【概要】
アニメーション制作:Twilight Studio
2019年6月21日に公開されたオリジナル劇場アニメ。
監督は、山本寛。
【あらすじ】
小山佐智は、福島県いわき市に住む高1の女子高校生。
ブレザーの制服が気に入った私学に入学して、電車とバスを乗り継いで通っている。
4歳からヴァイオリンをずっと続けていて、高校では少人数の音楽部に所属。
彼女には震災のトラウマがあって、恋愛に興味が沸かず他人へ人より冷たいと感じていた。
通学路の田舎道が好きで、ひとりで景色を味わい尽くすのが彼女の一番の楽しみだった。
ある日の夕方に佐智がバス停で待っていると、スケッチブックを持った、
この辺では見かけない制服の男子高校生に話しかけられる。
彼の名前は雉子波祐介。震災で帰宅困難区域になった地元から、いわきに避難していて、
『この世界を描きとめておけたい』との思いで風景画を描いていて、
絵画のコンクールに出すための良い景色を探しているという。
祐介の思いに共感した佐智は、その日から彼を待ち合わせをして、
度々一緒の時を過ごして、心の距離を縮めていくのだった。
↓↓ファンの方は気分を害する可能性が高いですので閲覧は自己責任でお願いします。
【感想】
西暦2000年4月に、『再就職しました。』と本人のブログ日記に書いていて、
2007年6月に退職するまでの7年間、大阪にあるアニメーションDo所属であった監督さん。
9年間、一貫して京都の親会社の正社員で社内でも傑出した異才であったとの作り話など、
後付で改竄された情報を信じている人がいますので、改めて記しておきます。
その彼のかつての御託に、こんなのがあります。↓
・アニメーションに過度の情報量は要らない。
↑情報量の多さで人物の細やかな感情表現を得意とする近年の京アニ作画と真逆。
師匠だということにしている、名アニメーターの木上益治さんの弟子という設定と矛盾。
そもそも京都アニメーションの演出方法はアニメーターの基本を重視した教育がベースなのに、
彼の場合は、あきらかにイラスト能力が描き慣れてないド素人レベルであり、
絵の才能以前に作画の基本などアニメーションを真剣に学んだ形跡が見られないですね。
・アニメーションとは「線」そのものが語りかける表象である。
↑そのわりには「Wake Up, Girls! 」の線がガタガタし過ぎでしたね。
・「アニメの品格を決定するのは背景」などと逃げの発言を続けていた、
宮崎駿のような改竄された歴史観に終止符を。
↑「薄暮」の売りである、いわきの美しい風景と相反。
ふわふわした理念を持つ山本氏による作品とは、如何なるものでしょうか?
『それにしても、アニメーションにパースは必要なのか?
せっかく二次元なのに?
悪あがきに見えるんだけどなぁ。』
↑こんなで、技術職であるアニメーターとの意思疎通が出来るとは思えません。
アイレベル(目線の高さ)を指定していないのか、
「Wake Up, Girls!」で背景と人物の縮尺が噛み合わないことが、少なくありませんでしたし。
他にも、パン(カメラを固定したまま、フレーミングを移動させる技術。)を、
スクロールと呼んでバカにするなど、演出家としての基本知識が怪しく、
コンテを見ると正面と横90度が殆ど全てで立体を把握する能力に乏しいです。
そんな彼が世の中の数々のアニメを否定して求めているリアリズムとは何ぞや?という疑問。
有料配信が開始されていましたので、その監督作品である「薄暮」を見てみました。
物語の最初から最後まで朗読劇のごとく主人公である佐智のモノローグが続きます。
視覚情報では伝わりにくいキャラ設定などを解説するだけならばともかく、
映像を見れば解ることを含めて状況をイチイチ、モノローグで説明する過剰さ。
本来ならアニメーションのみで表現可能なことからすら演出家として逃げているように見えますね。
また、おきれいな話にしたらつまらないと山本氏が挟み込んだノイズがあります。
・ヤ●チン発言。
・食事中に口を開けてクチャクチャ口の中を見せながらお喋りをする。
・箸で人を指す。
・生●というナレーション。
・教室用椅子の上にスカートで胡座(あぐら)をかく。
これら全部、作中の女子高生キャラにやらせたことであります。
作品のテーマ性に沿った野放図な世界観の形成に必要があるとか、
食べ方に差をつけることで家庭環境が垣間見られる躾(しつけ)の個人差を見せる演出として、
理由があってあえて汚い食べ方をキャラにさせるといった意図があるならば、
アニメの表現方法として、これらは一概に否定しうるものではないですが、
揃いも揃ってクチャラーであったり、このアニメ世界に存在する人物は総じて品が無いです。
山本氏は作品でリアルを描くと言っているものの、
下品なのがリアルで熱くて、この世の真理なんだ!と思い込んでいて、
それらをさらけ出さない者には、
『熱さもゲスさもないように感じる。
自分と同じ、血の通った人間に見えないのだ。』
とも発言していて、自分を基準にした理想化された世界を「薄暮」で表現して、
これがリアルで、世にあるアニメの世界は媚びた作り物でリアルじゃない!
