるようになりました。要は根拠のない自信ですね。しかしこれを持つことが子供にとっては強靭な精神を育むためにとても重要なものです。千尋は運命に翻弄されながらも、多くの人と深く関わって行くことでこの能力に開眼したのではないでしょうか。宮崎駿監督がとある10歳の少女に向けて作られた作品だというのがよく分かります。(ちゃんと本人が見て伝わるかどうかは、相当微妙ですねw)

とにかく、何が起こるか分からない怖さと気持ち悪さが充満していて、実際そこが面白いんですけど、それを面白いと思えるって人間形成の過程で徐々に昇華されていく感覚だと思うんですよね。個人差もあるし。俯瞰して見られる今でこそワクワクするけど、当時の自分には刺激が強すぎたかな。自分にとっては、もう少し遅く出会いたかった稀有なアニメ作品です。
これがまあ成人してから観るとめっちゃくっちゃ面白くって、ジブリの中では最も好きな作品のうちの一つになりました。というわけで星は現在の評価としてつけていますが、いまいち子供向けとは言い難いのでその分だけ物語をマイナスしています。元々子供向けの創作というよりは、幼年期を回顧する大人向けのエンタメなのかもしれないです。

投稿 : 2020/09/23
閲覧 : 267
サンキュー:

4

メガマインド さんの感想・評価

★★★★★ 5.0
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:----

映画館で観ました!!

横浜のムービルの映画館で鑑賞。

え、これ2001年作品なの!?

とても信じられなかった。

まるで2020年に公開された最新の映画をみているかというぐらい映像が綺麗で引き込まれましたね。正直、アニメ、映画、漫画、ジャンルを問わず過去の作品
をみると時代を感じてさせてしまうことの方が多いのですが、この作品からはそういう匂いが全然なかった。



改めてジブリの魅力を再確認されたしだいです。

投稿 : 2020/08/15
閲覧 : 244
サンキュー:

6

ネタバレ

Progress さんの感想・評価

★★★★★ 4.6
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 4.0 音楽 : 4.5 キャラ : 4.5 状態:観終わった

【リバイバル上映】千と千尋の神隠し レビュー

レビュー、最近書いてないなあ…
なんて思いながら、Youtubeをずっと見てたり、有名な最新ゲームタイトルをプレイしてみたりで過ごしていました。

幸い私の住んでいる地区は外出自粛要請も出ていないため、四連休の思い出作りに入ったショッピングモールの映画館で、6月26日からジブリのリバイバル上映がたまたまやっている事を知り、30分ほど時間を潰して入場。ここ1クール程度のアニメ作品に関してまるでレビューを書いていなかったため、インパクトのある作品で意欲を高めようという気持ちがありました。

客層は20代後半から30代あたりが多いように見えましたね。カップル率も高く、最新の映画を見るよりは懐かしいハズレでないとわかる作品を見たかったのでしょうか?
最近映画館に足を運んでいなかったので知らなかったのですが、この状況下という事もあり、予約では席は一席ずつ間隔を開けて空席にしているような状況でした。そのため、両隣には人がいないため、かなり快適な視聴でしたね。

開始1分前にもなると、二時間弱の時間を使って別の事をしながら視聴もできない映画館での視聴にノリで入っちゃったけど、途中で飽きないかなあ…なんて思っていましたが。

全然そんなことありませんでした。めっちゃ面白かった。

過去の自分のレビューも思い出しながら視聴し、雰囲気が記憶に残るなんて書いちゃったけど、どこまで論理的に詰めているんだろうなあとちょっとハラハラしながら見ていたんですが、新たに新解釈を得るところもあったし、今作品の裏話的情報を得ていたためにすることのできた新しい目線での楽しみ方。そういった事もあり一度も眠気が来ることなく脳が7、8割回転する状態でラストまで見終えられました。

まず、事前に得ていた情報で、本作品に出てくる油屋(千尋が働く場所)に特定のモデルはないという事を知っていたのですが、本作では油屋がどれだけ日本的なのか?という所に視点がいきました。
登場する神々や油屋の従業員達の身なりは、実に日本的です。例外なのは湯婆婆であり、彼女は魔女という、非常に西洋的な要素を含んでおり、最上階の湯婆婆のフロアは、西洋的な造りになっています。
なぜ日本的な要素で油屋を統一せずに湯婆婆という西洋的要素とミックスさせたのか?は気になるところではありますね。
最上階について先に触れてしまいましたが、油屋の至る所にある西洋的要素について、見ていきます。
まず、エレベーター。あれだけの構造物を階段で登るのは無理ですよね。リンの口からも、エレベーターという言葉は出ています。
次に、電車。油屋の中を通っているわけではないですが、この神々の世界でも科学の発展はしているようです。ただ、利用者な少なく、行ったきり帰りの便がない電車らしいですが。いや、一方通行の電車ってどんな構造になっているんだろう。

こういった西洋化、もしくは機械化した要素を見るに、油屋が神々の世界の日常の風景というわけではなく、神々の世界の中でも日本的な要素を感じられる娯楽施設、テーマパーク的な場所であるように見えましたね。

さて、次の新しい視点は千尋というヒロインがキャバクラで働く女の子から着想を得たという情報からの視点。
この情報は、鈴木敏夫『仕事道楽 新版』等に綴られています。
油屋という厳しい仕事場に、人との付き合いが苦手な千尋が投げ込まれ、千尋が自ら変わっていく物語として見ていくと、千尋の変化を感じれるかと思います。
千尋の状態が大きく変わったのは、刑務所…ではなく豚小屋に入れられた親の姿を見た後、ハクからもらったまじないを掛けたおにぎりを食べた際ですね。
このシーンから先は、変った千尋の元気な姿を描いていきますね。

カオナシについても、今回新しい人物像が浮かび上がりました。
カオナシは千尋に油屋に入れてもらった礼をしようと、必要以上の薬湯の札であったり、砂金をあげたりします。
カオナシは、価値のあるものをあげれば喜んで貰えるという考えで千尋にプレゼントしますが、千尋は喜ぶどころか受け取ってもくれない。
これは、外面を繕い砂金をもらう油屋の従業員と違って、油屋に染まっていない千尋だからこそ、カオナシにとって必要な対話を行えたのだと思います。外面を繕った人との対話によって物をあげれば誰でも喜ぶんだというカオナシの間違った考え方を、千尋が意図せず正したという物語に見えましたね。極論、金で交換すればなんでも手に入るんだという考え方を批判する形に見えて、個人的にもすこし刺さるシーンでしたね。
千尋と対峙しカオナシは、千尋に生まれや出身の事を聞かれ、「ヤメロ」「寂しい」といったルーツに対する拒否感を示しています。
ここで気になったのは、カオナシの人物像です。「寂しい」という感情のセリフであったりとか、対話能力の低さから、孤独で人と話さず、喋るのはコンビニの店員くらいの存在なんだろうと思いました。油屋という繕った人達に騙される世界で、カオナシが狂ったように欲望を吐き出してしまう構図になっています。また、「私が欲しいものはあなた(カオナシ)にはだせない」という千の言葉から、カオナシという存在に千は個人を見出す純粋さを持ちながらも、カオナシの期待には応えないという純粋さゆえの個人の否定をしており、仮初の存在価値を否定されたカオナシは怒ってしまいます。
そんなカオナシに対して、銭婆の住む沼の底に行こうとする千尋は、センに対してこのような言葉を残しています「あの人はここ(油屋)にいないほうが良いんだよ」。
これは、カオナシという純粋で人との対話方法を知らない存在が、油屋の笑顔を繕った人々と対話して、金でなんでも手に入るという間違った対話方法を身に着けてしまうという事を千尋は感じているのかもしれないですね。


さて、ここからは終盤の物語について。銭婆婆の家での出来事。
ここで、物語として必要なのか大きな疑問が湧くイベントがあります。
なぜ銭婆は時間を割いてまで魔法を使わず髪留めを作ったか?
銭婆の作った髪留めには坊やカラス、カオナシが頑張って作った糸が編み込まれています。
銭婆は、魔法で作っても意味がないという言葉を残していますね。
これはみんなで頑張って作ったから思い入れのある物になる、という意味でしょうか?それは一面的には肯定で、カオナシにとっては、今まで人にプレゼントするものが、盗んだものであったりとかまがい物の砂金であったりとか、自身の背丈以上の物を贈ろうとしていました。しかし、今回に関しては時間に限りのある中、自身が労働し、そしてそれで作った物をプレゼントすることで、千からはありがとうという感謝の言葉を受けています。カオナシにとってのいい方向での成功体験であり、カオナシの物語としてはここで完結かなと考えました。
しかしこれでは、カオナシの為に作ったように聞こえます。手作業で作った理由としてもまだまだ弱い。

ここからは推測がかなり混じります。
{netabare}
髪留めを手作業で作った理由について。
魔法という物を考えたとき、髪留めは魔法で作ったら大変なことになっていた可能性があるかもしれないという疑念が思い浮かびました。
八百万の世界を抜けたら、魔法が解けるのではないか?
千尋がハクに別れを告げ、後ろを振り返らず、帰り道を辿る感動的なラストシーン。
決して振り返ってはいけないよ、とハクに念を押されていたため、千尋は振り返りませんでした。
でも待ってください、もし帰る途中で髪留めが切れてしまったら?振り返っちゃいますよね。
そんなタイミングで偶然髪留めが切れることないと思うでしょう。でも、魔法が現実の世界に戻る時に切れるとしたら?
では、油屋の世界の魔法が現実の世界に行くと切れるという証拠あるんでしょうか?
まず一つ目。序盤の千尋が透明化すること。現実の世界の物は、油屋のある世界(八百万の世界)では存在できないんですよね。
つまり、この現象から行くと逆の現象、八百万の世界から現実の世界に行く際には魔法などの現象が消えてしまうのではないでしょうか。
二つ目。湯婆婆の部屋でセンが契約したとき、散らかった部屋でテーブルライトスタンドの傾きだけ湯婆婆は魔法ではなく手で直しています。
これは、魔法が干渉できない物を暗示しているのではないでしょうか。その上で千尋が入ったトンネルが魔法が干渉できないものだとすると、そこで髪留めの魔法が切れてしまう恐れがあった。

三つ目。呪い(まじない)あるいは魔法について。本作品の呪いはなにか?
本作品で呪いをかけられている者たちは複数名います。千尋は名前を奪われて支配されるという呪いをかけられています。このまじないを解く方法はなにか。真実を見抜くことです。
豚の中から親を見つけるシーン。あれは親の呪いを解くのではなく、千尋の呪いを解くシーンです。事実、彼女が真実を見抜いたとき、千尋の契約書が破棄されます。
そしてこのシーンで湯婆婆の言った「この世界の理」は4つ目の理由によって明らかにされます。

4つ目。まじないは解かねば帰れない。これはハクの呪いから考えられます。ハクは、千尋が帰る前に私はそちら側(川の向こう)には行けない、だが湯婆婆と話をして弟子を辞めたらそちらに行くと言っています。つまり、まじないを解かねば帰れないというルールが八百万の神々の世界にはあった。ハクも、名前は取り戻したが、湯婆婆との子弟の契約が残っているから帰れないということだと考えられます。
とすると、提唱した説とは別の説で、魔法(まじない)がかかっていたら帰れないことを銭婆は知っていたため、髪留めを手作業で作ったことが考えられます。



何故髪留めをお守りとして送ったか…については、論理的理由ではなく、感情的な理由であってほしいですね。

この作品でいう名前の意味について。簡単に書きます。
名前を忘れると、帰り方を忘れる。つまり、自分が何者であるか忘れるという事です。自分が何者か忘れたのがハクです。
そして、真名をしっかりと覚えていた千尋は自分が何者か覚えていたため、自分のルーツである親が豚の中にいるか見破れたという説もあるかもしれません。


{/netabare}

さて、私は映像面についてもしっかり触れていきたいと思うのですが、すこし感性が枯れたせいか、少なめになりそうです。
まず、久しぶりにジブリをスクリーンで見た感想について。
自宅では用意できない様な大きな画面で見ると、やはり小さな仕掛けについても気付くことが出来ますね。千尋が木の階段が壊れて走り落ちる序盤のシーン、壊れた木の板の釘が抜けかかっている事に気付くことが出来ました。
一番大きいメリットは、やはり水彩画の背景における微妙な色合いの表現を、細かく観察できることですね。雨が降った後、油屋から見る海の風景は、日中から日没まで、美しさが変わっていきます。テレビでは味わえない風景を広さと色合いの繊細さを感じることが出来ると思います。


小ネタとしてどうしても言いたいシーンがあります。エレベーターで一緒になった大根の神様。かの御方は船で神々が油屋に到着するシーンから最後の豚を見分けるシーンまでいるのですが、この方、実はめっちゃ紳士ですよね。

