この作品の本筋は11年前に起こった古森太郎とその姉の誘拐事件の真相を追求することにある。
しかし、私は、制作側が本当にやりたかったのは懐疑主義的思考からなる形而上学と不可知論をテーマに、一つの主義を貫き通したアニメ作品の制作ではないかと考えている。
この作品の本筋(誘拐事件)はそこまで深いものではなく、とても全話の面白さを継続させるようなものではなかった。
むしろ、そこに関係する体外離脱体験、記憶の一部欠落、大神拝霊会の存在といった要素の方が面白い。
このことについては後に吟味することにする。
作画は流石Production I.G.。九州の田舎を舞台にしているのだが、森や農村をオドロオドロしい雰囲気に仕上げていた。時には水墨画の様に描き、如何にも神霊が存在している様に見せ、また時にはCGを使って臨場感を引き立てていた。
キャラデザはちょっと目の大きさが気になったが、その目もまた重要な役割を果たすことを考えれば納得はできる。
声優に関しては素晴らしいの一言に限る。私は福山潤ぐらいしか分からなかったが、それもそのはず。ほぼ全員が九州弁を喋っていたからだ。しかもかなり完成度が高い。多分、現地出身の声優を集中的に採用したのではないだろうか。
それにしても、特に素晴らしいと思ったのは、語尾や訛が効いていても、ある程度分かるぐらいの九州弁だけをきっちり選んで使用している点だ。
一般的な方言である関西弁でもローカルに行けばまったく理解できない表現が多々存在する。九州弁に至ってはそれはさらにひどくなるのではないだろうか。
その一般的に理解できない表現部分だけ取り除いて、見事に九州弁を統一して喋っている様に見せる演出は脱帽だ。
だが、これは九州弁を熟知している者から見れば逆に違和感を覚えかねないのだろう。
音楽も非常に面白かった。超低周波音を発することで異常な感覚を得られることを熟知したスタッフがあえて、それに似せた違和感を覚える機会音を至る所で使用していた。これはlainでも見られる表現技法だったが、ここまで大々的に行っているのは神霊狩が初めてではないだろうか。
OPも刺激的な音楽で良かった。この作品の世界観をコミカルに表現した歌であった。
さて、まず私が何故この作品の本筋が11年前の誘拐事件ではなく、形而上学や不可知論、しいては自然哲学的要素を含んだ実験作として評価するのが正しいのかについて持論を述べたいと思う。
「そんな小難しい作品じゃないよ!」「お前は何を言っているんだ。」と思う人、是非以後の私のレビューを読んで貰いたい。少々ネタバレになるが、肝心のミステリー部分には一切触れないし、むしろ先に読んで貰ってから観て貰えばさらにこの作品を深く理解できると考えている。
まずはこの作品の次回予告を読んで貰いたい。次回予告とは名ばかりの情報群だったが、直接的でないにせよ、間接的に本編に関連する情報だと思い。全話分の次回予告のセリフを書き出した(正直かなり面倒だった)。
1、Lucid Dream -明晰夢-
訓練すれば人は夢の中で自由に行動できるのだという。しかし、
フランシス・クリックは夢の解釈について、大脳新皮質に記録された無意味な記憶を消去するためのもので、意味など無いと断じている。クリックにとって人の意識は脳内に起こっている40Hzの共鳴現象でしかない。夢、夢の形、夢の世界、幽世(カクリオ)。
2、E.M.D.R. -Eye Movement Desensitization and Reprocessing- -眼球運動による脱感作と再処理-
トラウマに囚われた人を救う方法を、人は様々に模索している。トラウマの元となる記憶を想起させながら眼球を運動させるこの方法は大脳辺縁系の情報処理を再活性させるのだと言われている。けれど、それだけなのだろうか?眼球が運動している時に、その人は何かを見ているのではないか?
