ナルユキ さんの感想・評価
3.4
物語 : 2.5
作画 : 3.0
声優 : 4.5
音楽 : 4.0
キャラ : 3.0
状態:観終わった
これがトップクラスでいいのかアイドルアニメ界
2023年現在も総合アニメランキング121位、アイドルアニメランキング8位に位置する紛うことなき人気アニメなのだが……劇中のキャラクター風に書くなら────
お前ら、なにこんな出来の悪いアニメにちやほや高評価つけとるんじゃああああいっ!!!
という所感を現在も抱いている。暴言失礼
まあ打って変わって賛否両論だった2期を終えた現在、皆が未だこのシリーズにお熱だとも思ってませんけどね。
確かにこのアニメは斬新さの塊だ。「ゾンビ」と「アイドル」、そして「佐賀」。今までにない組み合わせで発進したオリジナルアニメはマンネリ化していたアイドルアニメ界に新風を吹き込みつつ、嘗て様々な年代・社会で生きてきた少女たちが現代に蘇ったことで生まれるドラマもしっかりと描いてきた。
しかし、新しい試みばかりが故の“拙さ”も確かにあった作品ではないだろうか。そこを無視して評価しては客観的なレビュアーと名乗れはしないだろう。
【ココが面白い:開幕轢死、そして復活】
アニメにおける登校シーンは1話冒頭の定番だ。遅刻気味に家を出て、トーストを咥え駆けていき、曲がり角で誰かとぶつかったりする「登校」という要素そのものが始まりを期待させるからだろう。
しかし、この作品の場合、終わりである(笑)「いってきます」は「逝ってきます」と書くのだと言わんばかりに、主人公・源さくら(みなもと - )は玄関を出てすぐに車にはねられて死んでしまう。
これで異世界転生でもしたら未だ衰えの知らないなろう系展開なのだが、本作の場合は佐賀の洋館で「ゾンビ」になってしまうところから物語が再スタートする。
ゾンビが主人公のアニメは『さんかれあ』や『これはゾンビですか?』など色々あるが、本作は「見た目」からして完璧なゾンビを描き中々本格的だ。肌はくすんだ青緑、額には道路に打ち付けた時にできたか大きな傷も残ってしまっている。これから何故かアイドルとしてやっていこうというキャラクターなのに文字通りの「傷もの」なのである(上手い)。
見た目が完璧ゾンビな主人公、これだけでこの作品を面白いと感じる人もいるようだ。この作品が一体何を見せてくれるのか。オリジナルアニメだからこそ、確かにこの段階では先の展開がわからず予測もできない。
【ココも面白い:ゾンビがヘドバンにラップバトル? うんうんそれもまたアイカツだね!】
おどろおどろしい、いかにもゾンビ映画のような展開を見せた後にこの作品はゾンビである主人公らに「アイドル」をやらせようとする。とくに深い理由はこの時点では欠片も明かされない。
さくら『そもそも私、なんでゾンビになったのかな、って……』
巽『なんじゃーい、お前ゾンビ映画観たことないんかい?…………あんな感じです』
さくら『それだけ?』
巽『それじゃいかんのかいっ!!なんやかんやで墓からドゥーン!じゃ、いかんのかいっ!?ゾンビィなんてそんなもんでええじゃろがいっ!!』
巽『いいか?お前らは死んだ。そしてゾンビィになった。そんでもってこの現代社会にゾンビィの居場所などは無い!そんなお前らみたいなモンに、アイドルっちゅう居場所を与えてやるんじゃ!感謝しとけボォケェェェェ!!!』
人を勝手にゾンビにしておいて、この言い草……(汗