とマウントを取りたがっているという前提から、歪(いびつ)なものを作品から感じます。
その根拠に、youtubeでヤマライブを配信中に政権批判と近況への愚痴と共に、
缶ビールをあおり、鼻をほじり服に付け、ボリボリ顔を掻く。そして、金銭を強請る(ねだる)。
その不潔な姿は京大出のインテリ監督として売り出した幻想を木っ端微塵にすること間違いなく、
その脳内にある彼好みの性癖の世界を表現することで、その外にあるものを一切合切否定する。
不潔で不摂生でだらしない自分を省みることなく、おかしいのは世界なんだ!
むしろ世界が自分に合わせろ!という観念の押し付けこそが、
彼の作品に存在する違和感の正体であると思いました。
違和感と言えば他にも、
PVでも見られるバス停で二人が初めて会話するシーン。
首だけが90度曲がったまま目線を合わせずに、祐介が延々と喋っているというホラー。
人間は首を動かすと上半身をひねりますよね?
誰もおかしいと思わなかったの?作画のチェック機能が壊れていた現場の状況を窺い知る一例です。
なお、この山本氏は数々の自分の指示のまずさを棚上げして、
絵コンテの話ですが描けるアニメーターがいないから、
コンテの質を下げるだけ下げただのと苦し紛れの言い訳をして更には、
湖川友謙(こがわとものり)氏…アニメ業界の大御所アニメーターであり、
著書である人物デッサンとパースの教本は、
一定の年代のアニメーター必須の参考書であったと言える。
↑19年5月26日の「薄暮」の試写会のほぼ3週間前の同年5月4日に依頼をして、
困ってるからと福島のためだと説得されて、すんなりと引き受けてくれた湖川氏を、
20年3月20日にnoteで発表した有料記事「アニメーターの質」で、
「ただの手抜きの落書き」「恥知らず」「老害」だの散々に誹謗中傷をして、
クオリティの低さの責任を押し付けて業界中のアニメーターを敵に回すという、
いかに自分の言動が自らを貶めているのか無自覚な部分が多々ありますね。
『弱き犬は吠えるもの 私は、野良犬 今でも、福島のために動いています』
人づてに知らされた湖川氏はこうコメントして、以後は一切この山本氏に触れていません。
こうして自分と関わった人脈を枯らし続けているのが、山本寛であります。
作画技術的なことはさておいてもシナリオや演出面でも思うところがあります。
佐智が祐介に名前を尋ねるのに、佐智自身は名乗らないコミュニケーション機能の問題。
付き合いが長くて気兼ねしない関係とか、既に親密な相思相愛な状態ならいざしらず、
その初めて会話を交わした日で、まだぎこちない間柄でしかないのに、
彼女らふたりしか乗客がいないバスの中で二つ横並びの座席に、
キャバクラ嬢と男性客のように密着して座る距離感のおかしさ。
ガラガラの状態だったら一番うしろの横長い席に、ゆったりと座るでしょ!