エレベーターで千尋と一緒になった時、彼は目的の階に到着しても降りるのをやめて、一旦最上階まで千尋と一緒に上がってるんですね。
これはもし千尋が従業員等に見つかってしまいそうになった時に、自分を壁にして逃がしてあげようという配慮ではないでしょうか?
こういった心遣いを気付けるようになったのは、個人的にはちょっと嬉しかったですね。

さて、今回の視聴のまとめです。
感想としてはかなり物語を掘り下げる形になってしまったんですが、やはり映像の凄さがなければこれほど深く入り込めることはないと思います。かといって、美しさを追求しているのではなく、ジブリは五感を呼び起こす映像づくりが凄いと感じましたね。それは、風のうなりであったり、ガラス窓の振動であったり、風に吹かれる髪のうっとおしさであったりなど。よく言われるのは飯が美味しそうという事ですが、やはり、匂いや味を感じさせるような絵作りがうまいと感じます。
個人的に今回とびきり好きだったのは、海になった地上の夜景をセンと千尋が風を感じながら眺めるシーンですね。月明かりの暖かさ、遠い町への期待のようなものも感じられてとても良かったです。
リバイバル上映、いつまでやっているかはわかりませんが、ナウシカやトトロもやっているそうなので、近日また行きたいですね。


金曜ロードショーで視聴した際の感想はこちら↓

映画館で見たときは、一つ一つのシーンの雰囲気にのまれたんですが、どうも、テレビで見るとあれっ?あんまり入り込めないな、という感じでした。

今回の視聴では、初視聴時に感じた「雰囲気」に対する感情を思い出しながら、「懐かしいな」と思いながら視聴。
{netabare}
まず、親が飯を食べ出すシーンですが、千尋は親の言葉を聞かずに食べない。自分も、知らない土地や知らない店に親に連れられて行った時に、強い恐怖感や拒否感を感じました。子供特有の知らないものに対する拒否感は皆感じているのでしょうか。

次、夕暮れから町並みに明かりが灯り、河原まで走るシーン。豚姿の親の気持ち悪さで恐怖感や孤独感がましていき、影のような人に気味の悪い物を覚えます。あの川原でうずくまっているとき、恐ろしいけど明るい町と、そこから逃げるように来た静かな川原から、動きたくないような、帰りたいような、そんな気持ちにさせてくれます。

中盤についても少し。顔ナシの印象。最初はその笑顔のお面で佇む姿に気味の悪さを感じます。千尋に気に入られようと湯の札(札という面白い設定にも引き込まれます)を一杯持ってきたり、カエルをひと飲みするその姿にどんどん恐怖が募っていきます。最初は大人しそうなのに、どんどん凶暴になっていくその姿に、気味の悪さと恐ろしさを感じる、見ているひとを物語に引き込んでいく魅力を持っているキャラクターですね。

とまあ、好きなシーンやキャラクターは色々あるのですが、一番のシーンは、電車から見える風景のシーン。浅い海の遠くに見える街には何があるんだろうという期待感、海にポツンとあるあの家に何故か心惹かれる感覚、やがて夕暮れになって明かりのついた家々を遠くにみたときの心の騒ぎ。じっと電車の中で座っている千尋たちをよそに、影の人たちは荷物をおろし、電車を降りていく。あのときの取り残されたような孤独感と静寂がなにか心地いい。

最初と最後に出てくるトンネルの前のベンチがおいてあるあの建物の時が止まったような静けさが大好きです。
{/netabare}

【総評】
物語性よりも、圧倒的世界観、雰囲気を感じることで、この作品が凄いと思えるのではないでしょうか。
序盤は雰囲気による恐怖感に飲まれ、中盤は華やかさによる楽しさがあり、後半は喧騒の後の静寂が心地良い。

ストーリーはあまり気にならなかったのですが、圧倒的な雰囲気が記憶に残った作品でした。

投稿 : 2020/07/25
閲覧 : 707
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47

遊微々 さんの感想・評価

★★★★★ 5.0
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

名前とは、自分と他者を繋ぐものなのです

現在絶賛リバイバル上映中の言わずと知れたジブリ作品、劇場で見られる機会があるなら当然行くっしょ!
ということで『もののけ姫』と一緒に見てまいりました。

実を言うと千と千尋を見るのは15年ぶりくらい。小学生の時を最後に見てなかったので内容かなり忘れておりました。
だからこそより新鮮に見ることができ、「あー、あったなここ」と懐かしむ場面もあれば、「あ、こういう見方もあったんだ」と新しい発見をするところもあり、非常に楽しんで見れました。

内容は今さら言うまでもないのですが、簡単に言ってしまえば花いろに神話要素ぶっ込んだような内容。
普通こんなことしたどっちつかずの中途半端な内容になってしまいそうなのですが(新〇誠作品みたいな)、2時間と言う時間の中でその両方を綺麗にまとめ上げているその構成力は改めて宮崎駿という人物がいかに化物じみたクリエイターであるかということを思い知らされます。

ラピュタのボーイミーツガール要素と魔女宅の少女の成長物語要素を併せた王道の物語展開。
トトロの民俗学的な見地を彷彿させるしっかりとした神話に対するアプローチ。
平成狸合戦やもののけ姫でも扱った現在の日本が抱える闇(途中で川の神が吐き出した大量のゴミから見て取れる環境問題、カオナシのキャラクターから見てとれる他者と上手く関われない若者)を暗喩した圧倒的メッセージ性。
それでいてファミリー層もしっかりと楽しむことができるコミカルなキャラクターと描写。
何よりとても2001年とは思えない圧巻のアニメーションクオリティ。

ジブリのこれまでをつぎ込んだ集大成のような作品で、邦画市場歴代最高の興行収入を叩き出したのも納得と言えるでしょう。
何よりもこの年になって劇場で見れたのが嬉しいです。コロナ禍で世間は揺れていますが、正直これは嬉しい誤算でした。
今回を機に名作は定期的にリバイバル上映していただきたいものです。

(ダークナイトの4DX上映も見てきましたが迫力凄かったです。来週からパトレイバーの4DX上映も始まるので見に行きます。)

投稿 : 2020/07/14
閲覧 : 269
サンキュー:

12

ネタバレ

雄太 さんの感想・評価

★★★★☆ 4.0
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 4.0 音楽 : 3.0 キャラ : 3.0 状態:観終わった

★★★

働くってどういうことか、教えてくれる。

投稿 : 2020/03/15
閲覧 : 204
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2

ネタバレ

薄雪草 さんの感想・評価

★★★★★ 4.9
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 4.5 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

むすんで ひらいて 手をうって むすんで♩

・・・? 

ちひろ?・・・・・・はて?・・・・・・。
そんな名まえの子がここに来ていたかなぁ。

ワシらにはみんな、徒名が付けられとってな。
いや、渾名なんてそんないいもんじゃないよ。
とにかく、名前を持つもんは、ここにはだれもおらんのだ。


ときどきあんたみたいな人間の子がひょいとやってくるよ。
何かわけあってのことなんだろうが、どうにもわしゃぁほっとけなくてなぁ。

はじめは、夢見ごこちっちゅうか、やわっちゅうか、たよりなさげなもんなんだ。
だがな、どんな子だってここに来たなら、どうあっても働かなきゃあならん。

自分の弱さを知らなきゃならん。
自分の強さに気づかにゃならん。

自分の生き方を見つけないといけないんだよ。


おぉ、銭ぃ婆のところに行く子もおるんだ。
片道電車でなぁ、一人っきりで行くんだよ。

もう長いこと乗りっぱなしで迷っとるやつもおるってうわさだ。
だれを待っているのか、何で待っておるのか、理由を忘れちまってるやつもおるらしい。
どういうわけだか、いつの間にかここから出て行ったやつだっておるってリンが言うとったなぁ。

ワシはかまたきしかできん。
いろいろは知らないんだよ。
銭ぃ婆のことは、こわいとしか聞いとらんのだよ。


そうか、おまえさんも行くのか。
間違えるなよ。沼の底っちゅう六つ目の駅だ。
まっくらで、深いみなそこになっとるってこわい話を聞いとる。

なにがあっても、と中で降りちゃならねえ。
何があっても、そこで降りなきゃならねえ。


えっ? 知っている?
おまえさん、そいつをだれから聞いたんだい?






ちょっと、かまじいさん!
銭ぃ婆のとこ行くきっぷなんか、いったいだれがもってるっていうのさ!

あ~あ、どうすんだよ!?
銭ぃ婆のところに行く気まんまんだよ!!この子もさぁ!?

え?あたいってかい?
なんだい、あんた。あたいはリンっていうのさ。
いつまでたっても、こんな使いっぱしりさ!!






ええ、あの子のことは、良く覚えていますよ。
そう、たしか、ちひろって言っていたわよね。

とてもいい名前だったわね・・・。

さぁ、あなたもゆっくりしていくといいわよ。
お茶を入れるからね、あったまっていきなさい。
フラフラじゃないの? え? 歩いてきたって?
あきれた子だね・・・。

この子を知ってるってのかい?
この子はカオナシっていうんだよ。
ふふっ、がんばりやさんになっているでしょう?

あんたにもおみやげを作ってあげるからね。
たくさんの細い糸をより合わせて作るんだ。
さぁ、髪留めができたよ。たばねてごらんなさいな。


あなたをしばるものはとっくにほどけています。
あなたはもう、子どものままじゃありませんよ。

たった一字でも、大切なはたらきがあることを忘れないで。
これからあなたは、大きくて広い世界を歩いてゆくのですから。



湯婆婆のけい約だって?
あの人のあしらい方は、あなたのこころの中にあります。

言葉の力を信じなさい。
それがあなたの力を解き放つ ら針ばんになるのですよ。


そろそろ迎えが来るころじゃない?・・・
ほら、さっそく来たみたいだよ・・・。
今度はだれが来たんだろうね。






ちひろの名は聞いたことがある。

ちひろのおかげで、わたしも私を取りもどせたんだよ。

さぁ、きみもちひろと同じように新しい場所に行けるはずだよ。

私は、いつも、どんなときも、そなたといっしょだ。






ちひろだってぇ~っ??

あの子は自分のことばっかりだったじゃないか!

働かせてくださいっっ!! だなんてさ。

なんでまた、あんなにたくさんの結界を張っておいたのに、くぐり抜けて、またぎ渡って、登りつめてやってきちまったんだろうねぇ。

いったいぜんたい、どうしてあんたみたいな子ばっかり、うちにやってきちまうんだろうねぇ。



え? 千やその子を呼んだのは私じゃないかってかい?

バカ言ってんじゃないよ!
勝手に来ちまったのさ、千もこの子も!

あたしゃ、よっぽどナメクジやカエルのほうが扱いやすいっていうのにさ。


口答えはする、きまりは破る、だだはこねる。
八百万の神々さまのお世話だって、まともにできゃしない。
挙句の果てに、名のある神さまだってぜんぜん畏れちゃいない。

まったくどうかしてるね! 人間の子ってのは!



・・・とっとと何処となりでも行くといいさ・・・。

やれやれ、まったく、とんでもない約束をしちまったもんさ・・・。







何してるの~!? 早く戻って来なさ~い!

だいじょうぶかい? さぁ、おいで。

お父さん?・・・・。 お母さん?・・・・。

これって?・・・・。 もしかして?・・・・。

でも、なぜ? どうして?・・・・。

あ! 私、銭ぃ婆さんからもらった髪留めをしてたんだ!



