ナルユキ さんの感想・評価
3.3
物語 : 1.5
作画 : 4.0
声優 : 4.0
音楽 : 4.0
キャラ : 3.0
状態:観終わった
そもそも劣化品の方をアニメ化しないでほしかったなぁ
この作品は『小林さんちのメイドラゴン』などを描く漫画家・クール教信者によるWeb漫画を原作としている。タイトルの通り我が国の有名なおとぎ話『桃太郎』をモチーフとしており──
桃太郎は日本で鬼退治をした後、外国へ渡ったのではないか?
桃太郎を生んだ桃は日本に1つだけではなかったのでは?
──といった同氏による新しい解釈を入れて現代流のバトルファンタジーに仕立て上げている。
後に掲載誌用に作画を別人が担当してリメイク、そして遂にアニメ化へと至ったわけだが、アニオタならご存じの通り、ちょっと“ズレた”監督のせいで前代未聞な失敗作となり、世に弄られ続ける羽目となってしまった。
【ココがひどい:意図の読めない時系列シャッフル】
この作品のよく解らないところは、エピソードの順番を②③⑨①⑦⑧④⑩⑫⑪⑤⑥と並べ替えていることにある。なんだこれは……馬鹿みたいじゃないか。
物語の発端を回想として取っておいて、まどマギの第10話の様に後で効果的に流す。こういう目的で第1話を後ろの方に回すのはまだ理解できる。この場合は第2話を実質1話として観ていけばいいのだろう。
しかし2話→3話ときて次は9話である。{netabare}街がとてつもない力によって消滅し、あわやそれに捲き込まれるところだった主人公・サリーと力を失った高位の鬼・キャロット、そして街で騎士団団長を務めていたホーソン────自身がその半生を懸けて守り続けてきたのであろう街が一瞬にして消えてしまったのを見て、彼は呆然とした後に何を思うのか。
それが気になる引きで終わったその次の話では、別の街の武闘大会で相手を負かして得意気になっている元騎士団団長を拝むことになる。うん、まるで意味がわからんぞ!{/netabare}
似たようなことをした作品に『プリンセス・プリンシパル』がある。スパイ物であるあちらは仲間全員が集結して任務にあたる中盤(CASE13)を第1話に持ってきたことにより、視聴者に物語の全体像をいち早く伝えつつ豊富なアクションシーンによる「掴み」を狙った作品だ。結果は大きな成功を収めた、という評価で間違いないだろう。
ただ、その手法も作品が「アニメオリジナル」か「原作のアニメ化」かによってやりやすさは段違いだ。アニオリならば中盤の話を第1話の形に初めから作ることができるが、原作付きが同じ様にするには原作にある一塊のエピソードをほぐして再構成する工程を挟まねばならない。
後者である本作はその工程を挟まず、既に固まったエピソードを悪戯に入れ替えまくっただけであり結果、プリプリのようなメリットをまるで引き出せず、視聴者を大混乱に陥れてしまったのである。
【でもココがすごい?:監督の意図と公式の気遣い】
なので再三、書かせてもらうがアニメ脚本における「おもしろい・つまらない」の最大の要因は脚本家ではなく、その脚本家に自身のやりたいことを文字に起こしてもらう「監督」が最もウエイトを占めている。それはこの作品の制作背景もまた証拠であり、本作の監督・上田繁氏は『アニメイトタイムズ』のインタビューにてその制作秘話を赤裸々に語っている。質疑応答形式の上かなり長く語っていたので、引用ではなく意訳的にまとめさせて頂く。
{netabare}
1. 原作がまだ未完なので、そのままアニメ化してしまうと中途半端に終わってしまうことが不安要素だった
2. 制作決定時、大多数の人はミコトを主人公にしようと考えていたが、自分はサリーを主人公にしたかったため、シリーズ構成にそうお願いしていた
3. 時系列順の第1話はミコトの視点なのに第2話からはサリーの視点になる。これではまるで別々のアニメの様に写るし描かれるテーマも違ってくるため、先ずココを変えたかった
4. そして原作の内容の中に最終話に相応しいエピソードがあった。それを最後へ持っていくためにシャッフル放映にした。これ以外の方法としては物語の再構成しか思いつかないが、原作に対して自分が何か手を加えるのは違うと思った
5. オリジナル展開の案も当然出ていたが、絶対にやりたくなかった。完結していない話なのにアニメで結論付けたくはない