と思春期の男女がこれで大丈夫かな?とかなり不安な気持ちになってきます。
人と一線引いているキャラ設定であるはずの、
佐智のパーソナリティスペースが壊れているという矛盾。
物理的な距離を徐々に縮めることで、二人の親密さの変遷を表現するという発想への至らなさ。
ガールズアニメを美少女動物園と呼ぶ山本氏が表現しているリアリティとは一体何ぞや?
山本氏の頭の中にある前提が展開に組み込まれていて、その前提が進む過程を省略しているのがこれ。
表現のあり方に客観性や丁寧さが欠けていますね。
口先だけで美術論を語るが下手くそな風景画を描く祐介は、プライドばかりが高くストーカー気質。
また、佐智は家族や友人らへの思いやりに欠けていて自分の攻撃性に無自覚であり、
自分自身に向き合っていないのを無味乾燥なモノローグの羅列でごまかし続けています。
キャラの一人一人が山本氏の分身であり、彼の性癖のままにコマとして動かしているのが正体。
山本氏自身が女子高生キャラの皮を被っているのをリアリティであると勘違いしているだけですよね。
本当に現実味を求めるなら、人間観察眼を磨いて自分と他人の違いを認識しなければならないです。
例えば、佐智がベッドで悶え声とともに脈絡もなく全裸になり、
奇妙な夢を見て朝目覚めると、ひどくやつれた顔をして洗面台でぺっぺと痰を吐く。
『女子高生はそんなことをしない!』との女性スタッフの意見を山本氏は却下したと聞きます。
それは老化が進行して痰が絡む中年のおじさんに上っ面だけ女子高生の皮をかぶせただけの生態。
作り手の想像力の欠如と唯我独尊的な思考がもたらした象徴的なシーンだと言えるでしょう。
ただ平坦なだけの薄い恋愛話に、山本氏自身のいうノイズとして散りばめた演出方針。
それが先述の下品さの数々であったり、他には下半身を映す盗撮目線のカメラワーク。
・少女の下半身はあまりにも雄弁なのだ。
・顔を撮る以上に、あらゆる情感を語り尽くす力を持っている。
・僕らは少女の子宮から出る匂い立つ強烈な誘惑に圧倒され、
知らず知らずに胎児の時の記憶を呼び覚まされるのかもしれない。
「胎内回帰」の発想だ。
↑ローアングルの盗撮目線を取り入れた山本氏の弁ではありますが、その一方で、
・なんかもう、やる気がないというか、ちょっと、病んでるんじゃないの?と思うぐらいだ。
映画で愚痴を聞かされているように感じた。
・表現である以上、そしてそれでお金をもらう以上、観客に何かを「伝え」なければならないのだ。
持ち帰ってもらわないとならないのだ。
・この作品は、それすらを諦めた、それを拒絶した映画と言えるだろう。
どうせ解ってくれないんだ、私の趣味は理解してくれないんだ、
そんな愚痴ばかりがカットの端々から聞こえてきた。
・そんなにアニメが嫌なら辞めてしまえ。それと、作品で愚痴るのだけは止めろ。
それだけ言っておきたい。
・そして困ったらまた足ばかり映していた。あれだけは止めたほうがいい。
ずっと下を向いて、俯いて生きていてはいけない。
それを共感させようなんてもってのほかだ。
↑これが何かと言えば、「リズと青い鳥」を山本氏が観に行った後にブログに記した批評文。
感想は人それぞれといえど、実際に該当作品を視聴した、あにこれレビュアーとの認識の乖離。
それは、他の人が感じ取れるものが一切受信できないのではないだろうか?とのアンテナの低さ。
『アニメとは静と動の組み合わせであり、そこにある映画的表現は非常に高い。