3、Phobia Exposure -恐怖症曝露-
他者から見たら何でもないことでも、人は強い恐怖の対象とする時がある。意識による制御が効かない脳のこうした作用はどんな意図でデザインされたのだろうか?生存本能とはもはや、無関係なものに対してまで恐怖し続ける、宿輪を背負う必要がどこにあるというのだろう。
4、Altered States of Consciousness -変成意識-
人は痛みを伴わずして成長することがないのだとすれば、過去のどの瞬間が通過儀礼であったのかを知る為に、記憶の漆黒の中から刺の痛みの感覚を手繰り寄せなければならない。しかしそれもまた、死に至るまで必要なイニシエーションなのだろう・・・人としての。
5、O.B.E. -Out of Body Experience- -体外離脱体験-
1966年、ウエストバージニア州ポイントブレザントで蛾のような怪物、モスマンの集中目撃事件が起こった。調査を行ったジョン・エキールはラジオの中から謎の声が自分に話しかけてくるといった異常体験をした後、モスマンや、UFO、妖精といった存在は我々が知覚し得ない領域の超越的な地球生命体ではないかと結論付けている。
6、Brain Homunculus -脳の中のホムンクルス-
カナダの脳神経学者、ワイルダー・ペンフィールドは大脳新皮質を電極で刺激することで、まるで体外離脱している様な感覚を引き出すことに成功した。脳の機能の局在性について著しい発見をしたペンフィールドは、しかし、心は脳の中にあるわけでは無いとするデカルト的二元論に最後まで固執し続けたのだった。
7、L.T.P. -Long Term Potentiation- -シナプス回路を変化させ、それを維持する能力 "人間の脳に於ける長期記憶の正体"-
1923年、フランスのソジー婦人はパリの地下に大勢の子供たちが秘密結社によって幽閉されていると訴えたが、しかし、警察、ソジーの夫など、無数の人々が替え玉と入れ替わっていることに気付く。以来、妄想性人物誤認症候群のことをソジーの錯覚、もしくはその報告者の名からカプグラシンドロームと呼ばれることとなった。
8、Revolution of Limbic System -脳の扁桃体を中心とする記憶・情動を司る大脳辺緑系-その革命-
恐怖に代表される人の情動を司る扁桃体と脳に置ける情報のインターフェイスである海馬。隣接したこの二つが記憶というものの神経回路メカニズム、すなわちリンビックシステムと呼ばれる。リンビックは大脳の片影部位を示すが、語源であるギリシャ語のリンゴは偏狭、この世とあの世、現世と幽世との境界を指す言葉なのだった。
9、Existential Ghosts -実存主義的なる神霊-
2003年、ハートフォードシャーの心理学者、リチャード・ワイズマン教授らはロンドンの古いホールに観客を集め、現代音楽の演奏途中で長さ7メートルのパイプから発生させた超低周波音を聴かせた。その結果、22%の観客が異様な感覚を体験したと言う。幽霊はこうした低周波音が引き起こす感覚異常ではないかとワイズマンは推察している。
10、Affordance/T.F.T. -Thought Field Therapy- -アフォーダンス[環境が生物に提供するもの]/思考場療法-
例えば、その土地には河が流れ、肥沃な土地が広がっているとすれば、その土地は人に対して住よい土地であることをアフォードしている。アフォーダンスという概念はその環境が持っているアプリオリな性質の中から、知覚者が私意的に発見し、獲得する構造を表すが、ならば、今の世界は人に如何なるアフォードをしているのだろうか?
