薄雪草 さんの感想・評価
4.4
物語 : 5.0
作画 : 4.0
声優 : 4.5
音楽 : 4.5
キャラ : 4.0
状態:観終わった
かがみの向こうのおとぎ話。照り返されるリアリズム。
私の受け止めは四つです。
一つには、とにもかくにも初見(初読)が肝心。
アイディアにもギミックにもびっくりです。
二つには、何気にみんなフリークアウト。
なぜ? どうして?
7人の会話に耳を聳て、違和感を感じてほしい。
三つめは、本作のテーマは人類史に深くねざす普遍的な主題。
避けては通れない命題ってこと。
生き抜くには、そういうビジョンと覚悟とが必要ってこと。
四つめは、だとしたら、どうその深い爪痕からリカバリーするのかと。
だれもが、その認識と責任を、行動と言葉にしなきゃいけないってこと。
~ ~ ~
リアルが辛すぎて、フィクションの世界に逃げ込んでしまいたくなる。
だけど、振り返れば、どうしたってリアリズムの闇が待ち構えている。
永遠にも思えるそのループは、当事者にとってはとんでもなく重いもの。
かがみの孤城は、彼らの気持ちが唯一繋がる、とっておきの場所なのですね。
今日は当事者でなくても、あるいは傍観者であったとしても、いつでも、どこでも、誰にでも、それは「不慮の事故」のように身に振りかかってきます。
そんな物語はスクリーンのなかだけに収まるものではありません。
生々しい現実味を帯びて、問題提起しているのです。
おとぎ話は、リアリズムを内包するのです。
~ ~ ~
物語の幕が下り、ED(優里さん、メリーゴーランド)が流れてきました。
その歌詞は誰の心情を歌っているんだろうと、目を閉じてその姿をまぶたに思い浮かべようとしました。
最初は、7人のうちの誰かかな?って思っていて・・・。
う~ん、こころ、かな?
いいや、アキかな?って思っていたんですが・・・。
どうやら違っていたみたいです。
(2回めの鑑賞は目を開けて確かめました。)
学校への憧れ、友だちとのじゃれ合い。
勉強も、部活も、もしかしたら恋愛も。
どれだけ手を伸ばしたくて、どんなに追いかけても、叶わなかった彼女がそこにいました。
明日に行けなかった彼女だから、7人にそれぞれの未来を創ってあげたいと思ったのでしょうね。
EDの歌詞を聞き返すたびに、さめざめと泣いてしまいます。
~ ~ ~
帰宅したあと劇場でいただいた配布物を何となしに開封しました。
そうしたら・・・・ハッと気づかされて、じんわりと涙が込み上げてきました。
ああ・・・。
このシーンが、7人に望んだ彼女の夢だったのか・・・。
映画のエンドシーンだけではなかったんだ・・・。
どうしようもなく胸がつまり、やがてゆっくりと温かくなりました。
いい作品だな、と改めて思いました。
~ ~ ~
おまけ。
{netabare}
本作が上映中ということもあってステキなレビューがアップされてきています。
その中からいくつかの気づきを感じましたので、追記しておきたいと思います。
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こころたち7人の子どもたちが「狼と七匹の子山羊」にモチーフがあることは明白だと思います。
狼は、子山羊には肉体的な破滅を、こころたちには精神的な絶望という "リスクをもたらす脅威の存在" の象徴なのでしょう。
同時に、狼は "現実的なルール=社会の実相・仕組み" も表象しているのでしょう。
リアル的には自宅で、フィクションでは孤城で、どんなに身を隠していても、自分の内面を根本的に律しない限り、狼(社会)は問答無用で子どもたちを圧迫し破壊していきます。
まだ知恵の届かない子山羊は、てんでに逃げ回ってあちこちに隠れますが、狡猾で横暴な狼に次々と呑み込まれます。
こころたちも同じです。
誤解を解く術もなく、親にもなかなか理解されず、なお教師にも無体を言われ、ただ無抵抗のままに社会的孤立に陥るだけです。
中学校は、一方では自由と規律、平等と公平、友情や共同を学ぶ場所なのですが、他方では成績という名の序列づけや、多元的無知という不条理も体験させます。
その意味では、未熟で繊細な子どもたちは、義務教育というの名の強制執行で、苛烈な生存競争の渦中に放り込まれるのです。
狼は有象無象の強者たち、七匹の子山羊は無抵抗の弱者として、絶対的な立ち位置が確定してしまっています。
なので、こころたち7人それぞれの境遇も、シナリオ的には個別の時系で絶対的に成立しており、その意味で過不足なく描かれていると考えています。
何十年も放置され、今も繰り返され、その結果、何十万人もの子どもたちが、同じような苦しみの輪廻に突き落とされるという事実。
今もなお、義務教育の枠組みには、彼らが居られる "時間と空間と有効なシステム" を持ち合わせていない現実があるんですね。
かがみの孤城という舞台は、グループカウンセリングの実践です。
彼らは、協同しながら心を通わせ、リアルとフィクションの時系を紡いでいきます。