6. シャッフルの手法は『涼宮ハルヒの憂鬱』などの前例もあるので、視聴者は混乱せずに観られると思う。コミック版を読んだ人の感想の中にも「途中から読んだけど面白かった」「最初から読み直すと違った印象を受けた」というものがあったのでシャッフルはいけると確信した
{/netabare}
いかがだろうか。私も件のインタビュー記事にはくまなく目を通したのだが、この監督の言葉の数々に嘘や悪意といったものは感じられない、しかし何か致命的な「勘違い」をしているような、そんな印象を受けてしまった。
{netabare}先ずこの監督の原作を扱うにあたって決めている「ライン(線引き)」がわからない。なぜ再構成やアニオリ展開はアウトで時系列シャッフルはセーフと踏んだのか。どちらも原作をねじ曲げていることに変わりはないし、『アニメで完結させたくはない』と言っているのに『中途半端にしたくない』とも言っている。発言の中で思いが矛盾していることに彼は気づいていない。
『涼宮ハルヒという前例があるから大丈夫だ』という考えも前提として間違っている。ハルヒは物語の舞台が高校、登場人物はSOS団でほぼ固定という作品だ。そして学校行事や事件毎にエピソードが区分されているため、ちゃんと辻褄を合わせれば多少その順番が入れ替えられてもアニメから入った人には気づかれない下地がある。
しかし『ピーチボーイリバーサイド』はファンタジー世界を舞台とした一本筋のロードムービーだ。第1話を0話という回想扱いにして後に回すのはなんとか認められるものの、3話から9話まですっ飛ばす様な時系列の入れ替えをしてしまうと、旅の中で主人公らキャラクターが何を経験してどう成長していったのかを把握するのに“視聴者側が”整理を余儀なくされてしまう。{/netabare}
この時系列シャッフルが受け入れられない人のために一部配信サイト(dアニメストア)では各話を時系列順に並べ直したバージョンも配信している。ありがたい一方で結局、製作陣はシャッフルしたものを観てほしいのか作品の時系列をしっかり把握してほしいのかがよくわからないとも思ってしまった。
【でもココもひどい:時系列版を観ても……】
いまいち話が繋がっていない。
{netabare}1話ラストで旅に出るため、父である王に別れを告げたサリーは、2話冒頭で空腹に倒れた兎人・フラウと森で出会う。自分の国を出たサリーがどこへ向かおうとして、どのようなルートで森に入っていたのか
。そしてなぜ都合よくフラウの好物である生の人参を持ち歩いていたのか。
自炊等を考慮しても最初の旅の荷物に人参を選択することは先ずあり得ないだろう。そうなると1話と2話の間で既に大きな時間経過があると考える方が自然、つまり時系列版を観ても話が飛び飛びでよく解らないのである。{/netabare}
{netabare}9話にしても8話からかなり時間経過が経っている様であり、なし崩しにサリーの仲間となっていたキャロットは既に人間のことを理解し始めている。8話のエピソードからは飽くまでも「サリーは例外」と妥協しただけで人間への敵意を捨てたわけではないのだが、いつの間にやらホーソンの男心とやらにも興味を持つようになり、人間への態度はすっかり軟化しているのだ。
敵である鬼の陣営も、ジュセリノと皇鬼{すめらぎ}が別れたすぐ後、同話の内に彼女がホーソンの手を借りてスメラギを探し出すシーンを入れていたりしており、あまり意味のわからない構成で本作は仕上がってしまっている。{/netabare}
クール教信者氏が直接手がける原作は漫画投稿サイト『新都社』に上げられている「処女作」であり、とくに序章から暫くはラフ絵に近い描き方をしている。本作は元々商業誌ではない────人からお金をもらうための作品ではないため先生の気の向くまま、そして先生ご本人の成長に合わせて徐々にそのクオリティを上げていった代物である。「気の向くまま」ということでエピソードも章単位毎に不定期連載で描かれているため、そのままリメイクしてアニメ化しても話の繋がりを感じにくい、というわけだ。
リメイク漫画もアニメもそんな原作の展開をなぞっている……クール教信者氏の「アマチュア」時代の作品を。決して先生の恥部というわけではないが、ストーリーも見切り発車であろう本作を商材にするには、やはりとりあえずの「結末」を定めて「再構成」することが必要だったのではと素人ながら考えてしまう。