少女たちを謎技術で蘇らせた宮野真守────じゃなかった、「巽 幸太郎」というキャラクターの妙なテンションで捲し立てるエセ佐賀弁に圧倒され、視聴者は主人公のさくら諸共ねじ伏せられる。そういったアクの強さが中の人の段階から備わっており、野暮で些細な疑問など確かにどうでもよくなってしまう。
そんな男の無計画なプロデュースによってさくら達『フランシュシュ』はぶっつけ本番でアイドルデビューをすることになるのだが、当然ながらハプニングは盛り沢山だ。
初回はさくら以外のメンバーの理性が復活しておらず、獣同然の振る舞いしか出来ない。そんな中での選曲は「ヘヴィメタル」であり、これが奇跡的にマッチする。えーでちゃん率いる声優陣による呻き声をマイクに響かせたデスボイスに、ゾンビだからこそ可能な首折れヘッドバンキング。そして不定期にダイブしては観客を襲う伝説のメンバーたち────第1話の掴みはバッチリだ(笑)
理性を取り戻した後(1人はどうしても戻らないのだが)もゾンビの身体はボロが出やすい。少し引っ張れば腕はもげ、目玉は飛び出し、頭だって簡単に外れる。レッスン漬けになれば疲れる代わりに文字通り、身体がバラバラになってしまう。ゾンビであることがバレてはいけないという制限がある中でのアイドル活動が、今まで観たこともないような面白い「ギャグ」になっている。
【ココも面白い:ゾンビならではの青春ドラマ】
この作品はギャグを主体としつつ、意外とアイドルものとしてしっかりしたドラマを中盤までは描いている。個人的にも刺さったエピソードがいくつかあった。
ゾンビたちの生前────生きてきた時代はバラバラであり、たまごっち全盛期世代もいれば江戸から明治にかけて花魁(おいらん)をやっていた女性までメンバーに組み込んでしまっている。没年齢も上は29、下は12歳と年齢のバラつきも大きいため、彼女らのジェネレーションギャップは十分に本作の「テーマ」として扱える。
{netabare}昭和のアイドル・紺野純子(こんの じゅんこ)の主役回は本作の山場の1つだ。TVの歌番組だけに出演しお茶の間の憩いの存在として努める。それが純子のアイドル像である。
しかし時は流れて現在、アイドルの在り方は皆さんもご存じの通りだ。握手会ありサイン会ありチェキ会ありetc.とにかく「会」を開いてファンとアイドルを交流させる。偶像が手の届く距離にまで寄り添ってくれるからこそアイドルファンの心はより滾るのである。
その近すぎる距離感に疑問と嫌悪を抱いた純子は仕事を放棄し、平成のアイドル・水野愛(みずの あい)と対立してしまう。
『これから本当にアイドルやってくなら……あんたのその考え方は邪魔になる』
水野の言葉に疎外感も抱いただろう純子は『佐賀ロックフェスティバル』を前に引きこもってしまう。彼女は自分の気持ちと現在のアイドル像にどう折り合いをつけるのか────?{/netabare}
最初は理性すら無かったゾンビキャラクターたちが、話が進むと自我に目覚め互いの価値観をぶつけ合っていく。雨を降らせて地を固めるように彼女たちが結束を深める過程で、観る側も1人ひとりのキャラクターの印象がきちんと深まっていく。アイドル活動にゾンビとしての苦難、そして死んでいる間に時代に取り残されてしまった不安。それらが積み重なった本作ならではの面白さを確かに感じさせてくれる。
【でもココがつまらない:終盤は急ブレーキ(1)】
しかしそんな物語の勢いは8話までしか保たない。純子、水野、リリィの死因も判る中盤のエピソードがとても良かっただけに第9話のサキ回からの脚本は並以下にまで落ちこむ、と書かざるを得ないだろう。