そして見えない絆をそれぞれの時代を生き抜く糧につなげていくのです。
その結語として、ついに現実世界にも帰れなくなって自己亡失に陥ってしまったアキが6人に救われます。
やがてアキは現実世界でスクールカウンセラーとなり、6人の時系を確かにつなげ、彼らの自己肯定の再獲得に尽くそうとする姿が描かれているのです。
アキの絶対的なピンチからの起死回生を助けたミオ。
同じように、6人から起死回生へと助けられたアキ。
きっとアキはかがみの孤城での体験を一生懸命に内省したのだろうと思います。
それは、リオンの姉、ミオが願ったこと、アキに託したことなのかもしれません。
二人に共通するのは、バトンする意志の意味を深く自覚しているということなんです。
ミオの遺志を、アキが引き継いだのですね。
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二つめは、午後5時以降になると狼が孤城を支配する "謎ルール設定" についてです。
本作のシナリオベースには、認知心理学、カウンセリング理論、その他のメソッドが物語に組み込まれているようです。
こころたちのリアルな現実と、孤城というフィクション世界とが "かがみ" で繋がっていることや、彼らの意志で出入りできていることがその一例でしょう。
本作が、いわゆる「死に戻り」や「死後の異世界人生」設定でないのも、カウンセリングの視点や手法がどっしりとした土台になっています。
母親や喜多嶋先生ら "支援する側" からしてみれば、子どもたちを現実の世界から切り離して扱うことなど絶対にあり得ないのですね。
ここを押さえれば、どうしてオオカミ様が孤城のマイスターでいるのか、狼が子どもたちのウォッチドッグなのかを理解する一助につながるのではないかと思います。
この不可思議な設定は、子どもたちにとって、どれほど孤城が「フィクション=仮りの場所=隠世(カクリヨ)=安息地」であったとしても、夕方5時以降は、「リアル=現実の場所=現世(ウツシヨ)=閉塞地」に立ち戻り、どうしたって各々のトラブルに向き合わなくてはならない "縛り" になっているのですね。
ところで、日本神話では、カクリヨは永遠に変わらない神域と称されていますが、それなら現代の子どもたちにも、ダイナミックに躍動できるウツシヨがあっても良さそうなものです。
古神道の世界観においても、この二律する概念規定はきわめて重要な位置づけになっていて、隠世は純然な魂の修養の場、現世は肉体を伴った魂の修行の場としています。
日本固有の文化性や感性から見ると、日中の孤城は、こころたちに安全地帯での魂を修養する50%であり、夕方からの家庭はイジメられる当事者としてリアルを受け止める修行の50%という "二律性" が設定されていることが分かります。
24時間孤城に入り浸ってもいけないし、24時間自宅に引きこもってばかりでもいけないという "重し" を子どもたちにかけているのですね。
さて、これらのルール設定は、何もせずに過ごすだけでも一定の安全が保障されるわけですが、万一、そうでなければ、痛いしっぺ返し(積みあげた交友関係の記憶を無くす。=全てを無かったことにしてしまう。)という選択肢も準備されています。
救いなのは、この孤城は、リオンの姉、ミオが創り上げた "創作世界" ということ。
「自分の人生を自分らしく生きることの尊さ」という愛に満ちた "隠れルール" も設定されているわけですね。
それを解くキーマンがこころであり、こころを陰ながら支えた東条萌との関係性が、終盤において素晴らしいエンパワメント(自律性の高揚、自発性の向上)を利かせています。
萌が転校生であることや、1年間限定という設定も、こころが冒頭で願った「一期一会の救済」にシンクロしているものと受け止めるなら、私は十分納得できます。
何を置いても、萌は、秘密の鍵を探し出すヒントと "覚悟" とをこころのリアルに授けたのですから。
こころは、胸を開いて語り合うことで「たかが学校のこと」というパワーワードを入手できたのですから。
一番身近にいる友だちの存在が、如何に大切なことかと教えてくれています。
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ちょっとしたミステリーっぽさや、年時差という凝ったギミックも面白いなと思います。
でも、私は、本屋大賞を受賞した理由はそれだけではないと感じます。
自己肯定感を高めていく集団的セルフマネジメントの有効性だったり、スクールカウンセラーやフリースクールの活用にこそ、これからの子どもたちに、そして親にも社会にとっても、重要な意味と示唆を感じさせる識見ある作品だった。
そんなふうに評価したいなと思っています。
{/netabare}
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