「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた(アニメ映画)」

総合得点
69.2
感想・評価
30
棚に入れた
117
ランキング
1829
★★★★☆ 4.0 (30)
物語
4.0
作画
4.3
声優
3.7
音楽
4.1
キャラ
3.8

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薄雪草 さんの感想・評価

★★★★★ 4.3
物語 : 4.5 作画 : 4.5 声優 : 3.5 音楽 : 5.0 キャラ : 4.0 状態:観終わった

神話と現代とに、絆をかける白き妖精

アイルランドに古くから伝わるケルトの精神性をふんだんに盛り込みながら、現代社会の家族の有りようにもそっと想いをにじませるように作られた良作です。

監督のトム・ムーア氏(46歳)は、「トトロ」や「もののけ姫」にインスパイアされたとのこと。
大切なものを取り戻そうと先の見えない運命に立ち向かう姿が描かれているのも、なるほどと頷けるシナリオです。

カルチャーバイアスが少なめの子どもにとっては、"いつかは夢が叶い家族が幸せに暮らす" という分かりやすいお話になっています。
そうでない大人にはちょっととっつきにくく、"閉じ込めた感情へのアプローチとリカバリー" をどうにか読み取れる内容になっています。

世界をどう捉え、自分らしく生きることにどう関わるべきかといった、人間的な深みを求めるテーマなのでしょうね。

ところで、この物語を愉しむためには "セルキー" という言葉を覚えてください。
アイルランドの民間伝承に伝わる生き物、"妖精アザラシ族の少女" の名前です。


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ケルト文化と言えば、アイルランド、イングランド、フランスをつなぐ沿岸圏域を中心に広がりを見せた文化です。
なかでも、アイルランドの神話には、"ある働きをする女神が、その土地の力(産土力=うぶすなりき)を発現させるキーパーソン" として、象徴的に描かれるのが特徴です。

"セルキー" の出自は、民俗学的には、アイルランドというよりも、その北にあるスコットランド、さらに400㎞の北にあるフェロー諸島の伝承にたどることになります。
もうちょっと北のアイスランドにも、似たような伝承が残っているようです。

この "セルキー" を神話ベースで辿ってみると、実は、全く違うエーゲ海域のギリシア神話、 "セイレーン" に行きつきます。(およそ3500年前)
"セイレーン" はサイレンの元になった言葉で、美しい歌声で船乗りを誘惑し、船を座礁させ、食い殺す半鳥半人の怪物です。
ちなみに、スターバックスコーヒーのロゴデザインの元キャラでもあります。

人魚姫的なお話なら、一般的には、ローレライ(ライン川の水の精)や、メロウ(アイルランドの人魚の妖精)が代表的です。いわゆる "マーメイド" につながるキャラたちです。

有名な「人魚姫」は、19世紀にアンデルセンが各地に伝承されたものを想像逞しく二次創作したもの。
しかも、ディズニーの手によって全世界に拡散され、画一的な規格品にされてしまったというオチです。


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話を戻しますが、"セルキー" で興味を引くのは、アザラシ族の由縁と形態です。
そもそも "セルキー" は半獣半人族。元の姿は人間そっくりなんです。
おそらくはギリシア神話のポセイドンやトリトーン族をその形態の元祖に持っているからと思われます。

ちなみに「コパコナン像」で画像検索していただけますと、その実像?がご覧いただけます。
コペンハーゲンのマーメイドの系列とは全く別物だとすぐに分かりますよ。

さて、妖精アザラシ族のセルキーは、アザラシの皮を被ると素のアザラシに形態を変えて、海に潜れるというのが伝承のようです。
現代に置きかえれば、潜水服かウエットスーツの類いというわけですね。
それがないと元の世界には戻れず、あれこれと悩ましい運命にも巻き込まれるというのは昔ばなしの "鉄板" です。


実は日本の伝承民話にも同じようなモチーフがあります。
・・・・「羽衣伝説」です。

わが国で最も古い能には「羽衣」という演目がありますし、「竹取物語」だと月に帰る時に羽織りますね。
ヨーロッパでは「白鳥処女伝説(はくちょうー)」が元の話のようですが、その元はインドのバラモン教に伝わる「リグ・ベーダ」(約3000年前)のようです。

