エイ8 さんの感想・評価
3.4
物語 : 4.0
作画 : 3.5
声優 : 3.5
音楽 : 3.0
キャラ : 3.0
状態:観終わった
こういうのこそ転生系主人公がやるべきやない?
『真の仲間じゃないと勇者のパーティーを追い出されたので、辺境でスローライフすることにしました』(しんのなかまじゃないとゆうしゃのパーティーをおいだされたので へんきょうでスローライフすることにしました)は、ざっぽんによる日本のライトノベル。イラストはやすもが担当。略称は「真の仲間」。
第2期『真の仲間じゃないと勇者のパーティーを追い出されたので、辺境でスローライフすることにしました2nd』は2024年1月から3月までAT-Xほかにて放送された(wikipedia)
まさか来るとは思ってなかった作品の二期。前期に比べてかなり作画は向上したと思いますが、夜間訪れる公園が相変わらず昭和トレンディドラマ風の演出だったのでそこを継続してくれたことにはある意味感動w地味に制作陣のこだわりポイントだったのかもしれませんw
個人的に本作は好きじゃないです。その理由の九分九厘は主人公のレッドにあります。だって妹をダンスに誘うんですよ?キモくないですか?w
まあそれをさておいても前期のレビューでも散々書き散らかしましたが、こいつは実質身勝手にパーティーを去った無責任男なんですよ。にもかかわらずどういうわけかやたらと周囲からの評判が良いままなので今の立ち位置があるわけなんですが、ぶっちゃけ周りの連中がどういうつもりでこんなやつを支持しているのかさっぱりわかりません。勇者であり妹でもあるルーティがレッドに依存するのはまだわかりますが、それ以外のメンバーが何故こいつを信頼するのか理解不能です。ストーリー上かなり外面良く表現されてますが、こいつは何だかんだと自己正当化していざというとき全てを放り投げるやつです。実際そうした奴です。細かい話ではありますが、今回も婚約指輪の材料探しという理由で薬局の仕事放棄してますw(店番役が来たのは偶然です)というか多分、責任放棄自体を「自分の意志」と曲解しています。これが何故作品として好意的に捉えられるのかというと、この世界では「加護」という超越的な圧力があるからなのですが、翻って「加護」への反発=意志となってしまってるのです。
今作は「神から与えられた役割」VS「自由意志」みたいな側面があり、それだけ見たらそれなりにちゃんとしたテーマなんですが、どうやったらこの世界にべったり馴染んでいるレッドがその境地に至れたのでしょうか。確かに彼は「導き手」という加護があり、更にその役割を終えたという特殊な環境下にあるので理解できなくはないです。しかし、何故彼の言う事を周囲の人たちまでもが無批判無抵抗に受け入れられるのか全く理解できません。この作品の大前提「この世界の生き物は、アスラデーモンというごく一部の例外を除き、至高神デミスから加護が与えられ」かつ「与えられた加護に従って生きることが美徳とされているため、即ち衝動に従って生きるべきとされている」世界においてレッドの思想は相当異端です。というか、レッドの思想はほぼ現代社会的ヒューマニズムです。にもかかわらずどうして加護が当たり前の世界で当たり前のように受け入れられるのでしょうか。
本作では加護原理主義者のような存在として勇者ヴァンが登場します。ヴァンからすれば加護の衝動に従って生きる事の方が正しいわけで、実際自分としてもこの世界に生きるのならばそう考えるのが自然だと思います。ヴァンは加護ではなく親と同じ仕事がしたいという少年を堕落と非難します。これは実は興味深いシーンで、というのも少年はレッドの思想に毒されたのか自分の意志で将来を選んだつもりなのでしょうが、それが親の仕事だという点がミソです。もし仮に実際の現代社会でこのような選択をすれば、それは自分で選んだのではなくむしろ「流されただけではないか?」という疑念が起こる可能性があります。つまり本当にそこに自分の意志が反映されたのか悩むポイントなわけです。ですが加護ありきの世界ではただ加護に逆らいさえすれば意志の反映とみなされる形となってしまっているのです。
そもそもの話として、この「意志」なるものは歴史的な発見或いは発明の側面があります。少なくとも古今東西において自明なものというわけではありません。ハンナ・アーレントという有名な思想家がいるのですが、彼女曰く「意志の能力は、古代ギリシア人には知られていなかったし、紀元1世紀まではほとんど耳にすることもない経験の結果として発見されたものだった」とのことらしいです。その根拠の一端として古代ギリシャ以前のインド=ヨーロッパ語、とりわけ共通基語と呼ばれる言語においては受動態の代わりに中動態が使われていた事が挙げられます。アレントの指摘としては中動態が使われていた時期には意志の概念はなく、中動態が消え去り、能動態と受動態の区別がなされるようになった時期に意志の概念が登場してきたとのことなのです。
もっともこの「真の仲間」の世界では普通に日本語が使われてるわけなのでw中動態がどうとかは関係ないと思います。しかし「加護」など存在しない古代ギリシャ時代などにおいても人々はあたかも意志なく神々に突き動かされていた、少なくともそう考えられてきました。
有名な「イリアス」に登場するアキレウスなども悉く現れたる神によって行動を決定します。これは現代人の視点から見れば単純に自身の行動を正当化するための方便のように思えますし、実際そういう側面はあったと思われます。ただ、現代人にとって意志とは自身の「心の中」で決まる事であるのに対し、当時のギリシャ人における「心」はほとんど内臓表現であり、訳語としては「心」であってもその実は心臓だったり横隔膜付近を示してたように、ほとんど身体的な現象でしかなく、現代に生きる我々のように自己決定する視座がなかったようなのです。