11、Syntax Error -論理的統辞論に於ける過ち/プログラム・バグ-
メメント・モリ。総他者に言われるまでもなく人は己の死を意識せず生きて行くことなどできない。己の死後についての考えはともかくも、近しい人の死を悼む気持ちは如何なる死生観、如何なる宗教観を持つ人にとっても等しく、同じに違いない。
メメント・モリ。それはこの世界に生きる人間が持つ数少ないコンセンサスの一つなのだろう。
(*自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな、という意味)
12、Homeostasis Synchronization -恒常性維持機能同調効果-
シャーマニズムの本質が、ミルチャエリアーデが説くように奪魂エクスタシー型にあるのか、ヨワン・M・ルイスが注視する憑依ポゼッション型にあるのか。本質的に無価値な事柄について理性的な理解をするには、その儀礼や象徴から推し量るより術はない。しかし、シャーマンのシステムは現在の社会でも、その呼び名を変えただけで、生き続けている。
13、For the Snark was a Boojum, you see.- そう、そのスナークはブージャムだった-
独自のキリスト教倫理学を提唱した、イマヌエル・スウェーデンボリは霊魂の存在を物理的に探求するべく、脳生理学、解剖学を学んでいたが、現死を体験、死後の世界へ自在に行き来するようになったことで、その研究をやめてしまう。後に純粋理性批判を表すイマヌエル・カントにもスウェーデンボリの思想は高く評価されることとなる。
(スナーク狩り 8章の苦悶。もし捕まえたスナークがブージャムであったならば、その時「お前は突然静かに消えうせて、二度と現れることはない」。)
14、Emergence Matrix -創発基盤-
心魂。逝った人のことを想うこの言葉にはもう一つの意味がある。生きているものの魂は不安定で身体に繋ぎ止めておかねば乖離してしまうという。明治時代初期、本田親徳は鎮魂と、神を人間の肉体に降ろす帰神を軸として、古代の神道を体系化し出口王仁三郎らに影響を与えたのだった。
15、Toward an Abandoned City -廃市へ-
大和の国は言霊の幸ふ国だと言う。言葉そのものに霊的な力が伴うとする考えは日本固有のものではなく、古代ギリシャよりロゴスの概念には言葉を神の秩序、神そのものとも同一視されてきた。善事(よごと)であれ悪事(まがごと)であれ、その言葉を口にした者の心理は言葉の意味が刻まれ、発言者自身とその環境の未来に深く影響を与える。
16、Hopeful Monster -希望的な怪物-
スティーブン・ホーキングは宇宙はなぜ今の様に安定しているかについて、それは人間が存在しているからだという解釈に否を唱えていない。ブラックホールを命名したジョン・ウィーラーも不確定性原理による量子確率論を現実の内に合致させる為には、その宇宙の内部に観察する者、すなわち人間が存在していることを条件に定義付けている。
17、Implicate Order -内在秩序-
コペンハーゲン解釈に疑念を覚えたデヴィッド・ボームは断片の中に全体が内包されるとする考えを提唱し、その概念の説明としてレーザーによるホログラフィーが立体に見える構造を例に挙げた。部分と全体とが見えざる秩序によって結ばれるというボームの哲学的量子論は、脳もまた、ホログラム的構造を有することを見通していた。
18、Holographic Paradigm -水辺の量子重力理論-
2008年、マッセー大学のブライアン・ウィットウォース博士は宇宙の物理現象は全て情報として還元できるとした上で、我々が芸術として捉えるこの世界は、実は他者がコンピューター内に作った仮想世界であるという説を発表した。手垢のついたSFの様だと評される一方で一部の人々からは共感を得る。という、この情報もまた、宇宙の中に統合されている。
19、Negentropy -可塑性時間-
世界は常に乱雑さを増して行くとする熱力学法則と、自己組織化を繰り返す生命現象とを折り合わせるべく、エルヴィン・シュレーディンガーはネガティブエントロピー(ネゲントロピー)の概念を提唱する。時間の不可逆性と相反するこの未知のエネルギーはイリヤ・プリゴジンが散逸構造を表すまで可能性として存在し続けた。
20、Shaman's District -シャーマンの領域-
万能細胞開発競争の渦中、ES細胞捏造事件が起こり一時研究は停滞していた。しかし2007年、京都大学山中伸弥教授らのグループは体細胞に山中因子と命名された遺伝子を導入することで人口多能性肝細胞IPS細胞の開発に成功したが、同時期、MITのラトルフヤニッシュ教授らのグループもほぼ同じ実験に成功していた。
21、Stochastic Resonance -確率共鳴-
微弱な信号を伝える時にランダムなノイズを加えることによって、ある確率のもと、その信号伝達反応が増大するという確率共鳴現象は、人の脳における神経伝達回路や動物の感覚細胞に認められる機能であるが、元々は地球の氷河期周期を説明する為に提案されたものである。