ですから、"セルキー" は、セイレーンを出自とする「羽衣伝説型&異類婚姻譚」の「北大西洋版」と言えるかと思います。
ギリシア・エーゲ海を母体として、世界の全域まではるばる伝わるなんて、古今東西を問わず、普遍的な面白さがあるって証拠ですね。

どんなにアツイ情熱で、語られ、伝わり、迎えられ、定着したかに思いを馳せると、「羽衣伝説型&異類婚姻譚」は、今も昔も、どこでも誰でも、みんな同じような気持ちになるのかなぁと微笑ましく感じます。


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さて、本作を地理学的な側面でアプローチすると、アイルランド近海にはメキシコ湾流(世界二大暖流。もう一つは黒潮。)が流れ込むので、案外とアザラシにも過ごしやすいのかもしれません。
そう思うと、冬季に人間がブルブル凍えても、海獣にはまだ温かいわけですので、冷たい海の底に不思議な異世界があるかもと、人間が勝手に想像したというのも頷けそうです。

また、宗教的な角度から探ってみると、キリスト教(主にカソリック、600年頃)が根付くまでは "ドルイド教" という自然を崇拝する価値観が定着していました。
これは日本の古神道と仏教との時代性・関係性にたいへん似通っています。

異教間の融和政策として、相互扶助・公共性・道徳心といった高次の精神性や、自他共栄という社会的規範が付加されていくのは、コミュニティーの支配・統制にはよく聞く話です。
ゆるやかな文化の熟成過程や、さりげない生活習慣の浸透にも、影に日向に親和性や融和性が図られたというわけですね。

そのプロセスで、ドルイド教の土着の神々が、キリスト教の聖人たちに吸収・同質化されることで、次第に崇敬が薄まり、やがて出自を忘れられ、ついに "埋没神" に追いやられただろうことは容易に想像できるでしょう。


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さて、本作のモチーフにもなった「SONG」です。 

これは "子どもを思う母心としての子守歌" であることは言うまでもありません。
また、母と娘の関係性から見れば、母性=出産への畏怖と憧憬を秘めた "口伝による無形の継承行為" とも取れそうです。

母から子どもへのプレゼントは、理屈を超えて、生命への尊厳と世界への愛情を含ませています。
受け継ぐ子どもたちも、耳をそばだて、未来へとバトンする "エール" として記憶し、歌い継いでいくのでしょう。

そんな視点と立場性とで視聴すると、本作が遠いアイルランドで制作されたにもかかわらず、どこか懐かしい親しみを覚え、生命観への同質性に安堵するような不思議な気持ちになります。

ところで、アイルランドには「1日のなかに四季がある。」という言葉があるそうです。
同じ島国としてのそうした相似性は、海の恵みに生かされている幸福と、四季折々に感じる繊細な情緒のなかに、ケルトのメロディーやフレーズが琴線に触れる想いにつながるのかもしれませんね。


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物語は、母親が幼い男の子に歌って聞かせる子守歌から始まります。
その言霊は、のちに閉ざされた扉を開く重要なカギになっていくのですが、序盤に明かされることはありません。

もしかしたら、字幕版と吹替版のどちらを先にご覧になるかで、それを受け止める印象が違ってくるかもと思います。
私は、初めに字幕版を観て、"字と音" を同時に追いかけたので、よけいにそう捉えたのかもしれません。

というのも、ケルト文化は長く文字を持たなかったというのが特徴です。
であれば、文字を追いかけて頭で理解するよりも、言葉や音をそのまま感じとる方が、心に深く響くのかも知れない。
そう思いました。


さて、母親は二人目の出産を直前にして、唐突に家族(夫と男の子)に別れを告げます。
そして産み落とした女の子を残したまま、どうしてなのか海中へと姿を隠してしまうのです。

やがて女の子はすくすくと育ちますが、父と兄とは何かしらのディスコミュニケーションが生じているようです。
やがて・・・あれ? この子の声は??と、気になり始めるのですが・・・。