本当にあったんだ・・・。

いちばん大切な私の命と、つぎに大事な私の勇気を、守って、みちびいてくれてたんだ・・・。



お母さん! 私ね、この町の小川に、名前を付けてみたいの。

お父さん! 私ね、この町で、お話したい人を見つけたいの。


たぶんね。きっとね。

これからのわたしは、大丈夫だって思うの。







だれにだって。

いつだって、どこへだって、だれとだって

色あせることのないステキな旅が、始められます。


そこには、あなたを待っている人がいるかもしれませんよ。

あなたに、"名前を呼ばれたい" って願っている人が、ね。

投稿 : 2020/01/30
閲覧 : 324
サンキュー:

13

ネタバレ

USB_DAC さんの感想・評価

★★★★★ 4.7
物語 : 5.0 作画 : 4.5 声優 : 4.5 音楽 : 4.5 キャラ : 5.0 状態:観終わった

日本人が大切にしてきたアニミズム

★物語
宮崎作品らしくファンタジーでありながらメッセージ性を強く感じる
作風。縦社会の厳しさや人間の私利私欲、子育ての在り方、環境問題、
人種差別、そして礼節など様々な問題を浮き彫りにし、その中で揉ま
れながら、親を取り戻す為に自我を失わずに懸命に向き合おうとする
少女の姿を描く。ごく普通の子供たちが持つ恐怖心や欲の無さ、誠実
さや優しさを見事に表現する主人公千尋。近しい子供たちに「大丈夫、
あなたはちゃんとやっていける」と監督が伝えたそのエピソードから、
千尋の様に強く優しく生きて欲しいという想いを感じる作品です。


★作画
約20年前の作品とは思えない細かさと色使い。千尋とハクが歩く花
の壁の駆抜け感は実に見事です。その後、畑で語り合う二人の背後に
描く影が身体に合わせ小刻みに揺れ動く描写など、非常に細かく描か
れています。改めて安藤雅司氏の拘りを感じる作画です。


★声優
何度観ても菅原文太さんの声は微笑ましく、優しさに満ち溢れている。
彼が言った「え~んがちょッ」「分からんか?愛だ、愛ッ!」は記憶
に残る台詞。そしてもう一人の大御所夏木さん。実に魔女らしい二面
性を持つ二役の演技は見事だったと思います。

また千尋(声:柊瑠美さん)、ハク(声:入野自由さん)を含め、他
の方々もとてもキャラクターらしい演技をされていました。


★音楽
主題歌「いつも何度でも」、テーマソング「いのちの名前」。
屈指のライアー奏者で、ソプラノ歌手でもある木村弓さんのとても優
しい歌声。哀愁漂うその歌詞の内容にとても胸を打たれます。


★キャラ
敢えて普通の少女らしく描かれた千尋。最初はあまり馴染めなかった
その顔も、時間を追う毎に誠実さと優しさ、欲の無さに魅力を感じて
いきます。時折ひっくり返る声も逆にリアルでいい。丸いつぶらな瞳
は今はとても可愛らしく感じます。

湯屋で働く男衆はカエルで女衆はナメクジの化身。蛇(龍)はハク?。
まるで三すくみの関係を示すかのようです。八百万の神々も良く知る
ものばかりで、その描写も大変個性的で面白いものがあります。

最初は千尋に対して厄介者扱いだった従者達が次第にその存在を認め、
最後の別れに神々を含め全員笑顔で手を振る姿にはとても感動ました。



[あらすじ:神々が住まう不思議な世界]
{netabare}
知らない街への引越と親友との離別。

薄桃色のスイートピーをいつまでも握り絞め、理砂との別れに拗ねる
千尋。臆病で柔弱。何処にでもいるごく普通の少女。

新居にあともう少しというところで道を間違え、やがて行き止まりに
聳える立派な赤門を見つける。好奇心旺盛な父親と共に嫌々ながら入
口の長いトンネルを潜り抜け、廃墟と化したテーマパークらしき場所
に辿り着く。何気に楽しそうな両親に対して、やはり浮かぬ顔の彼女。

その後、匂いに誘われ腹を空かした両親は、その先に見えた全くひと
気の無い食堂に立ち寄る。そして「後で金を払えばいい」、そう言い
ながら勝手に食べ物に手を出してしまう。「でも黙って人の物に手を
出すことは、とてもいけない事」。とても真面目で臆病な彼女は母親
に誘われるものの頑なにそれを拒み、無言でその場を後にした。

奥の階段を上った先で「油屋」と書かれた湯屋らしき建物を目にする。
橋を渡る途中で通り過ぎる電車を眺めていると「ここへ来てはいけな
い。早く戻れ」と一人の少年が声を荒げて近寄って来る。全く事情が
呑み込めず、文句を言いながらも慌てて両親の居る食堂へと走る千尋。
しかしそこに二人の姿は無く、何故か同じ服を着た豚が座っていた。

増々頭が混乱し懸命に二人を探し回る内に、街の周りには既に水が満
ち溢れ、このままでは元の場所へは帰れないことを知る。これは夢で
あって欲しいと泣きじゃくり、その場にしゃがみ込んでしまう千尋。

次第に薄れる自身の姿と、この世のものとは思えぬ姿の神々に怯え慌
てふためく。その後、再びハクと名乗るあの少年が現れ「其方の見方
だ」と語り優しく彼女を諭す。そして丸薬を口にさせ、薄れる彼女の
姿を取り戻した。いずれ豚と化した両親にも会うことは出来ると語り、
その為には先ず湯屋で働く事が必要だと、彼女の潜入に知恵を貸す。
{/netabare}

[あらすじ:湯屋で働く千尋]
{netabare}
言われた通り釜爺がいる場所へと無事に辿り着き、「ここで働かせて
下さい」と懇願する。そこで石炭に押し潰れたススワタリを見兼ね仕
事を手伝うが、一斉に怠け出した彼等を見た釜爺に他人の仕事を奪っ
てはいけないと逆に怒られてしまう。その後、食事を持って来たリン
に大騒ぎされるが自分の孫だと偽り千尋を庇う。そしてどの道働きた
いなら湯婆婆の所に一度行けと、イモリの黒焼きを餌にリンに彼女を
預けた。去り際に彼女に礼儀作法を教わり、改めて釜爺に一礼する。

その後、彼女の粋な計らいで無事に湯婆婆の部屋に行き着き、「ここ
で働かせて下さい」としつこく願う。千尋との騒ぎに驚き暴れる坊に
手こずる湯婆婆。居た堪れず、彼女との契約と引き換えに千尋の名前
を奪い、新たに『千』と名付けた。そこで再びハクと出会い、湯屋に
向かう途中で声を掛けるが、冷たくあしらわれ落ち込んでしまう。

翌朝、ハクに誘われ両親の居る豚小屋に向かう。人であった頃の記憶
はもう残ってはいないと言われ、二人に声を掛けるがやはり気付かな
い。畑の片隅で悲しみに耽る中、失った私服をハクから受け取る。そ
して何気なくポケットに入れていた理砂からのメッセージカードを見
つめ、自身の本当の名前を思い出す。「元気を出して欲しい」と彼が
お呪いをかけて作った握り飯を目一杯頬張り、彼の優しさに触れ大粒
の涙を流しながら泣きわめく。その後、彼と別れた帰り道、橋の袂か
ら青空に昇る白龍を見つけ、いつまでも眺めていた。
{/netabare}

[あらすじ:腐れ神と河の神]
{netabare}
気を取り戻し仕事に精を出す千尋。雨が降るその夜、庭に居た『面を
被る者』に声を掛け、濡れるからと彼の為に窓を開けたままにした。

その夜、湯屋にとっては招かれざる客人である『腐れ神』が来ていた。
鼻を塞ぐ程の悪臭を放つ神を任される千尋。直前に『面を被る者』か
ら渡された薬湯の札を使い、見事身体中に刺さる川のゴミを引き出す
ことに成功する。そして最後に残された釣り糸を抜いた瞬間、本来の
姿である『河の神』が復活。「よきかな」と喜ぶ神は千尋にニガダン
ゴを褒美に渡す。湯場を去ったその床には大量の砂金が残されていた。
喜ぶ湯婆婆に抱きつかれちょっと嬉しそうな千尋。
{/netabare}

[あらすじ:カオナシ]
{netabare}
仕事を終え部屋で寛ぐリンと千尋。その時ハクの妙な噂を耳にする。

その後、あの『河の神』が浸かった後の暗い湯場で、拾い残した砂金
を夢中で探す青蛙。気が付くと湯の無い風呂桶には『面を被る者』が
いた。そこに入いるなと言いながら、まやかしで作られた溢れ出る砂
金につい目が眩み、彼に近づく青蛙は一飲みにされてしまう。

次々と砂金を生み出し、皆を叩き起こす『面を被る者』。気前の良い
客と持て囃され調子に乗る彼は、ありったけの食事を用意させながら、
やがてこの場に千尋を差し出せと要求する。

部屋に戻り、海を眺める千尋。とその時、凄まじい数の紙の式神『ひ
とがた』に追われ逃げ惑う白龍が姿を現す。間一髪部屋に逃げ込んだ
彼に一声を掛けるが、再び外へ飛び出し湯婆婆の元へと去って行った。

慌てて湯婆婆の元へと向かう千尋。やっと忍び込んだ部屋で傷付いた
白龍を見つける。そこで『ひとがた』が化けた湯婆婆に瓜二つの姉銭
婆と出会う。そしてそこに現れた『坊』をネズミに、『湯バード』を
ハエドリに、『頭』を坊に変えてしまった。

しかし暴れる坊(頭)に一瞬気を取られ、その隙に『ひとがた』を白
龍の尾で破壊されてしまう。と同時に千尋たちは地下へ落ち、やがて
釜爺の元へと辿り着く。弱り切った白龍を心配する二人。千尋は咄嗟
に手にしたニガダンゴを彼に食べさせ、呑み込んだ契約印と身体に忍
び込んだ呪いの虫を吐き出させる。その後、千尋はハクが盗んだ印鑑
を銭婆に返しに行くと言い、釜爺から使い古しの切符を手に入れる。

その後、リンに呼ばれ、カオナシの元へと向かう千尋。凶暴な妖と化
した面を被る者『カオナシ』は、千尋に気に入られようと料理を振る
舞い大量の砂金を差し出す。しかし彼女は全くそれに興味を示さない。
その後、千尋に食わされたニガダンゴのせいで怒り狂い、食べた物全
てを吐き出しながら千尋をひたすら追いかける。リンが漕ぐ桶に乗り
駅に向かう千尋。彼女に追いついたカオナシは凶暴さが消え大人しい
姿に戻っていた。そして彼女と共に電車に乗り、銭婆の元へと向かう。

消えた千尋に怒り混乱の責任を咎める湯婆婆。彼女のお陰で助かった
と千尋を庇う青蛙。ハクは坊と千尋は銭婆の元へと向かったことを告
げ、彼等を連れ戻す代わりに千尋たちを元の世界に戻すよう懇願する。
{/netabare}

[あらすじ:銭婆の住む家へ]
{netabare}
辺りも暗くなった頃、漸く銭婆が住む沼の底という寂れた駅に着いた
千尋たち。礼儀正しいカンテラに道を案内され彼女の家へと招かれる。

銭婆に深々と頭を下げハクの罪を詫びる千尋。寛ぐ中でハクと両親の
命を心配し、湯婆婆の元へ帰ると涙を流す。掟によって自身は手出し
が出来ない。が、彼を助けたいなら忘れた記憶を思い出し、自分自身
で努力することが大切だと教えられる。帰り際、皆で紡いだ糸で拵え
た髪留めをお守りに貰い、白竜の背に乗り湯婆婆の元へと飛び立った。

懸命に記憶を辿る千尋。幼い頃靴を拾おうと川に落ち、溺れかけた自
分はある者に助けられたことを思い出し川の名を彼に伝える。彼の本
当の名前はハクでは無く『饒速水琥珀主』。今は埋め立てられこの世
には存在しない「コハク川」という川の主(神)だった。
{/netabare}

[あらすじ:神々の世界との別れ]
{netabare}
無事に油屋に戻った千尋たち。橋の上で彼女たちを元の世界に戻して
欲しいと訴えるハク。すっかり千尋を気に入ってしまった坊も「千を
泣かすな」と彼女を困らせる。仕方なく湯婆婆は彼等に従い、契約解
除の条件として難問を千尋に言い放つ。12匹の豚を前に本当の親を
探せと言われたが、ここに親はいないと即答し、その瞬間、湯婆婆と
の契約は見事破棄された。それを見て「大当たり~」と喜ぶ一同。

「お世話になりました」。湯婆婆に深々とお辞儀をする千尋。湯屋の
皆に手を振り、ハクと一緒に街の入り口まで走る。水の引いた草原の
手前で足を止める二人。「この先は決して振り向いちゃいけない」と
語り、いつか湯婆婆の弟子を辞め自分も元の世界に戻ることを決意す
るハク。彼は自らの身を持って無事彼女たちを元の世界に送り届けた。

丘を越えた先には千尋を待つ両親がいた。しかし何故かこの世界の入
り口である赤門は古惚け、それを抜けた先で後ろを振り返ると、まる
で全てが幻だったかのように、古びた石垣造りの門が目の前に広がる。
そして振り返る彼女の髪は、あの紫色の髪止めで結われていた。
{/netabare}

[ハク]
{netabare}
名がある川と名があまり知れぬ小さな川。ハクはそんな小さな川の神。

幼い頃に千尋がコハク川で溺れた記憶が失いかけた為、ハクは俗世に
戻れなくなった。開発に伴う川の埋め立て。小さな川で遊んだ記憶も、
埋め立てや土地を離れることで、人々はその存在さえも忘れてしまう。
千尋が取り戻した記憶で彼が例え俗世に戻れたとしても、川そのもの
が失われた今、行き場を失う可能性は非常に高い。そして完全に人の
記憶から消え去ることで、その一生は終わりを告げる。湯婆婆が彼を
八つ裂きにすると言う台詞。きっとそれは失われていく自然への愁い
と社会の現実を暗示しているのだと思います。
{/netabare}

[釜爺]
{netabare}
湯屋でひとり多忙を極めるボイラー担当の釜爺。まるでクモの様なそ
の身体つきは2本の足と6本の腕を持つ。まさに忙しい時には人の手
が欲しいという思いを具現化した存在。ハクに次いで千尋を思う、厳
しくも心優しき達者な老人。個人的に大好きなキャラです。
{/netabare}