{netabare}まずサキ回の方向性がハッキリしていなかったのが問題。ヤンキーなのかアイドルなのか、それともゲストキャラによる家族モノなのか。単発回とはいえ本作のテーマをぼやかすような真似で話を作ったのには関心しない。
サキ、レイコ、マリアの関係性がほとんど動いていない。サキのレイコに対する想いも伝わらず、親友の娘に対する愛情も中途半端にしか表現できていない。
レイコがサキの死をどう受け止めたのかが描かれていない。死んだサキがゾンビ2号として現れ、それを間近で見ているのに反応が小さ過ぎる。
マリアがこの出来事を境にどう変わったのかも描かれない。ただ単に「こんなバカなことする暇あんなら、あたしらの推し活しろや」とでも言いたげなオチで強引に〆てしまっている。全て前話のリリィ回に備わっていた要素が欠けているのだ。{/netabare}
{netabare}10話も、一大イベントを控えて浮かれてしまったさくらと他のメンバーの足並みを揃えてチームワークを高めるという幸太郎の意図が後で描写されるものの、そのためにAパート丸々使って雪山合宿という展開は中々の二流ギャグだろう。結果的にさくらの焦りを助長し、適切な答えに辿り着くまでの回り道をさせてしまっている。
9話と10話、どちらもゾンビの不死性をギャグに入れてはいるものの、作品のメインテーマである「ゾンビだとバレそうなアイドル活動」や「ジェネレーションギャップから描く悲哀と再起」といったものが一切含まれておらず、総じてシナリオの質が悪い。{/netabare}
【そしてココがひどい:さくらの生前の記憶】
さらに酷かったのが最終回という大トリも兼ねた主人公・さくらのエピソードであろう。
さくらは生前の記憶の大半を喪い、残った記憶を辿るようにゾンビながら幸太郎の計画にいの一番に乗ってアイドルを始めた。そして10話終盤、遂にその記憶を取り戻すのだが────
{netabare}小学3年生の学芸会で主役に選ばれ、一生懸命練習したのにおたふく風邪で欠席しました。
4・5・6年生は運動会のリレー選手になったのに、入場中に全部肉離れを起こしたので欠席しました。
中学1年から高校受験の準備を始めて、3年で模試A判定の学力をつけたのに、受験当日に3人の具合の悪いお婆さんに出くわし、介抱していたら遅刻ギリギリになって集中力を乱してしまったので受験失敗しました。
最後にもう一度だけ頑張ってみよう。アイドルになるためにオーディションを受けよう!
そう意気込んで家を飛び出した瞬間、軽トラにはねられて死んでしまいました。
私……“持ってない”んです。何をやったってダメなんです。頑張ったって無意味なんです。この記憶を喪ってた私はなんやかんやで上手くやってたみたいだけど、あれは私じゃなかったんです。アイドルやって佐賀を救うのは皆さんで勝手にやっててください。私を……捲き込まんといて。{/netabare}
{netabare}お前は『とっても!ラッキーマン』の追手内洋一かああああぁぁぁぁっ!!?
生前、良いことが全く無かったのはわかる。努力が一切、報われない人生だったのもわかる。そんな記憶を取り戻してしまえば意気消沈し、これまで出来ていたことに挑むことすら恐れてしまうのもよくわかるのだ。
ただそれを解らせるためのさくらの過去エピソードが……低すぎるよ、レベル。
3年連続肉離れで運動会欠場?
3人連続お婆さんを助けて受験失敗?