実は、この時点までお話が本当に一気に進んでしまうので、物語のコンセプトとか、キャラの動機とかが非常につかみにくかったです。
相関関係がどう繋がっていて、どんな流れになっていくのか、考える時間を与えられないままに放り出されます。

その意味合いでは、ケルト文化をモチーフにしたアニメ作品って、さすがにちょっとハードルが高めかもと、げんなりしそうになります。
でも、それが監督の狙いだとすれば、サツキやメイがトトロと出会うのも唐突でしたし、アシタカとタタリ神とのいきさつも似たようなものなんですね。

言うなれば、古事記にある天戸開きや、黄泉比良坂の段のような、摩訶不思議な物語に初めて触れたような感覚です。
そんなわけで、本作品の視聴それ自体が、見も知らぬ異文化世界の扉を開くチャンスと捉えてみても良さそうです。


遠い神話と近しい日常とをベースとして、海と陸、海獣と人間、母性と社会という対比を置きつつ、"SONG" を媒介させることで、調律(と自律)する生き方を問うている気配です。
そんな含みを感じながらでしたので、紆余曲折な展開の果てにどんな収束を見せてくれるのか、キモチを粘らせることができた?みたいです。

子守歌や昔ばなしは、未知の文化との出会いと入り口。
あるいは、埋没へと追いやられた神々の語れぬ想いとの再会とも言えそうです。
時と場合によっては、好奇心や探究心への強いきっかけになったり、常識の重い扉を開いていく秘鍵とはたらくのかもしれませんね。


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気になるファクターを一つだけピックアップすると・・・。

女の子は、お母さんと会ったことも、お話ししたこともない身の上なんです。
会って話しているのは、夫と息子、そして義母なのですね。

妻、母、嫁との断絶がそれぞれにあるっていうのが、お話の前提になっていて、加えて、娘は失語症になっている。
これは、社会的なディスコミュニケーションの一つの様相を示しているのでしょう。

ポイントは、一つには、命を産み子どもを育てる母の価値と役割への大きなアンバランスがあるということです。
二つめは、ものを言えない弱い人が、大切にされているように見えていても、本人の意思決定には寄り添いきれていないということです。

だからこそ、神でもなく人でもない "海の妖精セルキー" という第三者が、本作のキーマンになっているのです。
何の力も持たないとされてしまうか細い存在が、神にも人にも共通する大切なバリューがあることを気づかせてくれるのです。

加えて、子どもの意思への配慮や尊重、シングルファザーへの期待と責任とが描かれるのも、一つの家庭像をさり気なくアピールしていると思います。

まとめると、子守り歌や昔ばなしなどの、半ば非科学的に思われる価値にしっかりとコミットメントすることで、神代にも現代にも共通するバリュー、私はそれを共生と考えますが、表現しているように思えます。


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終盤になると、とても古い巨人(ドルイド教の神さま?)の哀しみだったり、陸と海に分かたれた境界線だったりが俎上に乗ってきます。

妖精の歌の役目は "家族愛のリクリエイト" なのかなって思えるような演出ですが、ケルト神話には全く疎いので正直よく分かりません。
「トトロ」や「もののけ姫」ではどうだったでしょう。

でも、そこには自然界の厳然としたルール、例えば生産性の低さや分配の課題などがあって、ともすれば力のある巨人の神さまでさえも、コミュニティーから外され隔たれるという厳しさ、難しさがあるかのようでした。


一見ではなかなか理解しずらい作風でしたが、ケルト文化に触れられたという意味では良作でしたし、ケルトミュージックも耳に心地よかっです。

レヴューを書くにあたって調べものをしたり、あれこれ咀嚼しながら書き綴るのは何となく楽しかったです。


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語らぬ少女は、時をつなぐ妖精の歌い手。

無垢を発する声は、忘却された夢を思い出させる愛のララバイ。

眠れる巨人の涙のやるせなさを慮(おもんぱか)る救いのわざです。


真白き妖精は、かつて神と人とがむつみ合い、信じあった心に、もう一度、光と愛とを灯らせる使者だった・・・。

"ムスビ" の神の代行者だったのですね。

投稿 : 2023/04/05
閲覧 : 301
サンキュー:

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