[カオナシ]
{netabare}
千尋が銭婆の元へ旅立った際、電車の乗客たちは体が薄れ、顔の表情
が無い描き方をしていました。監督がその後明かしたカオナシの正体
を「電車に乗る人々」と答えたことからも、その想いが感じられます。
社会で生きる多くの現代人が、自我の意思を殺し、その社風に染まり
切る。そして表情は希薄な癖に欲望だけは大きい。自我を失わない千
尋に憧れ、後を追い、漸く居場所を見つけたカオナシは、千尋との別
れ際に手を振り微笑んでいる様にも感じます。社会を彷徨う彼の様に
は決してならないで欲しい。そんな監督のメッセージを強く感じます。
{/netabare}

[アニミズムと言霊]
{netabare}
日本人が抱くアニミズムの思想。「生きとし生けるものすべてに魂が
宿る」と信じられ、古くから八百万の神々と呼び崇められてきました。
幼い頃から何気なく慣れ親しんだその信仰心も、時代と共に少しずつ
荒廃してきている。何故か劣化していた出入り口の門や荒れ果てた鳥
居と足元の祠、また川の主であるハクのことも、まさしくそれを暗示
している様にも思えます。自然と共にある信仰心が薄れた結果、自然
破壊が進み、それを止める手立てさえ見失っているのかも知れません。

また千尋が「消えろ」と叫んだ結果、自身の姿が透ける描写がありま
した。日本にはアニミズムと同じく『言霊』という発した言葉に魂や
力が宿り、自身や周囲に影響を及ぼすという思想があります。それは
時に災いを招き、時に幸せを呼ぶ。千尋がハクの本当の名前を語って
彼に勇気を与えたように、言葉にはとても不思議な力がある。だから
こそ気持ちは常に前向きであるべきなのでしょう。

※因みにアニミズムとはアニメの語源でもあります。
{/netabare}

[感想]

当たり前ですが、人々が暮らしていく為には働かなければなりません。
サラリーマンであれば、会社の都合に合わせ転勤さえする必要があり
ます。例えそれは子供にとっては勝手な都合であっても、親たちにし
てみれば家族の生活を守る為の、謂わば避けられない大切な事情です。

釜爺との出会いや湯屋での厳しい奉公も、この世界を通じて社会の簡
単な仕組みを彼女の様な世代に優しく語り掛けている。幼い子供は誠
実で穢れが無い。だからこそ、それに一早く気付かせ、いつか立派な
人間として成長して欲しいという願いが込められているのでしょう。

また両親が豚になるというあの描写は、世の中の理を無視し私利私欲
に生きてしまうと、あの様な醜い姿に変わってしまうかも知れないと
いう大切な教え。そして親が居なくなることの悲しさや苦しみも同時
に伝えているのかも知れません。

今の子共達は「生きる力」が衰えていると語る宮崎監督。社会や親か
ら過剰に守られ、あまりに危険から遠ざけられ過ぎていると。本来子
供たちは生命力が溢れ出ているはず。今日の楽で豊か過ぎる環境の中
で失ってしまったその力を、どのようにして呼び覚ますのか。千尋を
通し湯屋で懸命に働きそして困難を乗り越え、様々な神や化身たちと
臆せず接することで、その可能性と希望を描いているのだと思います。

千尋の成長を観た多くの子供たちに監督の想いが伝わったことを願い、
そしていつまでも古き良き文化が失われんことを。



以上、拙い長文を拝読いただきありがとうございました。


2019.12.21 誤字修正
2019.12.21 誤字再修正
2019.12.22 誤字再修正

投稿 : 2019/12/22
閲覧 : 409
サンキュー:

23

ゆん♪ さんの感想・評価

★★★★☆ 3.8
物語 : 4.0 作画 : 3.5 声優 : 3.5 音楽 : 4.0 キャラ : 4.0 状態:観終わった

見るごとに面白い!

最初は劇場で観て、まあジブリだな~って思ったくらいだったんだけど、地上波で毎回みるごとに千尋が段々良い子になってくな~とか、ツンツンしてるハク可愛いな~とかの度合いが強くなってくるw

豚になった両親もなんか憎めなくて可愛いw

川の主の「よきかな~」にほっこり
てか仏語版の「セボ~ン」を聴いてみたいな~^^

投稿 : 2019/08/22
閲覧 : 299
サンキュー:

4

Chris さんの感想・評価

★★★★★ 4.7
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 4.5 音楽 : 4.5 キャラ : 4.5 状態:観終わった

Best Ghibli movie ever made?

Spirited Away for me is an anime that I hold close to my heart as my favorite anime movie, and it's what I think is one of the best animated movies produced in Japan.

投稿 : 2019/07/20
閲覧 : 283
サンキュー:

4

ネタバレ

kawadev さんの感想・評価

★★★★★ 4.9
物語 : 4.5 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

初めて買ったDVD作品

ブームの頃、DVDを購入して見た作品。初めてDVDを買ったのはこの作品。

千尋の成長物語…なのだろうが、それに気付くのに時間が掛かった。

その後のお話…と言うのか?ハクがどうなってしまうのか?が気になった。

投稿 : 2019/06/19
閲覧 : 296
サンキュー:

6

washin さんの感想・評価

★★★★★ 4.4
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 3.5 音楽 : 4.0 キャラ : 4.5 状態:観終わった

一般人が選ぶ宮崎駿作品の最高傑作

宮崎駿は天才ですね。と再確認させられました。お風呂のシーンが最高。電車のシーン最高。印象的なシーンが多すぎて困っちゃう。

投稿 : 2019/06/12
閲覧 : 379
サンキュー:

4

ネタバレ

fuushin さんの感想・評価

★★★★★ 5.0
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

ギャングエイジのインパクト。(追記しました)  

初めての円盤購入作品です。
本作は小学4年生に特有の物語。前半はギャングエイジ。後半は発達。二つのキーワードを用いてアプローチします。

★ 前半、スタートです。
{netabare}
● 本作が生まれる背景に、宮崎氏がジブリスタッフの子どもさんに、恋愛マンガではない "別の作品" を創りたかったという逸話はよく知られています。そのお子さんたち、年齢は10歳くらいだったのでしょうか? それにしてもアニメ監督らしい独創的なアプローチですね。

● 千尋の年齢にちびっと近いキャラを。
{netabare}
ワカメ(サザエさん)、サリー(魔法使いサリー)、アッコ(秘密のアッコちゃん)、静香(ドラえもん)、セーラ(小公女)、ももこ(ちびまる子ちゃん)、ハルカ(ポケモン)、めんま(あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない)、四葉(君の名は)、ハマモトさん(ペンギン・ハイウェイ)たちですね ♡
{/netabare}
● ギャングエイジって何?
{netabare}
ギャングエイジ。『大人からの旅立ちの時代』の意味があります。親への口答えや反抗的な態度、友だち付き合いを優先するようになって、少しずつ自立心が芽生えだす年齢ですね。

小学4年生~6年生の子どもたちにとっての最大の特徴は、好きな友だちと一緒に遊んだり、同じ行動を共にすることで生まれる一体感に支えられる仲間集団の存在です。気の合う友だち同士、またはご近所の、あるいはちょっと上の学年の、異性の友だちもいたりしますね。同じグループで固まって裏山や河原、裏小路を走り回ったり隣の学区に遠出してちょっと冒険したりしています。男の子のほうが少し活発かな。でも女の子だって負けてはいませんね。

● コムヅカシク言えば
{netabare}
グループの中で、自発的な協働(得意なことは進んでやったり不得意なことは腰が引けたりする)の意味が分かるようになります。
また、お互いの口約束がとても重要になってきて、約束を守ることや決めたことをやり切ることに代えがたい価値を置くようになります。約束を守ったり果たしたりすることは高く評価されます。逆にできなかったときはグループのなかだけで適用される独自の罰を公開で受けることにもなります。(ときにそれは残酷なまでに。)
ルールは時と場合によってはスクラップビルドされますが、お互いの利益を共有し担保できる立場においてのみ、平等・公平が生み出されメンバーとしての立ち位置が保証されます。
その営みの中でグループの規則は自主的に制定されるだろうし、自立的に遵守されてもいきます。何よりもそのことを体験的に学んでいくのですね。
{/netabare}{/netabare}
ちびっとギャングエイジの特徴を書いてみました。なんだか先出しのキャラの人物像や集団の姿が鮮やかに蘇ってくるようですね。
{/netabare}

★ 物語のなかのギャングエイジたち。
{netabare}
ここでは、ギャングエイジの只中にある千尋の生き生きとした姿に触れてみたいと思います。
{netabare}
千尋は親の都合で前の学校の友だちから無理やり切り離されています。しかも親の気まぐれでテーマパーク?に引っ張り込まれて、いきなり一人きりで放り出されたのですね。そんなご両親、とうとう異形の姿になっちゃって・・・。

千尋は両親を心配しながらも、ハクの指示を優先して車まで戻ろうとします。もし千尋がそのまま戻っていたらその後の展開はどうだったでしょうか。彼女は10歳の壁を乗り越えもできず、泣きながら両親の帰りを待ち続けるだけだったかもしれませんね。でも物語は "真っ黒な大河" を出現させ、彼女をずぶ濡れにし足止めをしました。逆に手を差し伸べてくれたのがハクです。たしか彼の名は・・・コハク川(≒小さな白い川)でしたね。
千尋はハクの導きを受けてギャングエイジになる道を歩むことになります。

父役、兄役、青蛙、リン、釜爺、ススワタリ。彼らをようく観察すれば、やっぱりギャングエイジのメンバーとして見立てることができます。湯婆婆との契約のもとで、それぞれの立ち位置と役割を果たしていますね。毎日、決まった仕事をやり切ること。そのうえでの信賞必罰。とってもわかりやすいルールですね。皆さん、すごくしっかりしているようにも見えますが、ちびっと視点を変えれば、付和雷同・・・みたいにも感じちゃいますね。

意外だったのは、千尋とリンには "連帯責任" が課されたこと。10歳児の千尋に連帯責任ですよ。なんだかなぁ。
でも、リンって上司からは一目置かれているみたい。だって機転と度胸でみごとに千尋の窮地を救ったのですから。ホント、頼もしい。

実は、湯婆婆をようく観察してみると、彼女もギャングエイジなグループの一員なんです。一応ボス役みたいですけどね。この湯婆婆、ちびっと強欲に過ぎますね。まるで薹(とう)の立った時代遅れのような "痛い振る舞い" です。殊更にボスの地位にしがみついているようにも見えます。う~ん、問題がありそうだなあ・・・。

坊の存在もとても面白いです。坊は湯婆婆のお子さんの設定なので、ギャングエイジの "ルールの適用外の存在" なんです。そんな坊をそばにいさせるためには、特別扱いしなくちゃいけませんね。それってギャングエイジのグループに居そうな・・・"ボスの実弟" ってことじゃないですか。虎の威を借りたような振る舞いをする "下の子" っていますもんね。
それにしても他人の名前は取り上げる力はあるのに、息子の名前を付けられないなんて、湯婆婆ってちびっと歪んでいますね。

ハクを便利に使っているのはギャングエイジのグループ間の "虚勢の張り合い" に重宝な存在だからです。何といってもハクは蛙でもナメクジでもなく龍神ですからね。でも、みなしごまいごの幼い龍神です。使い捨てにするなんてちょっとかわいそう。ハクには秘密のヤバい役割が振られていて、彼もそこにしか自分の活路が見いだせないようです。だって彼は龍神なのに手のうちあるはずの "玉" がないんですよ。ハクにとっての "玉" って何だと思いますか?"名前" だけ、じゃないですよ。

ところで、銭婆だけはギャングエイジの年齢ではありませんね。湯婆婆よりもずっと大人で、ずっと度量が大きいです。そんな銭婆は双子のお姉ちゃん。湯婆婆が張り合っている相手は銭婆ですね。湯婆婆が嫌うわけがなんとなく分かりますね。

さて、とにもかくにも、千尋はそんなとんでもなギャングエイジのグループに所属してその役割を担うことで、自分の立ち位置を自分で開拓していくことになります。

● それに反してギャングエイジのルールに乗れなかったのが、千尋の両親とカオナシでした。
両親はルールに引っかかり途端に排除されます。勝手に乗り込んできたヨソモノが傍若無人の振る舞いをしていたらハブられても罰をうけても仕方ありませんね。うん、やっぱり湯婆婆へは礼を立てなきゃいけません。一応、ボスなんですから。

カオナシは最初のうちは立ちすくむだけでしたが、従業員が "ほしがり屋さん" だと気づき、欲心を上手にくすぐり、先ずは弱っちい青蛙を抱き込みました。やがて客として強欲の限りを尽くすのですが、千尋にイタイところを指摘されて脆くも崩れました。
彼のほしかったもの。それは千にもあげられないもの。彼に足りなかったもの。それは千がとりくんでいるものです。