22、Passage -道程/暗黙知の次元-
この作品で登場する「幽世」という世界観は別段珍しい設定ではない。AB!もいわば「幽世」を舞台としていると考えることができる。
「幽世」は夢の世界、死後の世界、抽象界などと色んな表現で呼ばれていたが、この作品では全てに該当する。
まず、主人公達は二頭身状態で体外離脱をして幽世に行く。このことを心理学者の平田篤司はOBE(Out of Body Experience)と判断。しかし、大神拝霊会の長男である大神信は「魂抜け」と表現する。
意味的には同じかもしれないが、決定的に違う点が一つある。
OBEと判断した場合、それは作品内でも説明された様に、大脳新皮質内で起こる作用である。それは第一話次回予告で提言されている様に、OBEは現実的に無意味なものなのかもしれないという疑念を捨てきれない。
しかし、一方で、2,5,6,8,9,12,13,18話の次回予告で、科学上でも超越的な存在や現象を肯定している説明がなされている。
また、民俗学を研究していた駒玖珠孝仁や大神拝霊会を含む宗教学的要素を作品に取り入れることで脱魂型シャーマンや憑依型シャーマンという現象を平田や鳳麗華の脳科学的視点とは別の視点から上手く肯定している。
このことから、一つの事柄に対して、特に脳科学、心理学、民俗学、宗教学をメインに、複眼的考察をしていることが分かる。
だが、それだけでは形而上学として判断できない。
肝心なのは「対象となる事柄」が何であるかということである。この作品でこの項目に該当する要素は複数存在するだろう。
・幽世の存在
・体外離脱
・記憶の定義
・バイオイド(生命の定義)
しかし、何よりも「神霊」こそがこの作品の最重要トピックのように思われる。
もし、「神霊」を主点に於くならばこの作品は形而上学を扱っていると判断することができる。
では、この作品は「神霊」を複眼的に肯定している作品だと定義することができる理由について自分なりに説明したい。
神霊とは神、神のみたま、または人が死んで神になったものの象徴だ。
この作品では幽世で生きる生命として定義付けされていた。
簡単に言えば霊魂ではないだろうか。
霊魂という不可思議な存在について複眼的に吟味するならば、まずその時点で科学的ドクサを排除していることから懐疑主義と判断することができる。
そして、心理学者の平田は太郎たちが神霊を見るという現象について、脳内での妄想と捉える一方、生得論的な可能性を捨て切れずにいた。むしろ、脳の可能性を研究する平田としては、大脳辺緑系に属する扁桃体と海馬のリンビックシステムエラーを無くす為に進化した結果、獲得した特殊なスキルとして捉える方が好都合だった。
ここで、生得論が登場することはデカルト的認識論をこの作品に於いて重用視していることを示唆している。
デカルトは絶対確実で疑いえない精神を、他に依存せず存在する独立した実体と見、その出発点から、理性によって神の存在(及び誠実さ)を証明するという神の存在証明を提唱した人物でもあり、この点からも神霊なるものを肯定的に見ている。
もし、ここにカントの純粋理性批判なんぞ本編に交えようとしたら、この作品がランダムに小難しい内容を含ませているだけと判断されただろう。
コペルニクス的転回はあえて含ませず、複眼的でありながらも統一した主義、主張だけを本編に関連させている事からも、この作品が形而上学的テーマに一つの解答を導き出していることが分かる。
そして決定的なのが、最終話、猿田彦麿が大神拝霊会の突然の活性化と大日本バイオインダストリーズが引き起こした神霊たちの暴走
を関連性についてシンクロニシティ、あるいは内蔵秩序という表現をしていることだ。一見偶然に見えるが、人間には認識することができない秩序や法則がこの二つの事件を関連づけた、と言っている。これは立派な形而上学のトピックだ。そして、この作品ではその内蔵秩序がある、という風に説明されている。
つまり、幽世という別世界に神霊のような非科学的存在はいないというドクサを捨て(懐疑主義)、それら(幽世と神霊)を肯定する実例と実験を複数の学術的考察(心理学、脳科学、民俗学、宗教学)を通して立証しようと試みている点。
デカルト的認識論、生得論を用いた表現と説明してる点。
そして、シンクロニシティーという超越的な秩序の存在を肯定的に捉えていることから、この作品は形而上学的な考察の上で、幽世と神霊の存在を肯定しているのである、と結論付けることができる。
というか、この作品は非常に意地悪だと思う。第13話のタイトル、「そう、そのスナークはブージャムだった」という文章の意味など調べずに理解できる人など殆どいないだろう。
調べてみれば、あ〜成る程!!と目から鱗ものだが、調べる忍耐力と調べてみたいと思わせる程の魅力がこの作品にはない。
私の様な、物好きな人間でない限り、こんなの調べないだろ、普通。
もうちょっとコンテンツを優しくしていれば、観る人も増えると思うのだが・・・。