例えば京アニの「リズと青い鳥」ですが、あの作品のメッセージ性はかなり優れています。
女子高生のポニーテールが揺れているだけで「フフッ」ってなってきますから。
こういう感覚は実写ではできないところです。
京アニの作品はそれを見る驚きがありますね。
リアリズムで見せるからいいのではなく伝えられるものがいいのです。
映画としての物語を作る時、京アニは今の時点では最強と言っていいでしょう。』
↑と、評した富野由悠季監督との理解力の違い。
『作画がいい』とは単なる見た目の美しさの話ではなくて映像で伝える能力。
伝わる人と伝わらない人といますが、木上氏の直弟子でエースであったという自称を覆す根拠に、
この山本氏の映像に対するアンテナの感度の低さが挙げられると思いますね。
古巣と「リズと青い鳥」の山田尚子監督への嫉妬と怨念が塒を巻いて露出しているからこその発言。
そもそも、山田尚子と高雄統子と吉岡忍の師匠だったという他の誰も肯定していない自慢話。
なお、山田監督の評判を下げようとするネット情報のソースは、山本氏の私怨の作り話ですね。
『弟子が出来ることを師匠を名乗るアンタがどうして出来ないのですか?』
山本氏が人間関係を捏造する虚言癖の持ち主である根拠になり得ると思います。
上記の「少女の下半身~」の下りと重ねて読むと、山本監督の心の内にある歪んだ女性観と、
人間としての本質がなんとなく察することが可能ですね。
また、湖川友謙氏への誹謗中傷と併せて考えると、人を貶めることで自分を偉く見せたい。
自分の責任を人になすりつけて回避したい。この二つが基本姿勢であり、
自覚があるのか無いのか楽して他人の功績に便乗して称賛が欲しいのが様々な言動の意図であり、
そのためには多くのスタッフの尽力の結果である「涼宮ハルヒの憂鬱」のヒットメーカーを装ったり、
「らきすた」では武本監督の仕事を自分の手柄として盗む癖があるなど、
手を動かさずに嘘や作り話のために舌だけが滑らかに回るという、
プロの世界にあるまじき姿が見えてきますね。
口では偉そうにも、山田監督や新海監督など、あちこちに噛みつきまくっているものの、
肝心の山本氏自身の成果物であるアニメーションがこれでは説得力が乏しすぎます。
映像作品として一見綺麗に取り繕おうとしても隠しきれない山本氏の性癖と情念を目の当たりにして、
どう解釈するかで、作品に対する評価が決定すると思いました。
さて、「東北三部作」と称して、いわき市や立命館大学などあらゆるところで公開された作品。
視聴者の反応が上がってこないのは何故でしょうか?
抑揚に乏しいことがナチュラルであると思い込んでいる恋愛話に上記の性癖を盛り込んだアニメが、
作品の舞台となった福島となんの関係がある?というのが正直なところでしょう。
・山本氏では恒例の『臭いよねー』『ほんと、たまんないよねー』の台詞。
・かつての親会社である、ウルトラスーパーピクチャーズからの制裁で、
自ら判子を押して権利を失った「Wake Up, Girls! 」のキャラのスターシステム出演。
・黒板に“どんぐり”と書かれている「涼宮ハルヒの憂鬱」の学園祭描写の丸写し。
ハルヒと長門とキョンたちとみくると鶴屋さんのカメオ出演。
・「響け!ユーフォニアム」の北宇治高校の制服を着せて夏紀先輩っぽくした女生徒の姿。
・ジブリ映画の名作「耳をすませば」の自転車二人乗りシーンの反転トレス。
↑最近は版権関係で予め許可をとってないとそういうことも出来なくなってるのに、
自分だけは特別な存在のつもりなのでしょうね?