カオナシに必要なものは、例えば、保育園の年中(4歳児)組で取り組まれる "目的意識に添った行動" の獲得なんですね。例えば、お昼寝用のお布団を自分で運ぶとか、お昼ご飯の前やおトイレのあとに手を洗うとか、お友だちを呼ぶときはお名前で呼ぶとか、そういう "自分の行動と身の回りの世界とを馴染ませる知恵と技術" なのですね。
彼にはそれが理解できないし身についていなかったですね。ですから彼の行為と行動は、4歳の壁を乗り越えていない子どもの象徴なのでしょうね。千尋の両親と同じく、食べ物の匂いにつられて油屋にやって来たのでしょうがちびっと早すぎました。彼はギャングエイジのグループに入れるだけの発達段階ではなかったのです。ちょっと大人びちゃった "効かん坊" でしたね。

彼は、従業員を呑み込むというギャングエイジの最も大事なルール(=集団の維持)に反する行為を犯してしまったことで、湯婆婆からお叱りを受けグループから追放されてしまいます。どんなに大きな顔で、大盤振る舞いを求めても、大人の人(神様)が食するお料理が、彼のお腹に合うはずがありません。4歳児がブラックコーヒーを飲んだりワサビ入りのお寿司を食べられないのと同じです。彼は嘔吐を繰り返し、結局ぜんぶ吐き出してしまいます。
千尋がにが団子を食べさせたのは、「小さい子のままでいいよ」という意味ですね。

千尋の "お姉さん的な配慮" と、銭婆の "お母さん的な優しさ" で、新しい居場所を見つけられたのは、彼にとっては僥倖(ぎょうこう)なことでしたね。
なお、4歳の壁については、拙レビュー、未来のミライを、10歳の壁についてはペンギン・ハイウェイもご覧くださいませ。ペコリ。

さて、個人的に、千尋がギャングエイジとして一番輝いていると思える場面があります。ちなみに千尋が "働いているシーン" ではありません。
それは、手早くたすき掛けをしてパイプに向かって一気に駆け下りていく場面。ハクに会うために油屋の外壁を必死に這い登っていくシーンです。何度観ても、仲間を思いやるギャングエイジの実相を描いているとんでもないシーンだと思うのです。私はこの場面だけで、☆5個付けちゃいます。
ところで、千尋は "両親に会うため" に、あの外壁を登ることを実行できたでしょうか?
{/netabare}

● 千尋は油屋で驚くほどたくさんの経験をしていますね。5点ほどに整理してみたいと思います。(5点の項目は、文部科学省、"子どもの発達段階に応じた支援の必要性" より抜粋したものです。)
{netabare}
● その1。 抽象的な思考への適応や、他者の視点に対する理解。
 
千尋は、ある程度は自分の身の回りのことや自分の心のありようも理解できる女の子。でも、いきなりの油屋です。具象の世界から抽象の世界に放り込まれました。ハクとの出逢いからリンとまんじゅうを食べるまでの展開は、まるでジェットコースターのようです。淋しさに涙を隠せないのも仕方ないですね。
釜爺が優しく接してくれるのはハクの配慮だし、リンが世話を焼いてくれるのは釜爺の配慮ですね。そのことは千尋もしっかりと感じていたみたいだし、どう振舞えばいいかすぐに理解できていましたね。
千尋の気づきと頑張りは、とんでもなく凄いことだと思います。

● その2。 自己肯定感の育成。

千尋は、できないことと、できなさ加減に戸惑いながらも、働くことを自分に課していました。やるべきことがはっきりと分かっていて、やりきることでどんな評価を受けるのかもしっかりと学んでいるようです。そのことが油屋にいられる唯一の理由だと承知しているし、両親と一緒に油屋から出られるたった一つの担保なんだということも理解できているみたいです。決して大それた夢じゃないし、だからといって何をどうしていいかさっぱり分からないけれど、目の前の仕事をしっかりと熟(こな)していくことが一番大事なんだってことを千尋は分かっています。分かっていること。意識と行為が自己評価できること。それが、千尋自身の羅針盤になっています。
だから、千尋はカオナシに「あなたは帰った方がいいよ」と言えたのです。
カオナシは、まだ自分のことさえ分からない "幼さがある" ことを千尋には感じ取れていたからですね。カオナシのポジションって意味深ですね。

● その3。 自他の尊重の意識や、他者への思いやりなどの涵養。

千尋はいろんな場面でいろんな人(従業員や神様)とふれあい、心を向けあい交わらせてきました。ギャングエイジはまだ子どもだけれど、大人の振る舞いをしなくちゃいけないときもありますね。自分勝手な振る舞いだけでは、働く場所も、寝床も、ご飯だってありつけはできませんものね。
そうして自然と身につくもの、いつの間にか知らず知らずのうちに、心の真ん中に芽生えるものが、"おかげさま" という他者への気振る舞いです。
仲間のなかでこそ、千尋は生きていくし活かされていく。だから、見取り稽古。よいおもてなしは直ぐに真似をする。だから、体で覚える。叩き込む。身体が先に動くまで繰り返しやり直す。それだから一騎当千の働きもできるようになります。ひたすらに他人のために、ひたむきにお客様のために。それがひいては自分のためにもなるのです。そう思えばこそ、恥ずかしいとか、気が乗らないとか、面倒くさいとかの後ろ向きな気持ちは、欠片も必要ありません。
身の丈で働くこと。それは千尋にとってギャングエイジを身の内に創り上げることのできる "最高の仲間と時間と場所" の実相なのですね。カオナシが、金の粒を渡そうとしても受け取らなかったのは、身の丈以上のお金をもらっても "心の涵養には繋がらないから" と気付いたからなのですね。

● その4。 集団における役割の自覚や、主体的な責任意識の育成。

これはもう、作品の中の千尋の一挙手一投足をご覧いただければ一目瞭然。
三食昼寝付きっていうだけで、ほかには何もいらないって言いきれるくらいです。
最終幕で、ちひろはハクとの約束を守って振り向こうとはしませんでしたが、でもきっと振り向きたかったはずです。ハクとの縁の始まりを思い出せたから、皆との出会いの不思議さを知ったから、銭婆とのふれあいの温かさを感じたから。そんな異形の世界に、二度とは来られないことが分かっていたから・・・。
それでも千尋が振り向かなかったのは、未知の世界に踏み出す勇気を得たからです。新しい自分を発見できたし、思ってもみなかった大きな自信も持てたし、新しいステージに立てたことの確信を得ていたからでしょう。
なぜなら、油屋には彼女を育てた仲間の集団が確かにあったのだし、仲間の信頼と歓喜とが千尋のなかに間違いなく伝わっていたからでしょう。そんな名残を深く胸に収めて、自分の主体性をしっかりと育て上げてきたのですね。彼女は油屋に行けたからこそ、真正のギャングエイジになれたのですね。

● その5。 体験活動の実施など実社会への興味・関心を持つきっかけづくり。

油屋で働く前は、引越し前の家と学校と友だちが、千尋の心の拠りどころでした。でも、油屋を堂々と出立した千尋には、そのことを懐かしむ気持ちに一区切りをつけることができたのでしょうね。だからこそ、彼女は振り返らなかったし、もう振り返る必要もなかったのです。油屋での体験は一瞬のモラトリアム。でも、もうコンプリート。卒業です。
千尋の明日のステージは "自分の学校" です。
{/netabare}{/netabare}


★ 後半、スタートです。(2018.10.31 大幅追記です)
{netabare} 
★ 物語を "発達" で見直してみます。
{netabare}
これまで、両親が豚の群れの中にいないことが千尋に分かった場面には触れてきませんでした。
だって難しいんだもん。でも、ちびっとだけならいいかな。

前半はギャングエイジというキーワードで10歳あたりの子どもの成長の実相を述べ、千尋の活動を俯瞰してみました。後半は成長の根底にある "発達" について述べてみたいと思います。

"発達" とは、学問的には、心理学→発達心理学→児童心理学で使われている言葉、概念で、人間の成長の羅針盤として活用できる "指針の一つ" です。
心理を扱うので目には見えないし手でも触れられません。また、いろんな解釈も可能な学問なので、これが本当の真理ダヨ、とも言えないところがあります。そこを前提にして「千と千尋の神隠し」を "言霊的" にも解き明かしてみようと思います。発達心理学を右手に、スピリチュアルを左手にして、本作のテーマにできるだけ近づいてみようと思います。
正直言って心理学と文芸のコラボ作品はなかなか手ごわいです。ちびっと挑戦、むちゃくちゃ仮説、なのです。あくまでも解釈のひとつとしてご理解いただければ幸いです。
よろしくお願いします。

私は、本作を、千尋の内面世界の物語、千尋の潜在意識の中で組み上げられている想念世界と仮定します。
そこで私は、荻野千尋に四つの人物像を設定してみようと思います。
① 千尋。肉体の状態。心と体がぴったりとくっついている状態です。
② 千ひろ。肉体と心がほんの少しずれて同時に存在している状態です。
③ ちひろ。肉体から離れた状態です。顕在意識、霊体と言ってもいいです。ハクが「ちひろ」と呼んでいるのは顕在意識に呼び掛けている。ちひろも自分が千尋だと認識できている。そういう状態です。
④ "千"。肉体でも顕在意識でもない状態です。潜在意識、魂そのものと言ってもいいです。自分の名前が荻野千尋だと認識できておらず、油屋で「千!」と呼ばれているときは、この④の状態です。

千尋に中にちひろがいて、その中に千がいる。三位一体で 3重構造になっている、そんなイメージですね。しかも時々ダブっている千ひろもいるので何だかややこしいです。すこぶるスピリチュアル的ですが心理学的なお話であることも覚えておいてくださいね。
もし、訳が分からなくなりましたらこの設定を思い出してくださいね。

さて、物語に戻ります。
千尋は転校することに嫌悪感を抱いています。受け入れられないものを受け入れねばならない無理難題。宿題の比ではありません。心の整理のできないままに学校も見えてきて、いよいよ現実が肉薄します。堪(こら)えている苦々しさを、不条理・葛藤・悲壮という言葉にも置き換えられず、吐露することも愚痴にも出せないままでいます。これが千尋の現実です。

● 千ひろが訝(いぶか)しげに見ている小さな祠と石像、朱塗りの建物は何でしょう。

これらは "現実からの逃避"、"不安と憂鬱な心情" が作り出した千ひろの心象像といってもいいかもしれません。 
小さな祠は、転校先のクラスの友だちの姿かな?ばらばらと崩れていて中身がないのは、顔も知らない人と友だち関係がうまく作れるかどうかの不安感でしょうか。少し高い場所から見下ろしていた石像は、担任の先生かな?。ニタリと笑っていたのは、クラスに馴染ませる方便としての作り笑いでしょうか。

私は、ここに来るまでに千尋の心理状態は相当に不安定になっていたと推測しています。転校、引越、しおれた花束。それだけでも憂鬱なのに、怪しげな祠や石像がそこかしこに点在する森、薄暗くて行き先の分からないガタガタの未舗装路、気持ちを汲み取ってくれようとしない両親。彼女はどれだけの時間、後部座席の荷物のすき間で放心していたのでしょう。窓も締め切っていて脳みそは酸欠直前。気だるさと閉塞感でお先は真っ暗。まるで世界の終わりのような雰囲気ですね。
千ひろは地団駄も踏めず、かと言って前向きにもなれず、2人でぐずぐずとのたうち回っているかのようです。

あえて "お作法" と言っておきますが、直後の展開もなかなかタフです。わざわざ4輪駆動車ででこぼこだらけの道を猛スピードで走らせて、ナーバスになっている千ひろを何度も激しく揺さぶるのです。急ブレーキでぶっ飛ばし、でんぐり返しさせています。こんなの日常にはあり得ないですよね。
ストレスフルな千ひろは身体と心のバランスをぐちゃぐちゃに崩され、意識も朧げになってしまったのでしょうか。もし千尋が転校が楽しみでたまらないっ!という気持ちなら、ロデオのように楽しくて、トンネルも秘密基地のように見えていたかもしれません。でも、ブルーな心理状態の千ひろにとってはそうではなかったのでしょうね。
なぜ、千ひろには "朱塗りの建物" に見えてしまったのでしょうか。

千ひろの記憶には、朱塗りの神社、テーマパークの建物、絵本の神秘的な挿絵などがあって、その心象風景を瞬間的に取り出しトンネルの壁面にマッピングしたのかもしれません。あるいは血液の赤色であり、肉体を潜り抜けて精神世界へと移行するという象意なのかもしれません。あるいは "発達直前の夜明けの曙、黎明(れいめい)" の心象色なのかもしれません。

ところで、強烈で突発的なストレス(交通事故など)は、しばしば心因反応を引き起こし、特に幼少期は原始反応(短絡反応、爆発反応など)が現われることがあります。心療内科などの医療の領域に関わるのでコメントはしませんが、本作とは関連性が高いと思われますので参考にはしています。
何れにしても、ちひろの出現はこのタイミングだったと思うのです。

車止めの石柱は、校舎の玄関先で出迎える人(校長先生?二宮金次郎?)っぽく見えたのかな。真っ暗なトンネルをこわごわ歩くのは、見通せない学校生活と通学路への不安な気持ちかな。日の光が差し込んでいる静謐な空間は、立ち入る前の図書館や体育館なのかな。背中を押す風は、彼女の転校を惜しみつつ送り出した元同級生の優しさが作り出しているのかな。千尋が嫌がっていた転校ですが、ちひろにはそう感じられたのかも。そんな解釈も面白いかな。

両親がずんずんと歩きだし千尋がぐずぐずと追いかける場面。「私、今ものすごく不安なんだよ? 親の勝手で独りにされるのはイヤ! どうして手をつないで引っ張ってくれないの!」という "発達前" の幼いちひろも描かれていたように思います。

いずれにせよ、千尋が両親の視野から姿を消したのはこのシーンのどこかに隠されている・・・私はそう解釈しています。千尋の役割はここで完全に終わり、そのあとの主役はちひろに交代していると思います。

● 終幕のトンネルの出口の様相が全く変わっていたのはなぜ?