{netabare}(これが先述した中動態にも繋がります。中動態のことは自分でもしっかり理解できてるわけではないのですが、どうも一人称の主語がない述語表現のようで、ようするに行為の主体性がないみたいなのです。能動態が一人称以外の主語があるのは行為の基点がある=責任の所在があるという一方で、本来一人称が主語となる行為においては中動態として「自分がする」と「自分が(神などの影響により)させられる」の中間的状態であるが故に責任の所在が曖昧になってるようなのです。これは言語的に中動態を採用しているからそうなったというよりは、そういう感覚だったから言語として中動態が産まれたのだと思います。ただそれはじきに受動態にとってかわられていくわけですが、これは自己感覚が確立していったからかもしれません。つまり「自分がする」の方が能動態となり主体性が明らかになり、反面「自分がさせられる、される」方が独立したようです。){/netabare}
かなり回りくどい話をしましたが、ようするに意志を発露するにもその源泉が必要であり、現代人では当然な感覚も別の文化圏では必ずしもそうとは言えないという事です。自分が本作を見た限り、加護が当たり前でありしかもほとんど物理的に突き動かされるような世界で自己の意志というものがどういう経緯で発見され又尊重されることになるのか全く見えてきません(加護に目覚めてない子供時代のものを意志として尊重するのならむしろ加護を重視することと矛盾します。この世界ならば意志を未熟の証としなければ変ですし、もしそうならばレッドが何を言おうと周りの大人が素直に受け取るのはおかしいのです)。
一部アサシンなどのような加護持ちが社会に適応するためとありましたが、確かに被害者がアサシン個人を加害者と見てしまうのはわかりますが、これは現象的には司令官(神)と兵隊(アサシン)、いやそれどころか傀儡師と操り人形の関係に近いので責任はむしろ神に帰せられると思います。そして実際それがアサシンであったとしても加護が同じ神によって与えられたものである以上教会などが彼らを保護しない理由がわかりません。この世界で教会が疎まれていたり信仰心がないのだったら話は別ですが、がっつりと風土に根付いているのです。
現代人は現代的感覚で個人主義的に個々の意思能力のある者に責任を認めます(逆に言うとだから意思無能力者の責任能力を原則認めません。)が、この「真の世界」は稀に途上国などで見受けられるわけのわからん倫理観、本作でいうならばヴァンのような思考の方が自然の筈なのに何故かこちらの方が狂ったカルト思考扱いされているというねじれ構造になっています。
レビュータイトルで書いたように、仮にレッドが転生者であるならば現代的ヒューマニズムを持っているのはわかりますし、現地人との間での倫理的葛藤も生きてくると思います。ですが本作において彼はどっぷり現地人であり、「導き手」であったにもかかわらずヒューマニズムに目覚め勇者の役割すら脅かしてしまいます。
勇者であるルーティは役割と自分の望みとの狭間で葛藤してますが、レッドは常にあっけらかんと無責任です。彼はほとんど視聴者と同じ視点で加護を特殊な「スキル」の一種のように見てますからそういう態度を取れるわけです。
まあ彼の場合は何があっても自嘲さえしとけば周囲が温かく慰めてくれるのですからいくらでも無責任になれるのかもしれませんが、もし仮に彼の行動が正しければ、至高神デミスは勇者を勇者の加護から解放することを目的としていることになり何とも皮肉な話です。
まあどうせ設定としては神などはおらず古代人の作ったシステムかなんかでレッドがその楔を解き生きとし生けるものに真の自由を与えるみたいな話にするんでしょうが、正直個人的にはチグハグ感が酷すぎてしんどい世界観設定です。
とはいえまあ、なろうですからね。自分でも的外れなこと書いてるという自覚はありますw普通はカルト思考の勇者ヴァンの価値観を主人公レッドが正すという見方をするべきところなのでしょう。なのでしょうが、こいつは結構生理的に受け付けないキャラなのでついつい重箱の隅をほじくってしまいますね。他にもヴァンが仲間のリュブ枢機卿を刺したりしましたが、これは最終回のパーティーでルーティと鉢合わさせないという思惑が見え見えだとかそんな細かい嫌味も言いたくなりますw
ちなみにですが、この「意志」が無いという感覚は理解しづらいですし、多分現象的には今を生きる我々とそれほど変わらない人間社会を生きていたのだとは思います。では何故意志がなかった社会があったと言えるのかといえば、どうもこの現在「意志」という言葉で言い表される概念がバラバラで統合されてなかったらしいのです。この辺の感覚もわかりにくいですが、外界から与えられた表象に同意するかしないかを決定する働きしかなかったものが、直接外界の事象への賛否が問題なのではなくそれに対する我々の側での欲求や感情の選択が問題と移り変わりました。ようするに「単に与えられた様々な選択肢のうちからどれかひとつを選ぶのではなくそもそも選択肢に制約がない、そうした欲望が無限に提示する選択肢から何かを選び取るという考えが提示された時に「意志」というひとつの概念がまとまるきっかけになった」そうです。ちなみにそれを成したのがアウグスティヌスという4~5世紀活躍したキリスト教の教父なのですからなんとも皮肉なものです。
参考文献
{netabare}
魂(アニマ)への態度──古代から現代まで (双書 哲学塾)神崎 繁【著】
捉え返される意志
―失われた中動態を手がかりとして ―
(こっちはネット上に転がってたPDF)
{/netabare}
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