【キャラクター評価】
サリー/サルトリーヌ・アルダレイク
名前は桃太郎のお供の「猿・鳥(雉)・犬」からだろうか? 由来に反してザ・桃太郎なキビツミコトとは終始、別行動となるのだが。
旅の経緯上、仕方ない部分も大きいのだけど「脳筋」で「お花畑」な思考が、歳喰って精神ベキベキに屈折している私にはもう受け入れがたい主人公かな。戦闘開始のタイミングで{netabare}『この場にいる全員、和解しよう!』{/netabare}とか言い出すし……そういうのは『エガオノダイカ』で懲りていますね。悩んだ末に選ぶ力業が清々しく映ることもあるのだけど同話の中でいやにテンポよく変心させてもいるので納得感に欠ける。
まあ始めは箱入り娘のお姫様だった少女だ。今後、鬼と亜人と人間────様々な種族がいがみ合いながらも暮らす世界を旅の中で学んでいけば、人々の差別意識への「妥協」ももっと具体的な施策へ落とし込んでいけるのではないだろうか。原作者はクール教信者だしね。期待は出来ますよ、一応
キビツミコト
よく冗談で「何も悪くない鬼を傷つけて宝物を強奪した男」というひねくれた見方もされる桃太郎なのだけども、新解釈である本作では見事、作者が真に受けてこのキャラを生み出してしまった(笑) 桃太郎は戦闘狂(バトルマニア)!{netabare}まあ実は本人から力と名前を受け継いだ2代目だったんだけどね{/netabare}
物腰が低くとも達観した持論の数々はクール教信者らしいキャラ付けだ。ここからメイドラゴンの小林さんなど思考力が凄まじいキャラ制作へと発展させたのかも知れない。年相応のブレもあるけどキャロットなどを助けたのは出自から考えれば、ね……
サリーの味方にも敵にもなり得る裏主人公。その活躍とアクションシーンをアニメオリジナルでもいいから存分に楽しみたかった。
【総評】
原作のWeb漫画からこのアニメまで、隅々と『ピーチボーイリバーサイド』という作品に浸かった結果書くことだが────原作の方が数段、上ですね(バッサリ)
そもそもリメイク漫画時点で原作ファンから不評を買っていることはアニメだけを観るオタクには知る由もない背景だろう。だが事実である。原作は確かに拙い部分が多く、商業誌にするために作画からリメイクすることは必要不可欠だったのだが、それだけに留まらず各エピソード内に含まれるメタ発言や他作の名前を出すパロディ、下ネタにサービスシーンといった「毒気」をストーリーのボリューム毎抜き取って変に小綺麗にしてしまっている。誰でも読みやすくなった反面、クール教信者という1人の漫画家の「作家性」を殆ど感じられず、只の凡庸なファンタジーに成り下がっているのだ。
{netabare}とくに『樹鬼』や『吸血鬼』のエピソードが顕著だが、同じ登場人物やテーマなのに動かし方1つ取っても原作とリメイク以降で物語の「奥行き」が異なっている。同じサリーの『和解しよう』という台詞でも戦う前から決めゼリフの様に言ってしまうリメイク版と散々と競り合った後で調子よくあっけらかんと言う原作とではまるで受ける印象が違う。やはりリメイク版の方が原作を「なぞる」という意識のせいか展開が淡々としてしまっておりつまらない。原作と比較すると各々、亜人と鬼であるフラウやキャロットの掘り下げも浅く感じてしまう。{/netabare}
こういった格差のある2つから、アニメ制作は劣化品であるリメイク版を基盤としてしまった上に監督の妙な思いつきで「時系列シャッフル」までかましているのだから、オンエア版は目もあてられない低評価に見舞われた。しかし時系列順に観ても場面や視点の切り替えが多く、演出やテンポの雑さはまるで解消されないので時系列版も微妙な出来だ。
作画は戦闘シーンが大味ではあるものの悪くはなく、主題歌はサリーたちの旅の過酷さや人と鬼の争いの先にある悲劇を予感させるようなダークさと英歌詞のスタイリッシュさがミックスされた良曲で、私も気に入っただけに勿体無い。せめてリメイク版ではなく原作Web漫画の方をアニメ化していれば少なくとも私の評価は上向いていたのだが、やはり業界的に原作版は商業化出来ないと判断されているのだろう。リメイク版も『蛸と海女』をパロってるのだし、ちょっとくらい下ネタやパロディが多いのは構わないと思うんですけどねぇ
6