このシーンも、ものすごい違和感を感じてしまうところです。
通常、視聴者は、主人公たる千尋の主観と行動に関心を寄せます。視線の先を追い、思考を読もうとし、判断と行動に解釈と理屈を付けようとします。千尋の心情と世界観に、気持ちを自然に重ね合わせていきます。
ところが、冒頭のシーンで朱塗りの建物を見あげているのは、"発達前" の千ひろです。2人の心理的なフィルターを通してトンネルを表現してあるので、視聴者にも朱塗りのトンネルが見えているのです。逆に、終幕のトンネルは "発達後" の千尋の目を通して描かれています。
これを理解することは骨です。発達心理学では "発達の前と後" では、同じ風景がガラリと違って見えるほどに "世界を掌握する能力" に変化が生まれると解釈しています。千尋の内面性は "発達の壁を乗り越えている" のに、外見上の千尋には全く変化が見られません。ここがミソです。それほどに "発達の実相" は無茶苦茶分かりにくいのです。私も、初見はさっぱり訳が分かりませんでした。

"発達" の壁を越えるということは、現実の世界を見る目が "主観的な真実" から "客観的な事実" へとシフトすること、と言い換えることができます。
真実は、それを体験した人だけに生まれる主観的な目。
事実は、それを知る全ての人に理解できる客観的な目。
それぞれの概念は、全く別のものです。
私は "神隠し" を "発達" に置き換えていますが、"目くらまし" と喩(たと)えて呼ぶことはできるかしら? もしそうであれば "め、目"、"めめ、目目" の看板がたくさんあったのもなんとなく頷けますね。

● 真っ暗なトンネルや広い青空の意味は?

このシーンはある古い信仰の形態をなぞっています。モチーフは、富山県立山にあります。立山は、白山、富士山と並ぶ日本三霊山ですが、麓にある芦峅寺(あしくらじ)に伝わる「布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)」がそれです。(ネットをご参照くださいネ。)
この灌頂会のテーマは、女性のための擬死再生です。そのクライマックスシーンが、御堂から見上げる燦然と朝日に輝く立山(霊性)との出会いです。両者のシーンを重ねれば、本作も擬死再生をなぞっていると理解できます。本作は "発達" がテーマですから厳密には違うのですが、"古い自分を脱ぎ捨て新しい自分に出合う" という観点で見れば、似ているように思えます。

劇場とトンネルの暗闇が、布橋灌頂会の "お籠り" を再現しています。視線の先の情景は、立山の霊性と千尋の想念世界のマッチング(≒接霊)です。視聴者は灌頂会に参加しているように感じ、千尋の想念世界へといつしか足を踏み入れるのですね。立山はかつて女性の入山を禁じていました。それゆえに油屋はちひろだけに許された霊性の場所なのです。しかも灌頂会ばりの "お作法" がちひろを待ち受けています。因(ちな)みに布橋灌頂会は現在でも女性しか参加できません。男性の方、残念!

接霊とは神霊から人へのプレゼントです。神々しい霊性に触れて千ひろに想念転換が起き、厳しい現実感がソフトトーン化され馴染みやすい景色に再構成されたのです。ちひろのために校庭は真っ青な空となだらかな緑の丘になり、児童玄関の階段は大きな石段になります。
それらは "学び舎としての油屋" へのアプローチなのです。

● 神隠しとは何なの? なぜ両親は豚になるの?

千とちひろが千尋として現実世界に戻るには、想念世界で10歳の壁を乗り越え新しいステージに立たねばなりません。そのためには千尋と両親との "強い信頼と絆" は、返って "邪魔" になります。

千尋は、転校で友だち集団から切り離され、引越で両親への依存を強め庇護を求めています。彼女がギャングエイジに移行するためには、この二つの課題の修正は絶対条件です。
ですから、千ひろをわざわざ両親から離れさせ姿を見えなくさせたのです。一時的に姿をくらませることによって両親との関係性を切り離し、両者のしがらみを分断したのです。まず、千尋の存在を消すことによって第一段階の分離を行なったのです。これが「千尋(肉体的)の神隠し」ですね。

終幕で両親は 「ちひろ、早く来なさい。」と呼びかけています。千ひろがいつの間にか姿が見えなくなり、気づけばひょっこりと出てきた。まるで "神隠しにでも遭っていたの?" と言わんばかりの気軽な言い方です。このくだりは、千尋は両親からは幼児扱いをされておらず、そろそろ自立してよねというスタンスが演出されています。第二段階の分離、「ちひろ(精神的)の神隠し」ですね。

先に向かって歩く両親は、ちひろを置いていくのではなくちひろが求めているから前にいるのです。両親はちひろが作り出している心象像なのですね。ただ、両親の姿かたちである以上は "発達" のブレーキになる可能性があります。そこで第三段階の分離(両親と)が演出されます。両親を "豚という異形の存在" にしてまでちひろとの距離をとったのです。取らざるを得ないのです。それほどに10歳の壁≒親への依存心の力は大きいからです。

● どうしてちひろの姿が霞んでいくの?

ここでは、ちひろが千尋から分離した決定的なさまと、両親から分離された彼女の主体性がとても弱くて不安定な心情が描かれています。

繰り返しますが、全ては千尋の想念のなかの世界。彼女の豊かな想像力が生み出しているイメージの風景です。この世界観をなんとかして自然な感じなままに、視聴者に定着させなければなりません。
そのためには、演出に "お作法" が必要です。

ちひろは意識だけの存在ですが、あたかも肉体があるかのように描いておかないと、観ている視聴者が、千尋は死んだ?幽霊になった?それとも臨死体験をしてるの?と勘違いしてしまいます。
本作は、八百万の神様を登場させてはいますが、霊界の実相や神界の姿を紹介するのが目的の作品ではありません。また、転生をテーマにはしていません。生きている千尋が、心理学的に "発達していくさまをどのようにして描くか" というテーマなわけですから、まさに生きている千尋のようにちひろを見せておかないと、あとあと辻褄が合わなくなってしまいます。
というわけで、ちひろは、千尋が創り出した想念の世界の意識だけの存在ではあるのだけれど、視聴している方にも理解しやすいように、"不思議な赤い粒を口にする" という "お作法を演出" することで、不思議な世界にゆっくりと馴染んでいき、やがては肉体を取り戻し、もともとの千尋であるかのように実体化していくさまをあえて描いているのですね。
子どもが新発売のお菓子を、大人が初めてのお料理を口にすることは、今まで知らなかった世界を受け入れ実感することのできる最短・明瞭に理解・納得のできる一番の方法ですね。

ところで、ちひろは「消えろ、消えろ」と呟いていました。今の境遇をにわかに受け入れることは難しい。だから異世界を消したかったのですね。ところが、消えていくのはちひろのほうでした。ちひろは千尋の意識ですが、肉体そのものを消すことなどできません。異世界を否定する言葉は、千尋にも向かうけれどちひろ自身にも跳ね返ってきて、その存在を消すほどに深い傷をつけてしまうのですね。

おどおどしていたちひろに力を与えたのはハクでした。彼はちひろをかばい強く手を引き "発達" への道筋をナビゲートしていきます。ときに優しくときに厳しく、ときに倒れてまでも・・・。
ハクはちひろのために努力をおしみません。なぜでしょうか?
私には、ハクがちひろに渡した赤い粒は、かつて彼の身の内を流れた "千尋の桃色の靴" を暗示しているように思えます。コハク川は千尋の身体を岸辺へと運べはしたけれど、靴を返すまでは叶わなかった。だからハクはそのことを悔やみ、いつかは返したいと願っていたのではないでしょうか。靴があればちひろは自分で歩けるはずだと。
でも、赤い粒だけではまだ十分にお作法に則ったとは言えません。

● ちびっと寄り道。
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個人差はかなりありますが、10歳の壁の面白い特徴には、5歳前後の幼児にみられる"作話の名残" があります。"作話" とは、肉体を通して想念世界がパフォーマンスされていること、つまり「私は今、魔女っこになっている。ヒーローになって空を飛んでいる。」という夢見ごこちを、そのまま現実の世界、園庭とか校庭とかで演じている、いえ、なりきっているということですね。夢想と現実の境界線がまだぼんやりしている年齢が、5歳前後の子どもの "発達" の特徴・実相なのです。
ところが、10歳の壁はそれを許してはくれません。夢はただの夢になり、現実とは違うものとして切り離されます。夢の世界で大活躍する自分を現実の世界に持ち出すことは許されないのですね。
でも、千尋は、現実の世界で10歳の壁を前にしてぐずぐずと足踏みをしています。そしてちひろは千尋のストレスを想念世界の中にまで持ちこんでいます。それを千がしょい込んでパフォーマンスするのですね。
つまり、"作話の真逆" のことをしているのですね。

本作は、千尋の現実世界の苦痛・葛藤を踏まえて、ちひろの変化(心的な発達)のありさまを描いています。千尋をちひろに投影し、そのうえで千に演じさせています。視聴者にとって彼女たちはまるで一人の人間のような三位一体の存在で、疑いようのない "真実の世界" にいます。千が演じ、ちひろを通して、千尋が体得する。そのさまを視聴者に見せています。

この演出がとってもユニークなんです。実は、視聴者の意識も、千尋の複雑な思いにシンクロしてスクリーンに入り込んでしまうのです。
なぜなら、ご自分も "いつか通ってきた道" だからです。特に、学期の途中で転校した方、あるいは学年の区切りで転校された方は共感しやすいのではないでしょうか。そうでなくても卒業の機会は何度かあります。その時に感じた不安感と期待感は今でも思い出すことができると思います。それが冒頭のトンネルのシーンですね。
その感覚は "ご自身" の懐かしい記憶として持っていらっしゃるのかもしれません。また、10歳くらい(発達年齢だよ)の妹・弟を見る "姉・兄" の感覚かもしれないし、10歳くらい(実年齢じゃないよ)の子どもを見る "母・父" の、姪・甥を見る "叔母・叔父" の感覚なのかもしれません。
誰もかれもが、いつの間にか 10歳の "発達直前" のご自分の姿に戻って、千尋とちひろと千と共に "作話の真逆の世界" を生き生きと走り回ることになるのです。
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● 息を止めるってどういうこと?