恐らくはシリアスの中でのギャグとして入れ込んだのだろうけど全く笑えない。泣けもしない。むしろ『体調管理はバッチリだったのに~』や『万全を期して前日から~』といった、まるで自分に全く落ち度がないとでも言いたげな「枕詞」が物凄く不快に聴こえた。
さくらは「自分は持ってない」と、あたかも不幸の星の下に生まれたかのように自棄になるのだが、お婆さんを連続で助けて時間ギリギリになって受験失敗したというエピソードは運じゃなくて自己判断の範疇だと思う。これを自分の不幸として話す場合、助けたお婆さんの前でも言えるのかどうか疑問だ。そんな後悔をされるくらいだったらお婆さんも助けてもらわなくて良かったのではないだろうか。そんな風にツッコんでしまえるくらいにはお粗末なエピソードである。
直接的な死因もよくよく考えればただの右方不注意による交通事故死だ。歩行者の急な飛び出しによる事故の過失割合は自動車85:歩行者15となり当然、運転手の方に大きな責任があるのだが、逆を言えば1割程度はさくらの自己責任と判断されても可笑しくはないのである。正直に書いて飛行機事故や落雷、過労からのショックで死んだ純子、水野、リリィの方がよっぽど同情できる。
さらに書けばこの展開を描くにあたって、さくらは再び(右方不注意で)車にはねられたショックで記憶が戻るという「奇跡」とゾンビになってから今まで活動していた記憶を喪うという「偶然」を同時に引き起こしてしまっている。このように登場人物に不都合な事象が因果関係を無視して突発的に起こることもまた、皆さんが否定しがちな“御都合主義”の一種だ。そんな御都合主義が登場人物にとってマイナス的な側面にあると多くの人は逆に赦して支持してしまう。私にはその風潮が全く理解できない。{/netabare}
【そしてココがつまらない:終盤は急ブレーキ(2)】
このようにサキ回も含めて終盤は脚本の質が悪くなり、ノリと勢いが失速する────そもそもサキ自体も結構ネックな存在だ。{netabare}最終話の『みんな死んでるんだから“持っていない”のは同じ』という台詞もサキだけチキンレースでブレーキ踏まずに転落⇒爆死という自己責任の欠如で死んでしまっているのだから説得力に欠けてしまっているのである。{/netabare}
私がアイドルアニメに求めているものは主役となるグループメンバーを全推しできる程の「魅力・可愛さ」なのだが、1期時点では結論を出すのが難しい山田たえとゆうぎりはともかく、御里が知れたサキとさくらはその基準から外れてしまう。
最後に、11話のどん底具合を観れば誰でも自ずと最終話がどんな話になるのか予想できてしまう。だからこそ私はずっと本作を“11話切り”しており、レビューを機に最終話まで観て完走したのだが案の定、いじけていたさくらに成功体験を味あわせての〆であった。
ゾンビとアイドルという相容れなさそうな2つをかけ合わせて見せた本作は「予想のつかない展開」も立派な武器であった筈なのだが、終盤ではそれを捨ててしまい、ゾンビの不死性のみに着目した強引なシナリオを描いてしまっており、全体のテーマは斬新でも中盤(7話)と終盤(最終話)で「どんなアクシデントが起きてもゾンビだから平気、やりきってしまう」という内容が被ってしまっているのである。
【ココもひどい:3DCGの乱用】
「細い(こまい)ことをグチグチと……アイドルアニメは歌とダンスが良けりゃええやろがいっ!」と反論する人もいるかも知れないが、この作品もまたそうは問屋が卸さない部類である。
確かに音楽面は悪くなく、楽曲数も主役回を努めた各メンバーを意識した挿入歌を劇中に入れ込んでおり、それなりに豊富だ。
しかしライブシーンの作画は時折「3DCG」に頼ってしまっている。せっかく第1・2話の作画は手書き(CGI)にしているのに、アイドルとして形になってきた所でのライブシーンでいきなりCGになるので、落胆自体は終盤よりも早く訪れてしまう。
モデリング自体のクオリティはそこまで悪くはない。だが、第3話でキャラクターたちが歌い踊る舞台が、他のアイドルアニメのように「ステージ」ではないというところも大きいのだろう。アリーナやホールなどのライブ会場で煌めいた演出もあれば本作の質でも違和感は感じなかったかもしれない。
しかし、彼女たちはあくまでご当地アイドルであり、歌い踊るのは「佐賀」だ。路上でのゲリラライブだったり、宴会会場だったり、どこか「田舎っぽい」背景と3DCGのキャラたちが合わずに浮いてしまっている。