許諾を得た形跡がエンドクレジットに無く権利関係の意識が実にいい加減である上に、
私物化した過去に未練たらしくしがみつく愛憎の現れ。プロとしての矜持の欠落。
過去のいきさつを知っていると、『またかよ!』と呆れますし、
何も知らない人から見ても、違和感を植え付けるものでしょう。
視聴者に対する想像力がないですよね。アニメオタクはこの際無視するとしても、
東北の被災者のために作ったと綺麗事を口にしながら、
全く中身が伴っていない独りよがりな内容。
行政の補助金を当てにした震災ビジネスとの声も一部にありますし。
これで作品の地元の人達が喜んでいるのならともかく、
実際の反響が寂しいものとなっているあたり、救いようが無いアニメだと思いました。
あと、クライマックスの四重奏のシーンが凄いですよね。
演奏序盤に入り込む孔子像の止め絵で尺稼ぎ。
頑張って動かそうとしてると途中で楽譜のスクロールで尺稼ぎ。
何故かベートーヴェンの肖像画で尺稼ぎ。動かない観客で尺稼ぎ。
いわきの田園風景の静止画。ついに力尽きて演奏中も静止画になる。
演奏終盤で10秒間だけ再び動き出すも校舎の静止画でフィニッシュ。
2分半の演奏シーンで尺稼ぎをカットすれば残るのは、たったの50秒。
しかも挿入した部分が演出として全く機能していない、何一つ感慨とは無縁の手抜き。
「響け!ユーフォニアム」を超える歴史に残る演奏シーンにすると豪語しての、この結果。
そもそも楽器の音と演奏のアニメーションが同期してないのに、一体何と戦おうとしてたんだ?
との疑問。これを褒める人がいたら、きちんとした音楽アニメと比較したほうが良いと思います。
もっとも、ここは2年半で14分しか出来なかった山本監督にまかせていればいつまでも完成しないので、
プロデューサーで製作総指揮の和田浩司がイーストフィッシュスタジオに丸投げして、
作画カロリーの高い演奏パートを尺埋めした感がありますが。
しまいには告白シーン。「君の名は。」を意識したかのようなアオリフカン。
ボロクソにけなした「リズと青い鳥」の真似をしたくなったのか風に揺れまくる佐智の後ろ髪。
他人の作品にマウントをとろうとしながらも剽窃せずにはいられない。
そんな山本氏自身の性(さが)が集約されているように見えます。
52分間の作品で、エンドロールだけでも9分間を占める、TVアニメ2回分の限られた本編時間の中で、
テーマ性を持ってストーリーの終着点に向かって、
佐智の内面を深堀りして、その上で心の動きを丁寧に追うなどの描写が不十分。
説明しなくてもメタファーで想像させるという手法も用いられていないです。
視聴者に何を伝えたいのか?ふわっふわしたうえに性癖や剽窃など無駄な部分が多すぎですよね。
贅肉だらけの尺の使い方で、きちんと伝えないといけない情報の取捨選択もされていない。
業界で約20年間の履歴がある演出家の割にプロらしからぬ構成力の低さ。
例えば、ストーカー気質で他人の迷惑を省みることが出来ない祐介とアスペの傾向が見られる佐智。
言動を観察すれば人の思いを汲み取った行動が出来ずに自己中心的であることが分かる、
二人の精神的な歪みが仮に意図的な設定であり、そこにフォーカスして物語を作っていれば、
衝突しながらも恋愛を通じて自らの欠陥を見つめ直す精神的成長の青春の物語になっていたものの、
作者の山本氏が無自覚なのか、これを天然で純愛アニメとして作ったところが救いようが無いですね。
告白してから、わずか6秒後のキスシーンで一見はハッピーエンドっぽくしておきながらも、
精神的な問題を放置したままにくっついた二人が祐介のプライドの高さと佐智の不寛容さから、
些細なことから口喧嘩を繰り返して、破局を迎える可能性は低くないでしょう。
『僕らが作っている商業アニメでは作れない、インディペンデント故の作家性を強く感じましたよ。』
と、観に行った水島精二監督からプロの域に達していないと皮肉られるのも当たり前。
先述の「リズと青い鳥」に対する八つ当たりめいた山本氏による批評文は、
自分の趣味と性癖に走って伝えることを放棄した、正しくは山本監督自身のことであり、
冷静になって自分の人生を振り返ってみるべきではないか?と忠告したくなります。
失敗をするたびにアニメーターやプロデューサーやスポンサーなどに責任転嫁をして逃げ続けてきた、