息とは「意・気」ですから「人間としての意識、気配」を表わしていると解義できますね。だから息が漏れる=意と気が漏れ出る=人間がいるということがバレてしまうのですね。これがちひろが息を止めなきゃならない理由です。そもそも油屋は千尋の意識の世界ですから、肉体的な要素は不要なのです。しかも息をする必要のない世界なのです。だって、幼いころは宇宙や海の中で大活躍できていたでしょ?
でも息を止める方法は、一時しのぎにしかなりません。

● さらに人間らしさを削ぎ落していくお作法が必要です。

それが、靴を脱ぐというシーンです。
これは "兜を脱ぐ" と同じ意味で、武装を解く、降参する、抵抗しないという解釈ができますね。
また、油屋という建築物、いわば "神様が集う結界" に入るためには、相応の作法を執る必要があります。板の間、畳の間に "土足であがる" ことは、失礼、不敬、侮辱という意味ですよね。
また、下位の立場にあると自覚させる意味、あるいは、身分を貶(おとし)めさせるという意味合いもありますね。裸足は無防備。転じて自由に外出させない、ひいては逃亡させない、つまり囚われの身であることを示していますね。
一部の外国では他人の前で裸足にさせることを "辱める" と捉える概念・文化がありますね。
靴を脱ぐシーンはわずか数秒ですが、これだけの意味を知って鑑賞すると深く味わえます。

● 次のお作法として描かれているのが、湯婆婆との契約です。

● このシーンには二つの意味があります。まず、一つめ。
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湯婆婆との契約行為がちひろの "意識性を引きだしている" のです。換言すれば "第三者の手による両親からの分離" です。

名前は人物を特定させる強力なキーワードです。荻野千尋という名前は、ちひろその人、そのものを表すものです。
ちひろの言霊のパワーのみなもとは、チ・ヒ・ロという言霊の響きから注がれます。"知・弘、智・広、血・大であり、血・火・炉、千・引・路" です。これらからは、人間が作り出してきた尊い価値、過去から未来へ・私からあなたへと繋がっていく意志、情熱と勇気と忍耐を身の内にあまねく広げる働き、という意味合いが感じられますね。
人を解義すれば、霊(ヒ)止(ト)です。霊は、火・日・秘です。止は、止まる・留まるです。ヒトとは、秘められたチ・ヒ・ロのはたらきが、しっかりと肉体にとどまっているという意味ですね。ちひろの名前には、そんな凄まじいパワーが秘め置かれてあるのです。想念の世界にいても自我を確固たる存在にする働きが "名前" にはあるのですね。
こうした背景から、想念世界の湯婆婆にとっては「チ・ヒ・ロ」と言う名前は大変危険な記号なのです。
ですから、名前を削り、読み方を変え、そのパワーを弱めておかなければ、魔法の効力と支配がちひろの深層に及ばないのですね。

え?名前を取ったら意識性も消されちゃうみたい?
コホン、では。前述のとおり、肉体と意識と心は名前という記号で "くっつけられ" ています。くっつけられているということは、意識や心が自由に動き回ることができないというニュアンスを感じませんか?シータは飛行石とくっついていたから浮かんでいられましたが、千は名前がくっついていると自由に飛べないのですね。
意識や心を完全に自由な状態にさせるためには、重い肉体も意味深な名前も不要です。子どもが「私は○○姫よ!」と言った瞬間、その子の名前も目的も意識性も "○○姫" になる。これと同じです。つまり、ちひろが「油屋で働かせてください!働きたいんです!」と発言することは、彼女の目的そのものであり、主体性とも言えるし、意識性とも言えますね。
ハクが、ちひろに、最初に湯婆婆との契約を説明した意味はこれですね。
ちひろの意識性を引きだす、ですね。
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● 二つめです。
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ハクには、ちひろに「働きたいんです!」と宣言させることで油屋でのちひろの存在感を、もう一段、深化・固着化させる必要がありました。そのためには "ギャングエイジのグループ内で通用する名前≒呼び名" がどうしても必要になります。

本作は、ちひろの "発達" を "働く" に置き換えて、アイデンティティーの形成を表現しています。働くを「目的に適った役割」 「責任感をともなった任務」と読み替えると意味がちびっと理解しやすくなりますね。
例えば、釜爺がちひろに「しまいまでやれ!」と叱っていましたが、まさにこれですね。ちひろがすべきこと(行為)は、彼女の意識と態度(目的と存在)を明確化させることです。この三つをまとめて示している素敵な言葉ですね。
さすがは釜爺! 釜爺に繋いだハクもさすが! 釜爺まで辿りついたちひろもすごい! 引き継いだリンもかっこいい!

さて、油屋で働くためには、契約という儀式、署名というセレモニー、名前を改変する魔法が執り行われなければなりません。この演出・お作法によって、ちひろは千という名前(≒新しい記号)を手に入れて、初めてギャングエイジのグループに入ることが認められます(集団化の入り口に立てる)。また両親とも完全に分離されます(名づけの親の変更)。こうしてようやく千尋の想念世界のなかで、ちひろの新しい名前が、千として与えられるのですね。
湯婆婆との契約を済ませたことで、ちひろは晴れて千となり、油屋での居場所が確定されます。居場所というのは働く場と寝床(昼と夜≒時間)を手に入れること、おまんまにありつけるということ(命の存続)ですね。千は千としての意志と選択で、"自分の生きる意味(=意識性と主体性)" を創っていく入り口に辿り着くのですね。
新しい名を持つ。これが契約の二つ目の意味あいですね。このお作法が、"最終段階の分離" です。ついに千は、ちひろ、千尋、両親から神隠しに遭うのです。
やっと「千と千尋の神隠し」に行き着きました。よかった♡

念押ししますが、すべて千尋の脳のなかでのできごとです。これらのお作法で、千尋はちひろに深化し、千にも深化して、三位一体で体験し体得し行じていくのです。ここでの積み重ねが千尋の力の源泉としてストックされていくのです。視聴者は、千がどのようにして主体性と意識性を創り上げ、心を豊かにしていくのか、10歳の壁をどのようにして乗り越え、力を蓄えていくのかを見ることになり、やがて終幕のスクリーンで千尋の成長を我が事の成長のように感じることになるのですね。
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★ 千は、ちひろの意識の核心で、千尋の意識の中核です。
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千は、湯婆婆や釜爺、カオナシやリンから、「千!」と呼ばれているときは自分がちひろだとは思っていません。千のまま素直な気持ちで自分に向き合っていますね。千は、下働きをしながら従業員や神さまと関わるなかで、もまれ、叱られ、どやされ、励まされ、支えられ、褒められます。それは両親や学校の友だちからは得られない全く新しい体験でしょう。
千は、仕事・ハク・両親に対して "責任と目的" があります。ポイントは、誰かに何とかしてもらおうという受け身の気持ちではなく、自分に何ができるだろうかという能動的な気持ちの変化です。
おくされ様の一件では、油屋での立ち位置、とくに集団のなかでのポジションをガラリと変えました。なにせ湯婆婆に、全員にいっぽんつけさせたのですから。
カオナシの一件では、湯婆婆にとっても、なくてはならない唯一無二の存在になりました。だって大事な坊を連れ戻したわけですから。
でも、千のアイデンティティーの凄まじさは、湯婆婆の指示どおりに働くのではなく、自分の意志と判断で職場離脱までしてしまうのです。
こんなこと "発達前" の千尋にできたでしょうか?

● 片道切符の電車は、転校先の学校への通学路を彷彿とさせます。

線路の周りの風景には、認識できる建造物はほとんどありません。道中の大半は海面(水面)です。ごくたまに街らしいものが現れても、あっという間に通り過ぎてしまいます。風景もそうですが乗客の姿も同じです。千の目にはぼんやりとしか見えていないようです。
実は、逆で、千が目の前のやるべきことに集中していて、あれやこれや雑多なことを目に入れる必要はないという覚悟を示しています。同時に、この郷愁感あふれる情景は、千の9歳までの心象風景であり 彼女の主観であり、"発達" 前の舞台であり、キャンバスでもあることを示しています。壁を乗り越えた後の千尋は、きっとたくさんの美しい風景を描き、建物を創り、友だちの姿をありやかに見ることができるはずです。

● 釜爺ですら怖いと噂する銭婆は、千尋がまだ見ぬ先生や同級生との "ふれあい" を予感させます。

千が電車から降りた時は、辺りはいよいよ暗闇に包まれ、案内する明かり取りも一本足の異形です。でも、すでに千の心は定まっていてとても落ち着いているように見えます。
千は、坊を励ましますが、逆に坊に拒否されます。このやり取りのシーンは千にとっても坊にとっても重要な意味があります。千はこの電車旅でギャングエイジのグループの中でリーダーを張っているわけですが、心細さもいくらか抱えています。千の様子をようく見ていると、最初は無口でしたが、自分への問いかけ、仲間への励ましへと変わっていっています。これは、先生方、同学年、同学級、班活動などの集団との関わりあいに必要なスキルでもありますね。
そんな思いを抱えながら、知らない場所、知らない人、知らないこと、そして知れない自分の未来に向かって、変わりつつある千の姿なのです。

● 千は、銭婆が髪留めを作り上げるまで待たされるのですが、途中からハクと両親のことが心配になっていよいよ戻りたくなるのですね。この場面は、千の心の "発達" の芽が、古い自我の殻を突き破って地中から出てくる直前の状態を示しています。千は "自分の意志と力で、地上の空気を胸いっぱいに吸い込みたい" のです。芽吹き(≒発達)は、魔法の力ではなく、生き物に備わっているDNAであり、自然の摂理なんですね。壁を越えたら自分の足で歩きだすだけです。好きとか嫌いとかではなく、正しいとか正しくないとかでもなく、自分を信じ人を愛する。これが銭婆から千尋に手向けられた髪留めの意味ですね。

● 坊がやたら大きいのは、湯婆婆が坊の "4歳の発達" に "蓋をしていた" からですね。坊の "発達" はとっくに4歳の壁を乗り越えようとしているのに、湯婆婆によって "発達" の芽が摘み取られていたので、いつも不機嫌で赤ん坊の姿で留め置かれ、ため込まれたエネルギーによってブクブクに太ってしまったのですね。そんな坊を外に連れ出した千は、坊の "発達" にとっては代えがたい人です。千のおかげで坊もギャングエイジへの切符を手に入れたのです。坊は湯婆婆に言っていました。「面白かったよ。」と。
"発達" は苦しさやしんどさを伴うものだけれど、面白いことでもあるのです。
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★ "発達" 。普段は耳にすることのない言葉ですね。
{netabare}
 発達心理学では、それぞれの年齢に "壁" という概念があり、壁を乗り越えるには矛盾と葛藤に向き合う莫大なエネルギーが必要なのです。その実相は幼い自我との戦いです。自我は頑固で矮小で無知。なかなか自らを変えようとしない強敵です。でも内面の世界を広げようとするなら外の世界との衝突は避けられません。そこで必要になるのが新しい自我。心技体、知情意を "統べる能力" です。
要素分解すれば、柔軟性(新しい価値感を柔らかく受け止める)、自在性(相手や条件に合わせて自分のやり方を少しずつ変える)、発想の転換力(謙虚な気持ちを知り恥ずかしがらずに教えてもらう)、分析力と決断力(いろんなことを考えてその時々に一番いいと思うことを選ぶ)、責任能力(素直に謝れる、できる範囲でリカバーする)ですね。これらを体験し体得し行じていくことが自分自身の "発達" を自分で担保することに繋がります。
この力。一般的には "ノウハウ"。仏教では "宝珠"と呼びますね。

"発達"の大きな壁は、1.5歳→4歳→10歳と現われます。勿論、思春期、青年、壮年、老年期にも現われます。タイミングも、乗りこえ方も、個人差があります。焦らず欲張らずに一つひとつ獲得していけばいいのですね。
心理的な "発達" は、身体的な "成長" とは違って目には見えません。"自覚も、実感も、意識化も" まず不可能です。でも、その壁を乗り越えることができれば一段高い舞台から世界を見渡せるし、新しいシナリオを読み込む力を手にすることができるようになります。でも手にすることは簡単ではありません。ステージでライトを浴びたい、自己新記録を狙いたいと思うなら、深く自我に向き合わねばなりません。
千も、働くことを通じて刻苦勉励し、消化・血肉化してようやく突破したのですね。

● 千の "発達の様相"は、ちひろにも千尋にも、感じたり意識化することはできません。

千尋はちひろを認識することは可能です。ちひろは千尋の心そのものなのですから。でも、千尋のなかにいる千を感じ取ることは不可能です。いるのかいないのかそれさえも全然分かりません。そもそも千は "潜在意識" なのですから。
そう思うと、千尋には、千の思いや体験や "発達" を感知できっこありません。感知できっこない千が、千尋よりも先に10歳の壁を乗り越えてしまうのです。置いてけぼりにされた千尋は、自分の中でいったい何が起きたのかさっぱり分からないでしょう。千尋がちひろに問いかけても、ちひろにも千のことは分からないのです。この "分からなさ加減" は、まるで今の今まで、あたかも "神隠し" に遭っていた千が、いきなり千尋の前に姿を現わすようなものです。
おかしいですよね。感知できない千が、ちひろと千尋に影響を及ぼすなんて。ところが千尋とちひろにしてみたら、いつのまにかそれまでの弱気や怖気を乗り越えてもう一歩だけ足を前に踏み出してみようかなという気分になるのです。これが肉体であればトレーニングの結果という実感を持てますが、心理的な "発達" にはそういう分かりやすい実感は持てません。
壁を乗り越える(="発達")とは "生きづらさへの気づき→矛盾と葛藤に向き合う気持ち→新しい価値観の獲得" という内面性のはたらきです。これらを具体化するお作法がギャングエイジの営みの中にはたくさんあるのです。