それ故に中盤以降の大きな舞台ではそこまで違和感を感じなくなる。ただ動きの硬さは顕著であり、練習風景や序盤で手書きのライブやダンスを見てしまっているからこそ、3DCGを使ってのライブシーンを「そういうものだ」と割りきって観ることもこれまた難しい。
人間キャラクターとしての温かみに加えて、ゾンビの肉体特有の脆さや肌のくすみなども常に表現しなければならない本作が、ここぞという場面で3Dにしてしまうと、ゾンビでありアイドルでもある彼女らを模した「お人形」が踊っているかのような違和感と残念感を視聴者が抱くことは避けられない。この印象を無視して本作をアイドルアニメとして高く評価することは単なる“依怙贔屓”だとも言えてしまうだろう。
【キャラクター評価】
巽幸太郎(たつみ こうたろう)
コメント付動画では「宮野演技しろ」と書かれまくるキャラなのだが、これはネタではない。少なくともゾンビたちに接する間は宮野さん、本当に演技していないのである(笑)
オリジナルアニメなのでキャスト前提のキャラメイキングができたのか、素の宮野真守さんをふんだんに活かしておりアドリブも入れさせ放題。幸太郎はギャグ方面にならとても楽しい良キャラとして立っている。
だが素を出しすぎて、よく出す怒鳴り声がアニメらしくなく曇りがかっているのがそのままの宮野さんでOKにしたミスだろう(勿論、それが良いという人もいるが)。
{netabare}時にはカッコいい台詞を吐き、ゾンビアイドルたちを導くのだが、行動が伴っていないことが多いのがなぁ……とくに最終話はあんな語彙力の無い啖呵を切ってまでさくらを『見捨てない』って言ったのに、以降は特に変わったアクションを起こしてくれなかったので「何だったんだお前」と突っ込まざるを得なくなっている。{netabare}まあ何なんだお前と訊いたら「さくらの元同級生の戌亥(いぬい)ですっ!!」って返してきそうではあるな(笑){/netabare}
言うだけ言って後はメンバー任せ。それがギャグパートでいい味出している時もあればシリアスパートでイラッともさせられてしまう。{/netabare}
【総評】
斬新ではあるが洗練はされていない、粗削りな作品だと評する。
ゾンビという見た目が醜悪な存在にアイドルをやらせるという無茶振りから始まり、大方予想通りドタバタとした最序盤。そこからなんと不思議にアイドルグループとして形になっていくことでゾンビを怪物ではなく「現代に甦った過去の人物」として描き始め、アイドルの歴史とその変遷やジェネレーションギャップによる各キャラの悲哀と再起まで描写した本作は、本来ならもっと高く評価してもいい作品であることは私も理解している。
しかしコメディや質アニメの観点から書けば、終盤の出来は随分と小ぢんまりとしている。とくに1番重要で本作のクライマックスを飾る筈の主人公の背景(バックボーン)が他のメンバーの物を超えてこない。さくらの過去は「この娘可哀想だろ?笑っちゃうくらい悲しい人生だっただろ?」とでも訊きたげな押し付けがましさを強く感じてしまうばかりでお涙頂戴感がリリィよりも酷く、それを思い出したさくらの腐り方も純子より質(タチ)が悪い。
一方アイドルアニメとして評価する場合、この作品はみんなが嫌いな筈の3DCGを躊躇なく使っている。動きの硬さ、瞳の冷たさはアイドルともゾンビとも言えず非常にミスマッチ。『アイカツ!』を観に来たんじゃないんだぞと言いたくなってしまう。
ズブな素人を中心に集め、歌とダンスを厳しいレッスンで鍛える。そして本番で最高のパフォーマンスを披露してはまた練習を繰り返して1つのアイドルグループとして成り上がっていくという王道展開を押さえるため、『ラブライブ!』と同じく大半のメンバーを芸能界とは関係ない一般人とし始動役としたのは良いものの、弊害としてその大半のメンバーの生前エピソードが掘り下げられない又は掘り下げてもアイドルアニメとしてはまるで無関係なレベルの低い話しか出てこなくなってしまったようだ。
最初のインパクトと奇抜な設定、様々な要素が備わっていても、これらを客観的に評した場合はやはり「中途半端」に該当するのではないだろうか。アイドルアニメにとっての「斬新さ」だけで本作がここまで評価されたのはハッキリ書いて異常であり、間違っていると思う。
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