山本氏の過去の言動や経歴と重ねて作品を視聴してみますと、
彼のビッグマウスに惑わされない本当の姿が見えてきます。
「薄暮」とは山本氏が今までやってきたことの集大成であり、『作品は嘘をつかない』の見本。
京アニに便乗と寄生をして作り上げた虚像が剥ぎ取られて誰も仕事を回さなくなった今、
これほど作り手の人格が浮き彫りになる参考資料作品は存在しないのではなかろうか?と思いました。
と言いたい放題ですが、実際に見た感想をこれにて終わります。
読んで下さいまして、ありがとうございました。
【以前に書いた感想ではない何か】
「Wake Up, Girls!」での数々の問題行動でアニメ業界全体から殆ど相手にされなくなった、
山●寛監督の劇場アニメです。静岡県にある和菓子屋がアニメで一山当てようとスポンサーになって、
自分たちで会社を立ち上げてフリーランスの人たちを集めて既存のアニメの団体を通さずに作られた、
インディーズ映画に近い性質の作品らしいです。
クラウドファンディングで2500万円近い出資を得て、和菓子屋資金や助成金と合わせて、
およそ1億円近くを費やしたそうです。
上映館が非常に少なくて実際に作品を観ていないので、
敢えて作品内容についての個人的な評価はしません。
youtubeにて公開されている、
6/21(金)公開 映画『薄暮』予告45秒VER
を視聴することで、人物のアニメーションや台詞のつながりなどを実際に目にして、
作品の完成度については概ねの想像が可能ではありますが。
さて、「薄暮」の制作のために創立して今は事実上解散で住所不明状態のトワイライトスタジオが、
背景美術を担当したベトナムのアニメ制作会社PEEC Animationからされた、
日本円にして33万円の賃金の支払い請求を7月に行ったのが未だに振り込まれていないと、
2019年11月18日に督促を再度されていますね。
補足の予備知識。
・ベトナム人の平均年収は30万円。
・PEEC Animation の下請け制作は「鬼滅の刃」「盾の勇者の成り上がり」など。
登記簿に記載されている小金井本町のスタジオは既に退去済みで電話もメールも通じない状況で、
不払いで困っているベトナムの会社の方がfacebookで会社のアカウントに督促の投稿をしたところ、
不都合な事実の隠蔽目的なのか、facebookにある会社のアカウントを削除してしまったという、
行動が途轍もなく無責任で甚だしく幼稚に見えてしまいますね。
ネット上のレビューを読む限り、恋愛作品なのに女性ファンが壊滅的に少なかったり、
全部を説明台詞でストーリーの処理をしてしまう演出の評価が芳しくない中、
視聴者がまっさきに褒めるポイントで唯一最大の長所である、
いわきの背景美術を手掛けた海外の会社に不払いで何ヶ月も放置はどうなんでしょうね?
制作費が1億円で33万円をケチるというのも意味不明ですね。
2年間かけて試写会で14分の未完成フィルムしか出せなかった仕事しない例の監督氏が、
自分の給料とか言ってアニメ制作費から真っ先に前払いで1000万円を抜いているのと、
合わせて見ると、この不義理は本当にスッキリしない話ですね。
(延期した公開日に間に合うようEDロールを抜いた残り30分の制作と試写会の14分の補完を、
イーストフィッシュスタジオに丸投げして1ヶ月で完成)
監督氏曰く、完成品を富川国際アニメーション映画祭の上映で初めて視聴したそうです。
(結果は落選)
支払いに対して不透明なままに舞台挨拶に頻繁に顔出しをしているなど、
金銭と名誉に対する欲望が強いこともあり、能力的にも道義的にも監督の域に達していませんね。
とりあえずは責任の所在を明らかにして、延滞料金を含めて適切な処理をしないと、
まずいんじゃないでしょうかね?
2019年内に33万円を三分割して払うという話が後に出ましたが、
ベトナムの会社が黙ったままであれば踏み倒されていたのは間違いなく、
実際に支払われる保証もありません。
薄暮のBDや生原画など出資者への返礼品も11月発送のはずが20年3月に延期。
本当に実施されるのかも危ぶまれています。
監督氏が全く信用されて無くて業界に居場所が無いというのは、
アニメ制作能力や対人関係の問題の他にも、
契約や金銭面での杜撰さが積み重なっているのではないか?と思ってしまいました。