● 本作は、千尋の心理的な "発達のさま" を、千という存在を創り出すことによって描き出しています。

千は、ちひろとも千尋とも違う立ち位置で10歳の壁の乗り越え方を体感・体得・行じてきました。それがフィードバックされてちひろを変え千尋も変えました。彼女はすでに顔をあげ視線はかなた先を見据えています。飛躍のときです。
テーマは同じでも、文学と心理学では "発達" を表現するに大きな違いがあります。本作が絶大な人気を博すのは "発達" への文学的追求とクオリティーが、緻密で滑らかで心情に溢れているという証左でしょう。ですから視聴者の意識も、抵抗なくトレースできるし、共鳴・共感しきってしまうのですね。
そう考えると幼い千尋がコハク川に落ちた瞬間から、この物語のシナリオが生まれていたように思えます。千尋は覚えていないだけで、千とハクの物語は記憶の奥底に "神隠し" されていたのです。自我を深く見つめる力を身につけた千は、龍神の "力" の象徴でもある角に触れることで、身体を岸まで押し上げた川の "力強さ" にその由来を探し当てます。ハクもまたちひろのおかげで本当の名を見つけ出します。2人は歓びの邂逅のまにまに空を翔けあがり、さらに再会を約束しあう未来にまで届く自我を創りあげたのです。
「ちひろ、ありがとう。」、「嬉しい。」という会話。ちひろとニギハヤミコハクヌシが手を取り合いながら涙するシーン。お互いの "発達" の歓びを象徴しています。"発達" を難しく感じる必要はないのです。すべてちひろと千とハクがナビゲートしてくれます。3人をなぞればいいのです。あ、油屋の皆も挙(こぞ)って応援してくれますよ。
{/netabare}

★ どうして両親は豚の群れの中にはいなかったの?
{netabare}
私は、両親は、"最初から向こう岸の建物の前で千尋の帰りを待っている" と解釈しています。

千の "発達" に伴ってちひろにも "発達" がもたらされました。2人の意識は同化し、統合、強化、明晰化されていて、油屋の橋のたもとに降り立ったちひろは既に新しい舞台に立っていたと思うのです。
ですから、両親を頼らなくてもいいくらいの自我が芽吹いていましたし、わざわざ油屋の玄関先から両親の腕にすがって帰りたい気持ちは露ほどにもなかったのですね。

ここにきてとんちのような答えなのですが、湯婆婆は千尋の作った想念世界の住人、意識だけの存在です。千とちひろは "発達" の壁を乗り越え、以前の弱い存在ではなくずっと強い自我を獲得しているので、既に湯婆婆の支配の及ばないレベルになっているのですね。ですから、ちひろが強く意識するだけで "事はすべて足りる" のです。「ここにはお父さんもお母さんもいない」という宣言は、ちひろ自身に向けた "親離れの宣誓" なのですね。

契約(≒人を雇う≒未熟さをありのまま受け入れる)とは、千尋の意識が作り出した "発達を担保する約束" です。千尋(上部意識)が銭婆(中位意識)に託し、銭婆が湯婆婆(下位意識)に託したのですね。それは同時に、千とちひろの活躍への "信用保証≒手形" でもあります。銭婆は "愛≒キリスト教の側面" で、湯婆婆は "掟≒律法≒ユダヤ教の側面" で、千を見守ったのです。何だか古神道の多様性+西洋の規律と愛という "人類の文化の統合" を感じます。

"発達" とは "統べる力の獲得" です。心技体。知情意。過去現在未来、我.人.世間。多くの価値観をインプットし、TPOに適うアウトプットをしていく時には "信愛と自律" を基礎にする必要がきっとあるのでしょうね。

● ちひろはなぜ立ち止まり、でも振り返らなかったの?

彼女は歩くたびに現実世界の千尋に近づいていきます。その一歩一歩に今までの自分には感じえなかった力強さに不思議さを感じ、油屋での物語を確かめたくなったのでしょうか。徐々に薄れていく物語には、いったい誰がいて何が起こっていたのか、その足跡をもう一度見たいと思ったのでしょうか。
でも彼女はそうした感情をグッと抑えて、ハクとの約束にだけ意識を向け一拍の間を取れるようになっていました(体感)。この瞬間、ちひろが千尋の中に戻り、くっつき、"霊・止" になり、"信愛と自律" を肉体に取り入れて(体得)、その表現もできた(行じる)。
だから千と千尋の神隠しの物語も "終わりを迎えた"。私にはそう思えるのです。

ここでいう神とは、ギリシア神話の "オルフェイス" 、古事記の "伊邪那岐命" です。両者とも愛する妻を想って?ではなく、本質は自分自身の猜疑心に負けたのです。でも千尋は振り返らず、神にも宿る弱い心を乗り越えたのです。
宮崎氏は、千尋の自我の形成の姿を通して、豊かな可能性があることを子どもたちに伝えたかったのですね。
それを示したのちに、ついに千尋は振り返り、"自分の物語" を心に刻みつけるようにして強く見定めるのです。きっと過去への未練はすでになく未来への希望だけを信じているのでしょうね。
{/netabare}

★ ギャングエイジのインパクト。
{netabare}
本作が多くの方に感銘を与え、今も支持されている理由を考えてみました。

それは本作が、ギャングエイジにとっての "バイブル" になっているからであろうと感じています。
世界中で高い評価を得ているのも、"発達" が人類共通の "進化の壁" であるがゆえに、世代も人種も越え、国境すらも越える "普遍的価値" として、真っ直ぐ伝わるからだと思います。

かつて、だれもがギャングエイジでした。
ですから、だれにでも、強いインパクトが感じられるのでしょう。
そのインパクトを "いつも、何度でも" 与えるくれるのは、あなたのなかに神隠しされている "千とちひろ" なのかもしれませんね。
{/netabare}

★ ジブリさんへ
{netabare}
劇場版の最後の1分のシーンをカットした円盤。叙情性が削がれていて作品性が台無しになっていますよ。
{/netabare}

長文を最後までお読みいただき、ありがとうございました。

本作が、皆さまに愛されますように。

投稿 : 2018/11/18
閲覧 : 580
サンキュー:

27

つきひちゃん さんの感想・評価

★★★★☆ 3.2
物語 : 3.0 作画 : 3.5 声優 : 3.0 音楽 : 3.0 キャラ : 3.5 状態:観終わった

ジブリ作品なので

典型的なジブリ作品の印象

日本独特の神様が出てきたり
日本独特の温泉(銭湯)が出てきたり
日本独特の名前の意味が出てきたり?

千尋は「今日からお前は千じゃ」と言われていましたが
彼女の名前から尋を取ることの意味は何?
神様が温泉に使っているのは?
カオナシは何の象徴?
豚になってしまった親?

ジブリ作品ならではのとても強いメッセージ性を感じますが、
正直私にはあまり理解できず。。。('ω')

そういったものをしっかりと理解できる人にとっては、
当作品は☆5.0なのでしょう。

子供が視聴するのと大人が視聴するのでは
少し注目する視点が変わってしまうかもしれませんね。

投稿 : 2018/10/29
閲覧 : 397
サンキュー:

7

ネタバレ

筒井筒 さんの感想・評価

★★★★★ 4.4
物語 : 3.5 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 4.0 キャラ : 4.5 状態:観終わった

ただの神様の集まりの話だけど、場所は湯治場か、出雲の国か!?謎のお湯屋!!

いろんな神が来る、お湯やさんの話。
ジブリによる、キャラものの代表にでも作ったのかな?

おくされ様が竜の神様だったとか、大きなカブの話をもじったようなネタも、意外な大迫力。

古きよき、の再来でしょうか?

ただ、お父さんたちが豚になって食い散らかしたり、カオナシが黄恋慕から暴れだしたり、見せたくないシーンもありますが、2次元ですからね。安全は安全です。

子供なのに、契約書に偽名を使ったりと、なんかその界隈での事件でも多い年だったのでしょうか?ジブリもついに、設定集のほか、スタッフやなにか、インタビューとかで、情報収集が欠かせなくなってきました。でも、本にネタがとられちゃうので注意する人はしておきましょう。

9/24 タイトルだけ変えておきました。

投稿 : 2018/09/24
閲覧 : 478
サンキュー:

6

ootaki さんの感想・評価

★★★☆☆ 2.6
物語 : 2.0 作画 : 2.5 声優 : 2.5 音楽 : 3.5 キャラ : 2.5 状態:観終わった

名作とは言え

自分の中では?な場面が多く、理解するのが難しかった作品でした。豚の場面はトラウマになりそうな醜さでした。

投稿 : 2018/09/16
閲覧 : 465
サンキュー:

3

ネタバレ

前田定満 さんの感想・評価

★★★★☆ 4.0
物語 : 4.0 作画 : 4.0 声優 : 3.5 音楽 : 4.0 キャラ : 4.5 状態:観終わった

キャラクターが印象的。

アカデミー賞だけあってすばらしい作品です。

{netabare}
不思議な世界に迷いこんだヒロインの千尋は
そこのお風呂屋の支配人である湯バーバに出会い、
そこで働かせてもらいます。
もともと動きが鈍く、引っ込み思案なため、
はじめはなかなか仕事に着いていけませんでしたが、
ここでいろいろな人に出会い、経験を重ね
それを克服します。
そんな千尋のモデルとなったのは
どうやらキャバクラ嬢だそうです。{/netabare}

その他にもハク、大きな川の神様、春日様、釜じいなど
個性豊かなキャラクターが出てきますが、
自分が一番好きなキャラクターはヒヨコのすがたをした、
オオトリ様というキャラクターです。
もう可愛くて可愛くて…
上映時間は2時間くらいですが、
オオトリ様の登場時間はトータルで1分40秒。
ニコニコ動画に出てました笑
そんな少ししか出ていないのに
確かな存在感を残しています。

顔なしも強烈ですがあまり好きではありません。
好きではないにもかかわらず
小学生のときに、ハロウィンで仮装しました。
仮面もしっかり手作りで。母が協力してくれました。
友達にかなり恐怖を与えました。


自分がこの映画で好きなシーンは{netabare}
大きな川の神様を大湯で世話をするシーン。
自転車の取っ手にロープを結んで、
皆で引っ張るシーンです。
あれを観たときは、思わず自分の手にも力が入っていました。
宮崎監督が川の掃除をしていた時に、
自転車が見つかったという実話をこのシーンに使ったと、
鈴木プロデューサーがテレビで言ってました。{/netabare}

ちなみにモデル地についてですが、
モデル地となったスポットはいくつかあります。
今年2018年の夏にその中のひとつに行って参りました。
場所は群馬県中之条町にある四万温泉です。
具体的にアニメでは正面の顔なしが立っていた赤い橋と
ハクが銭婆の紙の鳥に追っかけられ血だらけで飛び込む建物の外壁と内装は、
四万温泉の積善館という湯宿がモデルとなってます。
橋の上で顔なしの物真似とかしました!ただボーッと立ってるだけですけど笑
残念ながら橋の下に電車は走ってませんでした←

投稿 : 2018/09/07
閲覧 : 521
サンキュー:

12

セイバーlove さんの感想・評価

★★★★★ 4.4
物語 : 5.0 作画 : 4.0 声優 : 4.0 音楽 : 4.5 キャラ : 4.5 状態:観終わった

宮崎駿はやはり凄い

日本人なら誰でも知ってる超名作映画。うん、やっぱ面白いよねー

投稿 : 2018/04/24
閲覧 : 346
サンキュー:

1

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千と千尋の神隠しのストーリー・あらすじ

10歳の少女、荻野千尋(おぎの ちひろ)はごく普通の女の子。夏のある日、両親と千尋は引越し先の町に向かう途中で森の中に迷い込み、そこで奇妙なトンネルを見つける。嫌な予感がした千尋は両親に「帰ろう」と縋るが、両親は好奇心からトンネルの中へと足を進めてしまう。仕方なく後を追いかける千尋。

出口の先に広がっていたのは、広大な草原の丘だった。地平線の向こうには冷たい青空が広がり、地面には古い家が埋まっていて瓦屋根が並んでいる。先へ進むと、誰もいないひっそりとした町があり、そこには食欲をそそる匂いが漂っていた。匂いをたどった両親は店を見つけ、断りもなしに勝手にそこに並ぶ見たこともない料理を食べ始めてしまう。それらの料理は神々の食物であったために両親は呪いを掛けられ、豚になってしまう。一人残された千尋はこの世界で出会った謎の少年ハクの助けで、両親を助けようと決心する。(アニメ映画『千と千尋の神隠し』のwikipedia・公式サイト等参照)

放送時期・公式基本情報

ジャンル
アニメ映画
放送時期
2001年7月20日
制作会社
スタジオジブリ
Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E3%81%A8%E5%8D%83%E5%B0%8B%E3%81%AE%E7%A5%9E%...
主題歌
≪ED≫木村弓『いつも何度でも』

声優・キャラクター

柊瑠美、入野自由、夏木マリ、内藤剛志、沢口靖子、上條恒彦、小野武彦、我修院達也、はやし・こば、神木隆之介、菅原文太、玉井夕海、大泉洋

スタッフ

原作:宮崎駿、 監督:宮崎駿、脚本:宮崎駿、製作総指揮:徳間康快、音楽:久石譲、作画監督:安藤雅司、美術監督:武重洋二、プロデューサー:鈴木敏夫、色彩設計:保田道世

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